ふるさと呑風便   NO,202   06.2
   信

 探し物とは、探すとなくて、忘れた頃にひょんと出てくる。 この正月、17年間も御世話になった秋田市川反の秋田ふるさと塾事務所。机や本を由利本荘の事務所に運ぶ作業をしていたら、長年の探し物が出てきた。「信」と題する秋田県きのこ栽培業中国研修団報告書である。片づけを止めてしばし読みふけった。
 この冊子は大内町と西目町のきのこ栽培業者とその関係者24名が、昭和58年2月27日から3月4日まで中国の上海と北京を旅して、学んだことをまとめた報告書である。

 昭和57年夏。学生時代のゼミの友人から電話がかかってきた。
「上海から茸の専門家と向こうの商社の二人が近く来る。椎茸栽培の視察に大分と静岡を案内するんだが、あとどこか探している。秋田でも茸をやってるところを視察させたいから何とかしてくれ」
 当方、茸のことはさっぱり分からないが、面白そうと引き受けた。中国の茸専門家を案内しながら、一年後、彼らを訪ねて中国へ渡ろうとシナリオを書いていた。
 秋田にやってきたのが、互明商事の真下課長、上海の大学助教授楊さんと上海市土産分公司の潘さん。
 大内町と西目町の茸栽培農家を案内した。視察先の方々は皆大歓迎してくれた。
 彼らが中国へ帰国後、昭和58年1月22日付けで中国土産畜産貿易公司上海土産公司から私宛一通の招待状が届いた。
 当時は招待状がなければ中国へは行けない時代だった。
 秋田県きのこ栽培業中国研修団を組織。団長が当時、大内町産業課長の佐々木秀綱氏(47歳・前大内町長)副団長が斎藤作圓氏(38歳・現由利本荘市市議会副議長)だった。 私は言い出しっぺの責任上、秘書長を務めた。37歳だった。
 中国入国の初日、2月27日に団員の伊藤静治さんが50歳。 誕生パーティを華橋飯店にて上海ビールで皆と祝った。

 帰国後の報告書の題名を「信」とした。中国人の信義の篤さに団員一同、感じるものがあった所以である。
 佐々木団長は「信義」と題して挨拶文に、論語の「政」について、載せている。
 政治を為すには兵を足し、食を足し、民に信を与えることが必要とする。兵、食、信のうち何かを省かなければならないとしたら、何を省くか。
 孔子は、「兵」を去る、その次ぎに省くものとしたら「食」を去るとした。食を去れば人は生きていけないはずだが、信義のない世界に住むよりはよいと、信の貴ぶことを極言している。
 今の中国。果たして信義を貴ぶ国家だろうか。
 翻って現代日本にもホリエモンのような狡賢い拝金主義者が育っている。貧して卑。富しても卑になる輩が多くなったら、この先の日本国はどうなっていくのだろうか。改めて信義の貴さをを訴えたい。

 あれから23年。団員の中で御三人が鬼籍に入られた。
 我々一行の通訳だった陳錦華氏は、その後、日本の大学に留学し、日本女性と結婚して帰化し、東京でタイム・インタコネクト・ジャパンという会社を興している。
 近く、陳氏を秋田に招待して23年振りに中国きのこ栽培業研修団の同窓会を開きたい。 亡くなられた仲間を偲び、信義の大切さを尊び、守っていきたいものである。
  ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成17年3月25日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「NPOのまちづくり」
★ 佐藤 裕之氏(羽後設備叶齧ア)

 歴史と伝統のあるふるさと塾に初めて参加させて頂く事になりました。
 最初に申し上げておきますが、NPO(特定非営利活動法人)とは何かと、勉強しようとすると、つまらないんですね。どういう視点で私がNPOに取り組んできたかを紹介しながら、その中で地域づくりにどういう点で注意すべきかを考える縁になれればと思っております。
 NPOに本格的に係わりまして、8年ぐらいになろうかと思います。今日、お出での佐々木孝先生は、NPOの先達でございまして、尊敬致しております。
 私は出身が秋田市で、秋田高校を卒業してから、東京の大学(一橋大)へ行きましてずうっと法律を勉強しておりました。 今時珍しいんですが、大学を裏表計8年行っておりました。
 それからあるコンサルタントに入りまして、長いことコンサルタント屋をやってました。実はNPOという言葉を聞いたのはその当時でした。
 今から20年ぐらい前、20代の頃です。私のやっていた仕事の分野というのは、今、ホリエモンで騒がれていますが、IRという仕事でした。IRというのは、インベスターリレイションといって投資家関係構築、企業側の企業買収の防止策の一つの手段。一番わかりやすいことをいうと、株主さんにその会社の状況を知らせるとか、その会社の実質的なマネージャーとはどういう人間なのか。そういうことをリサーチして、会社の皆さんと財務戦略を立てながら投資家の関係を構築していくと、そうすると株価は安定していく訳で、逆に高値で安定するということは、公開会社が資金調達をする時に非常に有利になる、そういった意味でのコンサルをやっておりました。

