ふるさと呑風便   NO・195  05・6

  河辺へそまつり
 
 第19回へそまつり。6月5日。天気は曇り。新生秋田市の河辺岩見のへそ公園でひらかれる。秋田ふるさと塾事務局次長の佐々木啓助氏を誘った。へそラーメン早食い競争に出ようと。 十時。へそ公園に近づくと交通整理が行われていた。いつもと違う。参加者が多い。
 鵜養地区にあるへそ神社へ向かう。岩見神社横に作った辺岨神社・絆堂にはへその緒が奉納されている。私の娘と息子のへその緒が桐の箱に第一号と第二号として納められているのだ。
 苔むす階段を登り、岩見神社に参拝後、絆堂には二年ぶり。
 へそ公園に戻ると、舞台の上ではお偉方が立ち並び、開会式が始まっていた。オールバックで眼鏡の恰幅のいい御仁が私を見つけて手を振る。彼、木村友勝県議の挨拶が始まった。
「この祭りのきっかけがそこに来ている佐々木さん、県職員ですが、皆さんご存じの彌高神社の北嶋宮司さん、西目町の石の勘左右エ門と私の4人が、まだ若い頃、北海道のへそ、富良野のへそ神社を見にいったことから始まったんです」

 20年数前だった。若かった。威張り腐った公私混同のひどい上司と喧嘩し、机を蹴飛ばしたら翌年、某保健所に移動。その後の単身赴任先の仕事場の机に、秋田県の地図を貼り付けた。
 小人、暇をもてあますとろくな事を考えない。ロダンのように右手であごを支え、肘を机に置いた。地域作りの師匠・萩原茂裕先生から聞いた北海道のへそ、富良野の話しを思い出した。 秋田県のへそは何処だろと、定規を出して北東の十和田湖と南西の鳥海山、北西の八森町と南東の栗駒山を対角線で結んだ。
 中心点は河辺町の岨谷峡という地点だった。すぐ所内の公衆電話からAI(エーワングループ)の仲間、木村友勝町議に電話した。
「木村さん。河辺町が秋田県のへそだよ。へそ神社を作りませんか。北海道のへその富良野に先進地視察に行きましょう」
 昭和60年5月。我々一行4人は北海道富良野へ飛んだ。
 北海道のへそで印象に残ったのは、市内を練り歩くへそ踊りを考案された菓子店経営の繰上秀峰氏の言葉だった。
「以前、関東のへそだといって、渋川の商店街の人たちがへそ踊りのビデオを撮っていって、勝手に真似をしているんですよ。
 実は私の息子が東京の大学で学生運動の内ゲバで死んでしまったんです。故郷に若者が帰ってこれるような祭りがないかと、へそ踊りを考えたんです」
 あの滑稽なへそ踊りの陰にはそんな悲話があったのだ。
 私は繰上さんに秋田県でへそ踊りをする前には、必ず相談しますと約束した。
 その一年後。河辺町に辺岨神社が建立され、地元の鵜養地区の方々ががんばってへそ公園が整備された。へそ踊りは舞台上で行われる。今年、秋田市と合併となって19回目を迎えた。

 肝心のヘソラーメン早食い競争。啓助氏とやはりAIグループの仲間、鈴木憲一氏と並んだが、先着10名までと打ち切られてしまった。
 そこで3人で400円のへそラーメンを食って、舞台の上に登場した美貌歌手の鈴木勝子さんの歌を聞いて、帰ろうとした。 出口でルポライターのあゆかわのぼる氏から話しかけられた。
「今日は招待なんでしょ」
「いえいえ、招待なんていいんです。仕掛け人は消えるんです」といって、秋田県のへそから、消えた。
 ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成15年6月19日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「グローバル化時代における地域文化とまちづくり(4)
★ 中村良三氏(プラネットフォーまちづくり推進機構)

 観光市場がどんどん変化していってるという問題。団体型の熱海だとか別府だとかがどんどん倒れていってるのはご存じだと思います。大量集客型、大広間で冷めた天ぷら、暖かい刺身と言われているような宴会がどんどん減ってきてて、旅行が少人数でレンタカーか、個人が動くということが増えてきているので、対応できない所は倒れていっているのが現実です。
