ふるさと呑風便   06/8  NO.208 

 里帰喇叭奇魂神
   
「今日の日本の平和は戦争で亡くなった戦友達のお陰である。 私は、あの世で亡き戦友に合わせる顔がないといった人生はおくらない。そんな気持ちで今日まで生きてきました」
 この言葉は「スミレ会」という戦友会の総会での、嵯峨啓孝会長のご挨拶。重く胸に残った。
 戦争を知らない世代の私は、戦友会に呼ばれ、サイパン島でアメリカ兵に拾われ、縁あってふるさと秋田に帰ってきた軍隊ラッパを持って、黙祷の間、鎮魂歌「国の鎮め」を吹いた。
 宴会に入ると、進軍ラッパは吹かないが、起床ラッパや消灯ラッパを吹くと涙ぐんで喜ばれたことがある。大内町ご出身の三浦吉郎さんからは毎年来て吹いてくれと頼まれていた。
 今年も二つの戦友会から案内を受けた。離石会とスミレ会。 黙祷の間に国の鎮めの吹奏を依頼されている。残念ながら先約があって、欠席通知。新聞記事に今年で解散されるとある。 鎮魂のラッパを吹く機会がなくなってしまった。
 ふと思いついた。ラッパ神社を作ろう。英霊の宿っておられる太平洋を往復したラッパを祭神として、鎮魂と感謝、平和を祈る神社を造る。
 昔、秋田県の中心点・旧河辺町の岩見神社の横にヘソ神社を建立したことがあった。
 その時の仲間、彌高神社の北嶋昭宮司に相談。「神社を造るなんで簡単なものではない。未来永劫、神社を護る覚悟が必要だ」と諭される。但し、ラッパをご神体にすると二度と持ち出し禁止、触られなくなる。それは地元の神主さんに相談したほうがいいとアドバイスを受けた。

 地元、由利本荘市岩谷町麓の諏訪神社宮司で日頃から尊敬している佐々木秀雄先生に相談。「ご神体となる札を作りましょう」とラッパを取り出せる解決策を考えてくれた。7月29日の神事もお願いし、ご快諾を頂く。
 問題はご神体を祭る祠。これは由利本荘ベースボールクラブの事務所に神棚を造ってくれた鞘師の齋藤正喜棟梁に依頼。
 了承を得て、秋田市の陸上自衛隊秋田駐屯地の資料館に預かっていたラッパを引きとって、齋藤名人に渡してお任せした。
 3週間後。出来てきた。立派だ。縦61a、横63aの神殿。ラッパが程よく鎮座される。
 佐々木秀雄宮司から里帰喇叭奇魂(くしだま)神と命名され、御神体の札も作られた。
 7月29日。暑い。由利本荘市の羽後岩谷駅前。秋田ふるさとづくり研究所の事務所開きと「里帰喇叭奇魂之神鎮座祭」が執り行われる。地元岩谷町の町内会長さん達、遺族会、元海軍の錨会の皆様、大内区長の小笠原察雄さん他、30人程集まって頂いた。修祓、一礼の後、黙祷。
 里帰喇叭を取り出し、国の鎮目を吹く。傍らに家内がいる。目を瞑って心を込めて吹いた。
 最後に国歌君が代と海ゆかばを斉唱して鎮座祭が終わった。

 8月15日。12時。折渡峠の頂上にある千体地蔵には平和を祈願し、広島、長崎の原爆瓦が埋め込まれている。折渡千体地蔵護持会の高橋喜一郎会長(80歳)と一緒に登った。サイレンが鳴り、黙祷。この日、終戦記念日に秋田放送の丹内百子さんから、2時に中継車を行かせるから喇叭神社の説明と国の鎮めを吹いて欲しいと頼まれていた。
 2時に事務所に現れたのは箏演奏家でもある美形の工藤東子さん。本番は2時30分頃だという。マイクを前に心の準備なしに国の鎮めを吹いた。目を開けたまま。いけない、出だしがソでなく高音のドが鳴った。慌てた。失敗だった。
 ラジオを聞いていた女房から電話。「まちがえましたねえ」 里帰喇叭奇魂之神の祭主はまだまだ修養が足りない。合掌。
 ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成18年1月27日(金)
★ ふるさとネットワーク事務所
★「菅江真澄と由利本荘」3
★ 田口昌樹氏(菅江真澄研究会副会長)

