ふるさと呑風便 05/9 NO.198
金さえあれば
「金さえあれば、物さえあれば、自分さえよければといった時代は過去のものとしなければならない」
74年、田中角栄内閣の福田赳夫大蔵大臣が財政演説でいった言葉である。
私はこれを新聞で読んで、金脈で世に登り詰めた田中総理への当てつけのように感じた。
それ以上に福田大臣の金さえあればといった言葉は、元大蔵官僚であったご本人が身をもって体験したことである。
学生時代に受けた政治学の先生は勝村茂教授だった。授業で記憶に残っているのは、「戦後初の社会党の片山哲内閣を潰したのは福田赳夫だ」ということだった。
当時、大蔵省の主計局長だった福田赳夫氏は、日本の財政は火の車で、公共料金を値上げしないとやっていけないとし、それがもとで右派と左派に別れて内部抗争をくり返していた社会党が分裂し、片山内閣は総辞職。
ところが金はあった。芦田均内閣が誕生した際、福田局長、ないといっていた金を巧妙に国庫から引き出し、値上げなし。
小泉首相の父上・小泉純也氏の葬儀に出席したことがある。 昭和44年の秋か。青山葬儀場だった。私は参議院議員の秘書をしていて、議員も第一秘書も出席できず、代理出席。
焼香をする際、田中幹事長と並んで立っていた福田赳夫氏を初めて見た。喪主の小泉純一郎氏は記憶にない。当時の秘書仲間から聞いた話では、小泉さんは学生時代、ある事件を起こしてイギリスに遊学していた。 父親の死後、選挙に出たが落選。直ぐさま東京の福田赳夫邸に書生のような形で住み込んだ。
いわば最初の上司で恩師が福田赳夫さんだった。
社会党内閣を潰した恩人の福田赳夫総理が自民党総裁選挙で田中元首相に潰された。「天にも変な声がある」と言って辞職。
その後、変人で政策よりは政局が好きな小泉さんは総理となって、田中派に復讐を目論んでいた。宮沢内閣で郵政大臣をやった小泉首相は当時、言うことを聞かなかった課長を総理大臣になってから降格した。田中真紀子外相も外務次官と喧嘩両成敗だと首を切り、官僚は安心。
今回の衆議院選挙で利権(建設、農林・郵政)派閥の旧橋本派(元田中派)をぶっ潰したが運輸・文部の利権派閥の森派(元福田派)は増えた。郵政民営化に反対した自民議員には一千万円以上の公認料は渡らない。「金の切れ目が縁の切れ目」か、新党日本をつくった人情派、小林興起さんは落選。嫌みなマドンナ当選者に「私は選挙区への利益誘導をしない国会議員だ」と言わせしめた。厚化粧議員は一切、豊島区からの陳情は受けるな。この結果をみていったのかどうか「義理人情の選挙は終わった」と元アンチ小泉だった武部幹事長が言う。
情けなくて恥ずかしい。
「私怨」をはらすために送られた「刺客」。美人のキャリアに厚化粧させて縁もゆかりもない選挙区へ、権力でもって比例で当選を保証して差し向ける。「金さえあれば、物さえあれば、自分さえよければ」の典型人物・ホリエオモンも広島から出て善戦。日本精神の素養である「恥」を知らないホリエモンを出す小泉劇場。恥ずかしい光景。
「私怨」を晴らした小泉さんは「亀井さん達は甘かったな」とほくそ笑んでいる。まさに「政治とは感情的動物である人間の情報操作によるコントロール」であった。
カネにもモノにも、権力にも縁のない小生は、ふるさとを大切にして人生劇場を歌い続ける。
♪やると思えばどこまでやるさ
それが男の魂じゃないか
義理がすたればこの世は闇だ なまじとめるな夜の雨。
ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成16年7月27日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「里海に暮らす」2