 一方では発見のある旅、自分らしさを表現する旅。旅自体が一つの自己表現なんです。
 昔はサイトシーイングでお決まりの定番のコースを廻っていた。今は食事ができるレストランに宿泊施設ができています。そこを目的に美味しいシェフの食事を食べに行くというのが旅行になっています。 
 例えば文学の旅。劇を見るために海外に行く。オペラを見るためにオーストリアに行くといった旅が昔に比べてどんどん台頭してきます。旅自体が自己表現なんですね。
 見る観光からする観光。これは体験観光型でソバ打ちだとか、癒し健康本物志向です。
 情報が随分流通するようになりましたから、まがい物が通用しないですね。海外にどんどん出かけていますから本物を見て知ってますので、まねごとをやっても通用しないというマーケットになっています。
 インターネットで直接、中抜きが行われています。旅行会社を通さなくても自分たちで情報を組み立てる、航空券の安売りチケットをヤフーで検索してというインフラができています。
 全く旅のスタイルが変わってきているんです。これに対応してどういうふうな観光を提供するか、地域に変化が求められています。観光産業というのは懐が大きいと思います。
 観光サービス産業で観光振興課でやればいいとか商工観光課サイドがいいとかではなくて、農水は観光をどう捉えるか、経済産業はどう捉えるのか、皆が観光というものを軸に、自分たちの町、財政の面でどう立ち直していくかということで随分、見方が変わってきます。

私がよくいうのは、一次産業×二次産業×三次産業で六次産業になるんではないかと。こういう産業の高次化をやっていこうといっています。 
 観光の中で加工品を売り込むことで二次産業と三次産業が絡まると、六次産業になります。一次産業であった農業に観光客を引き込んで営農スタイルから体験型農業、エコツーリズムということでどんどん高次化していくことで、一×二、サービスが入れば六次産業になります。 どんどん産業を絡ませていくことで、全体としての力を出していくようにしていく。
 二つ目には、食、農業という短軸構造、あるいは観光も短軸かもしれません。それだと弱いのでこれに食の直販とか、農業加工品、地域特産品を開発していく。
 体験型のツーリズム化していく。高付加価値型にして、どんどん付加価値を高めて、特に観光に関しては体験学習プログラムをやっていくという観光を呼び込みながら、色んなメニューを用意して、お客さんに選んでもらいながら、提供していくというのが、地域の総合力。 地域が変わって新しいことを発信しないと、なんだあそこはあんなもんだったという話しがいつまでも残ってしまいます。
 当然、広域連結が必要ですから、自分たちの地域だけではなくて、ちょっと足を伸ばして隣町とも一緒にやれると、どんどん巻き込んでいきながら、多様なメニューを提供していきながら個性を発揮していく。
 無理のないスケジュールとしたのは、無理してやっても急にできるものではないので、できることから一歩づつやっていって、将来のビジョンを皆で共有しながらどんどん積み上げていく。
 で、行政の適切な支援が非常に重要です。これのもとで生活者と農家、観光事業者の協働によってアクションプログラムをつくっていく。これが重要なポイントになっていくんじゃないかと強く感じています。

 最後に私共やった事業を幾つか紹介したいと思います。
 これが宮古島の雪塩といいます。東京、大阪では最近メジャーになっているんですが、これ実は、宮古島の方と一緒に、メンバーに入らせてもらって作った商品です。
 東京と宮古島で共同出資会社を作ってチームでやったと書いています。この雪塩を作るために宮古島の方々にも勉強してもらいましたし、いいコラブレーションが出来たなと思っています。96年にパルプを作ろうとバガスといってサトウキビの絞りかす、あれが実は繊維質なもんですから、パルプができるんです。非木材質のケナフとか、お札、あれはアタカという麻の一種の繊維です。バナナの木とよく似た木です。
