ふるさと呑風便   NO,211 06.11

   五勝六敗
 
 5勝6敗。これが我が由利本荘ベースボールクラブの今シーズン公式試合の戦績。 
 10月22日の納会で工藤幹夫監督が挨拶で、今年は1勝もできないのではないかといっており、満足できる成績だった。その5勝6敗を振り返ってみたい。
 初戦が5月3日の日本野球連盟春季大会。八橋球場で、対JR秋田。最初が企業チームだ。それでも三浦貴喜選手のホームラン、佐藤健投手の好投もあって7回まで2対1とリードしていた。ところが8回裏、佐藤投手が崩れ、リリーフの斉藤祐司選手も打たれ何と8点をも献上しコールド負け。
 二戦目が初勝利だった。こまち球場での全日本クラブ選手権。5月20日。対能代松陵クラブ。佐藤健投手が完封、岸野慶太捕手のホームランもあって7対0の完勝。
 3戦目がこまち球場。宿敵となろうユーランドクラブ。前半リードしていたが 後半に打たれリリーフももたずに9対3で逆転負け。
 都市対抗試合がこまち球場。対経済法科大学交友クラブと対戦し、6対2で快勝で二勝目。二回戦がユーランドで後半打ち込まれて逆転負け。
 どうもリリーフ、火消しが弱い。そこで、ツバサ広業のご協力を得て、由利本荘消防署(福岡憲一署長)へ火消しにあやかって、火の用心の横断幕を寄贈。由利本荘市の国立療養所跡地の7号線に幅6bの夜でも光る横断幕が設置されている。これは「市民に愛され、地域に貢献」をモットーにする我がクラブの地域貢献活動の一環である。
 5月7日は、由利本荘市の水源の森に選手達も参加し、バットになるアオダモの木を200本植樹。
 10月28日には、鳥海山にブナを植える会の植樹祭に参加し、ブナを植樹。これには市民に愛され地域に貢献と書かれた大漁旗を持って参加。鳥海山の絵が描かれているこの大漁旗は秋田職人の会の工藤幸彦会長の協力の賜物で誠に有り難く、来シーズンには応援旗としても使いたい。

 魁星旗リーグの初戦が能代松陵クラブ。初勝利した相手だが、8対5で思わぬ敗戦。同じく秋田王冠クラブにも13対8と逆転負け。互大設備には8対1で快勝。日本選手権予選でも同チームと10対4で大勝。二回戦でJR秋田と再選したが、9対0で完敗。
 最終戦が10月1日。TDKグランドで大曲ベースボールクラブと対戦し、9対3で大勝。
 八つのクラブチームの中では3位の成績である。

 来シーズンに向けて10月22日に鳥海球場で選手選考会を開いた。17人が受けて9人が合格した。今年は面接も行った。球場の役員室で17人全員から志望の理由を聞いた。
 中の一人、斎藤喜則君がいった。「亡くなった須田嘉太朗さんの分まで野球をやりたくて受けました」
 須田君とは去年の選考会で合格しながら三日後に交通事故で亡くなった選手。初戦のJR秋田戦ではベンチに彼の遺影を飾った。斎藤君は象潟中学校で須田君の一年後輩だった。

 後日、斎藤君のお姉さんから携帯に電話があった。
「お陰様で喜則が合格でき、須田嘉太朗君の祭壇に合格通知を飾っています。実は選考会の前日、須田君のお母さんから形見だといって須田君が甲子園から持ち帰った土と甲子園の記念タオルを持ってきてくれたんです。合格できたのはそのお陰だと思っています」
 来シーズンの目標はクラブ選手権出場。須田君の分まで活躍する斎藤選手が楽しみである。
 ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★平成18年7月28日(金)
★ふるさとネットワーク事務所
★「夢のあるまちづくり」
★前川盛太郎氏(元岩城町長)

皆さん今日は。ご紹介いただいた前川です。
 私の町長退任が早すぎると皆さんから言われておりますが、その理由はやっぱり歳というものを考えなければならないということです。一番の問題はもの忘れであります。自分がある時、思っても忘れてできない事や、。その思いが間違っていたりし、とても町民の先になってものをやるような歳ではない、町民の皆さんに取り返しのつかないご迷惑をかけることがあってはならないと思って辞めました。

 私は28年間町長を務めさせて頂きましたが、振り返って「夢と出会い」、それが私の人生であったと思っております。
 今、由利本荘市に合併したので何か良いことが沢山あるだろうと期待はしなかったけれども、どうして夢が無い町になってしまったのかなと感じております。
 市の行政と町民が一緒なって夢を語りあい、単に官僚が考えた計画でなくて、役人が思いもつかないことが出来たり、やって頂いたならばどんなに嬉しいだろうなと、こう勝手に思ったりしております。

