ふるさと呑風便  NO.203   06.3
   定年

 定年前 お辞儀の練習
      お役人(見血男)
この川柳は、まだ三〇代初めで県職員として張り切っていた頃に作った。
 現役の頃は机にふんぞり返っていた役人が、定年後は民間に天下るため、お辞儀の練習をする姿を見て、皮肉って作った。その当人が定年前になってこの駄句を思い出した。 ちなみに、雅号の見血男の命名はある保健所の粋な先生。

 昔、威張り腐ってタダ酒を飲むセコイ上司の机を蹴飛ばしたら、「オマエは明日から県庁に来るな」といわれた。「オレはオメエに使われてるんじゃない、県民に使われてんだ」とタンカを切ったら翌年、県民と直に接することのできる某保健所に左遷。
 そこには旧知の美人の保健婦さん達がいっぱいおられた。
 三歳児検診の最中、時間を持てあました彼女たちがメモ用紙に、鉛筆で三知夫をいう字を、道夫とか美智夫と書いて悪戯している。それを見た所長先生、こうも書けるよといって、太字の万年筆でスラスラと書かれた、「見血男」。
 血を見る男とは物騒な名前だが、面白そうと「先生、この名前をください」とタダで拝借した。
 
 小生。この3月で35年間務めた秋田県職員を定年になる。
 昭和43年3月。東京の学校をでてから東京農大の聴講生、神戸でブルドーザー運転手。四国の松山で井関農機の研修生、ミカン園の作男。東京に戻って国会議員の秘書を二年近くやった。その間、アンデス資源開発研究所の日本連絡事務所長の肩書きを持ったりしたが、政界の悪臭に染まる前に25歳になったら田舎に帰って、農村の指導者になろうと思っていた。
 それには、あまりにふるさとのことを知らない。知るには情報が集まる県庁がいいと秘書を辞めた。23歳の誕生日の2月18日に、鷺宮の明治乳牛店で牛乳配達をしながら秋田県庁の試験勉強を始めた。
 七月の試験に何とか引っかかった。新卒の合格者でないので、昭和46年の1月1日付けで発令になったのが、大館市にある北秋田財務事務所だった。威張らない、上役にぺこぺこしないと心に誓った。 自慢ではないが、県庁のバッチを一度も胸につけたことはない。
 地域づくりの二冊目の本、「ふるさと秋田夢おこし」の出版記念会を友人達が湯沢市のグランドホテルでやってくれた。
 その際、井関農機のトラクターに乗って東京・青山通りを嫁こいデモをやった羽後町の阿部剛氏が挨拶された。
「三知夫さんと付き合って十年たつが、県の役人だったとは今まで知らなかった」と言われた時は、正直嬉しかった。
 
 十四ヶ所の部所を経て役人のまま定年を迎えるなぞ、我が人生設計では想定外だった訳だが、ま、はみ出し役人として首にならなかっただけでも良しとしたい。仕事を通じての一生の友を多く得ることができた。人的財産である。
 私は忘れ物の天才だが、探し物の達人であるカミサンの理解もある。
 亡き藤本敏夫氏が年賀状の添え書きに書いていた。
 「人生、健康と友達」
 幸い、まだ野球では投手で五回は投げられる。酒に飲まれることはまだ、ない。
 定年後、良き友垣と
      美酒を極めん(見血男)
 ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成17年3月25日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「NPOのまちづくり」
★ 佐藤 裕之氏(羽後設備叶齧ア)

 去年横手の県立現代美術館で展覧会がありましたが、障害者の方々の芸術作品を世界のコレクターに売っているんです。
 何号二百万で売れましたと平気でいっているんです。
