ふるさと呑風便     NO,206   06,6


    
恩師
   
 ふるさと由利本荘に戻って嬉しいこと。美しく雄大な鳥海山が見られること、清吉の中華そばが何時でも食べられること。
 そして恩師が身近にご健在なことである。
 ところが、中学時代の恩師が・・・。

 国道7号線を旧本荘市に向かって走っていた。麗峰鳥海山が目前に見える。そこへ家内から携帯に電話。佐々木勝敏先生の奥様から連絡があり、先生が昨日亡くなられた、私宛に手紙が残されているという。胸が痛んだ。急ぎ、車を止めて奥様へ電話をした。お話だと私宛の書きかけの手紙があり、弔辞を読んで欲しいとことだった。勝敏先生は不肖の教え子に何を伝えたかったのだろうか。
 5月19日。由利本荘市平岫の恩師宅。4月末に訪ねたばかり。

 弔辞 
 佐々木勝敏先生。
 上川大内中学校時代の教え子の一人として、御霊前にお別れの言葉を申し上げます。
 先生。世は無常です。去年の正月、還暦祝いの席で秀三郎先生と一緒に万歳三唱をやったばかりでしたのに。
 ふるさとを横にでた者として、恩師が郷里でご健在なのは教え子として心強く思っておりました。これからもご教導を頂きたかったのに残念でなりません。(中略)
「ふるさとを愛する者は ふるさとの土になれよとなく 閑古鳥」という帯屋久太郎の有名な歌があります。
 ふるさとにみっちゃんコールがあると何度もいわれておりました。(中略)
 合併なった由利本荘市に帰ること決意して、ある本を読んでいたら、記憶にある詩が飛び込んできました。
 きてき 

 あの汽笛
 たんぼに聞こえただろう
 もうあばが帰るよ
 八重蔵 泣くなよ
 
 あつ、この詩は中学校時代に勝敏先生から習った詩だ、黒板に書かれた詩が思い浮かびました。これはきっと、私にこの詩を読めと病床の先生から暗示があったにちがいありません。その優しさに心がうたれます。
 人間、大切なことは優しくあることだと教わりました。
 先生の優しさが身に染みております。
 先生。短歌を詠まれる先生に、弟子にしてくださいと由利短歌会入会したことがありましたね。結局、私は一首も投稿せずに自然退会となりました。お恥ずかしい次第です。
 今日はお詫びのしるしに、ない頭をしぼりだして、一首を献上したいと思います。
「ふるさとに帰ってこいという恩師 薫風残し旅に発たれん」
 先生、長きにわたり公私ともども大変お世話になりました。誠にありがとうございました。 先生の教え子だったことを誇りに思います。どうぞ安らかにお眠り下さい。
 
 弔辞を読んだ後、奥様から白い封筒を渡された。切手が貼られていた。便箋を取り出して読んだ。″ふるさと呑風便″の第一ページ「定年」を家内ともどもじっくり、ゆっくり何度も読んだとあり、私への「迷いことば」だとして、最後に次のような歌が添えられていた。
※職退けどつながりてくるテレフォンに公務のくせをや残しおけ
※ ※の次が白紙になっている。 もう一首を書かれた後に、私へ手紙をだそうとされたのだろうか。
 胸が熱くなった。もう一度読もうとしたが、字がかすんで、読めなくなってしまった。
 ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成18年1月27日(金)
★ ふるさとネットワーク事務所
★「菅江真澄と由利本荘」
★ 田口昌樹氏(菅江真澄研究会副会長)

 一昨日、誕生日でした。モーツアルトより225年後に生まれまして、ちょうど70歳と二日目になります。
 私は銀行とラーメン屋と博物館に42年間の月給取りでした。
そのうち4分の一、十一年間を由利本荘の矢島町の支店に4年、金浦町の支店に7年、勤めさせて頂きました。そういったことでこの由利本荘地区はとてもいい所だと思って、毎年春には山菜採りに来ております。どうかよろしくお願いします。
 私の長女が本荘高校で、長男は仁賀保高校の第一期生です。そういうことでこちらの方は第二のふるさとだと思っております。(拍手)
 本当のふるさとは河辺町です。

