ふるさと呑風便 20.2 NO.218
坂ノ下の渕
「坂の上の雲」を40年ぶりに再読した。
司馬遼太郎全集の第25巻から26巻でこまい字で二段読み。一ヶ月して何とか読みこなせた。
読もうと思ったその理由は、ロシア人と交易を始めようとしてロシア人を理解したかったこと。 右肩上がりだった日本が失われた十年を経て、どうにか上昇機運に見えたが、左肩下がりのまま落ち込んで、特に地方は坂の上に白い雲は見えず、坂の下の渕に落ち込んでしまうのでないかと危機感からである。
司馬遼太郎さんは「小説とは要するに人間と人生につき、印刷するに足るだけの何事かを書くというだけのもの」といわれ、ことを為すのはその人間の性格によって決まるともおっしゃる。
坂の上の雲を読んで、まさに性格の違った様々な人間の人生模様が伺えた。それら人間の性格によって歴史が作られていく。面白くもあるが怖くもあった。
今から40年前。敬愛する大学のゼミの先輩・杉山雅洋さん(現早稲田大学商学部教授)を訪ねた際、秋田に帰る前のこととだったと思う。
「佐々木、司馬遼太郎を読んだか。読んでなかったら坂の上の雲を読め。人間がわかる、日本の近代の歴史がわかる」
杉山先輩にいわれたとおり昭和45年の秋、秋田に帰って坂の上の雲を読んだ。長編で時間がかかったが、杉山さんがいわれるように、人間を知った、 明治に入って富国強兵策をとった新政府が列強と肩を並べようと無理をした近代の歴史を知った。
何故、「坂の上の雲」というタイトルなのかなのか、司馬遼太郎さんがあとがきに書いている。
「楽天家たちはそのような時代人としての体質で前のみ見つめてあるく。のぼってゆく坂の上の雲、青い天にもし一陀(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみみつめて坂をのぼってゆくであろう」
40年前に読んで特に記憶にあるのは、日本海海戦の総帥に時の海軍大臣山本権兵衛が、予備役にいた東郷平八郎大将を選んだことだった。
「東郷は若いころから運のついた男ですから」というのは、山本権兵衛が明治帝に対し、東郷を艦隊の総師にえらんだ理由は、才能や統率能力以上に彼が敵より幸運にめぐまれるということだった。
(内閣総理大臣山本権兵衛)
40数年前。私はその山本権兵衛の孫娘・山本満喜子さん宅に一年程居候をしていた。
東京渋谷区神宮前。青山学院大学正門前の小路を入ってすぐ左に二階建ての洋館があった。その一階の居間のソファの上に、山本権兵衛の伝記本が無造作に置かれている。寝っ転がって読む。本中の日本海軍育ての親の写真をみるとよく似ているわ。性格も似ていたようで孫の彼女は学習院の不良娘といわれていた。
テーブルの上には写真が飾っている。お爺さんの写真ではなく、軍服姿のキューバのカストロ首相が小柄な満喜子さんを肩越しに抱ている写真だった。前年の夏、私は満喜子さんの推薦で、キューバ政府から招待を受け、日本学生キューバ友好使節団を結成して、キューバへ渡った。満喜子さんは晩年、キューバではなくメキシコのアカプルコで亡くなった。恩人の墓参りが私の義務であるが、何時かは果たしたい。
当時、NHKの大河ドラマは司馬遼太郎原作の「龍馬がゆく」だった。 私は本の読み過ぎではなく、酒の飲み過ぎなのか、目がチカチカしてテレビが見れない。そこで満喜子さんが六本木の 西郷眼科を紹介してくれた。西郷医師は何とあの西郷どんの孫であった。 満喜子さんの祖父は西郷隆盛の命で日本海軍の生みの親・勝海舟の門下に入っている。
西郷どんとは似てもにつない西郷先生は、「おお、お満喜さんの紹介か」といって、他のお客さんを待たせて、お爺さんの話をされた。50代のお孫さんは20代の私に次の言葉を教えてくれた。
「過ちを過ちと知らざれば直ちに一歩、踏み出すべし」この言葉は南洲語録にあった。
日本海海戦での完勝の理由は、海軍を事実上一人で作ったといっていい山本権兵衛の徹底した能力主義者にあった。彼が作った第一級の軍艦群と能力人事で旋回したのだ。
