ふるさと呑風便  第216号  平成 19年12月8日 
           
     発行人 佐々木 三知夫
           発行所 秋田ふるさとづくり研究所
〒018ー0711
             由利本荘市岩谷町字大宮田312-5
               TEL/FAX0184-65-3777
               携帯 090−1933−2180
                 E-mail michan@donpu.net    

 ルスキー島
 
 ロシア.ウラジオストク市ルスキー島。9月12日午前9時。
 私は白菊の花束を持って、アレキサンドラと通訳の井上夫人と3人でルスキー島へフェリーで渡った。アレキサンドラは14年前の12月1日、由利本荘市深沢海岸前に建立された露国遭難漁民慰霊碑の除幕式に参列されたウラジオストク市・ルスキー島地区議会のザイキン議長の娘。彼女は中学生の時に深沢海岸で遭難したニコライ少年達の消息を調査してくれていた。
 15年前、私は遭難死したニコライ少年の遺族を捜しにルスキー島を訪ねたが果たせず、代わりに大理石を持ち帰った。その石は今、舟形をした慰霊碑の台座にはめ込まれている。
 
 その島に船長だったイワンのお墓があると聞き、墓地で探したが発見できなかった。そこで、遭難したクンガース号が出帆したとされる漁港へ行き、持参した清酒を二人でかけた。白菊の花束は島から持ち帰り、生存者のアキーモフがまつられている海軍記念館前の慰霊碑に捧げる。そこでザイキン氏と再会、「あれから歳とりました」「お互い様です」彼は議員をやめてリサイクル会社の経営者になっていた。
 午後4時。ウラジオストク市役所の貴賓室。シドロフ国際交流部長と会見し名刺交換。私のロシア語の名刺には露国遭難漁民慰霊秋田委員会事務局長とある。ニコライ達、遭難者の遺族探しを依頼する。シドロフ部長は秋田でニコライ少年の慰霊碑建立に、ロシア人はそんなことはしないと感激され、マスコミを通じて探すと約束。
 帰国後、2ヶ月たってもロシアから連絡がなく、諦めていた。ところが、きた。FAXがきた。
 英文でワンダフルニュースを送る、ニコライの甥が見つかったとある。
 後日、11月14日付けの地元紙に掲載された写真もメールで送られてきた。
 ユーリ・ガブリリューク氏。彼は家族写真も持参し、市役所を訪ねてきたとある。家族写真にはユーリの兄、赤ん坊のニコライも写っていた。

16才当時のニコライの写真もある。彼は船に乗る前に、食品加工会社に勤めていた。
 11月25日の日露友好公園で行われた日露友好の集いに、ユーリ氏を招待したいがパスポートがとれずに間に合わなかった。
 露国遭難漁民慰霊深沢委員会(小川隆一会長)と相談し、来年に招待したい。深沢海岸に眠るニコライも喜んでくれよう。 日本海の夕陽に映える慰霊碑は深沢地区の方々のまごころで建立されたもの。ふるさと深沢の誇りでもある慰霊碑は、環日本海 時代の新たな感動ドラマの始まりを待つ。

 

 
        ウラジオストク・ルスキー島漁民遭難の概要
 1932年.冬。イワシ漁のためウラジオストク出港(クンガース号)11.20 暴風雨にみまわれ、11日間漂流。 12.1 旧松ヶ崎村深沢沖約200b地点で漂流中の漁船を村民が発見。救助船を出そうと試みたが、波浪のため不可。
早朝、同岸に漂着。《 船体 》 全長 約8b 幅約4b 《 生存者 》 イワン ザベリベッチ アスマーチコ(50歳) パーウエール ワシリビッチ アキモフ(20歳) イワン ニギーヂベツ クルカニー(18歳)
《 死亡者 》 ニコライ ガブリリューク (16歳)
 12.1〜12.4 深沢公民館で保護される。ニコライ少年は、同村民の手で 共同墓地に丁重に埋葬された。 12.4 函館ロシア領事館アイセン スタート氏、深沢に到着。彼らは「ニッポン ミナサン サヨウナラ」の言葉を残 し、18時10分 本荘駅より敦賀を経由し、帰国の途に着く。コライ少年は現在もなお、この地で眠りつづけている。



 地域づくり実践セミナー

★平成18年9月22日(金)
★ふるさとネットワーク
★「斎藤憲三、その人と 事績」
★小林孝哉先生

 「出会いがその人の人生を作る」という言葉がある。しかし、その出会いをどう受止め、どう活かすか、それはその人間の持つ『人間力』で決まるものではないだろうか。この度「斎藤憲三人物史」をひもといて、素晴しい父親、母親との出会いに始まる数多くの人と事件との出会いが、こんなにも劇的にこの人の人生を織り上げたものかと舌を巻くと同時に、人に愛され信頼されずにいなかったこの人物の大きな人間力に改めて感嘆させられたと最初に申し上げ、本論に入らせて頂く。

