ふるさと呑風便 NO,196 05.8
八月一日
天の采配なのか、どうにも不思議な、誰かが遭遇させたとしか思えないことが起こった。
このようなことは、秋田戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊碑建立の時にもあった。
東海林太郎音楽館の開館式、8月1日の3日前のことである。
朝。近所のサム工房の佐々木勇氏から軽トラックを借り、秋田市立文化会館に向かう。
軽トラックなぞ運転したことがないから面白い。
文化会館大ホール入口横の目立たない壁に、120号もある東海林太郎の肖像画が掲げられている。これを、東海林太郎顕彰会の仲間4人と取り外す。
この肖像画は去年の10月、東海林太郎音楽祭の時、舞台の横に掲げたもの。懐かしい。
秋田市大町2丁目にある榮太楼菓子舗大町本店の2階へ運んだ。次はガラスケース。
中通の着物の有坂で、木枠のガラスケースを提供してくれる。
外は暑く、ケースは重い。何とかガラスケースも運び込んだ。
昼、1時近くになっていた。
暑い。34度はあろうか。大町1丁目の宮城屋で蕎麦でも食べようと仲間と入ったが満員。しばらく待って、合い席でもといいと中に入ると、一人で食事をされていたのが「ギャラリーあい」の古村さん。
首にタオルを巻いた運送屋風の私に小村さんは聞く。
「何やってんですか」
「東海林太郎の音楽館をつくってんですよ」
「ええ?!。うちのギャラリーで個展をやられている河村彰さん、確かお父さんが東海林太郎と従兄のようですよ」
お父さんとは本荘高校の美術教師だった河村千代三先生。
私は高校時代、音楽を選択したが、河村先生のことはよく覚えている。色黒で長身、オールバックの先生だった。
ざる蕎麦を食べる間もなく、携帯からすぐ河村先生さん宅へ電話。
上品なお声が耳に届いた。
「河村でございます。え、東海林太郎さんの従兄?。ええ、それは私の父です。長男の和樹さんはどうされてますか。亡くなられた。そうですか。鎌倉の別荘に私、若い頃、太郎さんのご両親と2ヶ月もご一緒したことがあるんです。その時の写真があるはずですよ」
これは大変だと、明日改めてお話しを伺いに行くこととした。
翌7月30日。本荘市に向かう。昼時、好きな清吉のラーメンを食べる暇もない。2時から秋田市のホテルで伊多波日出夫さんの出版記念会に出席しなければいけない。恩師の印藤良生先生から河村家に案内してもらった。
東海林太郎の従兄の娘にあたる河村愛子さんが語ってくれた。
「太郎さんは昭和19年頃、私の秋田の実家に寄ったことがあるんです。和樹さんが京都帝大時代に招集がかかって十七連隊に入って。そこに太郎さんが面会に来られたですが、和樹さんに会わせてくれないんです」
「ちょうどその時、主人が連隊の招集係だったもんですから、特別に面会させたんですね。
太郎さんは大変喜んで、実家に御礼に見えて、座談がとても上手で、とても楽しかったのを覚えております」
時間のない私は、八月一日の東海林太郎音楽館の開館式にご出席をお願いしたら・・・。
「八月一日は亡くなった主人の命日なんです」
秋田市に戻って出版会のテーブルの席。隣の方に東海林太郎音楽館事務局長の名刺を渡すといわれた。
「うちの隣が東海林太郎さんの親戚です」
8月1日。開館式に河村彰さんが出席してくれた。
親戚代表として、玉串奉奠をお願いした。
私に親戚に会えと呼んだのは東海林太郎大先輩なのだろうか。
ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成16年7月27日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「里海に暮らす」
★ 土井敏秀氏(半農半漁見習い)