★ 土井敏秀氏(半農半漁見習い)
加茂青砂で潜る人は「電信柱1本分を潜る」といいます。私はその3分の1もいってないような、それぐらいしかできません。電信柱1本分を潜るためには、シーズン初めに1回、黄色い鼻血を出すぐらいまで潜ると、後はスースーと楽になるのだそうです。私はとてもそんなことできそうにありませんから、ぼーっとしてますから、同じくそれほど深く潜れないカミさんの半分ぐらいしか漁が採れません。それで「よくやったね」と褒めるぐらいしか能がありません。(笑い)
昔と比べて漁が減っているのは確かなようです。
男鹿半島の海には観光客が結構自由に入れるようです。厳しく規制されているところももちろんありますが、漁協の組合員でなくとも、採っていくせいかもしれませんが少なくなっています。でも、私たちにすれば十分楽しめるだけの漁で、米との物々交換も出来るんですけど、私たちがずいぶん採ったと感じた量は、漁師さんが
「今日さっぱり採れなかった」いう量より少なかったのを知ったときはちょっとショックでした。
加茂青砂には、66世帯のうち、漁師だけで生計を立てているのは3世帯だけ。あとは会社勤めや未亡人、よそで働いて定年でふるさとに帰り、年金をもらいながら漁をして暮らしている世帯が一番多いかな。
畑の方はというと、一昨日ジャガイモを収穫しました。去年、一昨年と採ったのを残したりするもんですから、量を減らして3キロしか蒔かなかったんですが、そしたら極端に失敗して10キロも採れなかったんです。3キロだと30キロというのが普通の量ですけど、今年はかなり小粒になってしまって、え、これしか採れなかったというぐらいでした。がっかりしましたね。
今度サザエを採って、友達の所へ送ってジャガイモを送ってもらわないといけないかなと思っています。
なんか今年は雑草がすごく多くてめげています。雑草を取りだすと、それはそれで一日やっていける性格なんですけど、もう何回もだとつらくなって農薬を使うとい
う誘惑に負けないかどうかというのが課題なんです。
たぶん使わないと思うんですが、品種を色んなものに変えていきたいと思って。今作っているのは、ジャガイモ、サツマイモの芋のたぐいと人参、ゴボウ、大根、レタス、キャベツ、白菜、茄子、ピーマン、シシトウ。いっぱいありそうな感じですが、実はそれぞれが3本か5本。
サツマイモはカミさんが好きなもんで80本程度を植えてますが、彼女はそれを一年中食べるんですが、すごいもんです。なんであんなに女の人はサツマイモが好きなんですかねと思うぐらい、毎日食べても平気だというから、びっくりしてるんです。(笑い)
かつて私は新聞記者時代、青森県の下北半島に4年間いたんですが、そこに六ヶ所村というのがあって、いろいろ原発関係でいわれていますが、前の開発の時に、開発される側の反対運動で結構やったおばあさんと会いました。名前も覚えています。
木村キソさんです。木村さんの話で印象深かったのは、自分の畑を耕したときの話です。一人でただ黙々と畝を作っていって振り返ってみて、自分でやったことがこんなに綺麗な畝になったんだ、とうれしくなって涙がこぼれそうになった、という話でした。
国や企業に頼る開発ではなく自分ひとりで成し遂げた喜びを当たり前のようにお話されて。ああ、何時かこういう格好いいセリフをはいてみたいなと思ったものでした。こういう開発でカネをもらう形でない暮らしというものは、ほんとに素晴らしいんだと企画ものも書きました。タイトルは「貧しさの神話」。
さっき話した木村さんや多くの人に登場してもらい「ヨソに頼らない暮らし」を話してもらいました。でも書く私はただ頭の中で「いいな、いいな」と浮わついていただけなのかもしれません。