 人間の最初の出会いは両親との出会いである。人間の運命はこの第一の出会いに大きく関わる。憲三の父宇一郎は、藩政時代の徳川家二千石の旗本、仁賀保家の御用人斎藤茂介の長男だった。東大で林学を専攻し、明治二十三年に卒業したが、この平沢の旧家の、代々曹洞宗に帰依してきた斎藤家の長男が、事もあろうに大学時代にキリスト教に改宗し、しかも教会で知り合った美しい娘ミネを妻にしたいと申し出る大事件を引き起こすのだ。勿論そんな希望が直ぐには通る筈はない。「では私を廃嫡して下さい」と両親に抗議し、懇請し、説得して、やっと結婚に漕ぎ着けたのは明治二十七年のことだった。大学を出てから、ミッション系の明治学院で動植物を教え、次いで農商務省の官吏となって家を遠く離れて暮していたが、明治三十三年に父茂介の死に遭い、二人は初めて揃って平沢で暮す事となった。
この一件は、宇一郎が極めて合理的、革新的な人柄であり、また、強い自主自立心の持主である事を示していると私は思うが、果たせるかな、故郷に帰って故郷の農家の大変な貧しさを知った宇一郎は、直ちにその農業の改良・指導に立ち上がるのだ。
 当時の秋田の農業は、常時水をたたえた湿田で膝から腰まで水に漬かり、鍬一本で田を耕す所謂「湿田農業」だった。一枚の田を耕すのに十四時間もかかるばかりか、深く耕せないから地力も上がらず、農家は辛く貧しい生活を余儀なくされていた。
 故郷に帰ってこの農家の実情を知った宇一郎は敢然とその農業の改良・指導に立ち上がった。田の水を落とし、露出した田を馬で耕す、所謂『乾田馬耕』を、酒田の本間農場から馬耕教師を招き、乾田の作り方を実際にやって見せ、馬耕は人間の労力を五分の一に軽減し、深耕出来るから地力を増し収穫も多くなるのだと利点を力説。また、馬には草鞋ではなく蹄鉄を装着させる事も宇一郎は自分の馬で地域に広めた。この様に進歩的農業への改良指導を身を以って推進した宇一郎は地域農業の在り方を見事に一新させた。明治三十八年には県も乾田馬耕を県令の一つに定め、この斎藤農法は平沢を起点に秋田県全域に浸透したのだ。

 この仕事を通して本格的に農村を救済するには政治の力こそ不可欠と身を以って知った宇一郎は、故郷に帰って二年目の明治三十五年には衆議院に初当選を果たし、以来八期、大正十四年に地域の強い要望で平沢町長になる迄の二十三年に亘る代議士生活の間に、米穀法、米価調節法、農業組合の立ち起こしその他、数々の農村振興、農村救済に関する法案の推進に常に重要な役割を果たした。宇一郎は農業の神様として斎藤神社に祀られ、今尚地域の人達の深い尊敬を集めている。
 憲三の母ミネという女性は、九州の佐賀・鹿島藩主の補佐役から後に貴族院議員となった原忠順という人の長女である。気性の激しい理知的な美しい女性であったというが、憲三が四歳の時に肺結核で僅か三十歳で亡くなっている。この母ミネの資質を兄弟の中で一番受け継いでいるのは、背が高く整った顔を持ち、葉隠れ的な果敢な行動性を身に秘めていた憲三だったと言われている。
 この様な両親から生まれた憲三が、その上幼い時から、乾田馬耕農法への革新指導に突進する父親の生き方を見て育ったのだ。となればこれが憲三の人間つくりに大きく作用しない筈はない。子供は親の背中を見て育つと言うではないか。平沢小学校六年生の時には、不当な教師のいじめに義憤を燃やし、六年生全員を束ねて同盟休校を敢行。キチンと筋を通して見せている。やはり、栴檀は双葉より芳しかったのだ。この憲三は自分も兄の豊一と同じ早稲田中学校に進学すると思っていたのだが、父親に「お前は兄とは性格も才能も違っているから、大阪の桃山中学校へ行け。大阪人には東北人と違った敏捷さがあり、経済の感覚も鋭い。そこで五年も生活すれば、勉強以外でも得ることは大きい筈だ」と言われ、大阪で五年を過ごすことになる。
 意外に思われようが、長男宇一郎は東大林学、二男は水産学、三男は医学博士、四男は夭折、五男は東工大を出て大蔵省官吏、という実績が示す通り『教育こそ財産と心得よ』というのが「斎藤家の家訓」であった事を知れば納得がゆこう。
 なお、付け加えておきたい事を一つ。平沢の歴代町村長は終戦前後まで十二人を数えるが、その中に、初代平沢村長として祖父茂介、町長として父宇一郎、兄豊一、本人憲三、弟幸男の五人が名前を連ねるという、正に瞠目に価する記録が残っている。

 大阪で五年を過ごした憲三は大正四年四月に早稲田大学高等予科に進み、高等予科三年を修了して商学部に進む。ここで同期生として出会ったのが後世大歌手として名を成す同じ秋田出身の東海林太郎で、これが生涯の親しい交わりの発端となった。
 東海林はなかなかの好人物で無類の音楽好き。暇さえあれば浅草に通いオペラに入り浸り、その頃日本中を風靡していた「カチューシャ」や「さすらいの歌」など、東海林は鮮やかに歌って見せただけでなく、バイオリンも巧みだった。当然音楽の道
に入ると思って憲三が尋ねたら「歌や音楽ではとても食えないよ。将来は満鉄の調査部の仕事をしてみたい」というのが東海林の答えだった。後の話になるが、この長身細面の音楽青年東海林は希望通りエリートの集まる満鉄調査部に就職し、数年がかりで「満州における協同組合の研究」という立派な報告をものにしている。しかし結局好きな音楽を諦めきれず、昭和五年、鉄嶺の満鉄図書館長の地位を捨てて帰国し、本格的にクラシックの勉強を開始。昭和八年、時事新報主催第二回音楽コンクールに入賞はしたが音楽学校の出身でないからというそれだけの理由でクラシックには進む事が出来ず、求められるままに三十五歳で流行歌手への第一歩を踏み出す。翌九年「赤城の子守唄」「国境の町」が大ヒットしてその歌は全国に流れ、これが彼の輝かしい黄金時代の幕開きとなった。しかし東海林は人気に溺れたり慢心したりすることなく、折を見ては憲三の会社を慰問し、「歌手になりたいから弟子にして下さい」と擦り寄る少年工にも、「今の段階で先ず大切なのは、今の仕事のベテランになる事だよ」と申し含め、キリリとした応対を崩さなかった。
 ステージ上の、この自分が両足を据えている一尺四方のスペースは自分の「歌の道場」なのだと直立不動の姿勢で歌い続けた、あの東海林太郎の姿を思い起こして下さい。東海林太郎がどれ程誠実な人物であったか、それは憲三との交友の中でもはっきり読取れるのだ。