僕が住んでいる男鹿の加茂青砂というところは、時間がルーズでありまして、加茂青砂時間というのがあります。朝五時に集まってくださいというと、みんな4時に集まる。それで五時にちゃんと行くと、ゴミ掃除とかは終わっちゃっている(笑い)。それほど時間にルーズなとこなんですけど、やっと5時に間に合う僕はまだまだ加茂青砂の人間になってないようです。
その加茂青砂(かもあおさ)という所を皆さんご存じでしょうか。男鹿半島のはずれのところにある小さな集落で今、66世帯で170人が暮らしています。
私はここで暮らして7年目に入ります。その前は24年間、新聞記者をやってまして、僕は仙台出身で、カミさんは函館生まれですから、加茂青砂というところには全く縁がありません。ま、海が見える所で暮らしたいと思っていたので、色んな理由づけをすればどんどん理由がつくんですけども、会社勤めが嫌になったとか、自分の何も肩書きがなくなった時にそのまんまでどれだけ生きられるのかとか、そんなことを考えて、たまたま縁があってこういう場所に住むことになりました。
どういう生活をしているかといいますと、半農半漁見習いで、今まで何もしたことのない男と女がこういう所で畑をやってみたり、海に入ってみたりしているんです
けれども、私自身のことをいうと、子どもの頃は昆虫少年でトンボを追いかけている、余り人と接することのできない子どもだったと思っています。 昆虫採集をして標本を作ったりして、生き物を飼ったりするのが楽しみみたいな人間でしたから。
それが今は、はえ叩きを持って蝶々を追いかける。畑で蝶々が来ると、とにかく殺そうとしか考えなくなっています。そういう気持ちになってきたという変化があります。でも作っている野菜から見たら、どっちにしても食べられるんだから、関係ないのかもしれません。その畑というのは、自分の家の周りにあるのと、今までやっていた畑を止めたのを借りています。止めている所が多いので、いくらでも畑は借りられます。
どんどん作ろうと思えば作れるんですが、そんなに沢山作れるはずもなく、自分たちで食べる分と、友達にちょっと食べてもらうという分しか作っていません。
海の方の見習いですけれども、漁協の準組合員でして、まだ一度も組合に水揚げしたことがないので全然役立たずの組合員なんですけど、ま、自家消
費というか自分の食べる分しかありませんから、網を扱うこともできないので、潜るとか釣りをすることをしています。
去年の九月のことでした。9、9馬力の船外機付きの、「土井丸」という僕の小さな漁船が高波に持っていかれて、三分の一分割といった感じになってしまったので
す。
その日は波が高くなってきていたので、防波堤までギリギリの砂浜から一番上まで持ってきていたんですが、地元の人に聞いても初めての大きな高波にさらわれたんです。船が岩場に打ち付けられているのを見て、ああ、お別れだなとカミさんと見ていました。間抜けなことに、流されていく「土井丸」を写真に残そうと撮っていたら、自分たちが足をすくわれてしまって。小さな川に落ちて上流に持っていかれたんです。
その時、ヘルメットもかぶっていたし、そんなに大変だと思っていなかったですが、くるぐる廻りながら、「濁流に飲まれる」というのはこういうことなんだなあ、変に納得して上流にもっていかれたんです。カミさんは「大変だあ」と叫んでいるし、近所の人も捜してくれるしで、助けてもらいました。
体中、砂利だらけでした。
すごく怒られましたね、外に出たことにです。そんな時は「仕方がない」と外に出ないで、酒を飲んで早めに寝る。それしか仕方がないんだと言われました。
怒られたと言えば、こんなこともありました。長さ三bぐらいの小さな舟をロープで陸の方に上げるため、ロープを腕にぐるぐる巻いたんですね。それで力をだそうと思ったんですが、その時も怒られた。ほんとに何かが来たときは、絶対かなわないんだから、常にロープを離せるように持つんだと、でないと自分が巻き込まれるんだからと。腕に巻いて力を入れようとしたのがいけないんだと教わりました。
