ふるさと呑風便  06.4    NO,204
      仕事か、情緒か
   
 昨秋、定年前の職員セミナーで中通病院長の講演があり、推薦したい本の紹介があった。 それは「定年後をパソコンと暮らす」(加藤仁著・文藝春秋)。早速、注文して読んだ。「山間の農家と料亭と直結する端末機」のなかの一文にちょっとショックを受けてしまった。ちょっと長くなるが掲載したい。 

 ここ10年「まちづくり」とか「地域おこし」とかなにかと騒がれてきたが、どれほどの実りがあったことか。なかには第二、第三の公共事業をもたらしたにすぎないものもある。私自身、地域を活性化するには、住民の仕事を創出することが欠かせない要素であると思っている。舗道にレンガを敷きつめたり、公園を整備したり、新名所をこしらえたりしても、仕事を失った住民たちからすると、よろこばしくもない。
 仕事の創出というと、雇用の創出・企業誘致という短絡的かつ棚ボタ式の発想をしがちになるが、もはやそのような時代ではない。進出する側の企業は、中国をはじめ人件費の安いアジア諸国に眼を向けている。一万人の大量雇用に期待を寄せるよりも、きめ細やかに一万種の仕事を創出する気概で立ち向かわなければ、地域の活性化は果たし得ないであろう」

 そこで千葉に住む加藤仁氏に電話した。「定年後のパソコンを呼んで、感心したよ。そのとおりだなあ」
 他でもない。彼は小生の学生時代のクラブ中南米研究会の2年後輩。先年、秋田LL財団の招きで来秋した際、しばし話をしたことがある。
 「学生時代、先輩の下宿でキューバで撮ってきたスライドを見せて貰ったことがありますよ」といっていた。
 彼は全国で2千人の定年退職者を取材し、地域を活性化するには仕事を創ることが肝腎だと結論づけている。
 私はこれまで、「地域づくりはふるさとを愛する人づくり、自慢づくり、生まれ育った地域への親孝行だ」などといってきた。後輩の加藤氏のいう、仕事を一つも創り出したことがないのだ。
 昔、ふるさと大内町で、「明日の大内を創る会」を組織し、仲間と「元祖とろろ飯大食い大会」を決行。現在も続けられている。当初の目的は自然薯の特産化という仕事づくりなのだが、ただの人寄せイベントになっている。

 そんな反省しきりの時に、「国家の品格」を読んだ。救われた思いだった。藤原正彦著のこのベストセラーは、論理よりも情緒の大切さを唱えているからである。
 平成元年2月24日の大喪の礼の日。秋田ふるさと塾を開設し、17年間も毎月一回、地域づくり実践セミナーを開催してきた。ふるさと塾の目的は、「個性豊かな、情緒ある地域づくり」とした。
 その当時から、何かしら情緒が失われていくような憂いをもっていたからである。
 この春、30年住んだ秋田市から、ふるさと由利本荘市の旧大内町に住所を移した。
 親友の案内で、雪のまにまに咲く福寿草の群落を見せてもらって感動。旧岩城町ではカタクリの群落も発見した。
 藤原正彦さんもいっている。「自分は美しい自然と情緒をたっぷり吸い込んで育った」
 ふるさとで何か仕事を創り出したい。が、ともあれ、ふるさとは懐かしく、美しい。
 ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成17年5月27日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「人を奇麗に、地球を奇麗に」★ 山本久博氏(NPO法人環境秋田県民フォーラム理事長)

 私が今、やっていることで皆さんの少しでもお役に立てればとやって参りました。
 ちょうどタイミングがよく、この4月の頭にモナコで、招集を受けましてNPOの一つで大潟村でソーラーカーレースをやってきて、それを主催するNPOのクリーンエナジーアライアランスとして活動を発表してくれということで、アジアからは秋田の私と、北京で電気自動車をやっている会社の社長でした。 モナコで電気自動車学会というのがありまして、えらいことにそこで15分間英語で。(笑い)アメリカで二年間暮らしたことがありましたので、多少は読めるので日本語で原稿を作って英語になおしてもらって何とかは発表してきました。
 今度は横浜の電気自動車学会でモナコの続きをやってくれというので来月早々に横浜にいって発表させられます。

