ふるさと呑風便  07.1   NO,213


 正しき者は強くあれ
           (土光さんU)

 「そんなことはない。誰がいったかしらんが国際分業化なんでとんでもない」
 いきなり、土光さんの怒号が発せられた。
 秋田の農業青年が経団連に乗り込もうとしたのは、財界が主唱する農業の国際分業化に反対するためであった。
 それが財界のドン、土光敏夫会長に否定されたのである。
「僕だって岡山の百姓のこせがれだよ。日本に農村がなくなったら立ち入っていけなくなることは十分、承知している。国際分業化なんてとんでもない話だ。僕は時々、農協中央会の幹部と会って勉強してるんだ」
「今、農村だって生ゴミを捨てているんだろ。僕は鶴見の自宅の畑で野菜をつくっている。残飯を生ゴミにして肥料にしている。その前を通る人におはようと挨拶すると、おっかない爺さんと思われて挨拶がかえってこないんだ。それでも何度も挨拶すると、おはようございますと挨拶してくれるようになる。
 農村でも率先して生ゴミを捨てないで肥料にして畑につかったらいい」
 秋田の農業青年達12人は81歳の土光さんの迫力に圧倒されてしまっていた。
 そこで農業青年でないセーター姿の私は、話題を変えた。
 テーブルのすぐ斜め前でハイライトをプカプカ吸っている土光さんに教育論を聞こうとした。
「土光さん。今、子育てごっこという言葉が流行っていますが、土光さんの子育てはどうだったのでしょうか。子どもをどういう人間に育てたらいいのか教えてください」
 そしたら、いきなり私を指さして言われた。
「君のような人間に育てなさい」 (爆笑)
 まさに爆笑の渦が経団連ビルの会議室に巻いた。面を一本とられた思いで私も笑ってしまった。
 土光さんは33歳になる秋田の青年に諭した。子どもに尊敬されるような人間になれという意味なのだろう。
 28年後の本人は土光さんに言われたような人間になったかどうか自信はない。ただ、二人の子どもは今、人に迷惑をかけず、それなりに人様のお役に立てうる人間にはなった、と思っている。

 土光さんが日本人から尊敬され親しまれたのは清貧であったこと。 NHKで放映された朝食の目刺しで有名になったが、東芝の社長時代からの給料はほとんど母親が創立した女学校・橘学苑につぎ込んだと聞く。
 その橘学苑の校内に創立者土光登美が建立した訓詞碑「正しき者は強くあれ」が立つ。
 盟友の高橋正氏が橘学苑を訪ね写真を撮ってきてくれた。
「正しき者は強くあれ」今の自分にとって胸に響く言葉である。
 土光さんの座右の銘は「苟日新、日日新、又日新」。日々新しい気持ちで一日一日修養を積み、目的に向かって生きていく、という意味。私の好きな言葉でもある。
 戦後の農林大臣を務め、日中国交正常化の前史を為した、松村謙三先生も清貧な政治家として日本中から親しまれ、尊敬された。
 後援会事務所には学生時代に松村先生から日記の表紙に書いていただいた「大風吹き起こって雲飛揚す」を額上して飾っている。  自宅の書斎にはやはり松村先生筆の「日新又日新」の色紙がある。
 昨春、故郷からの「みっちゃんコール」に応え、県議会議員選挙に出馬を決意し、帰郷した。
 討議資料のパンフレットに尊敬する人物を斎藤謙三・松村謙三とし、信条は「日新又日新」。
 ご教導を賜った松村先生、土光さん、亡き恩師の佐々木勝敏先生、早川寿助先生、中西睦先生に心から感謝している。
 自分を育んでくれたふるさと、両親に感謝しながら今、師の教えを胸に、正しき者は強くあれ、強く正しく美しくの精神で仲間と共に戦います。