ほかにも気をつけなければならないことがたくさんあります。海の上で舟を泊め、錨をを沈めて、その周りで潜ってサザエを採ったりするんですけど、時たまロープが切れて船が流れることがあるんだそうです。
それを追いかけていっても、流れる船の方が早いんだから、財産よりも体の方が大事だとも教わりました。
僕が頭の中で培った知識なんてものは、ほとんど役に立たないということを教わっているようなものです。
舟を失くした後、「舟があった。ただだ、どうだ」と何人かが言ってくれるんですが、今のところ、名前を「コバンザメ土井」にして、人の船に乗せてもらっている方がよっぽど楽でして。
自分たちの採ったものは、米をつくっている友達と物々交換したりしていますが、僕たち、二人とも酒飲みなもんですから、ビール代は稼がなくちゃいけない。現金収入ということで非常勤職員というのを三年やっています。
それで何とかやりくりしているのが今の状態です。
そういう暮らしをしていて、何を感じて生きているかと話すべきことだと思いますが、ウチは薪ストーブでやってるもんですから、薪を割ったりしていますが、初めてチェーンソーを持った時、気持ちよくって強くなった気分になるんです(笑い)。
でも、今年でもう五五ですから、こういう暮らしをして七年もたつと、だんだん疲れてくるんですよね。石油ストーブの方がいいいなあととか、に戻ってしまうんじゃないかと。
自分自身が怠け者だと思うんですけど、今年はまだ、一回も薪割りしてません。
やばいんですけど、そういう時に毎日新聞の南の島のエッセイ、団藤正子さんという小説家の人が向こうで暮らしていて、その中で薪割りの記事が載ってたんですけど、彼女もへとへとになってしまうんですけど、薪の山をみてとてもリッチな気分になるというんですね。
普通、リッチな気分というと大きなヨットに乗ってブランディグラスを傾けてという気分をいうんでしょうが、薪の山を見て僕もちゃんとやらないといけないなと、そういう境地に早く達したいなと思いますが、その前に挫折するかもしれません。
こういう場所に暮らすというのは、ここに来た当初、近くの人に「ここは食べるために生きている」と言われたんです。
魚を食べるには、獲ってさばかなくちゃいけない。そういう作業を繰り返すと一日が終わっちゃうんですね。
そんな暮らしを続けるとのが、嫌だからみんな都会に出て行く訳だし、都会で別な収入を得て、食べ物を買うという暮らしの方がいいとみんなが判断するから、こういう所がどんどん過疎になっていく。
出て行きたくなる気持ちもよく分かるし、でもどうせこの後そんなに長い人生ではないから、もう遊びと思ってやるしかないので、遊びだから真剣にやらないといけないと思っていますが、気持ちとして挫折ぎみになったりします。
やはり色々忙しいですから、カミさんとも言い争いになるんですよね。お互いの欠点を言い合ったりする時もあるんですけど、でも一緒にやらないと仕方がないというのもあるし‥。
私は魚をさばくのにとても時間がかかるタイプです。魚は浜辺でさばきます。
そうすると鳥が来て内臓や頭を持っていくし、残りは他の魚なんかが食べてしまうので、ゴミが残らずキレイになっていいんですが、僕はそれを見ているのが好きなんです。
どうしても鳥に魚の頭を投げて遊んだり、カニが来ると、どんな餌が好きなのかと、魚の内臓をバラバラにしてやってみたりして。すると僕らが食べる部分がフニャフニャ(笑い)。
それでカミさんに怒られるんです(笑い)。
自分で食べるものを調理しながら、他の生き物を見ているというのも、リッチな気分だと思ったりします。リッチな気分というのは怒られるんだなあと、割り切りたいけど、やはり、刺身にすると分かるんです。
カミさんが手早くやったほうが美味しい刺身なんだなあ。魚をさばくのは結構、面白いので今は少しは上手になりました。