 最初、この人(奈良・太陽の家理事長・播磨靖夫さん)守銭奴かなと思ったんですが、そんなことはない。我々が感動するようなものを、知恵遅れの方とか障害者には特殊な才能がありまして、ものすごい作品を創るんですね。それを認めたトヨタ財団がエイプルアートというものに助成金とポンと出すようになった。それらを回して独立独歩、自主自立のNPOを経営していたんです。
 最終的にはNPOの行くつくところはここだと思いました。
 もう人かた。当時、鈴木先生といって世界的に有名な東北大学金属研究所の所長をされた方でサンフロンティアテクノロジーという研究所を立ち上げたんです。組織形態は株式会社なんですがミッションはNPO法人です。受託研究で出てきた利益があれば、それは次の研究にまわすというのは一つの行き方だなあと思いました。
 それから九州大学からベンチャービジネスの教授から来て頂いて、私の前職時代の大学の先輩でもあるんですが、坂井雅子さんという女性がおりまして、日本で最初に公開企業の役員になった方で、まだ45歳ぐらい。彼女を呼んで会社を興すとはどういうことなのかの視点で、播磨さんにはNPOを起こして自主自立、独立で経営するという視点で、鈴木さんにはそれを学問の世界で、形はNPOでないけれども、なぜそういうことをやられたのか。ベンチャービジネスとNPOというテーマでシンポジウムをやりました。
 当時、NPO法ができつつありましたので、結構、県庁の職員もきてくれました。
 ただ今思うとこのテーマは早すぎました。聞いてる人はわかっている人は面白かったと思いますが、来た人の多くは今騒がれているNPOとは違うなあと思って帰ったと思います。
 やはりNPOというのはボランティアの人たちが自分のやりたいことを自己実現のために何かやるという視点しかない。
 私がやってきたのは経営をどうするかとか、会社を起こす、起業という視点でしたから、ちょっと早すぎた。
 その年に、シンポジウムだけでは満足しないで、では秋田でまちおこしとか色んな分野で活躍している方々が青年会議所のメンバーと一緒に討論しましょうと佐々木三知夫さん達にお出でいただいた事業が第二弾。
 それからボランティア団体なりと議論の過程をつくって皆さんの想いをデザインするワークショップというので勉強しました。そこからNPOという世界に入っていきました。
 私は、ボランティアや市民活動をやっていて、それをNPOにしていこうという内部者ではなくて、半分足を突っ込みながら、横からNPOを眺めてやってきたというのが実態です。
 その課程で、NPOの概念とか説明してまわったり、組織づくりが大事だとやってきたんですが、とうとう私自身もNPOの設立法人化ということをやらざるを得なくなりました。
 最初にやったのが、NPOコアセンターという今、理事長をやっていますが、このNPOの目的は、秋田県内で組織化できなくて困っているNPOを支援する、中間支援的なNPOです。
 ただこれも早すぎまして、まだマーケットがなかった。当時、認証されているNPOは12個しかなくて、NPOなんかしなくてもいいというグループがあって、そんな状況では支援なんて成立しない訳です。
 まあ、そこででNPOで食っていきたいという若い人を支援してきました。残念ながらこれはミッション(使命)としては違ったなあと思っています。
 他にも事情があったんですが、このNPO法人は去年精算しました。多分、秋田県内で最初の適法に精算した第一号でないかなと思っています。
 ただ時代が変わりまして、今年になって秋田県でNPO法人が130法人あります。
 いろいろタッグを組んで事業をやる、行政と手を携えて啓発活動をやるといった、小西知子さんと新しいコアセンターという秋田市のアルヴェの市民交流室の運営を受託したり、いろんな講座を企画したりして生きているような状況です。
 あと一つ、設立のアドバイザー的な立場で係わったのがあるんですが、一番力を入れているのが私、イーストベガス推進協議会です。
