ふるさと呑風便 05.4 NO,192
授業中
「へんぼくぐん」(仙北郡)という渾名を一時(いっとき)付けられたことがある。
学生時代。クラブの同期で自称ハマのプリンスといっていた横浜の小田豊二からである。
「違うよ、俺は秋田県由利郡出身だ」といっても彼は意に介しない。
なぜ仙北郡なのか。
それは三遊亭歌奴(現円歌師匠)の有名なあの「山のアナアナアナ」である。
出世作、「授業中」にでてくる東北弁の先生が、秋田県仙北郡出身という設定だった。
山のあなた
詩 カール・ブッセ
山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいう。
ああ、われひとと尋(と) めゆきて
涙さしぐみ、かえりきぬ。
山のあなたのなお遠く
「幸」住むと人のいう。
上田敏訳
吃音(どもり)を直そうと新大久保の駅員をやめて噺家になった中沢伸夫さん。二つ目に昇進して歌奴を名乗るがさっぱり売れない。傷心の想いで旅に出る。行き先は定番で東北へ。
歌奴は旅の途中、大館市のある料亭の女性と仲良くなった。 ここで秋田弁を聞き、これでいこうと考えたのが「授業中」だ。教師を大館出身とするのは失礼と、訛りがだせる「へんぼくぐん」出身としたらしい。
自身が吃音だから、どもりの生徒に「山のあなた」を朗読させて、その生徒がどもるのを笑いものにして受けたのである。
後年、ハマのプリンスは作家となり、こまつ座の季刊誌「THE座」の編集長を兼ねている。
先日、その57号を送ってくれた。自ら「円生志ん生百噺」を書いている。さすがに上手い。
小生を「へんぼくぐん」と名付けただけはある。
平成17年2月18日。
秋田市立勝平中学校3年3組の教室。私自身、59歳の記念すべき誕生日に教壇に立たされた。
小学生の時、よく悪戯をして廊下に立たされたことがあったが、教師役で教壇に立ったのは初めてだった。
卒業講話会としての演題が「郷土」。所要時間が一時間。40人の生徒全員に拙書「青春 旅 故郷づくり」を配っている。
黒板にはロシアから買ってきた、日本が右端にある世界地図を貼り付けた。密かにミニトランペットを用意している。
初めに、黒板に菱形自己紹介法として、菱形を書く。中の四端にモットー、仕事、家族、趣味を入れる。
そしていった。「生まれは、秋田県由利郡大内村です」。
拙書のまえがきを、男子生徒から読んでもらった。
「雄物川 夕日に映えて 美しが浜・・・(後略)」
勿論、その生徒はどもったりしないし、秋田訛りもなく、上手に朗読してくれた。
最後にトランペットを取り出し、皆で「ふるさと」を歌おうと、授業中にラッパを吹いた。
後日、3年担任の岸通先生から礼状と生徒の感想文3通が送られてきた。
照れるが、3年3組、相場大地君の最後の一文と、大山礼佳さんが書いた絵を紹介したい。
「今回のお話しで自分も秋田県民なのだから、一つくらいは秋田県のために何かしようと思える機会になりました」
ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成15年6月19日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「グローバル化時代における地域文化とまちづくり
★ 中村良三氏(プラネットフォーまちづくり推進機構)
次の沖縄の話しに繋げていくための一つの表なんですが、厚生労働省都道府県別生命表があります。沖縄は女性は1975年から5年ごとの調査では常に一位を占めています。なぜ沖縄の女性が長生きなのか。
やはりいろんな地域の文化があって、食べ物だとか、近所つき合い等長寿になる条件があるのかなと思います。