海に潜っていると、色んな生き物がいます。海牛(ウミウシ)って知っていますか。アメフラシは大きいんですが、小さいやつで岩場にへばりついています。青、黄色、白とか赤の色が交じっていますが、とても綺麗なんです。思わず見とれてしまいます。
潜る格好はウエットスーツを着て、シュノーケルと水中メガネをつけているんですが、もちろんサザエなんかを採るためなんですけれども、鰯とかアジの群れが結構きたりするんです。鰯は大きなブリのたぐいから追っかけられて近場に寄ってくるんです。すごい群れなんです。 いっせいに泳いでいるわけですから、同じ早さでなければいけません。でも中にはいるんですねえ。仲間についていけないやつ。スピードが違うから仲間にぶつかって沈んだり、浮いたりするのがいるんですね。身につまされる話ですけど。
それからマダイの群れも見ました加茂青砂の海で。「ご家族ご親戚ご一同様」みたいな雰囲気で、大きいのも小さいのも一緒なんですね。三十匹もいたかなあ。モリを持っている人には殺気を感じるらしく、近づいてきません。僕らは素手ですから、
寄ってくるんです。
釣られても逃げ切ったのでしょうか、顔が傷だらけの魚に出合ったり。これじゃサザエやアワビを採る暇はないんですね(笑い)。
アワビやサザエって殺気を感じるんですよ。近ずくとサザエは岩に張り付くし、僕に気づいたアワビはそおっと、そしてヒタヒタと逃げていきます。逃げていくのが分かれば、道具を使わずに手づかみできるから、逆に捕まえやすいんですけど、やつらは気づかない。アワビよりも僕のほうが頭がいい(笑い)。
そんなのを見ると嬉しいんですが、飽きがくるんですね、毎日食べていると。「アワビを飽きる」と言ったら怒られそうですが、でもほら、里海暮らしはリッチですから。(続く)
呑 風 日 誌 抄
7月2日(土)午後1時半。榮太楼旅館にて東海林太郎音楽館運営委員会。委員12人中8人出席。
司会進行役。名誉会長に島倉千代子。館長は決まらず、副館長に東海林良氏と小国輝也氏、私が事務局長。組織図を示し、今後も音楽館のご意見番として協力をお願い。
夜、東海林良さんへ電話報告。浅草演芸ホール支配人の倉橋さんと飲んでて電話に代わり、浅草にある東海林太郎の唄い神の分詞の件の相談。
4日(月)午後2時。木名瀬敏正氏他仙台藩志会ご一行をお迎えし、川反5丁目橋たもとの川反観音像前で川反先人慰霊祭。6年目になる。工事施工者の石の勘左エ衛門氏、歌人の瀧広明さんもご参列。
5日(火)夕方、小南工務店へ。東海林太郎音楽館開設予定の榮太楼菓子舗大町本店2階の平面図を示し、会長に復帰された小南昭二郎さんに
東海林太郎生家の玄関先復元のお願い。ご快諾。
6日(水)午後2時半。秋田市大町の辻兵吉事務所へ小国輝也氏と。辻兵吉秋田商工会議所名誉会頭。東海林太郎音楽館館長は固辞され、相談役に。館長には大友康二先生が相応しいと輝也氏と相談。 夕方、秋田大学。島村恭則助教授の研究室へ。本に埋まっていた。環日本海国際交流バレー公演のチケット販売依頼。韓国で買ったという満鉄関係の本を借りる。
7日(木)39会。山王・橙屋。加成義臣県議、菅谷理市労働金庫本部長と。ゲストに毎日新聞秋田支局長の吉野理佳さん。加成さんと通町の小料理屋で二次会。
8日(金)駅前人情酒場久保田。みっちゃんず(タッチラグビーチーム)の飲み会。
福祉施設関係のメンバーでタッチラグビーがやらなくなってもったいないと野球チームに衣替え。オーナーに久保田の湯川隆さん。私はオーナー補佐兼選手。監督に阿部一哉氏を指名。選手に元日ハムエースの工藤幹夫・壮史(まさふみ)親子。目標は欽ちゃんチームと対戦すること。
9日(土)花ゲリラ。今年は遅くなったが市内某所に朝顔とタバコの花の苗を植える。
夕方、青年会議所東北ブロック協議会の交流会。キャッスルホテルビヤガーデン。
秋田市議会の新議長になられた赤坂光一さんと川反・本因坊で懐メロ。カラオケで東海林太郎を歌ってみたが。
10日(日)午前。森川恒氏と東海林太郎音楽館にて展示の打ち合わせ。明徳館図書館
