ふるさと呑風便 NO,212 06.12
土光さん。
去年の今頃。秋田市はもう根雪になっていた。
ふるさと由利本荘市は広い。神奈川県ほどの面積。海辺の町の道路は乾いていても、鳥海山の麓の村には雪がもう1メートルも積もっていた。
旧東由利町の杉森という集落には所々に雪が残っている。
12月初め。ここの山間を東由利をおもしろくする会の小野克弘会長と総務部長の小松幸輝氏に案内をお願いした。
田五作のゴンキこと小野会長は、畑山さんという方に私を次のように紹介してくれた。
「昔、農近ゼミの頃、経団連の土光会長に会わせてくれた人です」
想い出した。
小野氏は昭和53年当時、秋田県農業近代化ゼミナールの企画部長だった。彼はゼミバスを企画して、真冬に関東圏の各地へ視察と研修を行うという画期的なイベントを実践していた。
私はゼミバスに役所を休んで二度参加し、もういいだろうと考えていたらちがってきた。当時、歌手兼農業の彼が電話でいった。
「ミチオさん。今年のゼミバスは、経団連に乗り込みたい。農業の国際分業を唱えたりしていてけしからんのです。誰か知り合いがいませんか」
そこで心友の土井脩司が頭に浮かんだ。彼は学生時代にベトナムの孤児救済運動をおこし、経団連の専務理事で財界の金庫番といわれた花村仁八郎氏に可愛がられていた。
土井に連絡してお願いすると後日、役所に電話がかかってきた。「大変だ。土光さんが農業青年と会いたがっていた。いい機会だと秋田の農業青年と会ってくれることになった。おまえも来ないとダメだぞ」
土光さんとは、 第2臨時行政調査会会長となった土光敏夫氏である。国民の期待を背に受けて、臨時行政調査会会長に就任した土光敏夫。「メザシが好き」ということからついたあだ名は「メザシの土光さん」。
古武士のような、明治男ならではの頑固そうな風貌。道を間違えれば、総理大臣であろうが怒鳴りつける迫力とエネルギー。その姿は、国民の喝采を浴び、改革の期待を一身に浴びた。
昭和53年2月9日。東京大手町の経団連ビル。待合室には当時の農業近代化ゼミの安藤豊会長(現県会議員)他、11名。
彼らに土光さんと会うのにどんか服装がいいですかと聞かれたので、百姓の格好がいいよといっていた。
私は、前日、市川の土井の家で飲み過ぎ、東京駅のコインロッカーに預けていた背広をとる暇がなく、セーター姿で駆けつけた。待ち受けていた秋田の農業青年達は何と、ほとんどが三つ揃いの背広姿だ。
すぐに経団連ビルの7階会議室に案内される。エレベーターの中に張り紙があり、「土光会長と農業青年が語る会」と書かれていた。時間は45分間だと秘書の方かた申し入れされている。 三つ揃いの農業青年達はだんだんと緊張感が増してきた。
会議室に通され、13人は奥のテーブルに座らされた。
財界総理といわれ、総理大臣をも叱りつけることで有名な土光さんを待った。
来た。新聞やテレビで見る顔。背は低いががっちりとした格好。
風圧がある。「やあやあ、ようこそお出でになりました」といって私の斜め前に座られた。
手を伸ばせば届く距離。土光さんはボケットからタバコを取り出し、プカプカと吸われる。ハイライトだった。
司会役の小野克弘氏が、お会いになられることにお礼を述べ、いきなり国際分業論の話をする、 そしたら、土光さんの怒号が発せられた。(続く)
ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★平成18年7月28日(金)
★ふるさとネットワーク事務所
★「夢のあるまちづくり」2
★前川盛太郎氏(元岩城町長)
その内容は「本荘の秋田病院が岩城道川病院に統合され、本荘は廃止され道川病院に再編整備されるなる内容」であります。「私がその書類を書いて上に上げておりますから間違いない」と教えて頂きました。30年夢を追いかけて住民悲願の実現の時が来たと感激の極みであり胸が振るえました。
私はあまりの嬉しさにこの人に何かを贈るか、ご馳走しなければと思いましたが、お金も無いし、役人であるのでご迷惑をかけてはならないと思い、只心から感謝してお別れしました。未だに手紙のやり取りはしておりますがやっぱり素晴らしい人との出会いが夢を実現することになるとしみじみ思い知りました。