 先ほど、私の最後の夢ということで司会の佐々木三知夫さんからご紹介ありましたが、そのことをお話しをする前に、私が追いかけた夢について若干申し上げたいと思います。
 私が町長に就任させていただいた時、岩城に国立道川療養所という病院がありましたが廃止になる運命になっておりました。 それはその当時、大蔵省の主計局という国の予算を統括する役所の局長と、厚生省の医務局長との間で、結核が無くなったので「道川療養所は廃止する」と覚書を交換して決まっていたものです。
 私は46年に町長になりましたが、道川療養所は風前の灯でありました。廃止されると岩城は無医村になります。
 以前のふるさと塾では地域づくりは健康づくりだと話したことがありますが、町民の健康がなによりも大切だから、住民の健康づくりをやりましょうと人間ドック検診に3分の2程補助して、みんなでドックに行って病気をしないように頑張るようにと話して、病院も残して住民が健康になるように私自身頑張りたいと決意した訳でありました。
 だがほとんど伝手がありません。どうしたら良いがわかりませんでしたがとにかく厚生省に出かけました。
 ところが最初に行ったときは、けんもほろろで「そんなことはできるか」という話でありました。この時、逆に強く残したいという一念、私の人生を賭けても実現したいと決意したものでした。
 私の町は福島県のいわき市と親子都市の盟約を締結しております。それは昔、岩城氏という殿様がいわき平地方を十八万石で四百年の長の間、統治しておりました。
 しかし、天下分け目の決戦、関ヶ原合戦で徳川に味方しなかった形勢傍観の罪により領土没収となり、浪々の身になってしまいました。その時の岩城氏の殿様は岩城貞隆、隣の常陸太田の藩主佐竹義重の三男でありましたが父義隆の意向に従い反徳川になった訳です。
 一番上の兄佐竹義宣は徳川を応援した訳であり、父が反徳川にあったにもかかわらず罪が軽くなり、兄義宣の功により幕府は佐竹氏を秋田に転封としたものでありました。
 弟思いの佐竹義宣は浪人していた岩城貞隆を不憫に思い、大阪城合戦の冬の陣と夏の陣に貞隆を連れて参戦して勲功をたてさせ、徳川幕府に岩城家の家名復興を強くお願いし、運動をしました。
 その甲斐あって、信州中島に一万石で家名が再興されました。
その後も佐竹義宣は自分の秋田の近くの藩主にと運動を続けまして、秋田の隣の亀田藩に二万石に加増の上、転封さて悲願達成になりました。
 しかし貞隆は不運の殿様でした。その朗報を前に病気で急逝してしましました。岩城氏はそこで貞隆の子供吉隆に跡を継がせ、亀田藩の藩主となり、元和9年に亀田藩に入部して岩城家が亀田の殿様となり、明治の廃藩置県まで続いたものでありました。
 
