ふるさと呑風便  NO,207   06/7
   夢子さん
   
 「赤信号みんなで渡れば怖くない」といったのは日本人ではなくて、上海の通訳・陳錦華氏だった。今から23年前、昭和53年の冬の上海。まだ中国人が皆、人民服の時代だった。
 私たち秋田県茸栽培業中国研修団一行24人を乗せたバスが上海の繁華街・南京通りを走っている。人民服の群衆は信号を全く無視して横断する。ピーピーピーと車はクラクションを鳴らしながらノロノロ運転。せっかちな日本人乗客がイライラするのをみて、ガイド兼通訳の陳さんは「赤信号みんなで::」といって私どもを笑わせた。彼は、日本の流行語をちゃんと知っていたのだ。
 この若者はただ者ではないと感じ、彼を中国での友人としたかった。私は視察団の秘書長として、彼をホテルの部屋で3日間、何回か打ち合わせをしながら反日感情などについて聞いた。 彼は親の反対を押し切って上海外国語大学で日本語を選考したという。将来は日本との関わる仕事をしたいというのが彼の夢だという。打合せをしている間、密告を恐れてか、彼は部屋のドアを開けたままにしていた。

 その陳さんとの再会は15年後の東京渋谷。拙書「青春・旅・故郷づくり」の出版記念会の会場だった。
 陳さんは日本に留学した後、日本で就職し、コネクトジャパンという会社の社長になっていた。帰化して東という姓に。いつか、秋田に彼を招待して、茸研修団の一行との再会を約した。

 23年ぶりの中国茸研修団の同窓会は6月16日。副団長だった齋藤作圓氏が経営する由利本荘市西目町のハーブワールド秋田で開かれることになった。
 中国研修団の一行24人のうちすでに4人が亡くなられている。
 秋田駅。6月16日。陳さんを出迎え。奥さん同伴だった。彼女の日本名が夢子。上海の大学で同級生だったと紹介される。 7号線を南下し、由利本荘市西目町へ走る。車中、夢子さんが鳥海山の話をする。
「私たちの恩師が真田先生といって、秋田県出身で、よくおしゃっておられました。日本には鳥海山といって奇麗な山がある。日本に行ったら是非、登って欲しい、だったんです」
 それはいい話。だがこの日はあいにくの曇り。由利本荘市に入っても麗峰鳥海の姿は雲の陰だった。西目町での同窓会で陳さんは出席された佐々木秀綱元団長達と感動的な再会を果たした。ご夫婦の宿泊は岩谷町のポポロッコ。彼らに明日、鳥海町で鳥海山ウオーキングがあるが一緒に行きませんかと聞くと、是非という。
 翌朝、快晴。旧大内町大谷地区を走る。車窓から見えた。頂上に雲がかかっているが、美しく雄大な鳥海山が姿を現した。
 二人は歓声を上げた。
 旧鳥海町の法体の滝に案内。休憩所で夢子さんの夢を聞いた。「中国の農村で正しい歴史を教える学校を作りたいのです」と熱っぽく語る。

 6月30日。大型封筒が届いた。夢子さんからである。
「お陰様で大学時代の夢も一つ叶え感動を覚えました。同封の拙論を差し上げますので、どうぞご笑納くださいませ」とある。
 その論文集は、「横井小楠に関する一考察」、「横井小楠と幕末の福井藩」「幕末の政治における水戸藩の役割とその変遷」と書かれた冊子三冊。留念、李雲(夢子)と書かれている。
 恐れ入って、後でゆっくり読ませてもらいますと、鳥海山をバックした東夫妻の写真を同封して夢子さんに送った。
 本当の夢とは何になるか、のではなく、故郷の為に何をするかにあるのだと教わりました。 夢子さん、ありがとう。
 ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成18年1月27日(金)
★ ふるさとネットワーク事務所
★「菅江真澄と由利本荘」2
★ 田口昌樹氏(菅江真澄研究会副会長)