 菅江真澄と由利本荘というテーマを与えれました。この表紙の絵が象潟と鳥海山の絵です。
真澄という人の著作の特徴は、文章の足りないところを絵で補っています。真澄の絵は本屋で買う本ではみな白黒ですが、本当はみんなカラーです。この鳥海山と象潟の絵はおそらく、32歳の時に描いた絵です。
 最初は絵が下手で、北海道に行ってから絵が上手になったといわれております。
 真澄の著作の特徴は、文章に中に絵を描き、絵の中の余白に文章を書くといって、読む人にわかりやすくなっています。
 鳥海山の絵の中に文章を書いていますが、真澄はこちら、由利本荘にいい言葉を残しています。「世の中に富士に等しき山がこの鳥海にきわまりたり」と書いています。
 世の中に富士山に似た山はたくさんあるけれども、その一番目が鳥海山だという意味にとれる訳です。こういった具合に真澄は、決してその土地や、人々のいいことを必ず取り上げ、決して悪口をいわない人でした。
 こういった性格は、47年間も旅の人でしたから、めったに人を批判するということはしません。その土地や人のいいところだけを取り上げるという人でありました。
 菅江真澄は32歳の時にはじめて、山形の庄内から三崎峠を越えて秋田の小砂川という地に足を踏みれています。天明4年(1784)9月25日です。
 その時の日記が、秋田のかりねといいます。真澄は書いた内容は簡単でわかりやすいのですが、文章と文字がまるきり反対で、難しい漢字と難しい文章で書くんです。これは真澄だけでなくて、江戸時代に国学者と呼ばれた人たち、例えば賀茂真淵、本居宣長という人たちは擬古文といって自分たちが生きた時代よりも千年程前の文章、源氏物語や徒然草のような文章で書くんです。これが江戸時代の国学者といわれる人たちの常識だったんです。
 それで真澄は由利本荘でどんなことをお話したかといいますと、時々、原文と現代文と並べて書いてあります。参考にしてください。いかに簡単な、どうでもいいことを難しい文章で書いていることをご理解頂けると思います。
 まず最初に山形・今の遊佐町吹浦のお寺に泊った時に有耶無耶の関の話の起こりを書いています。
 そこで真澄は三崎峠を越えた訳です。ここでは現代文のところを読ませてもらいます。
「ここの関所に入り、酒田で用意した関手形をあらためて、旅人をとおして鳥崎の浜、滝の浦を歩いて女鹿の関にいたる。関手形を渡して、椿ばかり生え茂っている岩面の道に入り、やがて下って三崎坂にでた。慈覚大師のお堂は、疱瘡やはしかを軽くすませて守るというので、孫のために詣でる人が御前にうづくまっていた。この御堂の下には手長という毒蛇にとられた人の屍がたくさんあったが、今は岩がおち重なって見えなくなったという。手長は水の術も持っていたのであろうか。海に入って行き交う船もおとしつめた。世にも恐ろしい怪物であったと語り伝えられている。坂の半ばを下ると、慈覚大師の御足の跡というのがあり、その表に蓮の花が開いた形と同じだと道いく人が指さして通っていった」
 ここで面白いのは、関手形を酒田で用意したということなんです。江戸時代の旅は、菩提寺で発行する身分証明書を持っていなければならないということと、その近くの町で発行する手形なるものを用意しなければならなかったということがこのことから分る訳です。
 この関手形を得るためには、なにがしの謝礼を払わなければならなかったようです。
 真澄は大館の矢立峠を越えるため、碇ヶ関の関所を通る時、この手形ではだめだと弘前に戻って新しくもらってこいと帰されたという記録があります。
 国境には二つの関所があり、秋田県境の三崎峠には女鹿と小砂川の辺りにあったと思います。
 そういった形で通ってきたんですね。真澄は実は小砂川に25日の日に泊って、天候が悪いので宿の主人が、象潟まで俺が一緒に行ってやるといわれたんです。ここで面白いのは小砂川に来たとき、ちゃんと紹介状を持ってきているんですね。
「人の手紙で示された小砂川という磯辺の家に来て、手紙にある名を尋ねて入るとしら豆を折敷に盛ってさしだした。・・・主人がいうには、私の生まれた村は、過ぎてこられた庄内のおこしやすめというところであったが、ここに養子に来たのだといった」
 こういう話をしているのですが、今、象潟の蚶満寺の門前のガソリンスタンドをやっている伊東さん、あの方の先代の方と仲良くしていまして、自分の先祖でおこしやすめという所から婿に来たという人がいたそうです。自分が子どもの頃は、そちらの方からワラビ取りによく来たものだという話をよく教えてくれました。
 あそこの家で和田さんという亀田に婿になった先生がいましたけど、その人は蔵を見てみたが真澄が泊ったという記録はなかったと笑っていってました。
 おこしやすめという所は、羽越線の南鳥海という駅があります。その近くを日向川という川が流れており、その川は昔、渡しであったんです。その渡しのことを真澄が書いている訳です。
「綱を引く舟のある川の村からかと問うとうなずいた。往来の端ですでに寝ている家の戸をたたいて舟をだせという。戻ると又、舟を呼ぶ声がしきりで、人ごとにおこしやすめじといったのが、やがて村の名となった」と、真澄らしい解釈ですが、こういうことを書いています。
 3日後、28日に象潟に着く訳ですけど、真澄はここで文化人ですので、すぐ歌のこととか、芭蕉のことを書く訳です。色々歌のことを書いております。