私は平成11年の任期で病院建設の夢の計画を後継の加藤町長に託して8月に退任いたしました。
平成16年に統合した病院整備が完成して350床の近代的病院に生まれ変わり、祝賀会が開催されました。三度の廃止の運命をかいくぐり夢を追い続けた30年を振り返り感慨無量でありました。
私は町長になって道と水の解決発展が願いでありました。岩城町には9キロの海岸線があります。
この母なる海に漁港が欲しいとの願いを住民も関係者もみんな持っておりました。そこで日本の外洋で始めて作られております島式漁港についてお話したいと思います。昭和50年代初め頃であったと思いますが県に漁港を作って頂きたいと正式に要望しました。
しかし西目や松ケ崎に作ったような春になると砂が入り舟の出入りができない、日本海の冬季波浪は物凄く怒涛となって砂と一緒に荒れ狂います。その砂が港の中に入って砂を溜めて残してしまいます。漁港は大変なお金がかかる訳ですからそんな港は作りたくないと思い、出来たら砂の入らない漁港を作りたいと思っておりました。
丁度その頃由利地方部の土木事務所長をされていた佐々木さんという人が町長これを見て言って一通のパンフレットを持ってきてくれました、読んで見て驚きました。「今までの漁港づくりはだめである、これからの砂浜漁港は島式漁港を作るべきである」と書いた元農林水産省漁港部の坂井漁港部長の論文でありました。
前は漁港は農林水産省が所管していたものでし。昭和61年に県庁から道川に築港の申請をしていたが7年かかって、やっと採択になったから来年度から予算がついて工事が出来る旨連絡がありました。 私はお礼方方、県庁にいって「沢山のお金をかけて折角港を作っても砂が入って使い物にならない港は作りたくないので予算を付けて仕事をする事は見合わせて頂きたい、私の作りたい港は港に砂の入らない島式漁港であるので切り替えて頂きたい」とお願いいたしました。
県の水産漁港課長さんが「お金の沢山かかる島式漁港はまだ聞いたことが無い、今採択になったのもやっとであるのにそんな事はできない」と馬鹿な話と言わんばかりに言葉は丁寧でありますが断られました。
私はこれで締めてしまうと悔いを千載に残し、生涯後悔することになると思いそれでは農林水産省に直接要望陳情しようと決意して行ってみました。
漁港部計画課が窓口であり福屋課長さんが応対して話を聞いて頂きました。一応説明要望終わってから課長さんから「喩え国費と言えども砂丘海岸の漁港はうまくつくれないのでこまっております、これからは島式漁港が一番良い方法だとおもいます。
私は岩城の島式漁港を日本の砂丘海岸のモデルにいたします、頑張って下さい」激励されて驚きました。その上で「沢山お金が掛かる島式は小さい岩城町ではお金も無いし、技術も無いので作れないと思う、やるならば県営にして作りなさい」と激励し話をして下さいました。更に「私の家内は秋田県若美町出身です、私は秋田の応援隊長であります、頑張って下さい」と重ねての激励に涙が込み上げる感激であり忘れる事が出来ない思い出であります。
帰って県庁に行って「県営」の話をしたところ「前例の無いことはやれない」水産漁港課の話でありました。
県庁の職員は大方前例のないことをやらないことが無難と思っております、皆さんがそう考えていたら進歩が無い事です。私は前例が無いからこそやる価値があると思いました。私は佐々木知事に「岩城だけがどうしてそのような漁港をつくるのかといわれるでしょうが、我が秋田県は大変長い砂丘海岸を持っております。岩城だけでなく未来の秋田のために国が折角モデルにして上げようと言っているので島式漁港を県営で作って下さい」とお願いしますと、哀訴懇願し毎度お願いしました。
三年掛かりでお願いいたしましたが、佐々木知事が平成元年に県営でやりましょうと決断され事業着手を決めて頂きました。普通、町の負担は25%ですが、町の負担は10%で港造りが始まり18年になりました。