 バガスといって捨てられていたもんですから、廃棄物を有効活用して、産業にしていこうというエコロジーパート構想といって、これに東京の大手企業、オムロンという電機メーカーなんですが、私はそこのシンクタンクにいたんですが、宮古島の財界と共同の「大地」という会社を作りまして、計画を作り始めたんですが、やはりなかなか海外から入ってくる安い材料には勝てない。ヒジキリティスタディがうまくいきませんでした。
 で、パルプ化事業は断念せざるを得ないということで、途方にくれたんですが、宮古という面白い所だから、新たな事業をやろうということで、テーマを決めまして、非常に大きなテーマを掲げました。
 「宮古発全国世界」というテーマで世界中に発信できるものを作ろうと。元々はバガスという宮古の廃棄物を有効活用するエコロジー構想でしたから、急に路線変更をするんではなくて、未利用資源を使っていこうと。環境に出来るだけ付加をかけないようにしようということで、色々とやりました。
 地元に島人参といって黄色いゴボウのような辛い人参があって、これはミネラルがたっぷりあります。これを百貨店に売りつけたら売れるんじゃないかとか。サトウキビを絞った糖分を取った後の廃トーブツといってこれには甘さが少し残っていますので、飼料として牛に食べさせたら、食欲増量剤になるんではないかと、しかもアミノ酸の固まりですから、ミネラルの宝庫です。これを乾燥させて輸送したら商売になるかもしれないとか、色々やったんですが全部ダメでした。(笑い)
 結局、うまくいったのが塩でした。この三つが叶った。
 というのは、製法特許がとれまして、色々やってみて乾燥技術が活きまして、海水を乾燥させると塩ができます。
 この塩の何が違うかといいますと、結晶してできる塩化ナトリウムをサイコロ状の結晶にしようとしました。
 海水を鍋釜に煮詰めて、水が蒸発します。まず、水がとれます。残った塩水から結晶の塩がとれます。そうするとニガリが残るんですね。水と塩とニガリの三つに分けて塩を使っているというのが今までの塩だったんですね。これはフライパン方式といわれます。熱く熱した鉄板に海水を吹き付けると水だけが蒸発します。そうするとニガリと塩が一緒になって白い粉が残ります。それがこれです。
 これは海水の粉末といっています。塩分が76%あります。
 全く今までの塩と違った塩ができたんです。
 それがミネラルが18種類、食品分析ででまして、ギネスに登録されました。世界一ミネラルの数が多い。というギネスの塩になったんです。
 これが非常に当たった一方で、東京の企業がこんな小さい事業につきあっていく状況でないので、集中と選択だとさっと引いてしまいました。
 私は現地で取り残されてどうしたらいいんだと迷った。(笑い)宮古島でパラダイスプランという観光事業をやっている事業者が塩だから商売したいというので営業譲渡しまして、これが何と、2003年度で売り上げ3億円、雇用効果が30人という宮古島ナンバーワンといって大ヒット商品に育ってきました。
 何がこれが成功だったかといいますと、先ほどの本部町の話と関連するんですが、東京のチームに4人いましたが、営業のプロ、技術開発のプロ、私たちは事業計画を担当しました。
 マーケティングは全員でやりました。宮古は地元でこの事業を続けていくために、おみやげ物としてやっていけるかどうか。
工場をつくってはどうか。実践の検証をやりました。この役割分担が非常に明確で、お互いに相乗効果があり、原料が海水です。地下から汲み上げれば非常に綺麗な海水です。海から取ってくるとどうしても有機物が混ざります。宮古島って軽石みたいな珊瑚石灰岩の島なんで、海の側を掘ると塩が汲み上げられるんです。これで原料が豊富であるか。当然、手にはいる。