 次に面白いのは、かみながという遊女がいたという話を書いています。遊女のことを書くのは現代の人は不謹慎ではないかと思いますが、真澄という人は遊女の存在を肯定も否定もしてないですが、遊女の実態をよく書いています。
 隣の部屋ですね。障子の向かい側と書いています。そこでは遊女が酒を飲んで酔っぱらって泣いていたと書いている訳です。真澄は秋田県では能代と男鹿の戸賀、それから昔の比内町の鉱山なんかで遊女のことを書いています。私が遊女のことを書くとスケベとなるのでしょうが、真澄は社会の底辺にいた人達の存在を温かい目で取り上げているのだと私は解釈しております。こういった面が真澄にはあるということです。
 遊女だけでなくて、乞食のことも書いています。例えば秋田の八橋に宝塔寺というお寺がありますが、ここは昔、桜の名所で、ある乞食が花を見て、一般の人達と一緒に歩いていたところが、他の人たちが乞食も花見をするのかといったというんですね。そしたらその乞食は、「こも着ても同じにおいの桜かな」という俳句を詠んだと書いています。
 こういった具合に真澄は社会の底辺に生きた人たちのことに決して軽蔑のまなざしでなくて、同じ人間として遇しているのだと私は考えています。
 
 最後に真澄は象潟から本荘に向かう訳です。金浦、仁賀保、西目を通って本荘という里にいぬと書いています。
 そこの女主人が、灯火を取り出し、私の袖の濡れたのを見て、焚き火のそばに袂を乾かしてお休みなさいとねんごろにいった。今のホテルでこういった具合にしてくれましょうか。
 いずれ、その当時に人たち、旅籠やの女将さんは、そういった態度で案内をしてくれたと書いています。
 それから昔の由利町を通って、前郷に一泊して、何という家に泊ったのかわかりません。前郷では真澄が歌を二首詠んでいます。前郷の文化財保護協会の人達がそこに真澄が詠んだ歌を解説した案内板を立てております。
 西目の浜、昔は浜の方が街道だったようで、そこに西目町教育委員会で真澄の標柱を立てています。それからもう一つ、象潟の岡本旅館が真澄が泊った旅館なんです。今もやっているかわかりませんが、そこにも真澄が泊った場所だと案内板が立っています。確か昔、岡本さんは、駅と7号線の交差点辺りで焼鳥屋をやっていましたが。
 そういって来ながら、真澄は前郷から矢島に着いたんですね。
そこに着いたのがもう10月の3日です。旧暦で書いていますから、水はみな、凍っていたが空は暖かく、いわゆる小春日和であろう。今日は旅の疲れであろうが気分がすぐれず、昨夜の家に休んだ、とこう書いています。
 真澄という人は実は病人だったんです。(つづく)