 では、憲三は大学の卒業期をどう迎えたか? 幼い時から乾田馬耕農法への革新指導に一途に突進する父親の生き方を見て育った憲三は、かねてより「地元の為に働きたい」との思いを抱き、大正十一年三月、大学を卒業すると躊躇わず故郷に帰り、すぐさま農家の貧しい暮らしを少しでも豊かに出来る「副業」の模索に取り掛かった。
 「農村不況の原因は米作一つに頼る単純農法にある。だから、有利な副業こそ、その解決の決め手だ」と言う憲三の考えに父宇一郎は賛成し、事業資金として三千円を出してくれた。当時の三千円は現在の三千万円以上か? 最初は自分の家の広大な山林の無尽蔵の雑木で炭作りをしようとその事業に打ち込んだが、その業務に熟達した人を得る事が出来ず、その結果は粗悪品の返品が山をなし、一年足らずで失敗。次に目をつけたのは寒さで材質が硬く下駄材として珍重される秋田の桐材の売り込み。これは一回目は成功したが、何百本もの桐材を次々に買い集める事は困難でこれも失敗。秋田米の売り込みも、養豚、養鶏も長続きさせる事が出来ず全て失敗し、二年足らずで資金三千円はパー。幼少から金銭で苦労した事のない「名家の三男坊」の或いは当然の結末とも言う結果に終わってしまう。しかし「最初からうまくゆくなんて思うな。いい経験になったんだ。めげずに頑張れ!」と父親に励まされ、憲三が心機一転して上京したのは、関東大震災翌年の大正十三年のことだった。
 憲三が就職したのは「農業の経営を援助する銀行」の役割で誕生したばかりの『産業組合農林中央金庫』だったが、その仕事を通して益々考えさせられたのは、やはり農業経営の健全化にはしっかりした副業が不可欠だという事だった。既に炭焼きを初め手掛けたその全ての事業に苦杯を喫してはいたが、臆することなく新たに挑戦しようとしたのは、毛織物の原料として、雑草を餌にするだけで養育出来るアンゴラ兎の飼育だった。早速神奈川県に出掛け、研究用に兎を貰い受けて会社に戻ったのだが、その彼を待ち受けていたのは尊敬する父危篤の知らせだった。すぐ郷里を目指したが、着いてみると父は奇跡的に立ち直っており、その父が即座に憲三に求めたのは、自分が未だ果たせずにいる「横荘鉄道問題」に力を貸してくれという事だった。言われるままに東京にとんぼ返りして安田財団との折衝に当たったが、結局、宇一郎は横荘鉄道の夢を果たせないままに、大正十五年五月十日、東大呉内科で六十歳の生涯を閉じた。

「寒冷積雪地の開発と農村救済」という終始一貫した信念でこの鉄道実現に賭けた父の執念を改めて知った憲三は、この父の遺志を自分こそ受け継ごうと覚悟を決めた。 父の死後、財産分与に与った憲三はその財産をライフワークに投資することとし、先ず昭和三年二月、約五年勤めた農林中央金庫をやめ、東京武蔵野町吉祥寺に家を新築して養鶏を営み、同五年には自宅に五百坪のアンゴラ兎飼育場を作り、二百頭の兎を抱えて「アンゴラ兎興農社」を創設。農村副業奨励を目指してアンゴラ兎の事業化に乗り出した。農業の副業にアンゴラ兎がどれ程良いか、憲三の書いた記事は秋田魁新報にも載り、秋田でも大きな話題となった。 二年後の七年には神奈川県中央林間に場所を移し、「東京アンゴラ兎毛株式会社」を創立し、更に大きな希望をもって事業に励んだのだが、どうもその兎毛の売り込み先が思うように進ま
ない。そこで門前払いを覚悟して足を向けたのが毛織物会社最大手の「鐘紡」だった。津田信吾鐘紡社長の慶応時代の同級生だった二人の紹介状のお陰か、門前払いは免れ、辛くも数分間の面接時間を獲得出来ただけの憲三だったのだが、その憲三の、採算も考えずに理想に向かって邁進する純粋さに心打たれた津田社長は、結局、一時間半にもわたり充分にアンゴラ兎毛の説明を聴取し、その全量買付けを約束してくれたばかりか、東京アンゴラ兎毛KKに三万円の増資までもしてくれたのだ。この日のこの二人の出会いは、正に運命的出会いであったと言うほかない。何故なら、この二人のこうした出会いが無かったら、フェライト事業は間違いなく日の目を見る事は出来なかっただろうから。津田社長は、憲三のひたむきな気骨を愛し、いつも好意的に相談にのってくれた。鐘紡との取引が成立し、これで事業は齟齬なく発展すると安堵した憲三だったが、その憲三の足を掬ったのが、九年に中央林間飼育場で大量に発生した兎独特の恐ろしい寄生虫病、日本では治療法も予防法も発見されていない恐ろしい「コクシジュウム」という寄生虫病だった。兎数は一挙に半減を見た。 「農家を豊かにしたい。しかし生き物相手の副業では伝染病のある限り安定永続は望み得ない。安定永続の副業は無い筈はないのだから、とにかくその発見から出直しをしよう」と潔くアンゴラ事業決別を心に決めた憲三は、その報告に先ず鐘紡の津田社長を訪ねる。「成る程、その気持ちは分かる。実は今の紡績業の在り方についてもこのままで果たして明日は在るのか、抜本的見直しが必要ではないかと会社の中でも今論議が始まっているんだ。私もこの問題に真剣に取組むから、君もきっと何かを掴め。これはその軍資金だよ」と十円札百枚をプレゼントして励ましてくれたのだった。
 次にその断念の報告に亡き父の同志清瀬一郎弁護士(終戦後極東軍事裁判の特別弁護人で有名)を訪ねると、そこでは先客の長谷弁護士との出会いが待っていた。(東京工大前身の蔵前高等工業電気化学科出身の化学者だが、高等文官試験と弁護士試験の両方に合格して弁護士になった変り種)「この斎藤憲三さんは亡父の血をひいている国士タイプの正義漢であり、アンゴラ兎飼育を農村に普及した功労者であるが、好漢惜しむらくはゼニ勘定が下手なんだ」という清瀬弁護士の笑いながらの紹介で顔を会わせた二人であったが、この二人は直ぐに意気投合。そしてアンゴラ兎についての話題から、「それならこの男が面白い事を筈だから是非会ってご覧」という長谷弁護士の強い薦めで生まれたのが、十歳年下の東京工業大学助手の小泉勝永工学士との出会いだった。長谷弁護士との出会いが小泉助手との出会
いを生んだ。では、小泉助手との出会いは何を生むことになるのか?