で東海林太郎の年譜作成のため、日本歌謡事典で歌謡史の研究。泥縄式。
11日(月)秋田市・角繁椛q庫へ。東海林太郎顕彰会の3人と解体保存された生家玄関先の水洗いして、小南工務店のトラックに積む。残った畳3枚とガラス戸4枚も小南工務店の倉庫に運んでもらう。
夕、近所の寿司大和にて彌高神社の北嶋昭宮司、司法書士の綾小路さんと一献。東海林太郎ふるさと継唱団に入会。
13日(水)秋田市土崎グランドにて課対抗野球試合。監督兼3塁で税務課と。最初はよかったが、最後に逆転され7対8で敗退。県庁での引退試合。山王・焼肉若葉で打上。
館で二次会が休み。
15日(金)北海道・安田農場の安田憲一さんが来秋。50町歩も蕎麦を作っている安田氏を土崎のこんどう食堂に案内。近藤隆平さん仕込みのダッタン蕎麦。なかなかいける。
安田さんに阿仁町の山田博康さんを紹介。安田氏、阿仁のブナホテルへ。
夜。秋田駅前ニュータケヤにてウラジオストクの国立極東大学日本語科の女子大生二人の歓迎会。ドジャースの挽野泰次氏、協働社インターナショナルの浅利久樹氏と焼き鳥で二次会。旨酒。
16日(土)昼、小南工務店の小南会長から東海林太郎生家玄関先の復元見積もり。あまりの安さにびっくり。午後、音楽館にて森川恒氏、鈴木憲一氏と展示、内装の打ち合わせ。羽後町の佐藤正一郎氏に電話し、8月のふるさと塾はここで開催することで、正一郎氏講師快諾。
17日(日)朝5時。榮太楼旅館前を出発。東照ジャパンの渡部さんの車で八戸へ。目的は東海林太郎音楽館に置く古時計。渡部さんの友人・熊本出身で八戸・南部美術の社長、ポンと六角形の古時計を寄贈。渡部氏のお陰。
18日(月)秋田大学国際交流会館。北日本サービスのマクロバスをチャーターし、韓国留学生7人を乗せ、男鹿半島巡り。生憎、遊覧船は高波で欠航。発着場にて男鹿水族館の深谷政光社長、高桑賢治船長と遊覧船活用対策会議。
19日(月)秋田市山王・橙屋。田崎宏一夫婦のまいちゃんの一歳祝い。
21日(木)イタヤカ。未来研究会。商標登録についての講演会。懇親会。
22日(金)ふるさと塾。エコオイルの先駆者・東北エコシステムズの八端憲明講師。二次会は衣替えした三味線茶屋すがわらへ。
23日(土)東海林太郎音楽館にて森川恒氏と県立博物館の中村、高橋両先生から展示物の保存の講義を受ける。
夕方、文化会館。環日本海国際交流バレエ公演。鎌田俊夫先生と北高生徒と入口受付。ロシアと韓国の子どもを招聘しての「人形の精」の公演に感銘。秋田にも素晴らしいバレエ公演ができる人がいる。打上げが山王のサウディ。実行委員長としてロシアのお土産を頂いてしまった。
24日(日)午前。ユースパルに韓国からバレエ公演に参加した3人を添川の聖母マリア像に案内。秋田高校同窓開館で開催中の鎌田俊夫先生の彫刻展へ。東海林太郎の写真も飾っており、何時か直立不動の太郎像を作品化をお願いしたい。
29日(金)秋田市文化会館の東海林太郎肖像画を音楽館に運び。着物の有坂から木枠のガラスケースを二個運ぶ。
テープカット用のリボンテープを石の寒風の菅原広二氏から用意してもらう。ハサミはトミヤから紫色の安いハサミを6本買う。現金出納帳も。
30日(土)本荘市へ。恩師の印藤先生から案内して頂き、故河村千代三先生宅へ。奥様愛子さんが温かい出迎え。仏壇に焼香。東海林太郎の従兄の娘にあたる奥様は、東海林太郎が本荘尋常小学校2年生で、二年ほど父親について本荘に住んだことがあるといわれる。当時、県庁の建築技師だった父親大象は本荘中学校の建設責任者だったらしい。新しい事実の発見であった。
印藤先生宅の玄関先にあったネジリバナの鉢を頂き、音楽館の東海林太郎の家ギャラリー前に置く。
31日(日)音楽館最後の展示が東海林太郎の孫光樹さんが持ってきてくれた勲章四点、論文、手形色紙、大型の印鑑、島倉千代子と一緒の写真であった。夜、榮太楼旅館にて光樹さんを囲んで佐藤裕之、鈴木憲一、小国輝也の三氏と歓迎会。着メロ著作権の話。