ところが男の方は、1900年から、5位に入ってくるんですが、2000年に26位におちちゃたんです。これを26位ショックといってるんです。
何故男性がここまで落ちてしまったのか。一つは職業を持たないでブラブラしている男性が多くて、全国で5位ということもありまして、そういう生き甲斐が持てなくなってしまったのかなということも一つの原因なのかなと思います。
ただ、沖縄というところは魅力的なところですし、地域の独特な文化が残っています。
そういう意味では非常に参考になる所かなと思います。
私はここで中村にバトンタッチしますが、沖縄のいろんなプロジェクトに係わって我々、感ずることをお話しして頂きながら議論のテーマにしていただけたらと思います。(拍手)
ちょっと声色が変わりまして中村と申します。
今、佐藤の方から概念的な地方都市における中心市街地の衰退の理由とどう対処していべきかという概念的な話しをして頂きました。
今度は目線を変えて、地域活性化といわれている地域の元気をどう引っ張り出していくか。
沖縄との関わりが深くて、例としたら特殊かもしれませんが、特に本部町に関しては、北部振興基金という補助金を活用して、地元の方と委員会を開いて、どうやれば地域の活性化に繋がるかという案を一年間、いろいろとやらして頂きました。
本部町というのは、北部のヤンバルの中心地で有名で、今、辺野古のヘリポート問題でくすぶっているんですが、その隣の本部町という海洋博の記念公園があります。最近、ジンベイザメが泳ぐ水族館と随分、話題になっています。
そこのウエルネスといったまちづくりを作らせていただきました。その話しを少し致します。
沖縄本島は細長い島ですが、大きく南部、中部、北部に分かれます。南部は糸満市、琉球王朝があった那覇市、コザ市と昔いってたんですが、中部の沖縄市、呼谷から北側、恩納村、参勤リゾートホテルが最近、できてますが一番北側が大府村、最近プロ野球のキャンプが来てますが、今回私たちが行っていた本部町は本部半島があって、海洋博が開催された所で、水族館
があります。
これは行政がよくやる手なんですが、へんぴな一番先ちょにマグネットを持ってきて、お客さんを引っ張っていくことで、経済効果を最大限に地域全体に波及させていこうという、まあ、よくいえば地域全体の活性化を目指す。悪くいえば・・・。
95年に本部町の先っちょに海洋博ができた経緯、那覇からそこへ至るまでの道路、インフラは相当整備されています。
一応、北緯26度ですから、南十字星も見えます。那覇まで80キロで名護市まで キロです。
本部町のことを地元の方といろいろと問題点を洗い出す際に随分と調べました。統計的なデータから数字を引っ張り出して分析したんです。
人口は今、一万五千人。横ばいから少しずつ減っています。世帯は増え続けています。一世帯人口が減って所帯分離が進んでいっているという、日本の地方都市のどこにもある現象が本部町にもあります。
産業構造としては、昭和45年、復帰後、産業別の就業人口数を並べてみますと、第一次産業の農業と漁業、元々は三千人程いたんですが、どの産業よりも多かったんですが、これが平成7年、国勢調査では千二百人ぐらいになってきてます。
増えているのが建設業ですね。
一千人ぐらいになっています。
後は卸小売業、サービス業が増えています。復帰前は農業が中心でしたが、復帰後は農業、建設業、卸小売業、サービス業の四本柱に産業構造が変わっています。観光という言葉でくくれる建設業も観光関連の建設業も伸びています。
農林漁業がそれとはいえ、比較的盛んで、カンカンというンミカンが沢山とれます。