 私が町長になった当時の厚生大臣が斉藤邦吉先生でした。
 先生は福島県いわき地方を地盤として衆議院議員に当選され、厚生大臣に二回も就任され、自由民主党の幹事長も歴任された実力者でした。
 私はその先生とお会いして「岩城町といわき市は歴史の上で親子関係であります」と歴史を説明して、「岩城町は病院が廃止になることで大変困っております」といい、大臣の応援を頂いて病院を残すよういわき市と同じように面倒を見てください」とお願い致しました。
 人間の縁というものは不思議なものです。私は初めてお会いする先生でしたので相手にして貰えないのではないかと思っておりましたが、「解った。病院を残すよう頑張りましょう」とお話をして頂きました。
 その後、昭和49年に病院を残すことに決定してもらい、昭和51年に50床の病棟を新築して頂き病院存続の悲願が達成されました。
 これで当分、病院は大丈夫と思いましたが、世の中はどんどん変わっていきます。
 国はこれから国立療養所で一般病症の診療をやめて、難病のような不採算医療の診療に限定するという方針が打ち出されました。
「俺ら方の病院は又駄目になるのか」と思いましたが、可能性がある限り夢は捨てるべきでないと強く決意しました。
 その難病というのはどんな病気なのが、何があるのか見当が付きませんでした。が、斉藤厚生大臣から応援して頂いた際の部下の職員の方と知り合いになり懇意にしていた方を厚生省に訪ねて、厚生省の方針を聞き出しました。
「現在、国は筋萎縮症という難病を治療研究することにしております」その難病は今、筋ジス病といわれる病気で、だんだんに筋肉が縮んで歩くことができなくなり死んでしまうという恐ろしい病気であることを知りました。
 俺らの町にその病気を治療する病棟を建てることができないかと咄嗟に思いました。
 人はやはり運です。その難病のことを教えてくれた役人が更に「現在国は、筋ジス病を治療する病棟を全国の療養所の内、八カ所に建設することにしておりますが、7カ所が決まり後一カ所が決まっておりません」と教えてくれました。
 そこでその病棟建設に猛烈に運動致しました。その結果、昭和57年に筋ジス病の治療棟40床と普通病棟50床を増築して頂き、百四十床の病院となり、夢が実現し、立派な病院になりました。
 これで今度は大丈夫だろうと思いましたが昭和58年に橋本内閣の時代に行政改革の方針が打ち出されました。
 それは行政調査会をつくり行政の在り方と改革について検討の上意見を答申する調査会であり、病院や療養所についても検討することになったものです。
 結果として今後三百床以下の病院、療養所は統廃合して三百以上の適正規模に整備することに決定されました。
 又、病院を残す努力をしなけけばなりません。しかし統廃合であるから、小さいから夢が消えた訳ではないでの、一層努力して残したいと決意して運動しました。町会議員の皆さんにも一年一回ほど厚生省に要望、陳情に行って頂きましたが、私は毎月厚生省に通いました。
 やはり世の中、人との出会いであり、縁であります。
 結果、昭和61年に本荘の国立療養所秋田病院を岩城の道川病院に統合再編して道川病院を整備するとの整備計画がニュースとして発表されました。
 私は厚生省から情報を得て知っておりましたが、驚愕したのが本荘秋田病院であり、関係地域地域住民でありました。
 まさか百四十の小さい病院に四百五十の大きな病院が統合されて本荘の病院が無くなるとは誰もが思ったり、考えもしなかったことであります。しかし、統廃合であるから当然そういうことがあり得るし、そうなると確信しており、それが政治だと思っておりました。

 その後、本荘の関係者、皆さんは地域医療を守れ、残せ一辺倒の運動でした。国は一般病症は地域の民間病院に任せ、国立病院は難病や不採算医療を受け持つとの方針に対して、相も変わらず地域医療のために病院を残せと署名運動などの猛運動しておりましたが、ものになるのかと思っておりました。
 私は密かに、本荘の病院は岩城に統合されると思っておりました。
 私は、東北で三カ所しかない「筋ジス病棟」は残して貰えると思っており、国に筋ジス病棟の増床をお願いしてきました。
 今だから申し上げますが、地域医療でなく、エイズ治療病院にしてくださいと国に要望したならば、本荘と岩城の両方が残った可能性があります。だから夢が大切だと思うのです。
 各地で火が付いたように燃え上がった存続運動もしばらく沈静化したように見えましたが、私は平成十年の暮れに厚生省に挨拶に行き、秋田県中仙町出身の富岡さんという人にお会い致しました。
 この方は厚生省医療局の部長を歴任され、現在イギリスに環境問題の研究調査に派遣されて行っております。

 この富岡さんに重ねて、国立療養所を残す方策についてお願いしましたら、ここまで来たら心配いらないよと言われました。 その上で来年、つまり平成十一年三月に国立病院、療養所の統廃合が閣議決定されますと話されたのです。
(続く)