 地震にあったのは琴丘町にいた時です。真澄は鳥海山から煙りがでていると書いています。 それから象潟地震のことも何度も書いています。

 真澄という人は科学者でもありました。実は医者でもあるんですが、蜃気楼のことだとか、隕石のこととか漁り火といった天然現象にも大変、興味を持って書いています。
 それから紅蓮せんべいといって、「かたいぶくろ」という随筆の中に書いていますが、象潟の商人と松島の商人が福島県の白河の宿で合い宿りして、象潟の商人に家には奇麗なお嬢さんがいると、松島の商人に家の息子が年頃だと、子ども達の知らないうちに婚約を結んでしまうんですね。象潟に帰ってきた商人は娘を連れて松島に行くんですけど、相手の息子はすでに死んでいたんです。小太郎という人だったんですが、ところがそのお嬢さんは「松島に嫁に来たのだと。たとえ相手が亡くなったとしても、この家に残って親孝行したい」と松島に残った話をここに書いています。
 松島の瑞巌寺の門前と象潟の蚶満寺の売店では今でも紅蓮せんべいを売っています。
 蚶満寺の芭蕉の木の向かい側に紅蓮さんを祭った石碑が建っています。松島の瑞巌寺の前に小さなお堂があって、ここで紅蓮さんを祭っています。そのすぐ近くのお店で紅蓮煎餅を焼いて売っています。その煎餅やさんに行って、象潟の煎餅やさんを知ってますかと聞いたところ、「佐々木さんといって今でも交際してます」といってました。
 それが縁で松島町と象潟町は姉妹町になっているはずです。
 そのことを真澄は紅連煎餅というかたちで書いています。

 それから大堤の桜ということを書いていますけども、真澄は実は由利郡に来たのは天明4年の時以外にないんですが、何故かしら大堤という、本荘の鶴舞公園の後ろにある大きな池です。
 春4月には霞がたって桜が咲いたようにみえるといって桜狩りという本の中に書いています。
あるいはもう一度、知らない間に本荘に来たことがあったのだろうかと私は思う訳です。
 それから代内(のしない)の禁忌ということを書いています。 代内とは大内町のずっと奥の小栗山という地域から奥に入った所で、そこに聖徳太子の木造を祭った太子堂があります。そこの氏子の人達が厳しい掟を守っていると書いています。
代内の人達は、茸を食べてはならないというきまりがあったとあります。私は大内町の知り合いに聞いたところ、確かに昭和の初め頃までには、茸は誰も食べなかったといっておりました。土地の人がいうのですから間違いないでしょう。
 これは真澄が、八沢木から代内に婿になった人がいて、麹売りをしていて、真澄はその麹売りと湯沢の宿屋で一緒になってそう聞いたと書いています。
 それから峯潟の浮島という話を書いています。この話はですね。日本海縦断道の岩城インターがありますが、そこから雄和町の高岡山に向かう道路がありまして、今は車も通れる道路です。その中腹に大きな池があります。昔の話ですけれども、峰潟という峰にある湖には浮島があったといいます。
 浮島というのは、例えば八幡平のあたりで草の根とかが固まってそれが島になるんですね。それが風に揺られて動くんです。
山形県の寒河江のあたりに今でも動く島があります。
 ほんとにあるのかと行ってみました。そして、自動シャッターで湖の浮島を写真を何枚が撮ったら、3bも島が動いているのがわかりました。島が動くというのは本当の話なんです。
 その峯潟に吉という名前の男がいて、占いをやっていたんですね。ある時、奇麗な若い女の人が現れて、その吉と仲良くなったんです。その吉の占いは午前中にはピタリと当たるんですね。何か失せ物とかの相談にいくと当たるんですが、午後になると全然当たらない。(笑い)
 それは吉という男の側には何時も娘がいて、吉に教えていた。その娘が実は峯潟に棲む大蛇であった。その話を真澄は亀田の商人から聞いた話として残しています。
 私はこの峯潟の所在地がわからなくて、亀田から雄和に越えていく道路沿いで、不動の瀧の近くにある沼がそうではないかと勝手に決め込んで、そこの写真を私の真澄の本に載せたんです。そしたらある人から手紙が来て、おまえの書いているのは間違いで峯潟はこっちだといわれて恥をかいてしまいました。
 そこで私は峯潟の確認にいったんですが、今行けば、岩城インターのところからちょっと行った所です。
 そういった話を真澄は由利本荘に関すること書いています。
 我青春風来記(140)
        早海三太郎
  下井草(11)

