ふるさと呑風便 06・1 NO、200
雪の町
この冬の大雪は秋田市では豪雪である。年の暮れ。近くのマンションに引っ越しして、雪の中で、難渋した。大通りは除雪されているが、歩道や小路の除雪は後回しである。
鳥海山の麓の豪雪地帯住む友人に大雪はどうだと聞くと、「こんなのは慣れています」
年が明けて、5日の早朝、一便で東京に戻る娘を、空港に送るはずの愛車・花太郎が雪に埋まって動けない。小路に雪が50aも積もっていた。 お陰で娘はリムジンバスで空港まで行き、バスも遅れ昼近くの便に乗って帰った。
秋田市も慌てて秋田県を通じて自衛隊の派遣依頼をした。
県は平成18年1月8日午後2時45分、秋田市から陸上自衛隊への災害派遣依頼を受け、自衛隊法第83条第一項に基づき、陸上自衛隊秋田駐屯地司令に災害派遣を要請。
これを受けて自衛隊では8日(日)秋田市北部の独り暮らしの老人家屋百軒の屋根からの雪下ろし作業を行った。 派遣人員は193名、車両は22両。自衛隊員は独り暮らしの老人家屋73軒の雪下ろし作業を行い、夜眠れないお年寄りの胸をなで下ろしてくれた。
48年豪雪。身内話で恐縮だが、雪の記憶は新しい。娘が生まれた翌年の2月だった。
九州育ちで雪に慣れていない妻は、大館市の歯医者さんの帰り。娘をおんぶして宿舎近くの佐藤商店前の轍(ワダチ)に足を滑らして転倒。子どもをかばった為、左足首を複雑骨折。お店のおばさんからの電話ですぐに駆けつけたら、母子は泣きわめいていた。 救急車が到着し、サイレンを鳴らして走る後を、自家用車で病院まで追っていった。
妻は大館市立病院に入院、全治6ヶ月。手術した後、赤ん坊の娘を私の実家のおふくろに預けた。その後、熊本から迎えにきた母上と母子は当時、秋田市割山にあった秋田空港から九州の実家に帰っていった。雪が消えた頃、私は秋田市に一人で引っ越した。
あれから十年後。事故以来訪ねたことのなかった妻と大きくなった娘を連れて、大館へ行った。助けてくれた佐藤商店のおばさんを訪ねた。
カミサンとおばさんは抱き合って泣いていた。
妻にとっての雪は恐雪。
小生は楽雪だといっている。
昭和53年の冬に始めた雪上野球の創設者として、雪に負けないで楽しもうという訳。
「大雪でも雪上野球をやるんですが」と全国紙本社の女性記者から先日、電話があった。大雪で雪上野球が中止になったら面白いと考えたのだろう。
「今年もやりますよ。大雪で中止になる訳がないでしょう」と答えた。
2月26日。由利本荘市の東由利球場で開催する。これには我が由利本荘ベースボールクラブのスタッフも出場予定。 選手には二人の自衛隊員もいる。黒木裕道、大庭裕太の両隊員。二人とも独り暮らしのお年寄り家屋の雪下ろしに従事した。黒木隊員は、「おばあさんの喜ぶ笑顔が嬉しかった」と私に語ってくれた。
今月から秋田ふるさと塾を17年目にして秋田市川反から由利本荘市の事務所に移す。 川反塾舎に掲げられていた色紙の額も持っていこう。
湧水の町・美郷町の川柳作家後藤泉里さんの作品である。
ひと愛す
ほかになにあろ 雪の町
(泉里)
ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成17年1月28日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「これで秋田を活性化する」2
★ 日景賢吾 氏(秋田活性化且ミ長)
私は大館でガソリンスタンドをやっていまして、丁度、11月からスタッドレスタイヤの交換時期でして、ほんとに忙しい時期の六か月間でレストランを東京・銀座に開店させました。
レストランをやるために大体、一億かかると言われたんです。
ナマハゲという名前で100坪、130席で、ともかくそのレストランに秋田県を凝縮させようというテーマで私も安田さんも出発しました。
もしかすると秋田県にもこんなレストランがないといわれるくらいに秋田にこだわってやろうと当初から考えました。