その企画が終わった後、むつ市内の高校に呼ばれ高校生を対象に話をしました。そこで高校生から、こういうのは変だと言われたのです。その当時、20年ぐらい前かな、下北半島は高校進学率が50%なんですね。かなり低いんです。 そういう自分たちの暮らしを貧しさの神話で逆に豊かなんだよと言われたって困るというふうにいわれて、僕はその子達にきちんと答えられなかったんです。
頭の中で思って、いいところだけ集めて、と言われれば返す言葉が見つからないんですね。じゃあほんとに自分でもやってみて、その子ども達に、こっちの生活の方がいいよといえるかもしれないなと、心のどっかに引っ掛かりが残っていて、今の暮らしに結びついているのかもしれません。
でもまあ、今の豊かさを疑うというのは随分、昔からいわれているし、落語家の立川談志が「あなた達は豊かさしか知らないだろう。俺たちは貧しさも豊かさも知って
いる。だから豊かさしか知らないのはザマアミロ、だ」みたいな感じで言っていたのを聞いて、その世代の一人として納得せざるを得なかったんです。
私の親父も戦争に行った人間ですから、戦地から帰ってきて戦後のどさくさが一番面白かったというんですね。何かやれば何でもカネになった、あの頃ほど生き生きしていた頃はなかった、面白かったというんですね。これは、豊かさしか知らない者の欠点なのか、いいなあと感じますね。
そういうのもあるし、やっぱり今の時代の暮らしをどう見るかということも、自分の身体を使って実験している部分も、自分に対して格好つけみたいな感じもあるんですが、だんだん挫折の感じもあるからダメなのかと思うんですが、自分の中でいったりきたりで、だんだん暗くなってきたな、でも楽しいのはほんとですよ。(笑い)
去年、加茂青砂小学校が廃校になったんですけど、閉校になった学校を使って笑楽校を一ヶ月ぐらいやりました。土日曜日を中心に9日開いて、400人ぐらいの人
が来ました。その中で一番喜ばれたのが、嬉しかったことなんですが、地元の人たちを主に対象にした授業です。以前、学校の先生をしてた方々にお願いして、修了証書もつくって修了式もやりました。 幾つになっても勉強するのは楽しいんですよね。
六十、八十代のじいさん、ばあさんが、♪ 春を愛する人は‥♪という授業を受けて必ず来てくださるんです。
修了証書を渡すときには、涙ぐまれる人もいたりして、
「またこういうものを貰えるんだと」いわれ、喜ばれて、やってよかったんだなと思いました。
でも今年はできません。
こういう地域おこし的なことは誰かに負担がかかるし、女の人につよく行くというか、前、加茂青砂小学校があった時に、PTAの人が母胎になっていて、小学校がなくなるから、PTAがなくなるのは地域のためによくないというので、みんなそのまま残そうと、よそ者の僕らまで入れて貰ったんですが、いろいろ負担のかかると、一生懸命やってくれればくれるほど、家のことがおろそかになっていく。すると家の中がまずくなるというか、雰囲気が悪くなったという声もあったし、疲れちゃったしというのがあるんですね。初めてのことだし、観光客を相手するのも初めてだし、なかなか難しくてとりあえず今年は一つだけやります。
明日と明後日、水族館の隣で男鹿南秋地産地消フェアとかあって、そこにどういう訳かこの会にも声をかけて頂いたもんですから、そこにちらっとコーナーを設けて地元のお婆さん達が作ったアケビのツル細工とか、漁師のロープ結びといって手品みたいに速いロープ結びをみんなの前でやってもらいます。
それぐらいで、もう一回、笑楽校を立て直ししなければと思っています。