 大学4年の秋。キャンパスは文化祭で賑やか。法学部館での漫画研究会の部屋は行列で他大学の女子大生で一番人気。
 並んで中に入ってみる。側には女子大生の二村幸子さんが一緒だった。似顔絵コーナーがあって彼女に勧める。十分ほどで出来上がる。葉書大の紙に長い髪の彼女の顔が描かれた。なかなか似ていて綺麗だった。
 教室のパネルに貼られている漫画を見て、傑作なのはただ自分の通信簿を貼り付けたもの。名付けて「早稲田の可山優三」優が三個で可が山のようにある通信簿の意味。
 これには三太郎と同じだなと苦笑い。優良可の数は、一年の時はまじめに教室に通っていたから、十一個もあった。二年の途中にレスリング部を辞めてからは授業にも出なくなり、優がたった一個。三年の時も優が一個だった。ほんと。
 二年生と三年生の時の成績が三太郎は可山優一。漫研の部屋を出て、キャンパスを二人で歩きながら「可山優一では有名商社に入れるわけはないな」と彼女に話す。「どうせだったら四年の時も優一個を目指そうか」と冗談で言ったら、幸子さんは不安げに笑い、眼を下ろした。
 三太郎は早稲田祭で中南米研究会主催の「キューバは今」と題して大隈小講堂で講演。ほっとしたのもつかの間。もう一つ、文学部横にある記念会堂での舞台出演が残っていた。

 栗原健昇。同じ中西ゼミの同期。熊谷から電車で通う義を重んじる快男児である。将来は国会議員になって議事堂の赤絨毯を踏むと公言していた。その為、雄弁会に入会し、同志を連ねて幹事長選挙に立候補したが落選。そこで雄弁会を脱会して「ヴォイスオブワセダ」という訳の分からないクラブを作った。
 中西ゼミは優の数が多いまじめな学生か、出来は悪いが変わり者もいる多様なゼミだった。
 三太郎も栗原もできの悪い変わり者組で気があった。
 夏休みが終わり、三太郎はキューバから帰国し、秋田に帰省してからしばらくして、中南米研究会の部室に顔をだした。
 後任の幹事長の阿部君がいて泣きつかれた。早稲田祭への参加申し込みを忘れて、今年は出来なくなってしまった。OBにも顔向けできない。何とかなりませんかという。
「ばっかやろ。早稲田祭は運動部でいえば試合の場だろ。学園祭を目標に部員がみんな研究活動をしてきたんだろ。何ということを」と怒った。しょうがないが、何とかしようといった。 怒りながら栗原の作ったヴォイズオブワセダのことが頭に浮かんでいる。
(人の話を聞きながら、早合点して次のことを考えてしまうのは今でも小生の悪い癖。人の話しを最後まで聞かず、早とちりして失敗することがままある)
 三太郎は中西ゼミに出席して栗原を探す。授業が終わった後、頼みがあると外のベンチに連れ出した。早稲田祭でヴォイスオブワセダはどこに借りたと聞く。二十一号館の50人教室を借りていると聞き、中南米研究会に半分でもいいから貸さないかというと、いとも簡単に「いいよ」だった。
「その代わりおい、条件がある。早稲田座頭市という芝居をやることになっているが、人が足りない。おまえんところから三人出してくれ。お光役の女の子もいないか」だった。
 記念会堂。ここは入学式をやった所。東京オリンピックではフェッシングの会場になった。
栗原はこんな広い会場を借りて「早稲田座頭市」という芝居をやるという。三太郎はキューバのとある田舎町のカーニバルに浴衣を着て参加したことがあった。ある少年に「イチーッ」と声をかけられたことがある。何のことかと同行のキューバ人に聞くと、座頭市のイチのことだった。勝新太郎の座頭市の映画がキューバでは大人気だった。