 地域の身の丈。これが重要なキーワードなんです。アプロプリエイティブテクノロジーという言葉があります。これは適正規模の適正技術というんですがハイテクのガチガチの機械なんか入れちゃうと一回壊れたら手に負えない。メンテナンスで東京に電話したら、3日後でないとできない。
 工場の機械は、地元の町工場の感覚で直していけるんです。
これが非常によかった。地元で必ず販売できるお土産物屋さんが、32万人の観光客を相手に商売しているマーケットにまず投入できたということと、テストしながら、全国的にもこれ、すごく売れているんです。
 健康志向で市場の方も変化してきています。
 面白いのはこの雪塩というのは粉末でして、もう一つは海の力といいます。これは顆粒の塩です。両方とも同じ成分ですが、一方はヨーグルトのお砂糖を固める成分で、商品名が違います。 実はこの「雪塩」というのは地元の方が付けたんです。東京チームは「海の力」と付けました。両方とも商品になったんですが、雪塩がインパクトがあるんで、雪塩・海の力とシリーズ物に変わっちゃいました。(笑い)何故かというと雪塩という商品名は、東京者が沖縄の商品に付けることは恐らくできない。 雪という言葉を沖縄の商品に付けることはできない。抵抗がある。でも逆なんです。地元の人は、雪に対する憧れがものすごく強いんです。
 これがパラパラと工場で塩が出来たときに、粉雪だよ、雪だから雪塩にしようというひらめきがそのまま商品にしたんです。 私のは海の力と塩の名前はつけませんが、両方とも売れてますが、雪塩のインパクトが強いんです。やはり地元の方のセンスというのは重要で、東京の知恵を越えることがあるんです。だから両方一緒にやる意味があるんです。
 事業企画は共同ですから、一緒に話し合って、けんけんがくがくブレーンストーミングを繰り返しながら結果、塩に結びついた。で、技術開発に関しては東京チームの役割は、やはり情報が東京に一番集まっていますから、塩に関しては今、どういう状況で、法的な規制がどうなっていて、工場を造る時に法規制がどうでとか、中央官庁ではどういうような指導をしてて、といった情報は集まりやすい。 東京で効率的に情報を集めて技術を開発するのは得意です。 地元で技術開発するのは製造技術、作って自分たちで工場を動かしていくための技術は、kれは全く基礎技術は違いますから、工場のオペレーション技術です。運営とメンテナンスは地元が中心になってやっていく。

 東京でやったのは補助金。中央官庁がありますから、厚生労働省がどうやとか、通産はどんな事業に補助しているか。
 全国の市場調査で大手企業が今、どんなことを考えているか。
 塩を売るときに、こんな箱にいくつ詰めてどういう流通に乗っければヤマトが運ぶとかは東京の大手でやった訳です。
 一方地元では資金調達をして工場を造って製造の方をやります。沖縄開発金融公庫と資金繰りをやります。
 地元のお土産は特殊なマーケットですから、これは東京での全国調査と平行してやります。
 地元での商品流通調査もやって、がっちゃんこした時に売れる商品になります。
 以上が塩の話です。
 今、塩の工場ではボイラーを使っています。油の重油をずいぶん燃やして乾燥させている訳です。その重油がずいぶんとコスト要因として大きい。人件費と燃料代です。
 そこで沖縄の産業振興公社に沖縄の塩を造っているパラダイスプランという会社が油代がかかって仕方がないということで、相談をしました。
 そしたら、沖縄で非常にいいベンチャーが油のリサイクルを作ったという話がでたんです。
 私がたまたま宮古に出張に行っている時にその話を聞いたので、その技術がこの廃食用油のリサイクルです。
 BDFという言葉を聞いたことがありませんか。バイオディーゼルといいます。
 テンプラ油がありますね。使い終わったら捨ててしまう燃えるゴミです。これは熱量が出過ぎて清掃センターの釜をを壊したり、後は燃えた燃料から変なガスがでたりということで問題になっています。