今年あたりは島の作業口を止めて船が使えるようになると思いますが、まだ完全には出来ておりません。これから防波堤に取り掛かり、船の出入りが出来、停泊出来るだろうと思います。
18年掛かって夢が姿を表して参りました。
私が町長時代の平成19年に大正琴の佐々木嶺松先生と島式漁港の話をしてその港の広場、今の道の駅に「浜辺の歌」の記念碑建てたい、浜辺の歌は成田為三先生が道川海岸を散策して曲想を練られたと長い間道川に言い伝えがありましたからと、冗談のように夢物語を話した際、嶺松先生が「全国の皆さんから浜辺の歌は道川海岸で成田先生が作られたと認知して貰う事が先決である」と語られ全国の音楽関係者に「島式漁港の顛末とその道川海岸で成田先生が浜辺の歌の曲想を練られ、作られたことの言い伝えを紹介して、浜辺の歌にまつわる思い出を書いて貰いましょう」と提案を頂きました。
そこで全国の音楽関係者に音楽誌を通して募集しました。
その結果、36都道府県から何と226人の応募がありました。
その内容は幼い頃の父、母との「浜辺の歌の」思い出であり、戦時中故郷を思って歌い心を癒した思い出であり、青春時代の思い出とだぶらせたり盛沢山でしたが、只の一遍も道川海岸でない、或いはその内容は嘘だとか、駄目だという記事はありませんでした。
その入選作品の応募者や町民の代表と来賓のみなさんで平成9年9月に盛大な記念式典を開催しました。この応募作品をそのまま埋める事は勿体無いと思い応募作品の中から、150編を選んで「浜辺の歌思い出集」を出版しました。
この事で浜辺の歌は岩城道川海岸で作られたことを全国から認知されたと思います。私は続けて「浜辺の歌」の音楽が流れる道の駅にしたいと思いましたが、私の在任中に道の駅が完成しておらず98%程作って退任したものでした。ですから最後の仕上げの歌碑は手をつけることが出来ませんでした。
私はもういい年ですから余生を静に送りたいと思っておりました。
佐々木嶺松先生が私が町長在任中岩城出身の誼から大正琴花かげ会の後援会長に祭りあげてやらせております。 佐々木先生は亀田生まれで生家はみねまつ堂と言った雑貨屋でありました。 故郷が大切な嶺松先生は幼い頃の思い出である生家の名前を読み替えて嶺松と雅号を命名しております。 その縁で私も懇意にして頂いておりますが感性豊かな音楽家であり、素晴らしい芸術家であります。一昨年秋田県大正琴の7つの家元や団体が嶺松先生の音頭で纏まり秋田県大正琴連盟を結成致しました。会員一二〇〇人おりますが私に会長をやれとのことで只今会長になっております。
私が浜辺の歌の歌詞が心残りであった事を知っている嶺松先生が「浜辺の歌は全国いや世界に誇る名曲であります。是非岩城で「浜辺の歌の音楽祭」をやることを私が先になってやるように勧められました。
それでもなかなか動かないことから佐々木三知夫さんと一緒になって「町興し」であると勧めるので又夢興しを決断したものです。その上お前が先棒を担いでやれと言う事で「浜辺の歌」音楽祭を実施することになりました。
又ぞろ夢を追い駆けることになってしまった訳です。その後話し合いをして実行委員会を立ち上げ「浜辺の歌、町づくり委員会」と命名して準備しております。
どんな音楽祭にするのか、全県から最高の楽器持参の上演奏家に集まって頂きその楽器の演奏をやりながら、合唱も入れる事にして、優れた幾組かの合唱団による合唱もやり、浜辺の歌の外に一曲づつ得意な曲を演奏するか、歌う今までに無い音楽祭をやろうと決めております。
この音楽祭は只一回だけで終わる事無く、これから何十年と続けて催して、やがて浜辺の歌の音楽が浜辺に流れるような「浜辺の歌」の町を創ろうと実行委員会で話し合っております。
この間柳田市長さんが道川婦人会80周年記念式典にお出でになり、祝辞の中で大変浜辺の歌を褒めて話して頂きました。
私も続いての祝辞の中で「柳田市長んに感謝を申し上げ、今年9月に浜辺の歌の音楽祭をせいだいに開催する事で準備を勧めております。将来は道川の浜辺に「浜辺の歌」の曲が流れる町にして歌碑を建てたいと思うので市長さんなんとか応援をして実現できるようお願いします」と申し上げ「皆さん拍手して市長さんにお願いしてください」と申し上げたら婦人会の皆さんと一緒に市長さんも拍手していただきましたので力強い応援を頂いたと思って喜んでおります。