 秋田にカジノを作り、アミューズメントタウンにして、このさびついた秋田を活性化しようと若者の団体です。
 これも時代の流れでして、今年の9月に衆議院議員の野田聖子さん、自民党を中心とした議員連盟が作られています。
 この3月にカジノ適法化法案が通る予定だったんですが、郵政公社の問題があって延び延びになってますが、税制調査会も多分、この数年のうちにはゴーサインがでてくると思います。
 そうした時に起きるのが地域間競争です。何としても秋田は閉塞感を感じていて、秋田にカジノを中心としたまちづくりをしたいというグループを応援したいなと思いまして、9月に野田聖子さんを呼んでカジノサミットを行うことを決めました。
 これには商工会議所、コンベンション協会からも協力を頂いて、大々的にアルヴェ中心に行う計画です。ま、こんなことをやっています。

 市役所のラグビーチームが財政難のなかで、クラブチームになりました。これも今、NPO法人化しようとしています。
 別に法人化しなくても普通の任意団体でいいんじゃないかという意見もあります。
 ですが戦略的に、グランドとか県有施設があるんですが、それを民間への運営委託がどんどん始まっています。そうすると行政の方も泡沫な個人とか訳のわからない団体に出すわけにはいきませんから、一定の縛りをかけなくてはいけません。
 それを社団法人だったり財団法人だったり、あるいはNPO法人であれば、運用を任せるよという枠組みになっています。
 ノーザンブレッツという旧市役所ラグビー部はグランドを使うという目的も含めて、受託を受ける。もちろん、NPO法人化して組織を強くして、若干ですがビジネスをやって、その資金をクラブの運営資金に回そうといろいろ今、企画をたてているところです。
 いろんな市民活動をやっている方々がいますが、あえてNPO法人にする必要はないというのがいっぱいおります。
 では何でNPO法人にするのかとなりますと、実利的には今、いったような行政から仕事を受託する、資格のために法人化する。先になりますが、広く一般的には寄付控除の対象になる、今は寄付控除の認可基準が高くてうまく使えません。
 結局、NPO法人にしても有償事業をやれば当然、税金がかかります。法人税がかかります。
 会員から寄付を頂いても控除になっていません。これをもっと使いやすい寄付控除制度にしようと皆さん、働きかけています。そういったものが使えるようになると初めて、NPO法人化というのが、実利的になってくると思います。
 つぎにNPO法人化のプレゼンテーションに使ったものですが、NPOを立ち上げて市民活動をやろうよという時に大事なキーワードは何か。
 NPOにする時に、こういうことに注意してやらないとうまく行かない、会社の経営と同じですよといいたかったんです。
 何か面白いことをやろうと考えて、何が大事かというと、リレーションとかネットワークですね。NPOに開明的な優秀な人が一人いてもですね。市民活動でほんとに社会公益を実現できる組織はできません。
 やはり複数の人間がいて、英知を集めないとできない。その英知を集めるには関係性とか、それは最終的には個人の能力といいますか、どれだけ沢山の人とネットワークを組めているかということに掛かってきます。
 ですから人付き合いの悪い人は残念ながらNPOをやってもうまくいきません。それから何か課題が起きたときに、日本人の悪い癖に、勉強しようとする。
 会社でもそうですが、若手の社員に「3日ぐらいかけてこれ研究しといてや」というと、まず本を買ってくるんです。ところがビジネスの場合、スピードが大事でして、本を読むのに三日かかったら、その後自分で考えて構築しようとしたら、締め切りに遅れます。
 いつも私は社員に話しているんですが、「そんなことだったら自分の周りに専門性の高い友達を一杯もっていたら、電話一本かければすむでしょう、5分でできることをなんで三日もかかるんだ」