かたや陸軍のオーナーといっていい寺内正毅陸軍大臣。重箱の隅をつつくような役所の文書係長程度の男だった。部下が書いてくる書類をすべて目を通し、文字が罫線からずれているのを発見すると。将官であろうが、大喝して叱った。
坂の上の白い雲を目指した明治のリーダーに学ぶべき点は多い。
坂ノ下の渕に沈む前に
山本権兵衛のとった徹底した能力主義の人事で、直ちに一歩踏み出すべし。
そこに希望(白い雲)が見いだせよう。
呑風日誌抄
1月元旦 郷里新田町内会の一礼祭。山村活性化センター。秋の田んぼの秋田、新しい田の新田
地区から新しい農業を興そうと挨拶。菊地亮一さん育てているさくら蘭の話。佐々木恭悦会長達と実家の兄の遺影前で飲み、美佐子食堂で3次会。
3日(木)秋田市・弥彌神社へ家族で初詣。
4日(金)秋田駅。こまち最終号で東京に戻る孝行娘を見送り。
6日(日)岩谷会館にて二区町内会役員会へ、佐賀県銃剣道国体出場選手団への二区町内会の応援DVDを届ける。このDVDの中には小生が佐賀県選手団の小野団長と小笠原主将を秋田市新屋の葉隠墓苑内にある秋田戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊碑に案内した光景も出てくる。
その日の午後4時から由利本荘総合体育館での試合では、佐賀県チームは葉隠墓苑に参拝しなかった先鋒と中堅が負け、参拝した小笠原主将、押され気味だったが、試合終了一秒前に突胴が決まり一本勝ち。試合後、小野団長と小笠原選手も秋田で亡くなった佐賀藩士の霊が乗り移って勝てたと話している。唐津市に住む小野団長から後に松露饅頭と珍味の鯨の軟骨の缶詰が私に送られてきた。後日応援の二区町内会の人達から賞味しててもらった。戦没佐賀藩士のお陰。
夕方、美佐子食堂。新田睦会。阿部明会長自家製の木肌茶を頂く。胃腸にいいといわれ、昔、ペルー物産展で同様の黄色い木肌があった。
8日(火)本荘市のぽんぽこ亭。ワンハウスの工藤正美社長に誘われ8日会の新年会へ。よき職人仲間達である。本荘塗りの話などを教わる。
11日(金)元秋田短大の栄養学、田中玲子元教授からおにぎりの要請あり、園長を務める秋田市飯島のふじ保育園へ。弊社の大内米をカミサンにおにぎりにしてもらって事務長さん達にも食べてもらった。みな美味しいといわれる。そこでうちの米が如何に美味しく安いかを話す。「うちの米は自然乾燥同様で、胚芽の部分をできるだけ残して精米している。だから美味しいんです。それで運送料込み60`二万円。 で、お米60`を炊いてご飯が千杯できる。そしたらご飯一杯、たったの20円でっせ。おにぎりだとカミサンに握ってもらったら一`で16個できる。うちの米は一`350円。で、おにぎり一個21円。安いもんでしょう玲子先生」まだ注文はなし。
夕方、本荘駅前・菖蒲園。本荘大内会の無尽講。
秋田県立大学の学部長先生達と会う。
12日(土)本荘鶴舞会館。由利本荘ベースボールクラブ(YHBC)のスタッフ、選手会議。来シーズンの日程調整、新人選手一人の面接を行う。3月29日午前8時から本荘八幡神社にて必勝祈願祭。焼き肉シンゴにて新年会。選手達には焼き肉が足りず、追加。工藤監督達と「要」にて二次会。
14日(月)新田水稲生産組合役員会。佐々木秋正、菊地栄悦、野菜部長の小松栄一と4終わって人。ダグセンターにて。美佐子食堂にて新年会。 今年の目標、組合員全部の田んぼに堆肥と酵素入肥料を蒔き、将来は大内米としてブランド化を目指す。馬鈴薯を休み大豆の増産を図る。
17日(木)安楽温泉。白沢会。由利本荘青年会議所からの国際化にかんする講演依頼を引き受ける由、伊東一洋氏へ電話。
18日(金)JAおばこの大豆担当の藤田さんへ電話。無臭大豆30`9袋は規格外だが、60`七千円で引き取るとのこと。
夕方、秋田駅前久保田にて小生がオーナー補佐の野球チーム「みっちゃんず」の新年会。福祉施設に働く野球好きのナイスガイ阿部一哉監督達と3次会まで飲む。