 皆さん、マラリアという病気をご存じでしょうが、真澄はそういう病気だったんです。一月にいっぺん高熱に襲われ、頭がフラフラッとくる、そういう病気でした。
 真澄の日記をみると、今日もうらぶれてとか、調子が悪いとかそういうことをいっぱい書いています。それだけに真澄は身体に気をつけていました。
 76歳まで生きたわけです。病気だからこそ、身体を大切にしたのではないかと思われています。
 真澄は矢島に3泊か4泊しています。ハタハタの魚を見ているんです。「他の国では見かけない魚である、このハタハタという魚は冬の空がかき曇って海が荒れて、雷がなったりすると喜んで群がってくるという。そのせいかハタハタ波といっている」これが真澄がハタハタを記した最初の記録です。
 後のことですが、八森で真澄はハタハタ漁のことを詳しく書いています。
 こういった具合に真澄はハタハタのことを書いているわけですけど、真澄は実は象潟の上郷の方を通りたかったんです。
 奈曽の白滝のところに橋があります。白橋といいますが、これが実は昔の歌枕の土地なんですね。そこを通りたかったんですけど、冬になりつつあるところで危険だと思われたのでそこを通れなかったのが情けないとも書いています。
 で、ついでのことながら矢島のハタハタ売りは仁賀保の方から来たのだと書いています。
 それから次の鳥海町の伏見に行くわけです。伏見では大変面白いことを書いています。
 乙女たちが薪をくべ、ぬまだという木の皮を糸に結って、袋を作るといってこれをつむじというものに巻き、手しろでしりまわし、また藤蔓を糸によるといって、夜なべ仕事をしている。
 この手しろの音ばかり枕に響いてくると思ううち眠れずに鶏が鳴いた。ま、こう書いているわけです。その下に糸車の絵を描いています。これは真澄が伏見で見たものではなく、岩手県の胆沢郡で見た糸車です。
 私も貧乏農家の生まれだったんですけど、私の祖母、今生きていれば130歳にもなっていますが、そのおばあさんがこういう糸車をまわしていました。
 乙女らが共同作業をしているんですね。これは素晴らしいことだと思うんです。単純な仕事は一人でやってもさっぱり進まない。皆んなで集まってガヤガヤ、ワイワイやってやると仕事がはかどると思うんです。
 私も子どもの頃縄ないとか、炭俵を織っていましたけど、こういった仕事はガヤガヤやったほうがやりやすいと思っています。真澄はこういったことが大分好きだったようで、湯瀬でも糸を縒る仕事を女達が集まって、膝を露わにしてやっていたと書いています。
 真澄はその晩、眠れなかったと正直に書いています。こういった具合に共同作業のことを真澄はしょっちゅう書いています。
 こういったことが印象的だったのだと思うわけです。
 ここでは何故かしら、川の水が増水してなかなか川を渡れなかったと書いているんですけど、それはいいわけではないかと思います。いずれにしろ二、三日すぎて、6、7、8、9と4日過ぎて4泊しているんです。
 道がついたというので、舟に乗って、伏見という所は百宅(ももやけ)の方から流れている子吉川を一回渡って、それからさらに笹子の方から流れる笹子川を渡って、西馬音内の方に行くんです。真澄はおさばしという木材をハジゴのように並べて編んだ橋を渡ったと書いています。
 八木山という所が今もありますけど、そこの手前から山を越えて、西音馬内に行くわけですけど、その時に真澄は、越中の国から来た薬を商う男二人と一緒に行ったと書いています。
 越中の薬売りとは今、富山の薬売りの人たちのことですが、二百年も前にすでに山越えをしていたんですね。真澄がここに4泊もしていたということは、薬売りみたいな人が峠を越えてくるのを待っていたのではないかと私は思います。
 いずれ何かしらの連絡があって、薬売りがくるはずだと伏見の宿の人が覚えていたのではないかとそう考えています。