 栗原はすでに台本を作っていた。三幕まであり、一幕は座頭市が早稲田という宿場の賭場で大勝ちする。二幕目は平手造酒が酒場でお光さんの酌を受けて話すシーン。三幕目が座頭市が用心棒の平手造酒と最後に戦ってやっつけて、はい終わり。
 栗原は当然主人公の座頭市、三太郎には平手造酒をやれという。お光役は、日本女子大のガールフレンドにお願いしたら振られてしまったという。お前のクラブから誰が出せという。中南米研究会には二人の女子部員がいた。阿部幹事長に彼女二人のうち誰か頼んでみろといったが、二人から固辞されてしまう。当然だ。ただ二年生の部員で一人、なよなよした男がいた。塚田徹(現在、弁護士)。
 塚田君を部室に呼び、中南米研究会の危機を救うのはお前しかおらんぞ、とかいって無理矢理、お光役を引き受けさせた。
 急場しのぎの舞台。稽古も二回しかやっていない。にわか役者達にその日が来た。(続く)
 呑 風 日 誌 抄
 7月1日(土)旧大内町公民館にて男の料理教室に出席。夕方、秋田市川反の秋田の瀧にて親友・渡部薫と一献。ほっと愛にて二次会。中学同級生の菊地秀治達と飲む酒は旨酒。
 2日(日)秋田ビューホテル。由利本荘ベースボールクラブの選手・岩見暢明君の結婚式へ。新婦も医療法人久仁会勤務。稲庭千弥子理事長の挨拶が素晴らしい。
 3日(月)旧岩城町天鷺村。岩城・亀田藩と仙台藩は歴史的に縁が深い。仙台藩志会のご一行をお迎えし岸野長一郎・岩城区長自らご案内。大歓迎を受け、にかほ市の旅館いちえに宿泊。
 4日(火)秋田市川反5丁目橋。川反観音像(仙台藩士慰霊碑)前で仙台藩志会のご一行と慰霊祭。この仕事は秋田の義として続けていかねばならない。
 5日(水)由利本荘市古雪町・善応寺。高校時代の恩師・早川寿助先生の葬儀。数学の試験が零点を取ったにもかかわらず早大OBでもある早川先生のお陰で高校を卒業できたのである。深謝。
 6日(木)ホテルアイリスにて村岡敏英氏と一献。社団法人本荘由利スポーツ振興会再建の話。レゲエを聴かせる若者の店「ブラス」にて二次会。
 8日(土)尊敬する秋田市土崎の田口勇先生宅。秋田南中学校前の湊家の江戸時代からの門の保存について相談を受ける。バウハウスの森川恒さんと現地調査。門構え、大きな土蔵も貴重な建物。
 旧岩城町亀田の旧藩祭りへ。アイリスにて村岡敏英氏激励会へ。佐々木市男氏とブルーシャトーで二次会。岡田邦雄氏(由利本荘市芸術文化協会会長)と久しぶり。
 10日(月)岩城支所にて浜辺の歌音楽祭実行委員会。出演メンバーがほぼ決まる。
 11日(火)岩谷事務所にて菊地八千男氏からみっちゃん勝手連の話。旧由利町の小浜商店へ。地域づくりの仲間・阿部久一氏へ。ふるさと塾の話。由利組合病院へ吉田久男先輩のお見舞い。本荘由利スポーツ振興会の決算報告を県教育委員会へ当方が行うことに。
 12日(水)昼、由利本荘市役所前の般若にて、柳橋和哉氏と本荘うどん。由利本荘ベースボールクラブ(YHBC)のホームページ作成をお願い。岩谷事務所にて松永豊氏、高藤基氏と一献。