 まあ秋田に帰ってくるつもりはなかったんですが、実はコンサル屋をやっていますと、自分の仕事が虚業に思えてきまして、20代の後半から30代の若造がですね、上場企業の社長さんから先生と呼ばれことに嫌になりまして、それで実際、自分で会社を廻してみたいと思いました。
 灯台もと暗しで父がやってている会社があって、秋田に戻ってきたら最後、苦労している状況です。
 NPOという言葉を最初に聞いた20数年前。なぜその言葉を聞いたか、当時企業防衛ということで今、ようやく日経新聞にもSRIという言葉がでてきます。ソーシャルレスポンシビリティインベストメント、社会的責任投資と訳していますが、たまたまそのIRの色んな分野、アメリカの先進的なところを日本に紹介したいということで、私はコンサルの他に研究職でしたので、翻訳をしたり、海外の投資関係の動きを日本に紹介するシンポジウムをやったりしておりました。まあ、コーポレートガバナンスという言葉がはやっています。
 私はこの言葉を日本で初めて紹介した一人だと思っていますが、当時、アメリカの投資家と企業の関係がどういうふうになっているのか、研究の過程で先に申し上げたSRIと言葉にたどり着きました。
 これは一番わかりやすくいうと環境破壊事件があったんです。エクソン社という石油元売り会社の船がアラスカ沖で座礁しました。重油が流れて大変な環境破壊を起こしてしまった。
 その時にどんな防止策を講じていたのか、事故後の対応が非常に悪かった、説明責任を果たしていない、処理にしても曖昧にした。これで怒り出した環境団体がおりました。
 彼らが何をしたかといいますと、昔から企業に敵対的な消費者運動を起こす団体がありました。一株購買運動といった形、株式を買って発言を始めたんです。従来、アメリカでも日本でもそうですが、株というのは支配権を争奪するとか、全く考えてなくて経済的利益をとれるか、買った株が値上がりして元利をとれるかに注目していたのが投資家、株主だったのが、その会社の経営に口を出す、物言う株主が増えてきました。

 そうした時に出てきた概念が社会的責任投資でした。
 エクソンも投資家にかなりいじめられたというか攻撃を受けた訳ですけれども、アメリカのSRIを推進する団体が環境に付加を与えている企業には投資をしません、仮に投資をしてもその会社にきちんと発言をして、議決権を行使して環境問題にきちんとした対策をとるように発言をします。それがダメなら株を売って逃げる、そうしたら株価が下がります。そういった活動を株主が始めました。
 そういう活動がだんだん発展して環境問題だけではなくて、社会的モラルのない会社、不祥事を起こす会社に対しては株の投資をしないし、逆に投資をして発言して株主総会で経営を改善させるという。
 彼らは一人で活動をしているかというとそうではなくて、ある団体を作ります。その団体がいわゆるNPOです。
 アメリカの場合、NPOといいますとそこに寄付をすると、寄付控除ができますよという団体なんです。元々は税法上の概念です。
 そういう団体が組織を作って動いて、それを目の当たりにして、これは面白いなあと思いました。

 当時はNPOという団体はアメリカでは寄付控除を受けて、しかもかなり財政的な基盤ももっている、いわば会社みたいなものだけれども、儲けて配当するということを目的とするものではなく、あくまで市民団体という認識で終わっていました。その後、多少、福祉のボランティアをやってまして、その時に一番感じたのは、福祉系のボランティアというのは組織力が全然ないんです。
 で、結構わがままなんですよ。福祉をやってみて、語弊があるかもしれませんが、意外と社会的な目的とか、倫理観とか、この世の中を変えなければいけないとか、困っている人たちを助けなければいけないというミッションが強いかというと実はそうではない方が多くて、これは感想ですけど、趣味でやっている。行きたくないときは行かない、学生さん、今日は風呂に入れてやってよ、これは困ったことだとなる。で、だんだんそうなってきますと、介護とかボランティアを受ける側が要求水準が上がってくると素人が趣味の世界でやるような介護だと満足できないし、来てもらっても困るという形になってきます。専門的なボランティアが欲しいねとなっています。
 そういうのを組織化するのは難しいのかなと日々、暮らしておりました。