 川に流すと汚染で、下水ではオイルボードとなるんですが、これに対して燃料にして再利用しようという動きがでてきました。バイオマスが話題になってますが、これはバイオマスの一つの資源です。ハイブリッド触媒法という沖縄で出来た再生油です。
 今まで薬品でできたものが、非常に吸着性のある砂のような原料で触媒機能ができるということで、非常にシンプルな工程で、いわゆる適正技術なんです。これでリサイクルができることがわかってきました。
 今までのやり方はアルカリ触媒でやっていたんですが、それに対してハイブリッド触媒法というのは、高さb、横1b30aぐらいの機械です。エコエナジー研究所の仲村さんとパートナーで動いています。非常にきれいな油ができます。これは長期保存が出来ますので車のディーゼルエンジンにテンプラ油が使えるような状態です。
 この技術は沖縄では育ってきています。沖縄で面白いことは補助金を沢山使って、離島が故のハンディキャップを逆手にとって技術開発に繋げていくというベンチャー精神が育っています。この技術はその代表的なもので、去年の沖縄のベンチャービジネス大賞をとりました。

 この装置を取り入れるということで廃棄物を燃えないゴミ、燃えるゴミのように集める仕組みがないんです。油を集めるのには事業者を廻ってテンプラ油を捨てる時は、捨てると環境問題に影響があるから、ペットボトルにいれたらリサイクルしますからといちいち言って廻ります。そうすると油が集まってきます。
 もしくは、PTAなんかで、子ども達に天ぷら油をペットボトルに入れて学校に持ってきてもらうんです。給食センターが回収して配送車を走らせるといった地域の仕組みづくりをやっている所が幾つかあります。
 そういうふうにしていくことで、天ぷら油が環境汚染にならずにリサイクルされて燃料として再利用される。バイオマスの有効利用です。
 これ実はまちづくりそのものなんです。
 そうやって人との関係を繋ぎなおしながら、社会のシステムを一つ作っていく。リサイクル。環境を導入することで一つのコミュニティの活性化、まちづくりに繋がっていくという仕組みになっていくとのいうのは非常に面白い事例かなと思います。
 沖縄でもこういうことが今、実際、宮古島の雪塩工場にこの天ぷら油のリサイクルの機械を入れるということの調査をやっています。
 この間も、宮古島で佐藤社長と二人で、20件ぐらい飛び込みで飲食店を廻って油をどうしてますかと。やはり、かなり固めて捨てているんですね。
 それを集めてリサイクルするんでしたら出していいよといわれました。
 こういう社会システムをつくっていくということも地道にやって、行政側ともうまくコミュニケーションをとりながらやっていくことも大事なのではないかと思います。
  呑 風 日 誌 抄
  5月1日(日)彌高神社宵宮祭。大学ゼミ後輩で資生堂を若年退職して東北旅行中の井上宏一氏を誘い、直会にも出席。秋田の歌人の方々と一献。千秋公園を越えて、あやめ団子で又、一献。
 2日(月)朝、彌高神社例祭。黒一点で玉串奉奠。井上氏と車で阿仁町・森吉スキー場前のブナホテルへ。新オーナーの山田博康氏からホテル経営をするきっかけを聞く。平家の落人部落である山田さんの根子地区で、ダッタン蕎麦の栽培を勧め、種を提供する。
 4日(水)家族と由利本荘市となった大内の実家へ。墓参り。東京で骨折した娘・女房と滝温泉へ。
 5日(木)女房と秋田駅ポポロードへ。恩師・向山清先生の奥様のご依頼で、ストリートミュージシャンの及川知宣さんのシンセサイザーの曲を聴く。切なく美しいメロディ。彼のフアンクラブの皆さんとの写真をとる。広島から来たご婦人は涙を流して聴いていた。「連休で秋田の桜を見に来ましたが、及川さんの演奏が最高の思い出になりました。是非原爆ドーム前でやって欲しい」と語る。
 彼と向山先生の奥さん達とビューホテルのレストランで話を聞く。2年半前からポポロードの通路で演奏しているが、市役所からストリートミュージシャンが排除され、自分だけが黙認の形だが、もっと自由に他の仲間にも演奏させてほしいとのことだった。