こういうのは長続きさせないといけないということはじゅうじゅう承知しているんですが、こういう障害を乗り越えないとどうしようもないと長続きしないので、無理してやるよりもじっくり又、話をして又、やっていきたいと思っています。
だけど人を呼ぶことがそんなにいいことなのかな、ということもあるんですね。
山に入って山菜をとることを考えると人が来ない方がいい訳だし、でも人が来ないと寂しい。加茂青砂も整備されて観光客が来てテントを張って遊んでいくんですが、ワーワーワーとトレイ使って、サザエを採って、賑やかなんだけどそれは多分、地域の活性化ではないんだと思います。彼らは全部、持ってきて地元から買うということもないし、そのへんも考えていきたいと思います。
この間初めて知って、遅すぎたのかもしれませんが、ご飯を食べる時に、ほんとは頂きますという前に、ちゃんと言葉があるんだよと永六輔が言ってました。その前の言葉というのは、「あなたの命を私の命に頂きます。それが頂きますという意味なんだよと言われて、ああー、一回口に出して言ってみたら、辛くなってくるんです。(笑い)ああヤバイなあ。(笑い)でもこの言葉をかみしめたいなと思います。
作家の野坂昭如がなかなかいいことを言ってたんで、これだなということで、ちょっと紹介させて頂きます。
「農業をやっている人がもっとものをいって、ものを書かなきゃ、この国はよくならない。農業をやっている人は命と向学生時代から兄貴分と慕うレスリング部と中西ゼミの先輩で親友同士、宮野秀文監督と杉山雅弘教授き合っている人なんだから。作家というのは命を書く人です。人間を書く人です。勿論、農民作家と呼ばれるような人はいるけれども、そういう人は農民作家という肩書きになってします。農民作家も大切だけれども、農業の立場から命を見つめ、命と見つめ合い、ニワトリでも牛でも稲でも果物でも、何でもいいんです。命と向かい合って仕事をし、生きている人たちがもっともっと発言したり、吐いたりしないと良くならないよ」
僕はまあ、半農半漁見習いで恐らく見習いのまま、終わると思うんですが、こういう生活の中から何かを書いていくのだと、そう思って、今日初めて覚悟したんですが、今の暮らしを続けていきたいと思っています。(拍手)
呑 風 日 誌 抄
8月1日(月)朝、6時。秋田市大町2丁目・東海林太郎音楽館の開館式前、電話設置工事に立ち会う。10時開始。司会進行。神事で始まる。玉串奉奠の最後に尊敬する田口勇先生にお願いし、謙虚な先生を驚かせてしまって恐縮。テープカッットは7人。ハサミが一個足りない。なんとか机の中にあった小さいハサミで間に合わせる。テープカットの中心は、孫の光樹さんと東海林太郎顕彰会初代会長の故柳沢格さんの長女・みどりさんにお願いした。参加者全員で「赤城の子守歌」の合唱で終える。40坪の小さな音楽館が満員で、クーラーが効かず、出席者の団扇が何時までも振られる。テレビで全国放送された。
3日(水)竿燈始まる。東海林太郎音楽館は期間中は夜9時半まで開く。羽後設備の佐藤博之専務にクーラーが効かないというと、屋上で打ち水をしてみてという。音楽館の事務員にお願いした元配管工の手塚晋さんと屋上に昇る。ホースを用意して放水するが、温度計で計ったら一時間で一度は下がったか。蛇口も壊れて破裂、屋上で熱中症になりそうで撤退。大型の扇風機を用意する。
夜。すぐ側から竿燈のお囃子が聞こえる。手塚さんと近くの飲み屋で一杯。
6日(土)竿燈最終日。この日の入館者56人。9時半に閉めようと階段を下りたら髭の御仁が上がってきた。何と、芦屋の佐藤正喜さんだった。彼とは8年前、国際観光研修でボルネオまで一緒の仲。JICAを定年後、車でみちのく一人旅だった。まずは飲もうと向かいの土田邸前のビアガーデン、「三四郎」の板さんの牛肉を頂き、「あみもと」で懐かし酒。宿泊先「ホテルはくと」に駐車の凄いごつい愛車の前で記念写真。