19日(土)YHBC事務所にて野球部スタッフと全国大会出場寄付者への礼状(機関誌碧天蒼空第4号)発送準備。約千五百人へ感謝。
20日(日)実家向かいの近藤トクエさんの葬儀。
山村活性化センター。午後から岩谷町八区の総会と懇親会に出席。町内の「さんぽ」へ二次会。
24日(木)見岫の太田勝春氏の葬儀。野菜づくりの達人孝克氏の父君。親子にお世話になった。
25日(金)寒中見舞いを県外の友人達へ送る。
水と風の大内米と都の東北早稲田米の注文書を同封する。約五百人へ。
夕方、市役所前の「般若」にて由利本荘ふるさと塾主催で「ごてんまり作家・阿部登志子さんの受賞祝賀会」。阿部さんのお仲間、秋田職人塾の工藤幸彦塾長、現代の名工小高重光氏、齋藤作園市議会副議長もご出席。
ものづくりの美と技と心意気を伝えてほしい。
28日(月)秋田市飯島の今村病院へ。クラブ野球全国大会出場ご支援の御礼。八代弘二常務から水と風の大内米の注文。。
ウラジオストクで野球の親善試合をされた山田部長を紹介され話を聞く。我がチームをウラジオストクにつれていく約束。
31日(木)旧大内町滝の敬愛する東海林煦齊≠ヨ。野球の話等。
下関の佐々木耕二さんからお米の大量注文。ありがたし。深謝。
我青春風来記 143
早海三太郎
「中西ゼミ」1
早稲田紛争が終わって三太郎が感じたことは、今、日本で一番遅れている所は、国会議事堂の中と大学当局だと。その反省か知らないが、大学側から積極的に学生に入り込んでいけ、ということになったのだろう。英語Aの担任で、交通論の中西睦(ちかし)助教授からクラス会の声がかかった。大隈庭園の茶室に30人ほどの学生が集まった。
中西先生は関東柔道選手権で優勝した九州の小倉男児。体育系の先生の話が面白い。
君たち将来、銀座でも飲みに行ったら絶対女の子にさわちゃあいかん」
この教えを三太郎は忠実に守っている。ただし銀座のクラブなどにはいったことはない。
そして先生はいう、「さわらないで最後に俺についてこいというんだ」
このことは忠実に守る機会は三太郎にはまだない。中西先生の飲み屋の女うんぬんの話に惚れてしまう三太郎も他愛ないが、先生のゼミに入れてくださいと直訴した。
普通大学のゼミナールが三年次から二年間。
三太郎は気に入ったゼミがなく、とらないでいた。 中西先生は気安く4年からも入ってもいいといわれる。ただ、入りたいという学生は全部とってしまうので面接を助手にまかせているという。
三太郎はそういう訳で3年の後期に2先生と一緒に中西ゼミの面接を受けた。このゼミは学業成績優秀組と運動部とか変わった学生が入れると評判だった。三太郎は後者で受かる可能性がある。 面接はめがねをかけたごっつい人だった。
「おお、君はレスリングをやってたのか。宮野は俺の親友だよ」
宮野とはレスリング部の2年先輩で三太郎は随分可愛がってもらっていた。よしこれで受かったなと確信した。三太郎を面接したのは杉山雅洋氏。(現早稲田大学教授) 宮野秀文先輩は千葉県から国体選手となり、重量級で準優勝。今は千葉読売広告社の社長。
三年前、母校のレスリング部が夏合宿に秋田で行い、宮野総監督、杉山レスリング部長の畏敬する両先輩と再会できた。(続く)
どんぷう後記
・太平洋戦争に負けたのは日露戦争に勝ったからだと聞いたことがあった。
坂の上の雲を再読し、同時にオーストラリアのジャーナリストが書いた「日露戦争史」を読んでなるほどなと思う。
当時の山本権兵衛海軍大臣がとった徹底した能力主義の人事で日本海海戦を勝利した。陸軍は山縣有朋の藩閥主義。負けた理由の一つが陸軍人事にあると考えられる。
・ロシア人とは底抜けにお人好し。ところが組織人(国)になると一変する。これは今でも変わりないと思う。その国と民族の歴史と風土を知らないと交易、交流はうまくいかない。
どんぷう日誌抄は一ヶ月遅れです。今月18日は私の62才の誕生日。宮城県多賀城市の下宿で迎えました。ハウス野菜の勉強を兼ねて、秋田戊辰戦争の縁があって工場内の解体工事の現場監督。
天気はいいが風が冷たい。
寒中お見舞い申し上げます。