我々委員会メンバーで考えた素材がいっぱいあるんです。例えば器では大館の曲げわっぱ。南外村には楢岡焼きがあります。稲川には川連漆器、角館には樺細工があり、それらを器にしましょうと。安田さんが考えたのは実際のナマハゲをそこで実演させよう、ワーッとやると東京の人は絶対に喜ぶと。
ナマハゲも実際に男鹿市長に協力をお願いしまして、ナマハゲのお面とかを協力して頂きました。男鹿の真山神社がいうには、ナマハゲは本来神様なので門外不出なのでよくないといわれました。ですが観光面で男鹿をどんどん外にだしてPRして宣伝しなければいけないという立場の人もいます。
真山神社の宮司さんからホテルで説教というか、私のような立場もあるということ肝に銘じておけといわれました。そういうことがありましたが、協力して頂きました。
エスコートというお客を案内する女の子がどこのレストランにもいますが、小野小町の格好をさせたいと雄勝町に行きました。町長とは会えなかったのですが、観光課の方々と話し合いましたが、小野小町は地元で生まれ、地元の風景を普段見ている子しか衣装を着る権利がない、飲食店でそんな格好をさせる訳にはいかんといわれます。
それでもやりたいといいまして、最終的には日景が勝手にやったということですが、エスコートしてお客にお酌をするようなことはしないということで、今もそれは守らしております。
もう一つの魅力が、レストランの中に古民家を持っていきました。内装を秋田風にアレンジしようというのは最初からあったんですが、設計途中から費用の概算をやってこの値段で合ったなら、古民家を持ってきた方がいいんじゃないかと。
それが一昨年の12月です。
色々なネットワークで探して一番素晴らしかったのが、今回移築しました東由利町にあった、本荘第一病院の小松寛治先生の生家で、百年から百五十年ほどたった民家です。
今は誰も使ってないと聞きまして、使ってないのであればレストランをやりたいのでお譲り頂けませんかとお願いしましたら、広いお心の先生からお譲りしましょうと気持ちよくいって頂きました。。
解体にも私、四回ほど行きました。屋根裏にも入ったら長持ちとか凄い物がありました。カンジキとか使える物は使いたいというと先生は全部持っていってくださいといわれました。解体するときは神主さんにお払いしてもらい、東京から設計士の方に来てもらい、使える部材も銀座のビルに移築しました。
そのビルというのは9階にあります。ゲリラ戦のように一気にクレーン車で入れたようです。3月16日にオープンしたんですが、床を下げてまで我々の思いを叶えてもらいました。例えば、箸置きにしても古い部材をちょん切って磨いて、それを箸置きにしました。そういう再利用もしました。
日本酒のカウンターバーもあります。そこの床の壁に敷居をはめ込んでいます。
かまくらも横手市長まで行って協力してもらい、中に水神様を飾っています。
中に八っつの部屋がありまして、二人席、最大六人まで入れるような作りになっています。日本酒も秋田にある40蔵ある銘柄を全部並べています。ちなみに十社から協力を頂いて株主になってもらいました。乾し餅も置いていますし、そんなこんなで走りだしまして、今、お陰様で12月が三千百万円の売り上げで、一日平均、百万で順調にきております。
我々の会社は何をやっているかといいますと、ここのレストランに食材を売っております。バンバン儲かっている訳ではありません。
レストランをどういった形で展開していくか。そこで株式会社なまはげという会社を作りました。我々、お金がありませんので、県内85名の株主を募りまして、資本金6000万集めました。そのうち5000万をレストランにあてていきました。あちらも5000万の店舗の権利金とかを積んでいます。比率が一緒になるような形にしまして、株式会社なまはげとしました。
そうじゃないと、我々が出資する会社が安田さんの会社ですと、業績が悪くなると私らのレストランなまはげも駄目になります。
そうすると秋田活性化株式会社というのは、そこに食材を送り、正直、トントンです。
経費を極力抑えながら、私が飛び回っているのが現状です。売り上げと経費がちょうどトントンぐらいで動いていると。会社としてもっと発展していくには、今後、レストランという業態をもう少し増やしていくか、売り先を増やしていくか、あるいは別の商売をやるか。