 今、夏だと車で通れる道路ですけど、当時は雪の中を自分の足で行かなければならない道路であった訳です。
 鳥海町は当然、矢島藩領であったし、西馬音内は秋田藩領であった訳ですので、その道は抜け道なんですね。正式に西馬音内に行くためには笹子の方を行かなければいけないのですが、真澄は近道を通っていったのだと思います。
 その国境の所に十字架のような柱があったといいます。そこには田畑の物を盗み取った者はこの柱にくくりつくべしと書いてあったとあり、そこに真澄は絵も描いています。今、そこの村を田茂沢といい、今、5、6軒あって、真澄が行った時は3軒の村であったとあります。
 それから次の日に、西馬音内に着いたんです。そして早速、市場を見学するんです。この市場の模様が真澄の話をする時にでてくる話で、秋田南高校で国語の副読本を作るときに、この場面を載せております。
 
 ここに秋田弁をいっぱい並べてますので読んでみます。
 「今日はここのまちである。市のたつことをまちという。さけのしずこ、なにかと商う棚のうえからサケの頭一つ結んで蓑の袖に隠したのをあるじの女が見つけてどす(人を罵る言葉又はしら人、こくみの病のあるのをどすといっている)盗人、取ったものを出せ、いや知らない、煙草を吸おうと家に入った隙に手をさしいだし、たしきに隠れて、ものの隙間から覗くのをいう、すき見である。「が」と書いてますが、私はうえに「ん」がついて、んがっといったと思います。
 真澄は「ん」が聞こえなかったと思います。(笑い)
 下擢女などの普段の言葉である。おまえという意味、んがが取ったのだ。だいの銭だせ、はたらずともやるよ。はたるというのはせめることである。このような古い言葉を残っていたのをこのいさかいで、今聞いたのもおもむきがあった。夕暮れ方から風はやみ、さかんに降りしきり、そぎたが朽ちて屋根が荒れていたので、ひどく雨漏りし、あちらこちらといる所もなくなり、寝床を移して蓑を着て、笹の松明、まつやにのすしだけを巻いて灯火とした。これをまつやにといい、又笹松明ともいった。これを灯して、囲炉裏近くに寄った。風が荒々しく家をゆすぶるので、多くの家から起き出した人が、この風しずまれと叫ぶ声が聞こえた。私が蓑を着ているのをみて、ぬしの老女があきれて履き物も笠もつけなさいといった。夜も明けようというところになって、しばしの眠りについた。
 私は真澄が泊った家の有様が面白いと思います。
 この家は、そぎいたというのは天井板のことなんでしょうか。屋根から雨漏りする家で、今、その家があるかどうかわかりませんが、真澄の初期の旅はこういった庶民というより、貧乏人のような家に泊っています。真澄はここに4、5日泊るのですが、秋田弁の習得に努めています。その当時は、秋田の人と真澄はなかなか話が通じなかったと思うんです。それで真澄は書いているんですが、皆さん、せなあぶりというのを聞いたことがありますか。
 しゃっこいとかそういう言葉をいっぱい並べています。じじ、おば、どど、とかそんな段階ではなくて、すごい秋田弁を書き並べているのが西馬音内以降の雨漏りする家に泊った時のことです。
 
 ここで由利郡内でのことが終わっています。
 真澄という人はずっと昔のことを思い出して書く、記憶力の天才なんです。随筆集も書いています。その反面、前向きなことは出来ない、何でもかんでもできる人ではないようですが、記憶力はすごいと思います。
 「ののとをまくら」という随筆の話ですが、天明4年に真澄が、象潟の岡田旅館と書いていますが、本当は岡本です。岡本といえば皆さん、焼鳥で有名ですから知っていると思いますが、ここで真澄は浄土真宗のお坊さんと一緒になるんですね。