私が居なくとも「浜辺の歌の音楽祭」は出来ると思いますが、夢の実現は一人だけでは町づくりにならないから駄目であり、出来るだけ多くの皆さんから応援して頂いて、地域全体がそう思って合意して貰わないと長続きできないし、町づくりになりません。
私はプラムからワインを作りたいと夢を描きましたところ、笑われましたが実現致しました。
50万本売れたら工場を建てようと社員と語り合いました。
普通の工場では面白くないので城型でしかもワインの貯蔵の事があるので山の高台に建て地下貯蔵庫を併設しようと話をしてちくりましたがどんどん夢が広がったものでした。旧本荘市の佐藤八十八さんがら親子三代に亘って集めた美術品の寄付を受け美術館である亀田城を立てました。裏側に茶道裏千家の千宗室家元様のご指導を頂いた茶室天鷺庵を作り流派と関係なく呈茶と交流する施設も創り、町の文化の象徴と位置づけ文化発展礎とした夢を掲げました。後何分ぐらいですか?もう15分で終わりますが今亀田を通ている国道341号でありますが、私が三期めに建設省にお願いして国道昇格を果たしたものです。
その昇格運動で忘れられない思い出があります。その当時建設省の道路局長は名前を忘れました。 後で道路公団になった人アア藤井さんでした。或る日国道昇格の陳情を村岡先生の秘書の宇佐美さんとお願いに言った際、今日は暇だから腰を降ろして休みなさいと言われたので局長室で四方山話をしました。
たまたま高速道の話になりました。その当時は岩城にインターの予定が無い時代でしたので「インターを作って下さい、」とお願いすると「普通インターは30キロ離れて人口3万人をカバーする地域で無いと作れない」と地図を広げて説明されたので、私は「そんな杓子なことだけの話でなく、利用人口で考えてください、私の町は年間百万人の観光客がきます」と多少法螺をふいて「三万人住んでいる事は必ずしも高速道の利用者が多いとはならないと思います。
人が沢山来る事は高速道路を利用する事になります。是非インターを作って下さい」とお願いし陳情したものでした。宇佐美秘書さんも私と同じくお願いしていただいたものでした。
それから四年後日本海高速道の河辺と岩城間の予定路線の説明がありましたが「岩城インター」が作られることになっており驚きました。その前に国道341号の昇格が決定しておりましたが、道路公団時代藤井総裁は悪代官のように悪く言われておりましたが、私には国道昇格とインターを作って頂いた恩人であり、思い出の人であります。昇格した国道について平成二年に私の在任中に「国道バイパスを作りたい」と思う夢を描いて県にお願いしました。
だんだんお金がなくなる時代となり工事が出来ませんでした。その後工事着工となり来年か更来年には赤平から富田までのバイパスが完成するものと思います。
平成四,五年の頃富田のバイパス予定地付近に道路が通るからと説明して老人保護施設を誘致しましたが、その後ケヤハウスやグループホームが出来ましたがバイパスは来年以降になる状態です。
夢の実現には長い年月が懸かります。何れにしても夢が地域の皆さんと共にある事は地域の発展になると思います。
今の役場の職員で何処の町でも私の方にはこのような夢があります。私はその夢の実現のため頑張ります、という地域は殆ど無いように思います。私は何をやると言う事よりは住民と夢を語り合う事が出来たら素晴らしい地域になると思います。
失敗やリスクを恐れては何も出来ない。どうやって失敗を克服するか、リスクを頭に入れて取り組んだら素晴らしい由利本荘市になれると思います。
呑 風 日 誌 抄
11月1日(水)象潟町小砂川。親戚の伊東善市さんの葬儀。囲碁の好きな優しい人だった。幼なじみの顔が懐かしい。直会が象潟シーサイドホテル。
3日(金)岩谷会館。大内町大正寺会。元雄和町町長の工藤清一郎さんの代理役で出席。
4日(土)夕方、旧西目町シーガル。国際交流の会へ。長年、国際交流に貢献されてきた池田頴生さんの案内。国際交流員や海外技術研修員達が出席。