今年一年はITを使って、食材を売るというようなことを考えています。
お陰様でレストランをやってきまして、今、秋田県の方々がそこに行く割合というのが、一〇%ぐらいだと思います。秋田県の人口が一一五万。
日本の人口が一億二千万ですから、秋田県は日本の中では百人に一人ぐらいです。そういう意味で考えると10%というのはかなりの比率で来ているんだなと思います。
レストランに行くと、隣の席に秋田の方がいると、そこで盛り上がって楽しいらしく、かなりの好評を頂いています。
ただクレームが多くて、キリタンボにクレームが多いんです。
どういったことかというと、時間の遅さとか、スタッフ的な問題もあるんですが、しょっぱい、甘いというのがあるんです。
又、東京の人に出すと肉づれるとか、キリタンポにクレームが多くて、よくよく自分でもやって思うんですけど、キリタンポの本場の私のいる大館でも、隣のキリタンポの味が実はわからなくて、甘いのかしょっぱいのか、どういう肉を使っているのか。
大体のキリタンポがこうだよねと考えてきたんですが、実際のところ甘い、塩辛いとか文句がくるんです。
確かにキリタンポの標準だというのがないし、難しいもんだなと感じさせてもらっております。
やってみるとわかないことばっかりで、クレームも多くて何のためにやったのかと、正直なところ思うことがあるんですが、反面、喜んで貰っている方々もいるし、もっともっとPRできます。
一月、だいたい四千名から五千名のお客さんが来てくれますので、秋田県出身者も含め、首都圏の人が多いので、何かここを使ってPRしたいとか、どんどん活用して欲しいと思っています。
そういう思いで我々もつくっていますので、是非、なまはげレストランをご活用してほしいと思います。
ちなみに、二号店を今度、六本木に三月1日にオープンさせます。 これは残念ながら、秋田活性化鰍フふところ事情もありまして、前のようなフィフティフィフティでは作れないので、安田さんの会社がフランチャイズの形で運営します。なまはげというのは、我々秋田の人間と安田さんと一緒に考えてきたので、それはロイヤリティをちゃんと安田さんの会社からなまはげに払ってくれというような形に今、話を進めております。 同じように食材は我々から、仕入れていくという形で六本木に作っていきます。
それと2月1日に、一番クレームの多かったキリタンポという店を銀座にオープンさせます。
これも安田さんの会社がやっていきます。昨日ちょうど、東京の現場に入ってきまして、こちらからもキリタンポを送りまして、試食会をやったんですが、スタッフにいいました、なまはげでキリタンポのクレームが多くて、反面喜んでもらってもいるんですが、気を付けてほしいと。ここで安田さんの発想なんですが、キリタンポは醤油味なんですが、辛いしチゲ味をだします。チゲ鍋にキリタンポを入れると。塩汁味のキリタンポもだします。
あと驚きなのは豚骨味。(笑い)こんなことをすると秋田の人からなんだと必ずいわれるので、当店だけのオリジナルですよとちゃんと色んな場所で伝えて下さい。とお願いしています。
最後の宣伝なんですが、レストランという状態だけですと出口が狭い。食材だけしか扱えないとなっていますが、当社としては大きな目標として、秋田県が元気になること。一企業では難しかったことも、ここにいるメンバーの中からでも力を合わせると何か、大きなことができるぞという発想からやってます。
今年1年かけて、ネットというツールを使って秋田県内の食材にかかわらず、色んな情報を我々のページに集約させて、在京の秋田県人の方々の力を得たいと考えており、東京だけでなく、全国と秋田県とを結ぶ役割を担っているんだと誇りを持って、くじけず頑張っていきたいと思っております。 (拍手)
呑 風 日 誌 抄
12月1日(木)昼、プラネットフォーまちづくり推進機構の中村良三氏と大江戸ラーメン。彼へ総務省の快男児・佐藤健氏へ秋田銘酒を託す。