 東京から秋田に来ているのは、以前付き合っていた秋田美人の女性の面影を追ってとのことらしい。失恋したからこそいい曲ができる。ショパンが好きで、2か月に一回はロンドンでバンド活動をしているという。親切なフアンクラブの方々の真心にほだされてしまった。
 6日(金)昼。羽後設備の佐藤博之専務を東海林太郎音楽館(仮称)予定地の秋田市大町2丁目・榮太楼菓子舗の2階に案内。空調設備を見てもらったが、大丈夫動くとのこと。内装をどうするか。
 8日(日)榮太楼旅館。東海林太郎顕彰会(後藤正次会長)総会。NPO法人東海林太郎伝承会の認証と音楽館設置の報告。皆さん、了解。尊敬する田口勇先生もご出席。横手市のスーパーよねやの佐々木雄一会長、これでやっと拠点ができることは素晴らしいといわれる。カラオケで東海林太郎の「椰子の実」を歌う。二次会は川反の懐メロスナック・本因坊。名歌手・伊藤要さんの「母に捧ぐる唄」はさすが胸にじーんとくる。
 10日(火)平鹿町のまごころ大賞受賞者・渡邊保子さんから、地震が縁で新潟県十日市の池田きのこ栽培所のエリンギが送られてきた。池田さんを被災地と交流している早稲田商店会の安井会長に紹介することとする。
 13日(金)仁賀保町の須田産業課長の案内で、三衛クリーンざービスへ。遠藤社長からエコオイルとコンポスト事業。茨城県斉藤公雄さんの酵素菌の会「オランの会」の話しを伺う。
 秋田市川反・第一会館。マスコミ志望の小樽市から来た受験生を誘いNPOセンターの菅原雄一郎氏、和久建設の直巳社長と一献。二次会場で川反演歌師山本実さんを呼ぶ。大松建設の社長に仙台の名医靖大錚博士を紹介することに。
 14日(土)朝。男鹿市若美町の吉田典雄さんちの「さゆり田圃」の田植えを見学。県立大学の炭焼窯に経済同友会で松食い虫対策に取り組む佐藤健三氏を案内。炭博士の鈴木勝男さんを紹介。
 アトリオン音楽ホール。女房と中国のテノール歌手・于志輝、沢田千秋さんのピアノコンサートへ。
 17日(火)駅前・道心へ。北嶋昭宮司と一献。人情酒場久保田で水墨画の卓吾先生の最新の画集を見る。華ラーメンにて駅前・栄館に泊まっているストリートミュージシャンの及川知宣さんを誘い、19日に日赤病院に案内する約束。
 19日(木)午前、秋田日赤病院へ。及川知宣さんを宮下院長に紹介、何と院長の奥さんが及川さんのCDを持っていた。6月2日に日赤にて及川ライブをご快諾。
 明徳館図書館の北条先生から井上隆明元秋田経済法科大学学長の提供された、浜辺の歌の成田為三の資料を見せてもらう。
 昼、ABS秋田放送食堂。伊藤譲局長へ後輩に当たる毎日新聞の百武記者を紹介。橋本泰幸部長も。
 20日(金)能代市に住む山本としあき氏と県庁地下喫茶店。秋田薬剤師会の鳥海良寛氏とバイオマス専門委員会への相談。
 21日(土)朝、秋田パークホテルから秋田市大内会の伊藤一幹事長、阿部一哉氏と由利本荘市岩谷会館へ。芋川沿いに植樹された桜木のクリーンアップ作戦。田植えの頃、鳥海山が美しく映える。
 秋田市外旭川の田圃。神饌御田植祭。北嶋昭彌高神社宮司の神事後、中学校達が田植えの儀式。
 23日(月)駅前久保田。秋田職人塾の工藤幸彦塾長、森川恒氏と映画・平成職人の挑戦上映の件。
 仙台に住む高校同期の猪又敏夫税理士も加わり職人の話。猪又氏と仙台藩士の慰霊碑でもある川反観音像へお参り。
 26日(木)男鹿加茂青砂海岸。22年前、日本海中部沖地震の殉難者・合川南小学校13人の慰霊祭。
 午後1時半。ご遺族と遊覧船にて洋上慰霊祭。桜島沖で黙祷の間、「ふるさ」を海に向かって吹奏。高桑賢二船長が男鹿沖で亡くなった23名の名を読み上げ追悼の言葉。萬盛閣の若女将・宮坂靖子さんが大友康二先生の鎮魂の詩を朗読。胸が痛んで涙。
 27日(金)ふるさと塾。「人をきれいに、地球もきれいに」講師は山本久博氏(NPO法人環境あきた県民フォーラム理事長)シベリアをソーラーカーで横断。モナコでの英語講演を日本語ですごい。