 大潟村は一周52キロの堤防で囲まれています。真ん中に水路があって、そこに沿った往復31キロのソーラーカー専用のコースがあります。九三年の暮れに着工して4月にオープンしたコースで16億8千万かかりました。 当時佐々木知事と宮田大潟村長が国の土地を使ってソーラーカー専用にコースを造ってくれました。工学系の大学生が集まるイベントは滅多にないということで、最初にやった時にはものすごい人が全国から集まって非常に盛り上がりました。
 これは秋田が全国に環境とエネルギーの情報発信できるいいテーマだから是非やろうとなりました。これが最初で最後だからと、三日間やりました。
 一回成功したら、このレースは続けようと、せっかくだからコースを造ってしまおうとなったんですね。
 コースの周りにひまわりを植えたんですが、ソーラーカーは車体が低いもんですから、ひまわりの下になって見えないんです。そこで背の低いひまわりを植えてもらいました。(笑い) この頃はお金がありまして、県と村からなんだかんだ補助金五千万円ぐらい貰いましたね。 バブルの終わりの頃です。NHKの衛星放送で四時間、生放送をやったこともありました。
 一週間のレースで一億5千万を使ったことありましたね。
 このコース、往復31キロのソーラーカー専用のコースはいまだに使っています。これだけのコースは世界にここだけです。
 日本でソーラーカーレースをやっていけるのは鈴鹿と大潟村だけです。一番参加台数が多いのは秋田なんです。鈴鹿は5時間ぐらいしか走れないのですが、大潟村では三日間も走れます。
 ここで勝たなければ本物ではないというのが現状です。
 これは当時の佐々木喜久治知事が私の講演を聞いて実現してくれたものと理解しています。
 
 今、ソーラーカーというと長さが5b、幅が1.8bの太陽電池を付けたのが主流です。
 このぐらいで1200から1400ワットの発電で、百ワットの電球が十数個、極端にいうとヘアドライヤー一個分です。
 これで速度がどのくらいで走れるかというと、太陽エネルギーで70キロを超えます。車体の重さが150キロぐらい。ドライバーが80キロで250キロに近い重量です。ドライバーの重さが統一されているので軽い人はオモリを積んでいきます。
 ドライバーは計量の時に車体を計ってオモリを持って全部80キロに揃えるんです。90キロの人はここに三日間いて痩せなさいです。(笑い)
 三日間で積めるバッテリーというのは決めてあって、車検でバッテリーの性能によって重量制限しています。満充電してスタートしてソーラーでずうっと発電しながら走る訳です。もってるバッテリーを三日間で使い終わる。実際、太陽が出ていなければ2、3時間であがってしまいます。容量からいえば2キロワットから2、5キロワット。
 最初に満充電してスタートして夜になるとバッテリーを皆、保管します。三日間で終わってゼロになれば一番効率がいい訳です。そういう競技なんです。
 雨が降ったりすると、自分のもっているバッテリーの残量を見ながら騙しだまし走る訳です。
 今は大学生であれば、各ピットにパソコンを置いて、ひまわりの映像を見ながら、もうじき曇るとか、晴れるとか三日間の天気を予測してスピード調整していますね。すごいですよ。バッテリーの残量も後何時間でなくなるとか全部計算して走っています。
 実は秋田で93年からやっているんですが、今、皆さんご存じのハイブリッドカー、燃料電池車、電気自動車といって結構騒がれています。トヨタとかホンダの研究開発のメンバーの大半は学生時代に大潟村で育って連中なんです。
 これが縁でメーカーの研究室に入って、ちょうど彼らは30代後半に入ってきて、中心になってやっています。モーターショーなんかに行くと大潟村で我々と一緒にやった連中が偉いポジションで活躍しています。
 ハイブリッドカーのスーパーキャパスターの開発にも貢献しており、ただレースだけでなく、秋田でのレースは開発の切り口に向けて主導した功績が大であったことなんです。
 トヨタのハイブリッドなんかこの中から出てきたんです。
 