 呑 風 日 誌 抄
5月1日(水)彌高神社の宵宮祭。彌高太鼓の演奏に桜が美しく。 
 2日(火)由利本荘ベースボールクラブの高瀬主将他4人が秋田市の自宅に泊まる。5人とも彌高神社に参拝し、19歳の落合選手はジュースで乾杯。
 3日(水)5人の選手達は6時半に八橋球場へ。8時半試合開始。公式戦初試合だ。女房と応援。JR秋田に佐藤健投手が好投し、何と2対1で8回までリード。しかし、8回裏に猛攻を受け、8点も取られてコールド負け。応援団のトロンボーン娘の尾留川幸さん達を山王のティーランカに誘い、セイロンカレーで昼食。 
 4日(木)実家の新田神明社の早朝掃除。旗立てを手伝う。岩谷の事務所に横幅150aの水槽を運ぶ。夕方、農村活性化センターで宵宮祭・皆と一献。
 5日(金)朝、家内と娘・江津子を迎えに秋田空港へ。サクランボの苗木日本を買って実家に寄り一緒に滝温泉へ。東海林順一会長に挨拶。岩谷町新山神社に参拝。息子洋平も呼び、本荘市のグリルカインドへ。幼馴染みの工藤貢シェフのさすがの味力。美味満腹。
 6日(土)本荘公園・終身館にて「本荘公園のたんぽぽ」と題して南中生徒の発表を聞く。公園内の日本タンポポの群落を見る。セイヨウタンポポより、湿地に生える在来種は強いとのこと。夕方、高橋食堂にて無尽講に出席。名前を六日むつみ会。人の悪口を言わず睦み合うことが会則。
 7日(日)由利本荘市役所前。バットの木・アオダモの植樹会。村岡敏英氏と由利原高原の水源の森へ。由利本荘ベースボールクラブ(YHBC)の地域貢献活動の一環。武田弘野球部長他選手達も参加。木を植える人々の会の皆さんと二百本のアオダモを植樹。YHBCの佐藤定樹次長と清吉ラーメン。今日が命日の幼なじみ故佐々木勇宅へ。洋子夫人から色々と話を伺う。遺影が笑顔に代わっていて安心。
 8日(月)午後、岩城支所にて浜辺の歌音楽祭実行委員会。9月24日、岩城会館にて開催決定。岩谷事務所に
元秋田大学新野直吉学長先生から「秋田美人の謎」が贈られ、嬉し拝読。
 10日(水)旧大内町三川の菊地建設。菊地神社の例祭へ。仲人だった初代社長・菊地留吉大人命(うしのみこと)、工藤順二大人命(2代目社長)菊地久夫大人命を祭っている。ぽぽろっこにて直会。懐かしき方々と会えた。
 11日(木)秋田市油田の水墨画家・卓吾氏を迎えに行き、由利本荘市岩城の道川海岸に案内。成田為三が浜辺の歌を曲想された浜をスケッチ。清吉ラーメンを食べて葛岡のかすみ温泉のかすみ桜にも案内。阿部力先生宅の博物館に案内して一献、最後に秋田市の早田貫一画伯へ案内。
 12日(金)東海林太郎音楽館へ。県庁女子OB会の一行が来館で案内。大口寄付をして頂く。深謝。
 13日(土)大仙市高梨の池田邸へ。池田家16代目池田泰久氏から無臭大豆・すずさやかの種を20キロ購入。由利本荘地区でも無臭大豆の普及を図る。
午後、秋田市泉のコスモスホール。恩師向山清先生の奥様・タキさんのお別れの会。直会の最後に向山先生が吉永小百合さんの「寒い朝」を流される。
 14日(日)旧本荘市・アクアパルから、歩こう会の総会前に子吉川沿いを歩く。総会に出席後、東由利の黄桜祭り。道の駅の田子作にて田子作うどん。
 15日(月)高橋幸雄氏と中館の凧作り名人・堀清太郎さんを訪ね、メダカ50匹を頂き、水槽に放流。