  ふるさと塾地域づくり実践ゼミ

★平成18年8月25日(金)
★ふるさとネットワーク事務所
★「岡目八目由利本荘未来図」(1)
★あゆかわのぼる氏

 今日は正に岡目八目で由利本荘市のことを由利本荘市の皆さんの前で、由利本荘市をどうするか?ということを話す、これ楽しくてしかたがないですね。
 市町村合併が大騒ぎで、昨年の1月ですからもう1年、まもなく2年になるところですが秋田県は昔69の市町村があった訳ですけれども、それがあっと云う間に25になってしまった。これは全国的にも非常に話題ですね。
 秋田県はあまり魅力のない市町村があったのだろう。
 こういうふうなことで秋田県の影響を受けてバタバタと市町村が合併した所がいっぱいあるんですね。
 特に岩手県なんかでは、最初増田知事は「したいところは合併すればよい、しなくてもよいところは、別にしなくてもよい、合併するから県が応援するとか、合併しないからほったらかしにするとかそんなことは云わない」というようなことで、岩手県では当初そんなに合併するという話は無かったんですね。
 ところが隣の県が69から25になるということを聞いて、「これは大変だ。時代に遅れるんではないか」というんで、終盤になるとパタパタと合併しまして、秋田県ほどではないがかなりの合併が進んだところです。
中には私の書いた本を全部読んで下さっている方がおられるらしく、あゆかわは、「ここ10年くらいの間に合併に関するスタンスがドンドン変わっていってしまった、案外節操のない男だ」(笑い)ということをおっしゃる方もおられ、また新聞にも書かれたりしまして、確か、大館か能代の新聞に「あゆかわのぼるは確か最初の頃、市町村合併推進論者であったはずだ、ところが最近の一番新しい本を読むと、市町村合併はとんでもないことだと書いている。そこはやはりあゆかわのぼるの節操のなさに問題があるのではないか」と心配してくれている新聞社もあったりしまして、も少しきちっと読んで欲しいなと思っております。

 市町村合併については、基本的に私は昔も今も変わらなくて、市町村合併はしなくてはならないと、言い続けてきたわけです。 ただ秋田県のように、なにかよく判らないけど遮二無二ただくっついて、大きくなればよいという、69が25になるのが良いことだ、そうならなければ、まずいというようなことを進めてきた、このやり方が私はまずいということを云ってきたわけです。
 そのやり方で被害を受けたと思われる所がいっぱいあるわけです。またこれから弊害を出る、だけれどもそれに全く気が付いていない市があると思います。 いわゆる大型の市町村合併でのせられて、犠牲になって将来に禍根を残す代表のひとつが由利本荘市だろうと私は色々なところで話してきたし、今もそう思っているところです。
 由利本荘市と北秋田市と、もしかすれば横手市あたりもかな?と。大仙市もかなと。いわゆる大きくなった所ですね。
 やがて「何でこんな合併をしてしまったのだろう」ということを、もっと前の例えば昭和の大合併で50年位して今うろたえて合併しなきゃ良かったといっているところがいっぱいある訳です。
 私も由利郡下浜村という所で生まれた訳ですが、昭和の大合併で秋田市になって、どうなっているかというと極論を言えば影も形も無くなっていますね(笑声)。
 昔は下浜中学校というのは一学年二クラスあったのですね、 一クラスがだいたい35から40人おりまして、240〜250人の中学生がおったわけです。
 合併から40〜50年の今どうなっているかというと、全校で70人位しかいないんです。我々が子供の頃は下浜中学校でいろんなスポーツ、部活動が出来たのです。バスケット・野球・テニス等そのころ中学校でやったスポーツは何でも出来た、 ところが今、下浜中学校では女子と男子合わせて五つか六つ位の部活しか出来ないのです。 全校60人か70人しかいないのですから、例えば野球なら最低9人ですが、野球部に15人も入れば他の部活は成り立たなくなるというわけです。

 由利本荘市の関係で言えば、由利本荘市の石沢地区の皆さんが「石沢川の源流を探る会」というのを今から15年位前からやっておりまして、そのオブザーバーのような立場で、私は源流に辿り着く会員として参加、子供たちとか集落の人達と川の変化とか魚や生物とか、水の汚れ具合とかを見ながら川を上って行き、辿り着くところが羽後町の上仙道なんですね。
 そしてそこに一晩泊まって地域の人達と交流会をやって、次の日にまた戻ってくるという活動をしておりまして、私は探らないで、ただ目的地まで車で辿り着いて交流会に参加して、次の日にはまた車で戻ってくるという会員なんですけれども、この活動は今から三年位前まで十年続きました。
 一休みしたらまた続けようということで石沢の皆さん方と今年から、再開してこの間行って来たのですが、この仙道と云うところは昔は仙道村だった。
 もちろんその頃は中学校もあったし人口も三千人位おったらしいですね。
 ところが昭和の大合併で羽後町になって今どうなっているかというと、もちろん小学校も中学校も、役場の支所もないし農協も無いし、何にもないですね。 こういう風なことで今の合併、平成の大合併は分からないですね。合併して良かったのか悪かったのか分からぬうちに我々は死んでしまうでしょうけれども、我々の次の代あたりになるとその功罪が出てくるでしょう。
 たぶん由利本荘市の場合は功罪の罪の方が出てくると思います。一市七町が一緒になったのですけれども、簡単に言えば合併した中で最も「同床異夢」の傾向の強いところが由利本荘市ですね。
 一つの市と七つの町が一緒の布団に寝たけれども見ている夢は全部違う。その典型が由利本荘市であると私は見ています。 これは、さっき云った大仙市も北秋田市もその傾向があります。大仙市の話をすると、夢の種類があまり違わないところから云っていきますと最も面白いのは例えば角館、中仙、西木、田沢湖。仙北、太田も入るのでしょうか、
 あそこらを中心とした所に「ささら」という郷土芸能があります。
 佐竹氏が角館に入ったときに、一緒についてきた芸能ですね。この郷土芸能を保存しようという運動が続いておったのですが、市町村合併で大仙市と仙北市と分かれてしまったものですから、しかも中仙町がギリギリまで大仙に行くか仙北に行くか、すったもんだがありまして角館は嫌いだ、いや角館そのものより角館の財務内容が問題だというようなことで中仙は大仙市についた訳ですね。
 結局「ささら」という文化が二つに分かれてしまった。