 98年に秋田県から補助金が一切出なくなりまして、イベントの予算はもう出せないということで、村の方も村長がかわってご本人は続けたいと思っていても、宮田前村長が作ったイベントは面白くないと思っている人たちがいるもんですから、補助金はない訳です。(笑い)
 これは何とかしなければいけないということで、それまで補助金とスポンサーの協賛でやっていたのでギブアップしようかろ思っていました。
 そしたら全国の大学生達が、何とか大会だけは続けてほしいと嘆願書がたくさん来ました。
 じゃあわかった、しょうがないからボランティアだけでやろう、企業を頼らないで自分たちだけでやろうと全チームから大会スタッフを出してもらっています。エントリーして参加してくるチームから手の空いている人を運営スタッフに付けてもらっています。
 大体60人から70人ぐらい来て貰うという条件で参加してもらって、今では一週間で七百人から八百人の延べ人数。黄色いタスキを渡して、読めば分るようにして、横断歩道についたり、マーシャルポイントで旗振りをお願いしてます。これはほとんど交通費も出さなければ、食事もでないような報酬ゼロで続いてきています。
 98年から続いてきているボランティアが何とか切り盛りしているレースです。スポンサーがほとんどなくても何とかしのいでいる状況です。
 皆んなキャンプしたり、民宿したりで、全国から集まってきてます。是非、この夏、大潟村に来てみてください。

 ソーラーカーレースは93年に始まって今まで777チームが参加しています。ソーラーバイスクールは94年に始まって1018台、エコノムーブが95年から始まって784。今まででトータル2579台が会場に来ています。一チーム12人以上来ていますから、2万人以上工学部系の参加者が来ています。
 観客が2万人というのはわかりますが、世界的にみてもすごい大変なことです。そこでこの大会を海外でも発表してきた訳です。
 モナコでも何で秋田でと聞かれるんです。豊田とか愛知だったら分るんです。秋田県の基幹産業はと聞かれ、アグリカルチャー。(笑い)農業が主力の秋田県が何で世界の電気自動車をやっている人達が十数年前に始めたことが信じられないというんですね。
 
