ふるさと呑風便               20・1  NO.217
    梅鉢草        
 
 元旦の新聞で新春の秋田魁新報正月特集号に皇室特集がある。
 それを読んで思わず心が和んだ。
「東北新幹線那須塩原駅。駅構内に飾られた小さな白い花ウメバチソウに気付かれた美智子皇后がとほほ笑まれた。まあどなたが生けたのかしら」  梅鉢草は皇后さまのお気に入りの花とある。
 ふるさと由利本荘市大内にも咲くウメバチソウを事務所の庭にも植えようと思った。大内とは辞書をひくと内裏、皇居とある。皇居と同じ意味のふるさとに梅鉢草をいっぱい植えていつか、両陛下に見てもらえたらと新春の夢想をした。
 
 平成19年の元旦。波乱の年を家族4人で無事に越せた。
 偽と称せられた昨年、当方は喪中(兄と義母)。 春に県議選で涙を飲み大げさにいえば地獄を体験した。6月に頼りにしていた長兄が亡くなり、9月には妻の母が熊本で亡くなり、看病にいっていた女房が母親をかばって背骨を折り、3ヶ月の重傷。我々夫婦にとってはどなたかに言われたが「泣きっ面に蜂の平成19年」であった。
 ただ私どもにとって昨年は「偽」ではなく、県議選に出馬したのもふるさとに親孝行をしたい、お役に立ちたいとの「義」の年ではあった。
 ま、意気込んでも負けは負け、仕方なし。悪いことは一度にきた方いいやと尊敬する田川誠一元自治大臣から書いて頂いた色紙「泰然受難」を眺めていた。
 だか、悪いことばかりではなかった。
 9月に小生が理事長を務める由利本荘ベースボールクラブが創立2年目にして全県大会優勝、東北大会準優勝して全国クラブ野球選手権に出場。
 西武ドームでの対戦相手が何と茨城ゴールデンゴールズ(欽ちゃんチーム)。大敗はしたが、その悔しさをバネに来シーズンの目標は「全国大会で一勝」とした。
 市民に愛され、地域に貢献とのキャッチフレーズで創設したが、選手達や野球部スタッフから大きな感動を与えられた。
 9月末にロシア・ウラジオストクへ行き、「新田水稲生産組合」理事組合長代行として商談会に出席。米のセールスをしてきた。
 トッカータという食品卸会社の社長と知合い、12月に彼が来秋されての商談の結果、米輸出の可能性が大きくなった。
 本来の私の仕事である農産物の生産販売について今年は、新田という名前の地域から新しく微生物の酵素菌を入れた田んぼづくりをして、「水と風の大内米」をブランド化したい。そして、組合員や地域の方々の現金収入を高める努力を率先垂範して行いたいと思う。
 
 ウラジオストクのルスキー島出身で遭難死したニコライ少年の慰霊碑が由利本荘市の深沢海岸に建って15年立つ。
 昨年9月に15年ぶりにウラジオストクを訪ねた際、ニコライ少年の遺族捜しをウラジオストク市役所の国際交流部長にお願いしたところ、新聞報道により甥であるユーリィ・ガブリリューク氏が名乗りあげてくれた。
 過日、ユーリィ氏とメールで連絡がとれ、彼は年齢が62才でロシア科学学アカデミーに勤務する物理学者であった。
 メール便には叔父を長い間、慰霊してこられた由利本荘市民に感謝、感動したとあった。
 この春には、由利本荘市ウラジオストク友好交流団を組織してウラジオストクを訪問し、ユーリィ氏へ11月の慰霊祭への招待状をお渡しする計画をたてたい。

 新春の毎日新聞の記事「発信箱」を読んでいて意を強く勇気づけられた。
 それには、終戦末期の沖縄官選知事で、命がけで住民保護に腐心し、軍壊滅の南部で消息を絶った島田叡(あきら)氏のことが紹介されていた。
 彼は旧制三高の野球部の中堅手でラグビー選手でもあった。旧制一高戦ではサヨナラ本塁を踏む。
 官僚の「偽」が目につく昨年であったが、島田知事のように自分のことは後回しにして、最後まで県民のことを考える公職者がいたのだ。
 これを書いた玉木研二記者の最後の文章がすばらしく、胸が熱くなった。
「大正の正月の空の下。三塁をけり、本塁へ疾駆する一人の若者。その果敢な心持ちと24年後に死地赴任を即諾した心持ちは同じに違いない。つまり、彼はスポーツマンであったのだ」
 我が由利本荘ベースボールクラブには今春、新人4人が入団予定。
 機関誌「碧天蒼空」4号の編集後記に書いた。 
 市民に愛されるとは、礼儀ただしく、明朗で、人や自然に親切であることだと。その前に「偽」ではなく約束を守る「義」のあるスポーツマンでありたい。
 ウメバチソウ