アセロラ、七食の果実のアセロラが採れます。琉球大学で学ばれた方が本部町にブラジルから原種を持ってきまして、定着させて、高齢者でもできる矮性化したアセロラを特産化して注目されてます。本土でも、楽天市場で店をだしている我々の仲間がいるんですが、引っ張りだこになっています。ものすごく高値が付いて取引されています。
これから町でも力を入れてやっていこうとしています。
それとカツオ漁港があるんです。沖縄でもカツオ漁港があるところは数えるほどで、本部町は漁業も盛んな所でもあります。
私はまず観光に注目しまして
、本部町の課題をいろいろ聞いてみまして、観光産業の課題となってますが、本部町の課題でもあります。
かっては沖縄観光といえば、沖縄記念公園を見に行くというのが定番でありました。今ほど観光施設が有象無象になかったですから、那覇で街を見て、南の方の戦争の跡を廻って本部の沖縄記念公園を見て帰るというのが沖縄の観光パターンでした。
かって沖縄に来た人の7割から8割が本部を訪れていました。
平成十四年、沖縄の観光客は五百万人を突破しました。とうとう五百万人の壁を破ったと沖縄では大騒ぎしたんです。
これは沖縄の持っている特性、これほど個性の持った地域文化は沖縄しかないんじゃないかと思っています。言葉もそうですし、食文化、生活文化、あらゆる意味で沖縄というのは強い個性を持っています。
一方では本土の資本が経済成長に乗り遅れて、基地経済によって沖縄が引っ張り上げてこられたという事実がありますから、補助金頼みということで随分、補助金の良いところ悪いところ、両方でた県でもあります。
そういう意味では個性的なんですが、本部に関しては八十年代ぐらいまでは、沖縄観光は本部の記念公園、75年に行われた海洋博の集中投資によって、ある程度食えていた。
ところがその後、海洋博公園がだんだんと陳腐化してきます。
当然、お金をかけて作ったものは作った時は最高でだんだん悪くなっていくという、日本のテーマパークだとか、設備投資型の 産業といえることなんですが、あいたがわず平成12年には30%近くまで、つまり沖縄に来た人の3人に1人までが海洋博に行かない。それほど海洋博が魅力をなくしてしまった。
この課題がそもまま、本部町の観光の課題となって行政にはね返ったきました。
理由はいろいろあるんですが、やはり那覇からのアプローチの長さ、80キロもありますから、
本部に行かなくても手前の恩納村に素晴らしいリゾートホテルが沢山あります。
那覇自身の魅力もたくさん増してきたということです。
団体の観光バスで本部に来てたものが、レンタカーで個別に動くようになりました。そういう意味でいうと、街の観光が地盤沈下ということがはっきりしてきました。中南部に宿泊して日帰りで本部まで来ると言うことになると、通過型観光です。 お金を落とさないんです。泊まってご飯を食べてお酒を飲んででないと客単価が上がらないんです。ジュース一本と入場料何百円払ったら次の目的地へいっちゃうと。これが本部町の観光の課題でしたが、これは平成12年までの話しで、ここ2、3年、違う要素がでてきました。
というのは海洋博公園に水族館がリニューアルしまして、東洋一、世界一というジンベイザメと巨大水槽をもった水族館、あれが一年間三百万人を人を集める状態になりました。
本部町の入れ込み数は水族館に引っ張られて、三百数十万人までいってるんじゃないかと思います。六割まではV字回復しています。これは特殊要因なので、内部開発ではなくて、外部的な水族館という新しい国家的投資が本部町に再び行われたことによって、持ち直しただけでこれも又、右肩下がりになっていくということが容易に想像できます。
ただ私共は本部町の方々と話し合ったのは、外部要因に頼る依存型の産業でなくて、本部の元々持っている観光資源、宝物と何なんだろうと、これを掘り起こしてみて、それらを観光の中でうまく生かしていう方法を考えないと本部町は永続的に観光で食べていけない。