 仕事のからみで会社をやめて9年前に秋田に帰ってきました。一年ほどたった時に青年会議所に入りました。
 その時、日本青年会議所ではこれからはNPOの時代だから、NPOを研究せいとなり、何故か私に白羽の矢があたりました。
 当時はNPOなんて誰もわからなくて、ただNPOを勉強していくと、完全に組織論だなと思いました。
 今、NPOとして法人化できるんですが、営利法人との最大の違いは、配当するかしないか、出た余剰は次の原資に廻しなさいというのがNPOに求められた姿なんです。
 その構造を耳にした時、これはもしかしたら、自分の商売やばいなと思ったんです。
 最初の私の問題はそこです。何もNPOでまちおこしをしようとか、そういう意識ではなかったんです。つまりNPOというのに名を借りて、有償で事業をやっていい訳ですから、配当負担があるかどうかですから、当然NPOが強い。課税対象にしても減免措置もあります。
 これはNPOということで社会貢献するんだという色で、企業にとっては脅威になるんじゃないのかなと最初に問題意識がそこでした。
 それにもう一つが組織論立てに申し上げましたが、ボランティアをやっている皆さんを集めて、組織としてきちっと専門性の高い社会貢献活動をしていくことと、会社を興してビジネスをやっていくということは完全にレールは同じ。登記の問題にしてもやり方が同じです。
 これは会社を興すベンチャービジネスと、NPOをベンチャーするということと全く同じ世界なんだなと。
 私は先ほど、ミスターNPOと言われましたが、大元は商売人ですので、この9年間NPOへの視点は経済人としての眼でしか見てません。
 いろんなNPOが抱えている問題というのは、企業経営をやっているうえでの色んな工夫で解決できるというのは皆さんわかっております。
 そこから着目してNPOの問題に入っていくべきと思います。
 8年前、丁度NPO法ができるか、できないかという頃ですが、私が青年会議所で最初にやったことが、まずNPOを勉強しましょうということと、NPO法人を作って専門性の高い社会貢献活動をやることと、営利法人を立ち上げてビジネスをやるということの違いが何なのかに着目してシンポジウムを開きました。 
 当時、色々文献をあさったりしまして、播磨靖夫さんという方、この方は奈良でたんぽぽの家という障害者の為のケアセンターをやっています。彼が何が凄いのかというと、助成金なんて貰ってないんです。
 自分の所で障害者の方々に色んな作業をさせてその収益でちゃんと黒字経営をしています。黒字をだした分はケアハウスの建設資金に廻しています。それがかなりの規模で行われている。この人凄いなと奈良まで会いに行きました。驚きました。
 エイブルアートという言葉があります。可能性の現実といいます。障害者の芸術作品ですね。         (続く)