 憲三は初めて会ったこの小泉助手の知識・学識の豊かさに先ず以って驚かされたのだが、「貴方も資本金と労働力があれば企業は成立すると考えているようだが、それはとんでもない事だ。最大の資本は金ではなくて頭脳の力なのだ。今の日本に求められているのは、この『頭脳という資本』を大切にして、学者が発明したものをそっくり活かすような事業家なのです」という小泉の言葉に目から鱗の落ちる深い思いを覚えた憲三は、その様な頭脳資本を大切に活かし得る事業家として鐘紡の津田社長の名前を紹介し、その紹介の労を確約する。するとそれに感激した小泉助手が、その前に是非貴方に「優れた頭脳資本の持主」に会って頂きたいのだと言って挙げた名前が、フェライトを発明した加藤与五郎博士・武井武博士という二人の名前だったのだ。長谷弁護士との出会いから生まれた小泉との出会いは、この様に、加藤、武井両博士との出会いを引き寄せたのだ。出会いの妙味に、息を飲まずにはいられない。

 現在エレクトロニクス産業に不可欠な電子素材となっているこの世界に誇るべき日本人の発明品「フェライト」も、実は、発明当時はどんな分野に活用出来るか良く理解されず、誰にも振り向かれず、そのまま忘れ去られようとしていた。小泉の丁寧な解説を受止め、そのフェライトを工業化し、農村の二男や三男が働ける工場を作れば! と思い至った憲三は断固その新事業に挑戦しようと決意する。先ず小泉の紹介で加藤、武井両教授に会い、フェライトの特許権を譲ってもらうが、その時加藤教授は『特許は無料でお貸しするが、これを工業化するには、少なくとも十万円が必要となる』と明言している。ともかく憲三は昭和十年十二月十日、フェライトを発明した「東京工業大学電気化学科」の名前に因んで「東京電気化学工業株式会社」を創設。資本金は二万円。社員は社長の憲三を含めて四名の出発だった。次に工業化への工場の設立となる昭和十二年三月には、父の死去で得た多額な分与財産はアンゴラ兎の事業失敗で既に底をついていたので、尊敬する鐘紡の津田信吾社長に十万円の資金援助をお願いし、七月には東京の蒲田に二百四十坪の工場と八十坪の事務所を完成し、化学実験室も作られた。 では「頭脳資本」の重要性を力説した小泉工学士はどうなったか? 

 「日本の企業に欠けている『頭脳という資本』を生み出すには、何人にも拘束されない優れた学者達による『自然化学研究所』の設立が必要」と力説する斎藤・小泉両人の言葉に鐘紡の津田社長が大きな共感を示し、その津田社長が尋ねる問いに答えて、天然の繭から簡単に糸を紡ぐ方法とか、金糸銀糸を織込む織物を西陣織の半分の費用で作る方法など等、たちどころに小泉が頭脳資本の片鱗を見せたから堪らない。小泉に満腔の信頼を置いた社長は鐘紡理化学研究所を新たに設立し、小泉をその所長に迎えたのだ。ここでも「出会いの妙味」を感じずにはいられない。

 さて、工場の完成は昭和十二年七月、これは丁度シナ事変が勃発した時に当たる。すぐさま工員を故郷秋田から呼び寄せて事業をスタートさせたが、フェライトを作ってもそれを買ってくれる所がなければ食ってゆけない。暫くは自転車の発電機や自動車部品などを下請けで製作するという冴えない日々を過ごすことになった。
 創業の昭和十二年のフェライトの売上げは僅か三百七十二個。一ヶ月の人件費にもならぬ金額だった。だが、社長を初めとする営業スタッフの地道な宣伝・解説の努力が支那事変の拡大につれて次第に花を開き、フェライトは徐々に売れ始めた。フェライトの最初の軍の採用は海軍の船舶無線で、性能が良いばかりか小型にして使えるので潜水艦が大満足。昭和十三年〜十四年のノモンハン事変では日本陸軍の戦車がソ連に徹底的に叩かれた。ソ連は無線機を使っていたが、日本軍は頭を外に出して手旗信号で連絡を取っていたので銃撃の的となったからだった。という訳で陸軍は戦車向けの車両無線機を採用。
 となれば次には航空無線機が必要とされる訳で、かくしてフェライト生産は軍事一辺倒で飛躍的に伸び始めた。昭和十五年には、軍の需要だけに満足してはならんと、三代目社長となる営業担当の素野福次郎が民間需要の掘起こしに決起。見事に松下電器から十万個という大量注文を獲得したのだが、実は、その内容が、先ず使ってみて欲しいの一念から、単価一円五十銭のものを僅か四十銭にしての契約だった事が分かって憲三は激怒。
 すると素野は直ちに松下に事情を話し、単価はそのままながら、契約金を一括前金払いで貰う事に成功。この行動力・交渉力に憲三は心から感服し脱帽。そして、この多額な前金が昭和十五年七月の、疎開工場の性格を持つ、ふるさと平沢分工場の開設を可能にしたのだ。