 雪が消え、春になったら希望の花・梅鉢草を、どなたか、山野に探しにいきませんか。
  我青春風来記 NO.142
                        早海三太郎 
 「政治学」
 
 昭和42年秋。早稲田祭が終わると、後期の試験が待っていた。
 3年次の後期に早稲田紛争があり、三太郎はクラス討論(同級生の田中真紀子も参加)をやり、校舎のピケを行い、機動隊が学園に乱入。三太郎の隣の学生が警官から棍棒で思い切り殴られ、額から血が飛び散った。 三太郎はその経験から政治学の試験をわざと落とし、4年次も授業を受けていた。勝村茂教授の授業で記憶に残るのは「行政課程における官僚の影響力」の講義の中で「戦後初の社会党片山内閣を潰したのは大蔵官僚の福田赳夫(後の首相、現福田康夫首相の父)だといわれた。勝村教授の政治学講義案にそのくだりがあるので記してみる。
 「議院内閣制のもとでは、議会に多数の支持をもつ内閣は極めて強力であるが、他方において、大臣責任制の原則により、各閣僚が連帯して議会に責任を負うことになっている。すなわち、官僚の行う行政についてその責任は大臣がこれをが負うて、時により内閣の全閣僚が連袖して辞職するが、官僚はそれにもかかわらず、恒常的にその地位を保持する。その結果として官僚は、多数党内閣の強力な城壁の内にあって、大臣責任制というヴェールのかげでその勢力を揮うということになる。
 ここに一つの挿話がある。9ヶ月の短命に終わった最初の社会党内閣の倒閣の原動力は当時大蔵省主計局長であった福田赳夫だっといわれている。
 彼は内閣から官公吏の生活補給金70億円の捻出を指示された。これに対し、彼は「鉄道運賃と通信料金の値上げ以外に財源はない」とつっぱねた。しかし、運賃値上げに党内左派の同調が得られず、片山内閣は総辞職した。ところが次期芦田内閣の追加予算の編成で福田は復興金融公庫への出資金と貿易特別会計への繰り入れ金を減らすことによって、70億円を見事にひねり出している。
 台湾見聞記

 30年来の友人で旧田沢湖町の田中昭一氏。彼は田沢湖町商工会時代、日本と台湾の美しく澄んだ湖との縁を生かし、田沢湖と台湾・高雄市の澄清湖との姉妹湖協定を進め、国際友好親善交流を20年続けてこられた。 
 その20周年記念に台湾へ行こうと誘われた。一行は仙北市の石黒直次市長や高橋練三観光協会長、鶴の湯の佐藤社長夫妻他の10人。私の立場を元県国際交流課で国際交流を担当したとの理由をつけて一行に加えるという。田中氏のご厚情に喜んで応え、姉妹湖協定20周年記念台湾訪問団の一行に参加した。
 以下は11月20日から4泊5日の台湾国際交流旅行の見聞記である。
 11月21日(水)台湾南部の大港湾都市・高雄市。福華ホテルで観光宣伝会。五福旅行社の呉森洲氏に持参のあきたこまち3`をお土産。午後。郊外の澄清湖へ。人造湖で高雄市の水瓶。台湾経済部自来水公司が管理。我々一行は湖を案内され、中程に田沢湖のシンボル竜子像がある。ここは熱帯地方。樹木には合歓木や熱帯特有の火炎樹が大きな種をぶら下げている。 高雄ゴルフクラブのクラブハウスで歓迎会。紹興酒で乾杯の連続。水利公団の幹部と眼が会うと立ち上がって又乾杯、乾杯。これで一行は皆やられた。
 夕方、田中さんと高雄市の足裏マッサージへ。昔プーケットで受けたマッサージと違って足裏に油を塗られた。夜市で買いたい物はなく、ゴマラーメン風を食べる。
 22日(木)新幹線で台中市へ。台湾の新幹線は背は低いが座席は広く足を伸ばせる。マイクロバスで一時間、埔里市へ。
レストランで女性市長の昼の歓迎会。仙北市と姉妹提携交流を勧めたいと挨拶。埔里市は米どころ。田んぼは二毛作。黒っぽい稲穂の水田が見えた。ここ産のコシヒカリ5`を買った。後で食べてみたがさらっとして不味い。
 台北市の福華大飯店へ。ホテル近くの床屋さんへ。9月に行ったウラジオストクの床屋さんは金髪美人だったが、台湾は親日的で日本語を話せるオバサンだった。
 23日(金)台北市。秋田県主催の観光宣伝会へ。太平洋ソゴウ百貨店の地下スーパーで台湾産の米コシヒカリ2`が666円。日本産米コーナーあり、千葉産あきたこまち2`で1260円、魚沼産コシヒカリが何と2`で2808円。故宮博物館へ。北京の故宮博物館と比べて物足りないが、台湾人の矜持を感じた。
 夕方、外交部日本事務会からの歓迎晩餐会。紹興酒用の小さなグラスで乾杯の連続。胡蝶蘭の名刺を持つ若い事務官・蘇岳璽氏に持参の米ヒトメボレ2`をお土産。
 大学時代ゼミの友人で台湾留学生だった邱憲章。電話番号を調べて同名が二人いたが他人。蘇岳璽氏に彼の調査を依頼。
 学生時代の旧友との再会は果たせなかったが、国際観光交流の一つのあり方、親日的な台湾の米事情の調査等、仙北市の素晴らしい仲間を得た稔り多い台湾旅行であった。
 どんぷう日誌抄