 この随筆集のなかを見ると、その浄土真宗のお坊さんは雨が降っているのに、秋田に行くというので合い宿りしているんです。他の人達も、雨降りに秋田になんか行かないで象潟に遊びにいったらとか勧めるんです。そしたらそのお坊さんは、遊びにきたのではない、秋田城下の天神林の某という家に親鸞上人が使った枕がある。その枕を拝みにきたのだから出発しなければならないといったと書いています。
 真澄がそれから30年ほど過ぎてから、秋田の久保田に来たんですが、天神林の家に行って親鸞上人が使った枕があって、天明7年の年にあるお坊さんがそれを買っていったというんです。
 それで、真澄は考える訳です。真澄が象潟で泊った一緒になったお坊さんと会ったのが天明4年、真澄が聞いたのは天明7年ですから、象潟で会ったお坊さんが果たしてその枕を買っていったのだろうかと心配して書いているんです。すごい記憶力なんですね。3年という時の移りもちゃんと覚えているんです。
 こういった具合に「ののとをまくら」に書いています。
 それから象潟の浦という随筆も書いています。これは鳥海山が噴火したのは、享和元年(1801年、象潟地震が起きたのは文化元年(1804年)で4年の間がある訳です。真澄が象潟を訪ねた時は、当然、水が満々とたたえられていました。芭蕉と同じ風景をみています。(続く)
 地震にあったのは琴丘町にいた時です。真澄は鳥海山から煙りがでていると書いています。それから象潟地震のことも何度も書いています。
 真澄という人は科学者でもありました。実は医者でもあるんですが、蜃気楼のことだとか、隕石のこととか漁り火といった天然現象にも大変、興味を持って書いています。
 それから紅蓮せんべいといって、「かたいぶくろ」という随筆の中に書いていますが、象潟の商人と松島の商人が福島県の白河の宿で合い宿りして、象潟の商人に家には奇麗なお嬢さんがいると、松島の商人に家の息子が年頃だと、子ども達の知らないうちに婚約を結んでしまうんですね。象潟に帰ってきた商人は娘を連れて松島に行くんですけど、相手の息子はすでに死んでいたんです。小太郎という人だったんですが、ところがそのお嬢さんは「松島に嫁に来たのだと。たとえ相手が亡くなったとしても、この家に残って親孝行したい」と松島に残った話をここに書いています。
 皆さんご存知でしょうが、松島の瑞巌寺の門前と象潟の蚶満寺の売店では今でも紅蓮せんべいを売っています。(続く)

  呑 風 日 誌 抄
 6月1日(木)JA秋田しんせいにて馬鈴薯研究会出席。夕方、秋田駅前人情酒場久保田。水墨画家卓吾氏と秋田県空手協会副会長の片野裕氏と久しぶり酒。お互いの実質仲人同士。
 2日(金)こまち球場。クラブ選手権予選。対経済法科大クラブに6対2と快勝。初の一勝。東海林太郎音楽館に燕尾服が届く。マネキンに着せシンボルとする。
 3日(土)こまち球場。去年の覇者・ユーランドクラブと対戦。途中までリードしていたが11対4で逆転負け。スタッフで由利本荘市の一平にて反省会。
 4日(日)折渡峠に登り観音様の寝姿に見える山脈を写真に撮る。旧岩城町・天鷺村の岩城歴史民族資料館の斎藤雅子さんから亀田藩と仙台藩との縁を解説して頂く。
 5日(月)東由利町支所教育委員会へ。八塩登山の写真御礼。午後、岩城町支所にて浜辺の歌音楽祭実行委員会。
 6日(火)旧由利町の佐藤時男さん宅へ無臭大豆・鈴さやかの種2キロを届ける。木内忠一さん宅に寄り、作左部医院の昇先生に由利本荘ベースボールクラブのチームドクターにと依頼、ご快諾。
 夕方、一平にて由利本荘市企画調整部長・渡部聖一氏と地域づくり推進機構の佐藤利明氏、中村良三氏と一献。
 新田・美佐子食堂へ無尽講6日むつみ会へ大内睦子社長贈呈の秋田銘菓・金萬をどっさり持参して出席。皆、歓声を上げる。