 まさにNPOだとかボランティアをやっていると同じことがあります。
 佐々木孝先生のような方に先生、ここわかんないんですが教えてくれませんかと一発、電話するとOKといってくれます。
先生は何でもOKといってくれますから。(笑い)
 そういう方をどれだけ持っているか。最後は個人の明るさ、楽しさ、人から嫌われない、こういうことがキーワードです。
 会社も同じですが、NPOをやっていくキーワードです。
 福祉系の方はなんか、わがままなんですねと申し上げます。 
 ボランティアの方、NPOというのは金とか報酬でつながっている関係ではないですから、怒っちゃったらいなくなるんですよ。NPOをうまく運営するのは褒められるシステムというのが基本だということをいつも頭にいれたおかないと、皆さん嫌気をさしてくてくれません。 
 NPOは何か社会的にいいことをやりたいという人たちの集まりですから、嫌われたら駄目。
 人に好かれるのは何かというと、あなたやってくれて良かったと、行政や住民から褒められたと伝えてやれるようなことがとっても大事です。
 実際にNPOをやってきてそうでした。それからさりとて組織ですから、金の問題が大きいです。数字をきちっと道具として使える方が一人いれば、企業の経理をやっているような人がメンバーに一人いればいいですね。それから活動領域がどこにあるのか、ビジネスでいえばマーケティングがとても大事です。NPOとは、民間の非営利組織です。NGOとは外国と日本との関係において活動をしているかとの組織でNPOに含まれる一形態です。

 非営利という意味は有償で、お金をお客さんから頂いてはいけませんよということではなくて、メンバーに配当はするなよという、ただそれだけです。
 組織を維持するにお金を頂くということは必要なことです。 
 会社、商業者は民間の営利団体、民間でなくて営利を追求しているのは第三セクター、非営利で非民間で頑張っているのが行政、民間で非営利でやるのがNPOなんです。と簡単に分類ができます。
 考えなくていけないのがNPOは社会サービスを提供する民間の非営利組織ですよと、この視点を忘れてはいけないと思います。
 呑 風 日 誌 抄
 2月1日(水)秋田市東口アルヴェ。秋田市中学生サミットへ高桑賢二船長と。由利本荘ベースボールクラブ(YHBC)の副会長になって頂いた元世界女子マラソン金メダリスト浅利純子さんの講演を聴く。「オリンピックで負けたお陰で人への感謝の心が養われた」という。変わらぬはにかみ笑顔がいい。彼女を由利本荘市・アイリスでのYHBC役員会へ案内。新しい顧問と役員の承認後、懇親会。船長から又、秋田市まで浅利さんを送ってもらう。
 3日(金)秋田市・平安閣。秋田稲門会新年会兼井上隆明先生地域文化功労者表彰祝賀会。記念講演後、懇親会。池田家十六代当主で無臭大豆の拡大生産を図る池田泰久氏に由利本荘ふるさと塾の三月講師をお願い。
 吉田典雄氏と二次会でラグビー早明戦秋田会場でのOB接待の打ち合わせ。
 4日(土)由利本荘市で黒澤大司氏と由利本荘BCの寄付申し込みの打ち合わせ。西目町の鳥海コロニー体育館へ練習を見る。
 6日(月)夜、我が家に工藤幹夫監督。NTTの高橋幸雄、秋永豊の両氏、桝谷政雄氏が遊びに来る。妙な組み合わせだが皆、個性豊かな好漢。
 10日(金)午後、由利本荘市の黒沢大司氏と市内各所、秋田魁新報本荘支局、消防署を回る。 
 本荘グランドホテルにて由利本荘稲門会新年会。TDK野球部現役を退いた佐藤直人選手を招待。由利本荘BCに誘いをかけるが。飲まずに秋田市に帰る。
 11日(土)矢島町の天寿酒造の酒蔵開放へ。杜氏の茂木好文さんのはっぴ姿が格好いい。