 次に北秋田市の例をあげれば、由利本荘市と似ているのですが、あそこは、鷹巣、合川、森吉、阿仁で一緒になったのですが、将来展望をたてる時に、ハッキリ二つに分かれる訳です。
 例えば鷹巣と合川なら一緒になってまちづくりをしてもやっていけるだろう、それから森吉と阿仁は地域づくりやまちづくりをやっても目標がハッキリして取り組める。
 それが四つの町が一緒になったため何がなんだか分からなくなってしまったんですね。
 鷹巣では明らかに阿仁・森吉と一緒になったばかりに、「内陸縦貫鉄道」という大変なお荷物を背負い込んでしまったという思いがある。
 また合川あたりも同じく内陸縦貫鉄道なんかいらないですね。 森吉は地形が南北に長いわけでなくてはならない所もある。

 地域づくりにしても阿仁と森吉と一緒になって奥森吉というあそこを掘り起こしたら非常に魅力的なリゾート地域をつくるというようなことが考えられるけれども、鷹巣と合川にとってはそういうものをつくってもそれほどプラスにもならないわけですね。
 あそこは昔から云われている奥森吉の魅力を掘り起こせば秋田県の財産、秋田県の背骨になります。
 大変面白い例で申しますとあそこで鷹巣〜角館の百キロマラソンというのがあります。
 これは地域の活性化と、国道105号線、内陸縦貫鉄道などを全国的に話題にしようとしてやってきたわけです。
 それが今年と来年休むのだそうです。何故休むかというと来年若杉国体があるから休むというんですね。
 これ面白い話でしょ。全国に地域を知って貰う一番のチャンスの時に休むというんですからね。これ誰が休ませたのか私はよく分かりませんですけれども、これは鷹巣が止めさせたのか、角館が止めさせたのか。わかりませんが、私はたぶん県だと思いますね。
 県が来年若杉国体やらなければならないので、地域の市町村・北秋田市や仙北市など地域の職員がマラソンにエネルギーを注ぎ込む、そこへ県あたりから「お前等そんた事やったって何の役にも立たないのだからまず今年と来年休め、それでもし再来年やれるようだったらまたやれ」というふうなことで百キロマラソンをやめさせられている。これ象徴的な例なんですね。
 全国に秋田県を売る北秋田市105号線.内陸縦貫鉄道・など、あの地域の文化・観光・物産などをより多くの人達に知ってもらうために続けてきたイベントの百キロマラソンを一番多くの人達に知ってもらえるチャンスの年に休ませるという、象徴的な例なんです。(続く)