去年横手の県立現代美術館で展覧会がありましたが、障害者の方々の芸術作品を世界のコレクターに売っているんです。何号二百万で売れましたと平気でやっているんです。(続く)
 呑 風 日 誌 抄
1月元旦(日)朝、由利本荘市の実家へ。11時から兄と新田一礼祭へ久しぶり。寿会に入会許可のお願いの挨拶をし、ふるさとの懐かしい方々と一献。小林新氏宅で又、一献。
 3日(火)秋田市大町ビル。恒例の秋田箱根駅伝の会(嘉藤晋作会長)箱根駅伝をテレビ観戦しながら箱根駅伝出場者達と多献。鷹巣農林高校の北林強校長も初参加。元アスリート達と愉快な佳き酒。
 4日(水)彌高神社へ家族で初詣。我が家の神様北嶋昭宮司にご挨拶して、南通の焼肉大昌園へ。さすがに旨い。
 5日(木)早朝、大雪で車が埋まり、出られず。東京に帰る娘を秋田空港に送っていけず、タクシーも呼べず、リムジンバスのバス停まで歩いて送る。
 8日(日)秋田ふるさと塾事務所から机、椅子等を由利本荘市東町の事務所へ運ぶ。佐々木敬助次長と清吉ラーメンを食べて、秋田市に戻り、自宅で一献。
 9日(月)東海林太郎音楽館。大雪で暖房がきかず、室内温度13度。雨漏りでコンピュータがいかれた。大雪で来館者もおらず、2月まで土日、祝日のみの開館を検討。
 11日(水)大曲市の歯科医・船木康博先生から東海林太郎の秋田中学卒業記念写真が送られてきた。貴重な写真の裏側に人名、教師には渾名入りで面白い。音楽館に飾らして頂く。感謝。
 12日(木)県庁地下喫茶室にて佐々木孝先生と森川恒氏と「まめまめ倶楽部」の話。
 13日(金)秋田市・平安閣。秋田青年会議所新年会へ。
 14日(土)由利本荘市へ電車で向かう。とみやにてお菓子を買い、岩指明夫さんから車で本荘第一病院へ送ってもらい西目町の池田頴生さんのお見舞い。由利本荘ベースボールクラブ(YHBC)の鈴木貢副会長から黒沢大助商店の黒澤大司氏を紹介される。事務局長にお願い。小園旅館にて野球部スタッフとの打ち合わせ。全国で地域密着型クラブチームの組織化を目指している潟`ームベースボールキッズの広瀬明佳さんと秋田修英高校の菅原先生がゲスト。広瀬さんから地域密着型チームの幹事球団にと要請、快諾。欽ちゃんチームとの試合をこの夏に由利本荘市で可能性あり。スタッフとの新年会で懇親。二次会へ佐々木正人、市雄両氏と。市雄さん宅に又、やっかい。恐縮。
 15日(日)元本荘市議会議員の金子眞一さん宅に寄り、東海林太郎音楽館の畳を補修してもらうことに。本荘駅まで送って頂く。秋田市・東海林太郎音楽館で土日祝日のみ開館の貼り紙。
 17日(火)秋田県社会福祉協議会へ。工藤幹夫監督と佐々木満会長へ挨拶。しばし野球談義で喜んで頂く。秋田聞き書き学会の笈川卓也次長に会報作成のお願い。
 19日(木)午後、由利本荘市の黒沢大助商店へ工藤幹夫監督を案内。由利本荘市教育委員会の佐々田亨三教育長に挨拶。工藤幹夫野球教室を来年度から市内小学校から要望を取ることに。YHBCの地域貢献事業の一環。
 21日(土)由利本荘市・ホテルアイリス。本荘高校OB、PTA新年会。懐かしい方々と久しぶり。はまなすにてYHBCの野球部選手ミーティング。主将に高瀬和幸選手が選出。渡辺淳一コーチが選手に、誇りを持って、出会いを大切に、明るく元気と訓辞。私は、社会貢献をして亡くなった須田嘉太朗君の分まで青春しろと挨拶。
 24日(火)朝、大内町の折渡地蔵祭りへ。かんじきを履いての祭りは世界でここだけ。80歳になられる高橋喜一郎会長を先頭に千体地蔵の丘に登る。頂上から下る途中、高橋会長が寝姿観音だと教えてくれた。東側の山々が観音様の寝姿にそっくり。ふるさとの美観に感動。
 夕方。旧本荘市のとりとんにていろり塾由利支部の会合。昔作った由利本荘ふるさと創造研究所の面々。こだま凧の会の伊東愛子さん、中学時代科学クラブの恩師・河村正徳先生(由利本荘サイエンスクラブ指導者会代表)とも会えて嬉しい。
 27日(金)由利本荘ふるさと塾。東町事務所。講師の田口昌樹先生と一緒に高桑賢二船長から送ってもらう。20人もの仲間が集まってくれた。演題は「菅江真澄と由利本荘」菅江真澄が初めて秋田に入ったのが31歳の時、庄内から象潟、本荘へと入ったと教わる 菅江真澄の旅を由利本荘の観光開発に役立つお話しを頂いた。深謝。
 28日(土)バリアフリーネットワークの佐々木孝先生達が始めた秋田市中小路ビルの「まめまめ倶楽部」へ、脳血管センター鈴木一夫先生の「健康を保つ秘訣」の講話を拝聴。
 夜、由利本荘市のふるさとネットワークの月例会へ。
 30日(月)夕方、榮太楼旅館。東海林太郎音楽館運営委員会・役員会新年会。今後の運営についての相談。