 呑 風 日 誌 抄
 10月1日(日)にかほ市のTDKグランド。由利本荘ベースボールクラブ(YHBC)の最終戦。カミサンと応援。対大曲ベースボールクラブに9対3で快勝。夕方、旧西目町のハーブワールド秋田にてハーブワールド杯ゴルフコンペの表彰式に出席。斎藤作圓社長のご配慮に感謝。
 2日(月)新田水稲生産組合の販売会議。
 ダグセンターにて。旧大内体育館にて銃剣道の稽古を見学。
 3日(火)夕方、本荘消防署側の魚やにて訪ソ青年の船の船友・阿部悟朗氏、三浦功氏と一献。懐かしき旨酒。
 4日(水)旧本荘市砂子下コミセン。出羽富士鳥海ツーリングウオーク班会議。
 5日(木)朝、六百歳野球の大内千体クラブの応援に農村広場へ。岩城中グランドへ本荘36会の応援。ポポロッコにて伊藤克己先生と。夕方、ウエルサンピアにて六百歳野球の前夜祭。大友康二会長の挨拶が素晴らしい。昔の野球少年達の球友の和(なごみ)酒。
 6日(金)新田無尽講に出て、ホテルアイリスにて由利の地酒を楽しむ会へ。酒好きの旧知の友と多く会える。
 7日(土)芋川を楽しむ会のクリーンアップ作戦。午後、山村広場にてスポ少野球の試合を観戦。
 8日(日)早朝、西目町円通寺へ。佐々木誠一郎氏の葬儀。昼前、秋田市へ水墨画家卓吾を迎え、岩谷事務所二階にて卓吾水墨画初級入門講座。
 卓講師、受講者5人に竹と蘭、葡萄等の絵を描いてくれたので、彼を秋田市の自宅まで送り、落款を押して貰って戻る。
 9日(月)旧本荘市、小松屋旅館。伊藤一先輩の誘いで本荘高校41期、42期同期会へ。
良きアドバイスを受ける。
 14日(土)秋田市飯島、秋田県立大学グランド。東京6大学秋田野球連盟の20周年記念試合。5回投げて引き分け。
 秋田空港へ大学時代中西ゼミ同期の西脇正明と会う。旧友とはいいもの。夕方、平安閣にて記念パーティ。佐々木満会長と共に功労者表彰を頂き恐縮。仲間に深謝。
 15日(日)朝、出羽中グランドにて岩谷地区球技大会。岩谷7区のソフトボールチームで出場。最年長者だったがいきなり満塁ホームランを打つ。昼、ぽぽろっこにて由利牛堪能祭りへ。午後から7区集会所で球技大会反省会。地元に少しはなじんできた。
 16日(月)姉佐々木洋子(行政相談員)をイオンまで案内。浜源にて昼食。円照寺へ。高校ブラバン先輩宅。
 17日(火)本荘文化会館での松生派生け花展へ。相原望月先生を根本柳月先生から紹介していただき、挨拶。
 19日(木)鶴舞会館。退職公務員連盟由利本荘支部秋期大会へ。先輩達からアドバイスを受ける。
 20日(金)事務所内に創った里帰喇叭神社に秋田放送の丹内モモ子ディレクターと松浦アナが来られ、喇叭について話し、国の鎮めを吹き、出羽中学校のブラバンの女子生徒3人から音楽室でトランペットでふるさとに帰ってきた佐々木さんの為にと「ふるさと」を演奏してもらい感激。
これは11月19日、朝7時「音の風景」として全国放送される。
 夕方、本荘グランドホテルにて倫理法人会の例会。岩谷駅前.再会にて二次会。
 21日(土)午後から秋田市大町ビル。秋田ヒューマンクラブ(西木正明会長)の総会へ。「秋田の良さをどう生かすか」シンポ。
 総会後は懇親会、二次会で作家の西木正明さんから「県会の暴れ者になってくれ」といわれる。
 22日(日)鳥海球場。YHBCの来シーズンの選手選考会。実技の後、面接を行い17人が受け、9人が合格。
 旧西目町の加藤昭二先生宅に弔問。夕方、はまなすにてYHBCの納会。
 23日(月)にかほ市のむらすぎ荘。斎藤憲三顕彰会へ。
尊敬する斎藤憲三先生を偲ぶ会。
 25日(水)日本ふるさと塾の萩原茂裕先生を迎え、事務所で懇談。
 26日(木)本荘グランドホテル。明日の由利本荘を創る会(阿部力会長)主催の鼎談「地域づくりとは」ー明日の由利本荘を創るーに作家の西木正明氏、萩原茂裕氏と対談。終わって 佐々木三知夫激励会。前大内町長の佐々木秀綱氏他百六十人程集まって頂き感激。二次会、三次会には西木正明さんも加わって頂き、難儀をかけたスタッフの待つ岩谷町の福寿司へ。
 28日(日)象潟町庁舎。鳥海山にブナを植える会へ。YHBCの選手4人と大漁旗を持って参加。
 29日(日)雨。大内支所車庫にて元祖とろろ飯大食い大会。
 小笠原察雄大内自治区長が挨拶で、この大会は 佐々木三知夫さん達が始めたものといって頂く。有り難し。
 本荘駅前ギャラリーショップ「笑顔」へ女房と。御殿まりの阿部登志子さんの作品は素晴らしい。ここには義母二ノ村武子さんのきめ込み作品が展示されている。
 刺し子職人の井上さんを佐々木溢枝さんから紹介され、刺し子の名刺入れをお願いする。
  
 どんぷう後記
 今月も発行が遅れてしまい申し訳ありません。YHBCの理事長として、公式戦が終わるまでは県議出馬表明を控えていました。
 26日の小生の激励会で出馬表明し翌日の秋田魁新報と毎日、読売の秋田版で報道されました。小生は知名度は薄く、雨の日は長靴をはいて地元の方々へ挨拶廻りをしています。ご支援願います。