 13日(木)バウハウスの森川恒氏と秋田市寺内のパズルリングにて名刺用の写真撮影。
 14日(金)県教育委員会総務課の三浦班長へ。本荘由利スポーツ振興会決算報告の相談。昼、清吉ラーメンを由利本荘市教育委員会の作左部直氏と。
 15日(土)夕方、旧大内町松本の西林寺にて弦楽四重奏の演奏会。チェロの須藤結子さんが浜辺の歌音楽祭にも出演される。
 16日(日)朝、瀧温泉へ。東海林順一会長から温泉水。早稲田橋の写真を撮る。由利本荘市のビーギャル内の勝盛食堂でカツ丼を食べ、鳥海球場へ。YHBCと王冠クラブと試合。後半逆転負け。
 17日(日)満員の横手スタジアム。母校本荘高校と秋田商業高校との試合。事実上の決勝戦に2対0で快勝。甲子園が近くなった。
 18日(火)秋田市の自衛隊から軍隊ラッパを引き取り、今村病院にYHBCのポスターを届ける。
佐藤孝之助さん宅に寄り、身体障害者協会に中国の民芸品を提供する相談。有り難し。岩谷・千洋にて、成田重文氏達と来夏、ホタルを岩谷の町にとばそうとの計画。
 19日(水)旧本荘市石脇の鞘師・齋藤正喜名人にラッパを渡し、英霊ラッパの祠を依頼。スダキ商事の須田晏正社長と高校の同級会の相談。グランドホテルにて商工会主催の異業種交流会総会に出席。小林工業の小林憲一郎社長達と二次会はゼロで一献。
 20日(木)HYBC事務所に県教育委員会の三浦泰茂班長、佐藤功一主査が来所。村上文男市議も同席。本荘由利スポーツ振興会の決算書報告についての指導。中竪町の須藤完宅へ。高校ブラバン同期でガンで亡くなった真ちゃんの実家。母上がお元気で仏壇に真ちゃんの遺影。涙が出てくる。夕方、駅前紀之国にて白沢会。鹿児島・知覧の特攻平和記念会に行く計画。
 21日(金)YHBC野球部長の武田弘氏の義父・阿部春太郎氏の葬儀に参列。秋田駅前のニュータケヤにて秋田ウラジオ会とハラショー会共催でウラジオストクの極東総合大学の学生二人の歓迎会。
 22日(土)こまち球場。準決勝。対秋田高校。13対1で圧勝。
 23日(日)こまち球場で決勝。対秋田中央高校。YHBCの工藤幹夫監督と応援。劇的9回裏、サヨナラ勝ちで2対1。18年ぶりの甲子園出場。感激、興奮大なり。
 24日(月)折渡千体地蔵祭へ。護持会総会にも出席。由利本荘市消防署へ。救急講習会幟寄贈の件。
 25日(火)スポーツ少年団大小屋キャンプへ。キャンプ場で保護者達と交流会。
 26日(水)早朝、菊地登さんと岩谷町の工藤新聞店へ。新聞の仕分けの手伝い。
 27日(木)昼、旧西目町のシーガルへ教育者研究会に出席。浜源にて県庁退職者会の総会へ。
 28日(金)由利本荘ふるさと塾。講師は元岩城町長・前川盛太郎氏。「浜辺の歌のまちづくり」前川語録「人は本当のことをいって本当のことをやる。それが人の心を打つ」いい言葉を教えられた。
 29日(土)岩谷事務所にて秋田ふるさとづくり研究所の事務所開き兼里帰喇叭の鎮座祭。二階で芋川塾、講師が佐藤貢先生「芋川の話」20人程集まっていただく。
 31日(月)本荘鶴舞公園にて本荘高校野球部の甲子園壮行会に出席。健闘を祈る。応援に行きます。