2日(金)由利本荘市の由利組合病院へ菅原和夫院長へ天草の新海苔を持参しお見舞い。由利本荘ベースボールクラブ(YHCB)への多額の寄付御礼。
夕方、秋田市のツバサ広業へYHBCのクリアファイル印刷のお願い。市民に愛され地域に貢献のキャッチフレーズを入れてもらう。
3日(土)東海林太郎音楽館へアマベルの鉢植えを置き、由利本荘市の石碾屋にて蕎麦、ケーシーランキン蕎麦ライブの打ち合わせ。御門町の清吉ラーメンも食って、東町の事務所でYHBCの事務局会議。チーム初練習後、工藤幹夫監督も入って十日の祝賀会案内を約500通の袋詰め。
4日(日)秋田市・イヤタカ。伊藤要さんの歌要会望年会。要先生のお人柄で愉快で楽しい会。
6日(火)由利本荘市の斎彌酒造へ。斎藤銑四郎会長に由利本荘ベースボールクラブ(YHBC)への協力依頼。祝賀会に鏡開き、ユニフォームに由利正宗の広告にご快諾を頂く。有り難し。
7日(水)夜、大阪の斎藤勝朗先輩から電話。YHBCに協力したい、大阪か秋田で一杯やりたいといわれる。役員と関西支部長をお願いする。感激。
8日(木)由利本荘市の兄貴分佐々木市雄さん(秋田ふるさと塾カラオケ大賞審査員)と一献。ゆう、ゴールド、紅花とカラオケ大会。YHBCの応援団長をお願い。
10日(土)秋田空港に野球評論家の荒川博氏を佐々木敬助氏と出迎え。長嶋茂雄さんから作ってもらったという背広姿。本荘までの車中での話しが又、面白い。ホテルアイリス。選手も含めて記念写真。5時から荒川博氏の講演「人の育て方、鍛え方」ー世界のホームラン王が育つまでー感動的な出会いと師弟愛があった。YHBC設立祝賀会に75人のご出席。スタッフと二次会。敬助氏と市雄さん宅にやっかいになる。
11日(日)ホテルアイリスへ。荒川さんに御礼を申し上げ、吉田久男顧問と市雄さんに秋田空港まで荒川氏を送って頂き、荒川さんから特別顧問にご快諾。
12日(月)夜、秋田駅前・新東洋食堂。井戸端ゼミナール新年会。産みの兄として出席。石井紀代子副会長の激励会でもあった。駅前人情酒場・久保田で一献。
13日(火)職場にてYHBCの件で読売新聞の井上宗典記者から取材を受ける。吉永小百合さんから、カレンダー。今年は和光製の若草色の鏡、小物入れが送られてきた。感動。
14日(水)夕方、秋田市中央公民館にて、姉妹都市フォーラムに出席。秋田ウラジオ会理事として、子どものキャンプ交流を提案。
15日(木)由利本荘市・常然寺。同学の倉田恒子さんの葬儀。喪主の陶芸家・倉田鉄也氏は、釜から取り出した作品を一番先に見て貰う人を失ったと涙。
故人はやまぼうしの花が好きだったと聞く。
16日(金)毎日新聞秋田支局忘年会。秋田市川反・醍醐にて。秋田毎日広告社の下杉定穂社長が隣。義弟が岩手県の出納長になったと聞く。小倉記者が婚約者紹介。二次会の山路にてカラオケ大会。東海林太郎を歌う。
17日(土)由利本荘市の尾崎小学校グランドへ。元本荘高校グランドの桜が健在だった。鶴舞温泉にて吹奏楽部卒業生の会設立発起人会。YHBCの監事になってもらった小松勝茂先輩作佐部収君と石碾屋へ。
18日(日)秋田市・イヤタカ。秋田県野球協会監督会議。YHBCの工藤幹夫監督、武内隆之コーチと出席。初試合が5月2日。高校同期の藤沢悟副理事長からアドバイスを受ける。
19日(月)河北新報に岩手の猿学者・中村民彦氏の記事が掲載される。偉い。
21日(水)役所の忘年会・三井アーバンホテル。二次会に行かず初めて景品を家に持ち帰る。
23日(金)近所の寿司大和にて、北嶋昭宮司、高橋勘左エ門氏、綾小路洋子氏と一献。仲間とは助け合ってこそである。
27日(火)娘の紹介で東京・ハートフードの岡崎泰氏を秋田空港に出迎え。実家の兄が経営するダグセンター(常温定湿乾燥システム)へ案内。関西、名古屋の病院へ由利本荘米の売り込み交渉をお願い。夕方、YHBC事務所にてスタッフ打合会。
28日(水)大雪の中、近所のトーカンマンション千秋鷹匠橋に引っ越し。NTTの秋永健次氏にも大変御世話になった。
暮れは家財の整理と瀬浪晶氏が印刷してくれた年賀状書き。
大晦日。カミ様、長女江津子、長男洋平と家族4人で神棚に拝礼し、何とか新居で年を越せた。