 地元に工場が出来たお陰で平沢の人が沢山働くことが出来、地元を大きく活性化させた。その事を踏まえた憲三は、平沢だけでなく、秋田県を、いや、日本を工業力のある国にしたいとの思いを募らせ、昭和十七年四月、衆議院議員に当選を果たし、その仕事に着手したのだが、昭和十九年九月には地元の強い要請を受け、平沢町長に就任した。
 昭和二十年四月、大空襲で蒲田工場は全焼。工員全員の三百人が東京電化の唯一の生産拠点となった平沢分工場に集合したが、その人数の割りにフェライトの材料が乏しく、仕事のない従業員が生じる実態を目にするや、憲三は直ちに事態を把握。
「先ず従業員に食わせなくてはならぬ。食料増産こそ民生安定の鍵」と、明確な使命感を以って原野開墾に取り組み、ジャガイモ畑を作り、豚、牛、鶏などを飼って食料不足解決に挑んだに止まらず、自分一人のアイデアで海水から当時不足していた
塩を作り、昭和二十年の春には津島大蔵大臣から「自家製塩指導者」として表彰状を受けている。この憲三の発想力+行動力+成就力の素晴しさにはただただ脱帽するしかない。
 昭和二十年十一月、憲三は敗戦の責任をとって平沢町長を辞任し、衆議院議員の辞職願いを提出。同年十二月、衆議院議員辞任と同時に公職追放を受けた。
「東京電化の仕事は山崎貞一工場長に全てを任せているから何の心配もないし、公職から追放された今、自分は日本再建の為に食料危機突破に力を尽くそう」と、改めて自分の使命を確認した憲三は、昭和二十一年一月、渡辺誘喜という人物の唱える「酵素農法」の研究を開始。同年十二月十三日には衆院控室に三十数名の議員を集め「日本再建の新しい力、渡辺式酵素農法」と題して講演。ここでもこの農法で祖国の荒廃を救わねばという使命感に燃える憲三のひたむきさに打たれ、一人として席を立つ者はなかったという。同じ使命感からの発想で、昭和二十一年十二月には「パイプ式はたはた漁法」を発案。集魚灯で寄せ集めた魚をパイプで吸い取ろうと五十万円をかけて準備し、翌年十二月にそれを実行したがパイプの接続不良ではたはた百匹程捕れただけで失敗。だが、この同じパイプ漁法で昭和三十三年にはソ連の漁船団が日本近海のサンマを根こそぎ取り捲った実績があるから、発想に誤りはなかったのだ。
 ともかくフェライト生産という本務から離れ、憲三はひたすら食料危機救済という使命感に燃えて数々の事業を手がけたのだが、いずれも収益を挙げるに至らない。そのマイナスをすべてフェライト部門に転嫁してきた自分の在り方が東京電化を痩せ細らせている事に気付いた憲三は、直ちに本業フェライト生産の東京電化社長を山崎貞一工場長に引継ぎ、自分は新東産業KKを創立して食料危機救済という重大使命に真剣に取組む体制を整えた。以上の事からだけでも、憲三の常に使命感に燃えて発想し、採算度外視でそれに立向かうひたむきな人間特性を把握頂けたと思うが、その使命感に基づく発想の迸りは驚くほど多岐に亘っている。例えば、地下資源の開発である。 蒲田工場を新設した翌年、昭和十三年、鳥海山頂上西北五合目稲倉岳に純度九十九%の純硫黄を掘り当て、翌年には硫黄精錬を開始。その余勢を駆って山梨県、茨城県の金鉱山に手を伸ばすなど、本業の東京電化を経営しながらのこの憲三の旺盛な行動力には、感嘆を通り越して、正直、呆れを禁じ得なかった。
 この硫黄採掘事業は、織物用染料として存分に使わせて欲しいと鐘紡津田社長に懇望され、昭和十五年三月に二十五万円で鐘紡に売却。これが苦しい経営に喘いでいた東京電化には干天の慈雨となり、これが呼び水となってか、松下電器からの大量のフェライト受注に繋がり、文字通り起死回生の実を引き寄せた。
 戦後の昭和二十四年春には横手盆地で温泉掘削中に突き当たった石油母岩を秋大大橋教授が有望と太鼓判を捺した事からのめり込み、百五十万円の資金をかけたが石油は一滴も噴出しなかった、という苦い開発事業も経験している。
 常に使命感に燃えて発想し、採算度外視でその目標に立向かう憲三の人間特性が特段に発揮されたのは、昭和二十六年六月、第一次追放解除となり改進党に入党してからである。戦後、憲三の心を占めた使命感は、食料問題の解決と、科学技術、特に原子力の開発・利用に集中し、昭和二十六年十月の総選挙には、原子力利用の必要性のみを訴えたお陰で選挙民にソッポを向かれ、敢無く落選の憂き目に会っている。しかし昭和二十八年四月のバカヤロー解散には当選を果たし、電気通信委員として現在の電話普及時代の基礎作りに大きな役割を果たした。