 8日(木)赤田大仏の長谷寺にて遠藤賢蔵氏の葬儀。この春、4月に会ったとき我が家の家系図を作ってくれるとの約束したばかりだった。(合掌)夕方、秋田市川反・秋田乃瀧にて東京の学友・若林正彦とソルーションシステムの佐々木伸一社長と一献。ほっと愛にて二次会。
 10日(土)象潟町中島台へ。大内チャレンジ塾。ブナの奇木の森。濡れた木道を下って転倒。デジカメ損壊。本荘駅前の美ゆきにてNTTの幼馴染み畠山公一君と一献。
 11日(日)協和球場・対能代松陵クラブと対戦。8対5にて勝利。二勝目。旧本荘市の事務所にて事務局会議。
 14日(水)由利本荘市議会一般質問を傍聴。西目農業高校野球部OB会会長の佐藤賢一市議に由利本荘ベースボールクラブ理事長として挨拶。
 16日(金)元中国人通訳だった東錦華氏を秋田駅に出迎え。奥さん夢子さん(日本名)同伴で、彼女は東大大学院で幕末史を専攻とのこと。柳田弘由利本荘市長へ表敬訪問。夢子さんの叔父が由利本荘市と姉妹提携している中国・無錫市の投資顧問をしている。この縁を生かしたい。
 西目町のハープワールドあきた。23年前の中国茸栽培業研修団のメンバー10名の前で、東社長が「日本と中国の橋渡し」と題して講演。交流会後、宿泊地・岩谷町ポポロッコへ案内。
 17日(土)東夫婦と鳥海町のはつらつ鳥海ウオーキングへ。佐藤定樹氏の案内で二人は念願の鳥海山を歩く。岩谷町に戻り、福寿司にて一献。
 農業改善センターにて竹中真ジャズピアノライブ。ジャズラシックがいい。千尋にて打ち上げ。成田重文氏達と良き出会い。
 18日(日)遊学舎にて県助成金のプレゼンテーション。浜辺の歌音楽祭の三浦祐子実行委員長達と音楽祭は地域づくりの一貫と強調したが選考に漏れる。夕方、本荘駅前の美ゆきにてソリューションシステムの田口正紀君と一献。
 20日(火)雄和町の工藤清一郎秋田県交通安全協会長宅へ。退職挨拶。ご教導を賜る。 
 21日(水)山村活性化センター。小松正市先生の葬儀。考古学を教わった恩師。(合掌)
 22日(木)親戚の旧大内町長坂・伊藤正明氏宅。亀田町の佐々木医院へ。佐々木忠郎記念図書館から亀田藩戊辰史を借りる。滝ノ俣・前川盛太郎ご夫妻に挨拶し、夕方、旧本荘市・松ヶ谷にて白沢会。
 23日(金)朝6時。ホテルアイリスにて倫理法人会。三沢市の佐々木直氏の講演が」最高の親類は信頼できる人」
 夕方、東町のベースボールクラブ(YHBC)の事務所開き。
 秋田ふるさと塾。講師は元秋田テレビの根田昌治氏「農楽舎で田舎暮らし」定年後の公約を実践中の彼は偉い。
 24日(土)大内地区公民館主催の「男の料理教室」鈴木宏規先生からエプロンを借りて出席。東海林太郎音楽館で燕尾服の写真を撮り、東京の芸術保存会へ送る。
 25日(日)秋田大学留学生会館。男鹿の「ホテル帝水」菅原女将ご配慮のマイクロバスに乗り、韓国留学生達と里親計24名の男鹿観光旅行。高桑賢二船長のご好意により無料で観光船に乗船。深謝。
 27日(火)バウハウス。写真撮影と秋田南中学校前の江戸時代からの門保存の相談。 
 28日(水)東海林太郎の従兄の娘・河村愛子さんを東海林太郎饅頭を持って本荘第一病院にお見舞い。秋田美術工芸短大の石川好学長へ村岡敏英氏と。北前船回廊構想は物書きの直感とのこと。由利本荘市での講演をお願いする。
 29日(木)旧岩城町のウエルサンピアでの戦友会・離石会にお酒を届け、秋田市山王・夢幻海。東京6大学秋田野球連盟理事会。小生の慰労会。結成20周年試合の相談。10月に計画を進める。
30日(金)退公連大内支会(原田銀三会長)の総会。岩谷会館。夕方、本荘駅前・美ゆきにてYHBCの応援歌作詞(柳瀬三郎氏)作曲者(佐藤倉太郎氏)と作左部昇チームドクターの歓迎会で7月16日の鳥海球場にベンチ入り要請。