 12月1日(土)本荘駅前・菖蒲園にて本荘大内会にて保健婦さん小島カネエさんの瑞宝章叙勲祝。
 7日(土)昼、清吉ラーメンを食べて秋田市の東海林太郎音楽館へ。佐々木嶺松先生へ米30`。
 9日(日)秋田市イヤタカ。秋田県野球連盟納会へ。我が由利本荘BCが特別賞。チームから新人賞、優秀選手等5人が選ばれる。TDKの船木監督へ将来、ドーム球場を作ろうと話す。
 10日(月)本荘第一病院の小松寛治院長へ特別賞の盾と表彰状を持参。
 11日(火)北秋田市の藤岡農産へ視察。佐々木秋正組合長、菊地久昭氏と。合川こまちを商標ブランド化し、東京のレストランへ`400円で米の販売、感服。伊東農園に寄り伊東毅社長から、ブナやコナラの種の話。
 17日(月)松ヶ崎の折林ファームへ。無臭大豆の30`9袋の選別依頼。
 19日(水)ウラジオストクの食品卸業トッカータ社のデモチェンコ・ドミトリィ社長が来日。秋田港セリオンで商談。アグリテクノジャパンの池田社長、榮太楼菓子舗の小国社長、ハーブワールド秋田の佐藤課長を誘う。 港渡で米1`330円で関西の商社が提案あり。
 秋田駅前ニュータケヤでドミトリィ社長の歓迎会。今春にウラジオストクで再会を約す。
 21日(金)安楽温泉にて白沢会の忘年会。
 22日(土)昔、一緒にウラジオストクへ行った堀敏行さんがウラジオストクのFESCO(船舶公団)のバッチを持ってこられた。秋田港への定期航路の鍵を握るFESCO。彼の通訳をされたロシア国営ラジオ局ハバロフスク支局の岡田和也氏の訳本「黄金の虎リーグマ」を頂く。
 秋田駅前・人情酒場久保田にて秋田ふるさと塾有志で忘年会。
 23日(日)朝6時。友人3人を誘い、漁師・小川隆雄さんの船に乗り、深沢海岸沖の刺し網を引き上げる。ハタハタが大漁、八ノ字蟹も大漁。浜で魚を網から外すのに昼までかかる。八五歳の漁師小川林藏さんの聞き書きの参考体験となった。
 24日(月)ウラジオストクのユーリィ・ガブリリューク氏からクリスマスプレゼントメール。叔父露国遭難漁民故ニコライ少年の慰霊の感謝のメール。彼は62歳で何とロシア科学アカデミーの物理学者であった。
 25日(火)中学同級生の近藤定徳へガンに効く魔法の水を渡し、由利組合病院へ由利本荘BC父兄会長の小松一男氏のお見舞い。暮れに退院とのことで安心。由利納豆と花を買ってカミさんの誕生日祝い。
 26日(水)本荘・はまなすにて由利本荘BCスタッフの忘年会。工藤幹夫監督達と二次会・要。
 27日(木)旧由利町の木内忠一さん宅へ台湾土産を渡し、吉永小百合さんの扇子を返してもらう。
 30日(日)道の駅ポポロッコにて餅つき見物して田口商店から吟醸酒を買って、新田地区を廻る。
 31日(月)妻、娘・息子と一年前と大違いの静かな大晦日。