 以後、昭和三十八年十一月までの十年間、四回の選挙には当落を交互に繰返す。昭和三十年二月の総選挙では当選。原子力開発に激しい意欲を燃やしていた憲三は、原子力開発・利用の具体的第一歩として『科学技術庁』という役所作りを目指し、中曽根康弘らと奔走。
 昭和三十年十一月、経済企画政務次官に任命されたが、翌三十一年五月には中曽根らとの努力が実を結んで科学技術庁が設置され、憲三はその政務次官に任命される。
 昭和三十三年五月には落選したが、その折に周囲から出た「中央から大物を呼ばなければ」の声に応えた憲三の言葉、「他力本願は政治の常道ではない。私は全て自力本願でやる。天下に志を持つ者は頭を下げるには限度がある。巧言令色、媚を呈することは厳に慎むべきだと強く自戒している」という言葉には、憲三という人物の真価が読取れるではないか?
 昭和三十五年十一月には当選。昭和三十八年十一月には落選はしたものの科学技術庁顧問に推され、引き続き原子力その他の問題会議に列し、活躍を続ける。
 昭和四十二年には当選。選挙後急激に健康の衰えを感じたが、行動力の憲三らしく、宇宙開発事情視察で米ソを視察。帰ると衆院逓信委員、自民党宇宙開発特別委員会副委員長、科学技術振興対策委員、自民党東北開発委員等々の専門委員を委嘱され、気力一つでこれに欠かさず出席。その暇を見ては秋田の諸会合、東京電化訪問と、多忙なスケジュールを研究熱心な気持ち一つで克明にこなしていった。普通の人間には到底真似出来る事ではない。

 昭和四十三年夏、憲三の八十二キロの体重が六十キロに落ち、同年九月十九日、東大病院で胃を五分の三切除。(胃幽門潰瘍) 昭和四十四年二月に退院して千葉稲毛海岸の自宅で静養。同年三月黄疸で再び入院したが、五月退院。五月三十日、鳥海登山を自ら言い出し、鉾立で竹の子採りを楽しむ。終世愛する鳥海山に永久の決別を告げる気持ちであったろう。
 この様な衰弱の段階に入った憲三は、あゆみには載せていないが、昭和四十五年二月には肝臓障害で再度入院し、五月に退院している。十月には最後の日を迎える事になるというこの人生最終の時点でも、使命感に燃えて発想をたぎらせ、ひたむきに迫る憲三の人間特性は遺憾なく発揮されるのだ。

 酵素農法の研究から「無機物の木灰を煮て蒸し米に振掛けると麹菌という生き物が出来る」という木灰の不思議に取付かれて二十数年も取組んできた憲三は、「完全滅菌した蒸し米(有機物)に熱した木灰(無機物)を混合し、同じく滅菌した実験室
内の滅菌箱に入れ、更に滅菌処理した所、そこに活発に運動する微生物を発見した」という自分の実験から、「無機物も有機物を生み出す事が出来るのではないか、ならば生物は自然に発生する事もあり得るのではないか」という推論に辿り着く。これ
は百年間も学会の定説となっている「無機物から有機物は生まれないし、生物は自然に発生するものではなく必ず種細胞から生まれる」というパスツールの説への大きな疑問の提示となる訳だ。それなら先ず、自分のこの実験データの鑑定こそ第一だと、二月の入院前にそれを工業技術院に依頼していたのだが、入院中に届いたその鑑定報告書には、公式実験の結果として「木灰(楢、ぶな)の場合は熱処理の時間に関係なく微生物の存在が認められたが、よもぎ灰の場合は熱処理が十分までは微生物の存在を認め得るも、その後は認められない」とあった。これが正しいとなればパスツールの定説は根底から覆される事になる。「よーし、思い切って発表しよう!」という激しい意欲に燃えて五月中旬には退院。その直ぐ後、五月二十五日の三時、パレスホテルで共同記者会見を行い、二十数年間の木灰研究の執念を込め、ジェスチュアを交えながら、凄絶な迫力を以って「生物の自然発生」について私論を開陳した。
 パスツール理論に対するこの憲三の私論の反響は決して大きくはなかった。というのは「何だと! 百年間も学会の定説となっているパスツール理論に素人の挑戦かあ!?」という新聞各社の受止めであったらしいのだ。しかし、日本経済新聞が準
備していたゲラ刷り(これは上部からの指示で結局は掲載中止となったのだが)、このゲラ刷りには、「ガン・スモン病などの解明に巨歩」という見出しで、「仮に実験過程に手抜かりがあったとしても、耐熱性の微生物の存在の確認が出来たのだ。それ
だけでも生化学界に新しい波紋を投じる事は間違いない。ただ、斎藤氏の一連の実験成果とそれに基づく推論が確かに事実だとしても、既に一世紀以上も専門の世界で堅く信じられてきた原則を打ち破る事は難しい。〈中略〉しかしこれを機にパスツールの定説に再検討を加え、生物の自然発生論を改めて見直す動きも出てこよう。それはガンの謎を解明する巨歩となる事も考えられるのだから」と述べられている。学会の承認を得ていないからこの憲三の発表理論は飽くまでも学説とは言えず、私論と言わざるを得ないが、その価値は正に日経新聞ゲラの述べている通りである。正にこの偉人が、自分の持つ人間特性を遺憾なく発揮し、自分の人生の掉尾を飾ってみせた痛快極まりない顕示行動であったのだなあ、と感銘は尽きない。
 子供に恵まれなかった憲三は、かの子夫人の妹の二男俊次郎を生まれてすぐ養子に迎え慈しみ育ててきたが俊次郎はこの年(昭和四十五年)三十歳。慶応大大学院工学研究科を卒え、前年昭和四十四年三月には「湿式法によるフェライトの生成」で工学博士号を取得している。(wet process)
 