経済も活性化していって地域のメリットもでないということを話し合いました。
そこで「本部ウエルネスのまちづくり」というのをテーマとして考えたのですが、やはり沖縄海洋博公園に次ぐ、第二、第三の魅力作りという、本部町を目的に訪れてもらう魅力というものをつくらなけらば、海洋博に依存するのであれば、右肩下がりであるということがはっきりしました。
で、第二点としては、エリアの総合的な魅力アップを図るためには、那覇から本部町まで80キロというのは微妙な距離でして、日帰りで那覇に住んでる人達は、本部北部まで遊びに来るんです。場合によっては一泊していく郷里でもあるんです。
海も南に比べれば綺麗な海がたくさんあります。総合的に本部の魅力をアップすれば、県内の那覇あたりに住んでいる方が本部に来るということは、観光客を当然、引っ張る魅力を、エリアとして作れるんじゃないかという総合力の問題を話し合いました。(続く)
呑 風 日 誌 抄
3月2日(水)朝、どうも熱っぽい。役所の診療室で計ったら38度。美人の女医さんから綿棒をノドチンコの奥まで入れられて、検査十五分後、「インフルエンザB型ですよ、今週は休んだ方がいいですね」とマスクを3個もサービスしてくれた。
4日(金)夜、まだ熱があったが秋田市山王・宿六へ。毎日新聞秋田支局送別会。北村次長は札幌へ。人をその気にさせる名デスクだった。野口記者は本社政治部へ。秋田県ラブビー発展にも大いに貢献された。二次会が久しぶりに「山路」。カラオケで人生劇場。
5日(土)大内町閉町記念式へ。
農業改善センター。式典の最後に町旗を佐々木秀綱町長と成田正雄議長が掲げる姿に胸が熱くなる。
体育館での記念パーティにはふるさとの会いたい方々がいっぱい。
明日の大内を創る会の面々と本荘市の畠山清昭さんの店で一献。
秋田駅前のニュータケヤで第2回親学講習会の打ち合わせ。親学運営委員長で恩師の小林孝哉先生をタクシーでご自宅まで送り、人情酒場「久保田」へ。映画「白神の夢」実行委員会の反省会で、学生達と又、にぎやかに多献。
6日(日)秋田県立大学の高橋義雄教授と空手道北士館同門の秋田県保険鍼灸マッサージ連盟の丸山芳也会長と懇談。丸山兄弟子と昔、がんばる愛のコンサートをやった大町4丁目・鎌田マッサージの正・京子ご夫妻を訪ね、新装なった「たかの家」で二次会。
8日(火)県民ホール。鎌田久美子バレースタジオの鎌田先生から七月23日、秋田市文化会館にてバレーの発表会の相談。ロシアと韓国から舞踏家を招待しての発表会。名称を環日本海バレー国際交流公演とするかどうか。
9日(水)昼、県庁地下喫茶。
東京財団の吹浦忠正さんの紹介で東京の石川こう子さんと。アトリオン音楽ホールでの中国人歌手のリサイタル公演の相談を受ける。夕方、秋田市山王の藤原信悦司法書士事務所にて参議院議員広野ただし氏の政策秘書・山本としあきさんと懇談。広島出身で元通産省官僚らしくない大人。
10日(木)イヤタカ。県庁同期「46会」で近藤吉久氏の送別会。「近藤吉久氏の新たな門出を祝う会」同期35人中20人出席。当方は会長として開会挨拶。水産漁港課の工藤泰夫幹事長がすべて取り仕切ってくれた。
11日(金)夕方、生涯学習センター別館・ジョイナス。秋田男性合唱団の練習前、勝平中学校の音楽教師でトランペッターの神戸博先生に来てもらい、彼の伴奏と石田俊介団長他3名の団員と「海ゆかば」と「戦友」の練習。
12日(土)午後1時30分。秋田市高清水の護国神社。日露戦争百年戦没秋田県出身者慰霊祭。進行役。黙祷の間、「国の鎮め」