 猿倉人形木内勇吉一座の人形芝居が懐かしい。本荘に戻り、恩師の印藤良生先生宅へ。東海林太郎の父大象が本荘中学を建てていた明治35年から37年の間、東海林太郎一家が二年間本荘市の東町に住んでいたことが判明。印藤先生と東海林太郎の又従兄弟にあたる河村愛子さんを訪ね、大阪に住む太郎長男和樹夫人から貴重な楽譜が送られてきたことを報告。
 12日(日)女房と秋田温泉リラックス。烏の行水で待っている間、待合室で田中秀征の「日本リベラルと石橋湛山」を読む。石橋湛山の人間性がわかり面白く、ためになった。
 13日(月)羽後町から東由利町の道の駅。田子作にて小野克弘さんの田子作うどんを頂く。
 元町長の阿部幸悦氏、区長の佐藤知泰氏と久しぶり。東由利町出身の野球選手遠藤勇樹君(横浜市立大学)の話。
 15日(水)イヤタカ。県庁同期46会の送別会。会長としてとうとう送られる羽目に。工藤泰夫幹事長達に御世話になってしまった。多くの仲間が集まってくれた。感謝。二次会を久保田。花束を忘れずに家に持って変える。
 16日(木)映像作家・信木総一郎氏を秋田空港に出迎え。我が家から東海林太郎音楽館へ。心友・故土井脩司氏についての話しをして、影像に撮られる。
 昼は山王のティーランカにてカレー。夜は館にて信木氏に土井脩司さんの思い出話し。昔の日記に彼のことを書いていた。あれほど純粋で、自己主張をする男は始めてだったとある。胸がつまる。
 17日(金)秋田県税事務所にNPO東海林太郎伝承会の法人設立届け。免税措置をとる。
 18日(土)朝、榮太楼旅館のトロン温泉へ。体重がちょうど60キロ。なぜか3キロも痩せた。
 大内の実家へ。昼は兄と近くのちひろ食堂へラーメン・カレーライス。食欲はある。午後3時から本荘市の由利本荘BCの事務所でスタッフ会議。佐々木正人事務局長代行、工藤幹夫監督達がケーキを用意してくれた。
6本のローソクを一気に吹いて消す。6時に秋田市の自宅へ。女房がピアノでハッピバースディを弾いてくれた。ビールも旨い60歳の誕生日だった。
 19日(日)東海林太郎音楽館にて、音楽館一周年記念なつメロのど自慢大会の準備会。
 22日(水)由利本荘市教育委員会へ。工藤幹夫野球教室の案内書を作り、中村晴二次長に託す。清吉そば本店で作佐部直所長とラーメン。旧石沢村に疎開に来た東京の少女の109本の桜の話。
 東町の齋藤長治会長を訪ね、由利本荘BCについてカンパの相談。東部地区町内会長会議に招いてくれる。齋藤さんは南部藩士の末裔であられた。阪神ファンで話しが合う。
 24日(金)昼、秋田パークホテル。「平成職人の挑戦」上映会打ち合わせ。バウハウスの森川恒氏、桝谷政雄氏と4月1日に秋田ビューホテルにて。鼎談に小生と彫刻師山田耕健氏と青木隆吉先生。
 由利本荘ふるさと塾。講師は中野鋼一氏(秋田市工業労政課長)の「池田塾に学ぶ」中野講師の職人に対する想いが強く、作法の大事さを学ぶ。
 25日(土)ロシア音楽祭へ。アトリオン。佐志義友委員長達の「すばらしい未来」が素晴らしい。イヤタカにて秋田県野球連盟懇親会。壇上にて由利本荘BCの役員監督達が紹介される。期待大なり。
 26日(日)早朝、榮太楼旅館前から国際教養大学に寄り東由利球場へ。雪上野球開会式で挨拶。由利本荘BCのチームも初参加。何と秋田市の虎ノ門チームに2対3で負け。昼、高桑船長達と本荘市のホリスタジオ(堀友子さん)へ。DVD「裁判員制度」を上映。東由利に戻り、雪上野球の表彰式。東由利の仲間から床下正宗を頂く。
 27日(月)旧大内町大小屋。中学同級生の東海林重一氏の葬儀。雪深い山里で、級友・伊東高嗣の弔辞に涙す。美佐子食堂で同級生7人が集まって直来。
 28日(火)夕方、由利本荘市安楽温泉へ。黒澤大司事務局長と。東部町内会長役員会。市議3人が来賓。懇親会で由利本荘BCの説明と協力依頼。温かく迎え入れて頂き、感激であった。