 昭和四十五年十月三十一日八時五十分、憲三は数日間の昏睡のまま、かの子夫人、俊次郎夫婦の三人に見守られ、安らかな表情で彼岸に旅立った。病名肝硬変、享年七十二歳だった。

 以上、斎藤憲三の七十余年に亘る生き方を紹介申し上げたが、どの様な人柄でどの様な生き方を貫いたか、その大筋は掴んで頂けたと思う。述べたい事はまだまだあるが、時間の関係で結びに入らせて頂く。
 資本金二万円、社員四名でスタートした東京電化は、昭和五十八年三月、その社名を「東京電気化学」の頭文字を並べた「TDK株式会社」に変更してイメージを一新。今や資本金三百二十九億円、社員数三万七千人、世界二十ヵ国に生産拠点を持つ世界企業に変貌を遂げている。
 その世界企業TDKがこの六月五日、創業時からお世話になったからと、仁賀保・由利本荘の両市が共同で計画している「由利海岸林再生プロジェクト」に対し、総額二億円に及ぶ資金を贈呈して下さったというのだ。
この美挙を聞き、世界企業となった今も尚、出だしの頃の土地、人を忘れず温かい心くばりをしているこのTDKの在り方に「旧き良き日本人の心」を感じ、胸込み上げる感動を禁じ得なかった。こうした人間味横溢の心温まる社風は、やはり、初代社長斎藤憲三の人柄に始まっているのだ。こうした素晴しい偉人を身近に持つ我々の幸せを、
 そしてまた、この美挙に錦上花を添える形で、「勝たなきゃ、意味が無い」を部員一同の合言葉に、東北勢では正に初の都市対抗野球全国優勝をもぎ取った仁賀保TDK野球部の嬉しい偉業の意味を、改めて皆さんと一緒に、しっかり受止めたいと思う。
 さて、皆さん、米の秋田は酒の国、米の秋田の人間は、昔から他人の力を当てにしなくても食いっぱぐれの心配は無用で生活してきた。そのせいか、我が秋田県民は、日本のチベットと呼ばれてきた生活の厳しい隣県岩手の人達に比べると、自分の県の偉人を尊び、その人柄に馴染み親しむ雰囲気が大きく欠けているのではないかと、実際に十ヶ月遠野暮らしをした私には痛感されるのだ。
 大人が土地の先人・偉人の話をしっくり子供に注ぎ込まない限り、子供に先人を敬慕する気持ちなんて生まれる筈はありません。岩手の子供達はよくぞそこまでもと思う程に自分の県の偉人・先人に親しんでいる。岩手の子供達に負けぬよう、この地域出身の偉人斎藤憲三の人と事績を、大人の皆さんに一人でも多くの子ども達に注ぎ込んで頂きたいと心から願い、このお願いを今日の私の話の結びとさせて頂く。有難うございました。