 自分では大会を大潟村でやれればいいと立ち上げたんです。
 やっている間に車検を受けなければいけなんです。ソーラーカーって、大学の先生に聞いても参考書がないんです。
 ソーラーカーをどうやって作ればいいのか誰もわからない。
 それを車検するといっても作った学校の先生達はわかるけれど、我々、JAFFの人間を連れてきても誰もできない訳です。
 じゃあしょうがないと私が秋田大学と一緒に作るところを手伝わせてもらいました。これだったらいい、自分でやると95年から自分の車を趣味で作り始めました。元々嫌いは方ではないので、自分でもソーラーカーレースの競技委員長で車検でも仕切っていましたから、自分のプライベートチームを一つ持って一年がかりで作った車で参加います。それで、できた車でオーストラリアの世界レースに出て、そこそこ走れたので、この車、全く燃料補給しないで、時速70キロで走るんです。
 これでどっかで走りたいと思って、走れる所を探したらロシアがあったんです。
 ほんとは西安からシルクロードを中国からローマまで行きたいと思ったんです。調査したら全部で十カ国ぐらいから許可もらえたら行けそうだったんです。
 中国もよさそうだったんですが外務省からストップがかかったんです。その時、ジャーナリストがアフガンで殺されたんですね。それで出来なかったんですが、ロシアに友人がいたんで彼がちょうど秋田に来たとき、どうだと聞いたら、シベリア横断はウラジオストックからモスクワまでロシア一カ国なんで大丈夫だと彼が引き受けてくれました。それで2月に氷点下25度のモスクワに行って、向こうの交通大臣から交通許可を貰いました。
 2001年の6月にトラックをウラジオストクへ船で運んで、我々は新潟から飛行機で飛んで、そこから一万二千キロのソーラーカーの旅です。(続く)
 呑 風 日 誌 抄
3月3日(水)由利本荘ベースボールクラブの副会長・浅利純子さんへ結婚祝文を。すぐに携帯に御礼の電話あり。
 夜、秋田駅前久保田にて、バウハウスの森川恒氏達と映画「平成職人の挑戦」の上映打ち合わせ。上映後、鼎談をすることにする。彫刻師山田耕健さんを主人公に彼の魅力を引き出す。
 4日(土)由利本荘市八幡神社の亀井聡宮司宅。由利本荘ベースボールクラブ(YHBC)の必勝祈願のお願い。
 5日(日)本荘駅前・コーヒー喫茶店「薫」。本荘にこれだけ美味しいコーヒー店は自慢。 片倉幹男先生から猪股祥友氏を紹介され、戦時中、旧石沢村に集団疎開された109人のお茶の水中学校の女生徒達が恩返しにと桜を植えたお話に感動。 猪股先生に4月の由利本荘ふるさと塾での講師をお願いする。
 10日(金)秋田市・キャッスルホテル。県庁本荘由利会。
 13日(月)秋田ビューホテル。秋田県造園協会主催の記念講演「秋田の緑は風土となる」愛知万博の総合プロデューサー・涌井史郎氏が語る。「地域の遺伝子、景観を大事にし、秋田の宝を発掘し、磨き上げよう」
 16日(木)由利本荘市・こはく亭。菊地八千男氏のご招待で白沢弁護士を囲む会で講話。YHBCの宣伝。電車で秋田市まで白沢先生と一緒に帰る。
 17日(金)由利本荘市・はまげんにて、西部地区町内会会長総会。佐々木市雄先輩のご高配。YHBCへの協力依頼。町内会長達と紅花、マリン、あすなろとカラオケ。市雄兄貴には歌も酒もかないません。
 18日(土)朝、鶴沼町の画家の河村彰さん宅。東海林太郎の外套が閉業する榮太楼旅館から発見されたのを記念に親族である彰先生の個展を音楽館ギャラリーでの開催依頼。ご快諾。父上の故河村千代三先生のスケッチ集と作品集を愛子夫人から戴き、東海林太郎音楽館ギャラリーに展示する。
 茂吉整骨院にて尺八の大家でもある加藤一三先生に身体を解してもらう。快調。鶴舞温泉にて本荘高校ブラスバンド部OB会へ。役員案が了承される。  政どんにて本荘市審判協会総会へ。YHBCへの協力依頼。
 19日(日)秋田市有楽町・三昧にて中学同級会。先日亡くなった東海林重一氏を偲ぶ会。七人も集まってくれた。ほっと愛にて二次会。
 20日(月)我が家にて北島昭宮司、石の勘左エ門の高橋正氏と一献。「楽しきは心親しき友と語り 倒れんばかりに酒に酔うこと」の心境。
 21日(火)由利本荘市の加藤一三氏のお誘いで、西目町の幸楽へ。福井県モラロジー協会の岩田敏夫会長の講演を聞く。感謝、思いやり、自立の精神。
 「奥方をさんずけすべき」との勧めは、さっそく帰ってカミサンをさんずけすると、「キモチ悪い。でも悪い気はしないわ」だった。
 22日(水)にかほ市象潟町の三浦電子。三浦俊之社長へYHBC会報への広告御礼。ハーブワールド、本荘第一病院へも広告御礼。由利本荘市のフェローに広告依頼し、現代の名工・加賀屋利雄氏から理髪をお願い。
 23日(木)秋田市川反。秋田の滝にて、吉田典雄氏他秋田稲門会有志から退職慰労会。パーカーのボールペンまでプレゼントされ感激。ワセダフェスタやグリークラブ公演で頑張った仲間は尊い。ほっと愛にて二次会。
 24日(金)秋田湾観光の高桑賢二社長から、男鹿観光ビジョンを聞きながら由利本荘ふるさと塾へ。講師が池田家16代の池田泰久氏。無臭大豆の話。人間道場で、無臭大豆の種が特別に由利町の農業・佐藤時男さんへ
提供される。収穫が楽しみ。
 秋田市に戻り、池田講師と毎日新聞秋田支局長吉野さんの送別会へ駆けつける。
 25日(土)旧西目町・シーガルにて大正琴花かげ会演奏会。幸楽ラーメン。YHBC事務所にて役員会。4月30日に総会と激励会を安楽温泉にて開催決定。
 26日(日)旧大内町農業改善センターにて、大内町民謡の里づくり競演会へ。懇親会で成田正雄さんへメダカを飼う相談。
 27日(月)昼、本荘・ホテルアイリス。本荘ロータリークラブにてYHBCへの支援をお願い。本間印刷へ。卓球の元国体優勝者の本間達雄社長から「リーダーとは優しさの使い分けが大切」と教わる。
 夜、秋田市・キャッスルホテルにて役所の送別会。山王・館にて二次会。
 28日(火)昼、秋田市山王・・大江戸ラーメン。赤帽を頼み、川反のふるさと塾事務所へ荷物を運ぶ。夕方、榮太楼旅館。「イナバウワー輝」。小国輝也氏の激励会。旅館の再建を約す輝也社長へ十年後の予約あり。
 31日(金)県庁正庁にての退職者辞令交付式。には出ないで
実家の農事組合法人新田水稲生産組合の役員打ち合わせ。菊地建設の橋本一康社長、伊藤建友の伊藤佐喜男社長を訪ね、YHBCへの支援お願い。ご快諾、有り難し。