  呑 風 日 誌 抄

 12月2日(土)秋田市へ。昼懐かしい大江戸ラーメン。夕方、イヤタカにて佐々木三知夫激励会。準備から北嶋昭宮司にすべてご厄介をおかけし、女房と受け付けまでお願い。司会は佐々木啓助氏に突然の要請だが大変うまくやってくれた。激励のごとばが敬愛する藤本英男先輩、盟友の菅谷理市氏。有り難し。
 多くの方々から激励され、仲間に感謝感激。ほっと愛で中学同級生達と二次会。ほっとする。
 5日(火)後援会相談役の東海林竹二郎先生と岩城町へ。多くの先人から学ぶ。夕方、旧本荘市の浜源にて、高校同期会。
 7日(木)鳥海町百宅(ももやけ)へ長靴を履いて同志と廻る。雪が1b近くある。太郎牧場で佐藤一太郎氏と会え、ロマン溢れる由利牛の話が聞けた。
 同じ旧鳥海町の伏見地区にはほとんど雪がない。
 8日(金)夕方、旧大内町の山村活性化センターにて出前商工会へ。新田水稲生産組合理事として出席。
 9日(土)朝、広域由利家畜市場へ。牛の競市に初めて。約350頭の由利牛が集まり活況がある。畜産農家の知人から色々話しを聞く。子牛は20ヶ月で約400キロ以上になる。勉強勉強。
 10日(日)旧大内町の農協会館メープル。長谷部誠後援会忘年会へ。若いご夫婦達が一生懸命に準備している姿に好感。旧知の方々と会えて嬉しい。
 大内ライオンズクラブのクリスマスパーティがあり、長谷部先生に挨拶して中座。ポポロッコへ。女房と娘江津子と出席。恒例の奥さんへのプレゼントコーナーがあり、カミさんに刺し子作家井上由美子先生作のマフラーを。お詫びと感謝の印。
 11日(月)内越土地改良区へ。佐々木紘一理事長から「21世紀への提言、農業・農村の多面的機能」について学ぶ。山田の元市議高原薫先輩に魔法の水を。午後、JA秋田しんせいの畠山勝一専務に百宅報告。
 12日(火)午後、岩城町の飲食店「かあさん」へ。いい名前です。夕方、安楽温泉で白沢会。
 13日(水)夕方、本荘駅前・大黒屋。高校2年先輩の同期会二水会へ。伊藤孝紀先輩のご高配。先輩達から激励を受け、実に旨酒。
 14日(木)鳥海町下笹子(じねご)へ。義民佐藤仁左衛門の里。 延宝5年(1677)直訴により、無謀な再検地による年貢の取り立てから農民を救おうとした佐藤仁左衛門に大いに学びたい。大場良太郎氏は佐藤仁左衛門と一緒に犠牲になられた方の子孫であられた。
 15日(金)朝6時。由利本荘倫理法人会セミナーへ。昼、モスバーガーへ。敬愛する秋田市の本山秀昭ご夫妻と。激励に大感謝。
 16日(土)日本雪上野球連盟の小松光輝専務から阿部一之助氏を紹介して頂く。野球好きの阿部さんに由利本荘ベースボールクラブの役員要請。一緒に道の駅きららの田吾作へ。田吾作カレーもなかなかいける。奥様お手製のカニ味噌が又いい。宣伝しすぎか。
 18日(月)旧由利町のゆりえもんへ。加藤新市画伯の新美会(榎本義一会長)へ。ホテルアイリスでの村岡敏秀後援会忘年会へ。県議出馬候補7人、私は由利本荘ベースボールクラブ理事長として敏秀氏へ激励挨拶。兄貴分の佐々木市雄氏と二次会へ。
 19日(火)夕方、ぽぽろっこにて由利本荘商工会商業部会交流会。
五島まさお画伯の講演。感服。
 20日(水)浜源にて高校同期会。
2月10日に同期全員に通知して同期会を開催する。
 21日(木)旧大内町中館の町内会長の堀隆一氏とじっくり。彼とは同年で、出羽中学校野球部のエースでキャプテンで、当時から有名。私は山奥の上川大内中学校野球部で、一番、サードだった。
 出羽中学校とは対戦しなかったが堀さんと意気投合。人望篤い彼から応援して頂くことになり、鬼に金棒である。
 23日(土)山村活性化センター。ふるさと旧大内町の新田・板井沢地区の方々から自主的に佐々木三知夫激励会を開催して頂く。感激。
 24日(日)旧岩城町滝俣・竜安寺。吉尾憲一氏夫人ご母堂の葬儀。
 25日(月)由利本荘市滝字早稲田で採れたあきたこまちを「都の東北早稲田米」として、大学時代の友人達にお歳暮として贈る。
 26日(火)かすみ桜で有名な旧大内町葛岡のかすみ温泉へ。地元で人望の篤い堀川一博氏と一献。
 27日(水)伊藤孝紀先生と本荘保健所へ。旧知の保健婦さん、胃一緒に仕事と野球をやった仲間に挨拶。久しぶりに清吉ラーメン。
 28日(木)後援会事務所でスタッフの忘年会。素人軍団だが皆、勉強しながら試行錯誤しながらよくやってくれました。深謝。
 29日(金)朝から由利町を廻る。不自由なお身体で木内忠一さんが一緒に案内してくれる。その後姿に涙がでるほど感動。必勝を誓う。
 30日(土)道の駅ぽぽろっこでの餅つき大会へ。堀隆一氏のお誘い。小松幸夫さんの干し柿が旨い。
 31日(日)終日年賀状に添え書き。県外五百枚の宛名書きはシルバーセンターにお願い。由利本荘市の方々に約九百枚、立候補予定者は出せず。知名度の薄い新人候補には不利な条件。
 どんぷう後記
 まったく慌ただしい師走でした。
毎年出していた三千六百枚の年賀状のうち、選挙区にあたる由利本荘市の方々には欠礼致しました。 この場を借りて、新年のご挨拶を申し上げます。
 昨年中は大変お世話になりました。今年もご教導を賜りたくよろしくお願い申し上げます。