6日(月)旧大内町の楢渕寺。
長年、大内町の産業振興に多大な貢献された東海林鐐さんの葬儀。
2週間前に、私の亡き兄拓夫との同級生の会、白砂会の名簿をいただいたばかりであった。(合掌)
8日(水)大内町山村活性化センター。新田集落営農の設立総会への役員会。担い手農業の育成を図る集落営農。兄不二夫が町内を説得してここまできた。いろいろと問題があろうが、やってやろうじゃないかの精神でいきたい。
9日(木)朝、恒例の岩谷町の佐々木豆腐店にて豆乳を買い、佐々木誠社長とじっくり話し。
10日(金)夕方、鳥海町笹子(じねご)へ。笹子の地域づくりのリーダー、鈴木一成さんが主宰する「もへの会」へ。瀬浪晶氏、高橋徳誓氏と。彼は笹子小学校の寄宿舎を借り受け、会の集会所にし、玄関にはお手製の人力車が待っている。鈴木氏のリーダーシップには感服。
11日(土)旧大内町の元町議佐々木福次郎さんの葬儀へ。恰幅のいい紳士だった思い出。小さい頃から私を知っている町を創ってこられた先人が逝かれ、残念。(合掌)山村活性化センターにて新田集落営農の設立総会。まずは無難なスタート。
12日(日)農業改善センターにて大内町連合婦人会50周年記念式典。秋田ふるさとづくり研究所所長として紹介される。
午後。岩谷会館にて岩谷若者会へ。夕方から本荘グランドホテルにてライオンズクラブの例会へ。
13日(月)旧本荘市のテンダーにて、画家・五島まさおさんの講演会へ。鳥海山の水彩画のフアンだった。学識豊かな講演が興味深い。集まった女性の好きな花を聞くと、バラが多い。
16日(木)夕方、旧本荘市の安楽温泉でのボージョレヌーボーの会。司会の阿部十全氏から舞台に立たされ、ドラムを10秒間、叩かされる。
19日(日)朝7時。秋田放送のラジオで全国に流された。「里帰りラッパが行く」。小生が事務所内に造った里帰喇叭神社が紹介され、サイパンで戦友を亡くした大仙市の鈴木さんにその喇叭を見せたら声を忍ばせて泣く声が響く。その後に出羽中学校の音楽室で女ブラスバンド部の女生徒達に戦争の話をしたが、終戦前日、土崎空襲で30数名亡くなったといってしまった。実際は92人も亡くなったのである。反省。放送の提供が倫理法人研究所だった。
午後、大内町中館の堀ユウさんの葬儀出席。
20日(月)夕方、本荘グランドホテル。由利本荘商工会会員交流会。同志・菊地昇さんの永年勤続功労賞受賞祝賀会でもあった。
21日(火)夕方、旧本荘市のグリルカインド。息子洋平の誕生祝い。かみさんと3人。31歳にもなった。東京にいる娘の江津子に電話するとカインドのエビフライは最高、又食べたいという。
22日(水)由利本荘ベースボールクラブの役員会。クラブ事務所にて。選手選考会の合格者の正式承認。来シーズンはクラブ選手権出場を目標とする。
23日(水)山村活性化センター。新田町内会の収穫祭。佐々木作治民謡ショー。かみさんと参加して良かった。生まれ故郷のみんなから激励を受ける。
24日(金)JA秋田しんせいの大内支所へ。窓口で準組合員の申請。旧岩城町のウエルサンピアにて天鷺ワインパーティへ。
25日(土)旧西目町湯っこランドにて民謡同好会(井島市太郎会長)へ。東由利のフランス鴨と大森ワインパーティへ。このパーティは雪上野球大会がきっかけ。東由利軍団と大いに飲み、主催者の金子拓雄さん宅にやっかいになってしまった。
26日(日)昼、旧本荘市深沢。夕陽の見える日露友好公園にて「日露友好のつどい」主催が深沢露国遭難漁民慰霊深沢委員会と深沢町内会。この運動の火付け役として来賓挨拶。実際に日露遭難漁民の慰霊碑建立は、地元の方々が先人のおこなったまごころ行為に感動して、造られたもの。これを次の世代に伝えていってほしいと挨拶。懐かしい方々と美酒。
27日(月)安楽温泉にて元本荘大内会(武田貞二会長)の思い出を語る会へ。ふるさとを想う心は皆同じ。秋田市大内会副会長として出席。本荘グランドホテルへの由利寮の役員会へ特別出席。
30日(木)この日、夕方まで旧大内町2651軒の全部の挨拶回り終了。先導役の方々のお姿に感激、感服の3週間だった。