7日(日)500歳野球。中通クラブの早朝練習。膝の痛みはなく、何とかなりそう。
8日(月)榮太楼旅館。大鵬親方の相撲博物館館長就任祝賀会。講演「裸で学んだ人生観 自分らしく生きる」父はウクライナ人で、祖父が能代出身、だから納谷姓なのだ。祖母は山形県鶴岡出身との事。柏戸と縁がある。「飲むのは自腹できた、ごっつあんという言葉は使わなかった。弟子にも言い聞かせてきた」と語られる。
秋田県酒造協会の伊藤辰郎会長に誘われ、川反へ。とあるスナックで先客の友人達と伊藤さんの秋田県公安委員長ご就任の乾杯酒。
10日(水)県立図書館の加藤順三館長へ秋田聞き学会の井上章会長と、秋田聞き書き村文庫第3集の贈呈式。県内図書館への配送もお願い。聞き書きの大切さを理解する気さくな図書館長さんで好感。
12日(金)早大レスリング部が合宿中の秋田商業高校へ。太田コーチとマネジャーへ秋田稲門会からの差し入れと先輩としての差し入れ酒2升。16日の最終日に皆で飲む約束。
13日(土)実家大内町へ女房と墓参り。盆踊りでふるさとの人々とビールをいっぱい。
14日(日)夜、ワシントンホテル。東海林太郎の家ギャラリーで一週間、個展を開いて頂いた東海林太郎伝承会理事長の秋元辰二先生から、バウハウスの森川恒さんと二人、手伝ってくれた御礼にとご馳走になってしまう。二次会が地元土崎のとあるスナック。そこにも秋元画伯の絵がある。
15日(月)終戦記念日。正午。千秋公園の時鐘で平和への鐘を今年は5回撞く。東海林太郎ギャラリーで早田貫一先生のシベリア回想展。シベリア抑留時代を回想されて描かれた絵画8点を展示。小生が国保援護課時代に作った秋田県出身シベリア抑留死亡者(1282名)の名簿も添える。鎮魂展。 秋田大学病院に入院中の香曽我部宏先生のお見舞い。東海林太郎饅頭持参。お元気で安心。
秋田商業高校レスリング道場。学生時代から兄貴分と慕うレスリング部と中西ゼミの先輩、宮野秀文監督と杉山雅弘教授と後輩達の練習を見て、両先輩と名物マネだったの後藤邦明を秋田駅に見送り。
16日(火)秋田商業高校レスリング部道場へ。青山学院の選手二人も誘って夕方、駅前人情酒場久保田。秋田市役所の元学生チャンピオンの杉田健吾君も入って計20人の合宿慰労会。演歌師の山本実氏の伴奏で「人生劇場」を歌って川反の雷電ラーメンへ。日経新聞に合格した4年生の伊藤大樹主務、副将で大丸に決まった小林威仁と次期キャプテン候補藤元慎平君を連れライブすがわらへ。尺八吹いて、女将の岡本新内を聞かせる。
17日(水)東海林太郎音楽館。男鹿の由利時計店の由利均さんご夫婦ご来館。眼鏡を壊した事務員の手塚晋さんに東海林太郎と同じ黒のロイド眼鏡を二つもプレゼントしてもらう。有り難し。
21日(日)県民会館。県民芸術祭。大正琴をバックに40人の東海林太郎の歌の合唱を大友康二館長と聞く。何時かは練習して出場しなけれがいけない。午後4時から東海林太郎音楽館祝賀会。榮太楼旅館。60人もの出席者で盛況。御世話になった方々に感謝酒の贈呈。
22日(月)仕事場にて鳥海町の佐藤定樹氏から由利本荘に硬式野球クラブ設立の相談。
26日(金)中国・西安の田奇教授も誘い音楽館で初めてのふるさと塾地域作り実践セミナー。講師は元羽後町長で春の知事選で落選した佐藤正一郎氏。「私の地域おこし日記」が演題が選挙の話。
28日(日)音楽館にて秋田聞き書き実践講座。小田豊二講師の講義も進化し、平鹿町の十郎リンゴの渡邉保子さん親子も受講される。
修了後、ライブすがわらで土井敏秀さん達と小田ゼミナール。芸能界裏話の講義も又、面白い。