                平成十八年九月二十二日
                     由利本荘市 秋田ふるさと塾にて講演
    

   
   我青春風来記 141         早海三太郎
     「早稲田座頭市」

 昭和42年秋。三太郎の最後の早稲田祭だった。  
 夏の終わりに日本学生キューバ友好視察団の団長として帰国。後輩の中南米研究会の幹事長がサークルの早稲田祭参加申し込みを忘れてしまっていた。
 研究会の発表の場を学友栗原健昇から借りた。そこで キューバ帰国報告写真展。大隈小講堂で「キューバは今」と題してスライドを見せながら講演した。
 中西ゼミの同期、栗原は部屋を半分貸す代わりの条件が、芝居「早稲田座頭市」に役者を2人出せという。やむを得ない。
 監督主演が栗原で役が座頭市。三太郎は酒好きだからと平手造酒役。酒場のお光役に仙台出身の2年生、塚田徹君に頼む。芝居の稽古はわずか一回。 会場が何と入学式が行われた文学部横の記念会堂だった。広すぎる。
 いよいよ当日。楽屋でにわか役者は白いドウランを顔に塗られ、鏡に写る自分にふきだす。
 幕が開き、始まった。観客は題名に興味をしめしたのか、50人程もいる。 
 平手造酒の出番は二幕目から。酒場でお光役の塚田と一杯飲る情景。秋田から持っていった地酒を傾けて、台詞にない、「これは秋田の原酒だな、旨い」といって飲んでしまった。
 三幕目は栗原座頭市との決闘シーン。造酒は簡単に殺されるのは面白くない。オモチャの刀でチャンバラしながら、栗原はじれったくなって耳打ちする。「おい、早く殺られろ」
「わかった、わかった」
 で、大げさな立ち回りをしてヤラレルで幕。 
 残った観客は十数人。
 散々な座頭芝居だった。
 それでも記念写真を撮ろうと大隈銅像前でドーラン顔の大根紺役者達は写真に納まった。
 芝居に使った秋田の原種を忘れてきたのを思い出した。
 お光役の塚田に、「おい、あの酒はどうした」「楽屋にいた委員に芝居で本物の酒を飲むのとはけしからんと没収されました」 
 三太郎最後の早稲田祭。 秋田銘酒が革マルが牛耳っていた祭の実行委員に飲まれて、幕を閉じた。 (続く)
  ウラジオ日誌
 9月8日(土)グッドウイルドーム(西武ドーム)全国クラブ野球選手権。由利本荘ベースボールクラブが茨城ゴールデンゴールド(欽ちゃんチーム)と対戦。完敗。11対0。これも次回への勉強。
宿舎の板橋センターホテルに戻り、気落ちした監督達に何時かロシアに野球をやりにいこうと話す。
 夜、渋谷・菜な。ハートフードの岡崎顧問、三木毎日新聞論説委員、学友若林と一献、娘江津子も。米輸入などの話。
 9日(日)秋田県貿易促進協会主催のウラジオストク商談会へ。農事組合法人新田水稲生産組合理事として一行24人と新潟空港発16時55分。ウラジオストク空港に19時20分着。時差一時間。ウラジオストクホテルへ。
 10日(月)ウラジオストク日本センター。国立総合極東大学内。浅井所長からウラジオストク事情についての講話。ウラジオストクは人口60万。学生と美人の街という。 明日の商談会の設営準備。午後、市場、スーパーマーケットの視察。2万円もしたという日本のスイカは売れ切れ。スーパー内の花屋で花を買い、蚊取り線香も買う。レジの店員は座って勘定。郊外の中古車市場へ。数千台の日本製中古車の山。ゲンナマでの取引を目撃。
 11日(火)早朝、ホテル近く、駅まで散歩。マンションブームで建設現場では北朝鮮系と思われる労働者が働いている。
 日本センターにて商談会。我がブースにササニシキ米2キロと1キロ袋リンゴジュース16袋、りんご、清酒6本、無臭大豆。本荘うどん。堀隆一氏のスイカ一個も陳列。通訳のエカテリーナがリンゴで白鳥を作り、炊飯器でお米を炊き、参加企業に賞味してもらう。ダイチ社他3社と面談、交渉。米に関心を示す。
 夕方、ウラジオストク駅内のレストランにて商談会参加企業を招待してのレセプション。本荘うどんとすずさやか麺を厨房をつくって試食。スーパーで1万五千円もした日本のスイカを持っていき、通訳の女性からスイカ割り競争を催す。
 12日(水)ザイキンの娘、アレキサンドラと井上大樹夫人と港へ。午前9時。フェリーーでルスキー島へ渡る。人口五千五百人。ルスキー島支所のビタリ市民課長が出迎。 深沢海岸で遭難し、ふるさとルスキー島に墓があると聞いたアスマーチコの墓参りが目的。ビタリとその部下達と墓地で一生懸命探したが見つからず。ニコライ少年達が出航したと思われる漁港に向かい、静かな海にアレキサンドラと持参の日本酒をかける。午後1時のフェリーで戻り、海軍記念館前でザイキン氏と14年ぶりに再会。島から持ち帰った花束は海軍記念公園内の第一次大戦戦没者のレリーフ前に捧げる。遭難し、帰国した一人アキーモフはベラルーシで戦死し、慰霊碑に名前があった。イタリアンレストラン・タニタフェでアレキサンドラ、井上夫人とお礼の食事。4時にウラジオストク市役所へ。市長が収賄で捕まっているとのことで警備が厳重。貴賓室に通される。テーブルに日本とロシアの国旗。シドロフ国際交流部長と広報官達が来る。シドロフ部長に日本の由利本荘市深沢海岸で遭難死ししたニコライ少年と生還した3人の遺族を捜して欲しいと依頼。15年前に作り、ルスキー島で渡した遭難漁民の調査願いのコピーをアレキサンドラが持っていて部長にみせる。由利本荘市深沢地区の人々が慰霊碑をつくり毎年、慰霊祭を行っていると聞いたシドロフ部長は、「ロシア人はそのようなことはしない」といたく感動され、明日11時、マスコミ各社を集めて記者会見を開くように広報官に指示する。私は出席できずアレキサンドラに会見に立ち会ってもらうこととした。
 13日(木)9時、ホテル出発。空港発14時50分、新潟から秋田駅についたのが19時27分。
 14日(金)夜、熊本の義弟・二ノ村信正氏から携帯に電話。姉が病院で母をかばって腰を骨折で入院したという。大変。
 15日(土)朝6時。家内から携帯に電話。母が今日の2時に亡くなったと涙声。秋田空港9時55分発羽田経由で熊本空港へ。娘江津子が迎えにきてくれた。熊本整形外科病院に女房を見舞い。
 16日(日)熊本市内・玉泉院にてお通夜。喪主の信正氏が挨拶で姉が母の骨折を防いでくれたと。
 17日(月)雨。玉泉院にて葬儀。女房を見舞い、熊本市川尻の実家に戻る。
 19日(木)病院に女房に特製のコルセットが出来てきた。明日からリハビリだと聞き少し安心。
 20日(木)熊本空港発。
 羽田、新幹線で秋田。
 21日(金)昼、羽後岩谷駅。出羽食堂で昼飯中、携帯に電話。「ウラジオストクのダイチ社のアレキサンドルです。電話が留守電でメールを送りました。見てください」
 メールにはせんべい、つまみ、あられ注文があった。メールと電話で返事。

   どんぷう後記

 春から休刊中のふるさと呑風便を再刊致します。
 多くの読者から激励とお叱りを頂きました。
「一ヶ月一回の楽しみだった」「落選したぐらいで呑風便をやめるな」「呑風便には勇気づけられた。希望を与えられた」等々。
 春。無念の桜散るの後、カーラジオに阿久悠作詞の「今、あの鐘を鳴らすのはあなた」が流れてきた。「♪あなたに会えてよかった。あなたには希望のにおいがする つまづいて、・」
 失意泰然とはいうが、どん底にいる自分の胸が熱くなった。
 希望。小生が県議選に出馬したことは、支持者から故郷へ希望の光を差し込んでくれたとの言葉に勇気づけられてきた。 非力だが希望の光の存在で有り続けたい。
 希望の光の一つが対岸貿易にあるといってきた。
 ロシアの遭難漁民を救った由利本荘市深沢の人々が建て、護ってきた慰霊碑が新たな希望の光です。
 今後ともご教導賜り、よろしくご愛読願います。