 16日(火)午後3時。仙台藩志会の木名瀬敏正氏ご一行4人を旧西目町のハーブワールドにご案内。夕方、本荘南中音楽室にて、YHBCの応援歌の曲審査委員会。12曲の応募曲を新屋高校の高野豊昭校長からピアノで弾いて貰い、佐藤倉太郎さんの曲に決定。
 葛岡のかすみ温泉で木名瀬さんご一行と懇談会。酵素入りコンポストの普及を勧める相沢製作所の阿部常務がふるさと増田を涙ながらに語られる。
 17日(水)YHBCの今野忠良総監督と選手勤務先を回り、協力お願い。秋田新電元、幸和機械、東北総合管財、赤川組、山科建設、矢島消防署、JA秋田しんせい、西目総合支所、秋田トヨダ本荘営業所、にかほ市消防署。YHBC顧問で元本荘高校校長の平間文次先生宅へ今野監督と。「高校時代、数学を教わったが、野球の話しか記憶にありません」というと大笑いされる。
 18日(木)にかほ市勤労青少年ホームへ。応援歌「野球道」作曲者・佐藤倉太郎さんへ謝礼。応援歌の楽譜とCDまで作ってくれており深謝。
 19日(金)由利本荘市平岫。恩師・佐々木勝敏先生の葬儀。弔辞。直会まで招待され、恐縮。帰り際に雨。
 20日(土)朝、こまち球場。クラブ選手権予選。対能代松陵クラブに7対0でコールド勝ち。公式戦初の一勝。金子地所の金子栄一社長から、秋田工芸美術短大の石川好学長の唱える北前船構想、本荘市の佐左部医院をご紹介。
 21日(日)由利本荘市・ホテルアイリス。菅原和夫・元菅原病院院長の葬儀。盛大。昔、先生とよく全国を旅した。2月にお見舞いに伺った際はもう寝たきりの状態だったが、小生の決意を聞くと、大きな声で「頑張ってください」と激励された。当方の弔電は二番目に読まれた。菅原先生、本当に有り難うございました。
 22日(月)家内と岩谷町の近所や佐々木盛三町内会長さん他に引っ越し挨拶。親戚と勝敏先生宅にも。
 24日(水)旧本荘市石脇の作左部医院へ。昇先生から肘の痛みを見て貰う。HBCの工藤幹夫監督と同期との事。
 夕方、東海林太郎音楽館にてNPO東海林太郎伝承会の総会。
 25日(木)千秋公園・あやめ団子にてもも太郎の会。大内睦子さんの金萬社長就任祝い。当方は新田水稲生産組合産の大内米3キロを進呈。
 26日(金)この日、日本海中部地震で犠牲となった方々の海上慰霊祭。秋田湾観光の高桑賢二船長のご配慮で3回目。黙祷の間、ふるさとをラッパ吹奏。夕方、由利本荘ふるさと塾。講師は小川隆一氏。題名は「ニコライ少年、深沢に眠る」露国遭難漁民慰霊深沢委員会会長の感動的なお話であった。
 28日(日)旧東由利町のシンポル・八塩山登山。約束していた元東由利町長阿部幸悦氏と一緒に登る。頂上のブナ林がさわやかで実に美しい。
 夕方、堀ネットワークにて「聞き書きのすすめ」と題し講演。もっぱら学友・小田豊二にいわれてやったと話す。本荘で夏に小田講師を呼んで、聞き書き実践講座を開く約束をする。
 29日(月)YHBCの選手2人がいる陸上自衛隊秋田駐屯地を訪ね、金田美千彦広報室長に協力依頼。由利本荘総合体育館で筋力トレーニング教室。
 30日(火)本荘グランドホテル。県庁OBの庁友会本荘由利支部総会。新人では私一人出席。二次会の菖蒲苑で、青年部長にされる。
 31日(水)大内支部観光協会総会。横手市の果樹試験場を見学。