をラッパ伴奏。神事の後、ロシア代表としてヴクトル・ネザムジノフ先生からも玉串奉奠。秋田男声合唱団(石田俊介団長・伴奏神戸博)による「戦友」と「海ゆかば」の合唱。海ゆかばは出席者全員が立ち上がっての大合唱。閉会の言葉は日露戦争の調停役・ルーズベルト大統領役だとアメリカ人のジョンモック先生にお願い。
夕方、榮太楼旅館。元秋田大学中国人留学生の田奇氏、中国人留学生のお父さん、佐藤孝之助さんと。中国人留学生の兄貴分の加賀谷実さんも駆けつける。寿し大和で加賀谷さん達の無尽講に合流。愉快で意義有る再会酒。
13日(日)西目町の石の勘左エ門の高橋正社長から電話。酒田市の前田製管会長の前田直己氏が代わり、佐々木さんから頂いたペルーの種のうち、ホオズキの種が山形大学農学部で芽が出たという。提供者の故シオタテツオの名前を冠にしていいかと。有り難し。
16日(水)夕方、佐藤正一郎羽後町長と千秋公園内の千秋庵にて食事。彌高神社・未来研究会にて古代米の栽培の話。北嶋宮司、男鹿・新山神社の武内信彦宮司達と久保田にて一献。天才水墨画家卓吾氏から神社に絵馬と天井絵を描いてもらう話を進める。
17日(木)北海道士別市の安田農場からダッタンぞばの種を30キロを送ってもらう。去年、大潟村で失敗したが、今年は秋田の平家の落人部落・阿仁町根子での栽培計画をすすめる。実家の大内町でもやる。中山間地域をダッタン蕎麦で地域づくり。夕方、榮太楼旅館。田沢湖町乳頭温泉・鶴の湯の佐藤和志さんの講演。成功するまで続けた謙虚で感動的な話で好感。山芋鍋と大鵬チャンコ鍋の共演でもあった。
18日(金)夕方、平安閣。秋田商工会議所の渡邊靖彦新会頭の祝賀会。昭和50年頃の秋田県青年連合会の幹部達、五城目町の佐藤悦郎さん達が主催。懐かしい面々を会えた。男鹿・帝水の畠山樹之さんも駆けつけてくれた。これが彼との最後だったとは。
20日(日)女房と大内の実家へ墓参り。大雪が残る佐々木家代々之墓。
21日(月)秋田港。高桑賢二船長の遊漁船4d光良丸が、秋田湾を走る。
午後、榮太楼旅館にてNPO東海林太郎伝承会の設立で役員9人に集まってもらってNPO法人化の相談、全員から賛同を得る。東海林太郎記念館を8月の竿灯祭りまで建設を目指す。
22日(火)秋田市亀の町・山蕗。東北電力秋田支店の川瀬郁朗氏、横山保雄氏。出村弘一氏、バウハウスの森川恒氏。電力主催の秋田ディレクターミーティングでHPおもしぇ秋田がCD化された祝賀会。主役は出村さんで私は秋田酒道を書いて主催しただけであった。
23日(水)秋田メトロポリタンホテル。さきがけ政経懇話会。彌高神社・北嶋昭宮司のお誘いで、「これで町が動き出す」講師が綱島信一東京品川区商店街連合副会長の講演を聞く。情熱、汗、赤い血を出して、みんなじゃない自分がやるまちおこし。北嶋宮司と久保田でゆっくりと一献。
25日(金)ふるさと塾。講師はミスターNPOと他称された佐藤裕之さんの「まちづくりNPO」
彼のNPOの実践論でNPOのイメージが描かれた。 佐藤講師、少年の心をもった大人のぺーパーを発刊した渋谷明美さんと焼き鳥・鳥八で二次会。
26日(土)大内町の実家の檀家・新装なった楢淵寺にておふくろの十三回忌。夕方、秋田市の三味線茶屋すがわらにて、横浜の小田豊二顧問を迎えて第三回秋田聞き書き大賞授賞式。大賞はすがのりこさん。井上ひさし秋田聞き書き村名誉村長賞は、わたなべきよこ氏、特別賞が川田悦子さん。副賞は井上、小田両作家の署名入り著書と津谷裕貴弁護士からの銀製の耳かき。学友小田豊二、高桑賢二船長と広面の同学畠山文夫氏の店、梅安亭へ。
27日(日)大内町農業改善センター春一番。第7回大内民謡の里づくり競演会へ。壇上で開会の言葉。
秋田市・三井アーバンホテルにて木内むめさんの詩集・雪花火出版記念会。何んと司会が大物の竹村菊昌氏。最後に司会を下請けされて全員で「浜辺の歌」を歌ってもらって閉会の言葉。