ふるさと呑風便 07/3 NO.191
会いたい人
「会いたい人をどれだけ持っているか。どれだけの人に会いたいと想われているか」
2月19日。岩城町の厚生年金休暇センター。私は岩城町結成50年記念祝賀会に地域づくりアドバイザーとして呼ばれている。
記念講演の演題が「岩城町での生活から見た道川ロケット」。講師が応用科学研究所の広沢曄夫(あきお)先生だった。聞いたことのない講師。あのロケットの糸川英夫博士と一緒に行動された方らしい。 広沢先生は「道川ロケットの思い出から、若い頃の道川の人々との生活が自分の人生を決めた」と話し始められた。
訥々と話される言葉が妙に生きている。
「相手の気持ちをどうやって察するかを勉強してきた」
「国は県を、県は市町村を、大企業は零細企業をいじめてきたんです」「世の中、数字や統計ではない。理屈でもない。納得である。いかに現場で相手のことをどれだけ聞き得るかだ」「庶民は理屈ではない、好きか嫌いで判断する」「知識は本から、知恵は自分でつくる」「見えない絆、繋がりをいかに大切にするか」
そして最後が先生の人生訓として冒頭の言葉だった。
それを受けて柳田弘本荘市長が祝辞で「会いたい人達がいっぱいる岩城町で、多くの方々から会いたいと想われたい」といわれたのはさすがであった。
会場で、会いたかった岩城町の堀井正男先輩から、広沢先生を紹介してもらった。
名刺を頂き、著書「利口な人間には誰でもなれる」をネットで注文し、御礼の手紙を広沢先生に書いた。
すぐに返事を頂いた。ツクシンボが描かれている葉書にこういう言葉があった。
「どこの誰とでも仲良くなれる幸せをかみしめています」
3月5日。ふるさと大内町の閉町式が農業改善センターで開かれた。この22日には由利本荘市となる。
平成の大合併は国の財政政策の失敗を地方へのつけ回しである。その尻馬にのってか、県もアメとムチで強引に推し進めてきた。広沢先生のいわれる納得づくではない。
その結果、我ふるさと大内の名前も消える。合併で器を大きくすれば、果たして住民が幸せになれるのだろうか。
体育館での祝賀会には会いたい人がいっぱいいた。
20年前、この体育館で、「民謡の里大内を」のタイトルで大内民謡大競演会を開いたことがあった。主催した「明日の大内を創る会」の仲間とも会えた。小笠原良一氏達と日本で初めて自然薯の特産化を目指した「とろろ飯大食い大会」を始めた。これらのイベントは今も続いている。
22年前の秋田県茸栽培業中国視察団(佐々木秀綱団長・現町長)で一緒に行った伊藤静治団員(現町会議員)とも会えた。「上海で静治さんの50歳の誕生パーティをやったなあ」と昔話に花が咲いた。
ふるさとは想うものではなく、創るもの。地域づくりは飲みたいと思われるような人間づくり。若者にとってふるさとは、創り変えていくべき現在進行形だ、などと偉そうにいってきた。もういうまい。
カネやモノやトシでもない。
地域づくりは、広沢先生のいわれるように、見えない絆を大切にし、会いたいと想われる人づくりなのだ。
ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成15年6月19日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「グローバル化時代における地域文化とまちづくり
★ 佐藤利明氏
(プラネット・フォーまちづくり推進機構代表取締役)
私共の略歴なんですが、元々西武のセゾングループで実際、事業に携わっていました。バブルの頃、色んなことがありまして、8年前からプラネット・フォーという会社を作りました。単なるまちづくりの報告書をまとめて終えるのではなく、実際に地元の方々と、事業に係わってきた経験を生かして、まちづくりの事業化にお手伝いできればと、今までやってきました。今日は歴史のあるこの塾でお話するのはおこがましいので、我々がやってきた仕事の一端を紹介させて頂きます。議論の材題にしていただければと思います。
私が主にやっております地方都市の中心市街地の活性化のお話をして、その後、地域開発ということで中村が沖縄の本部町とか宮古島というところで地元の方々と一緒に、飲みながら議論して一緒にやっているプロジェクトを紹介させていただきたいと思います。
今日のテーマなんですが、「グローバル化時代における地域文化とまちづくり」というちょっと大仰なタイトルにしたのんですけれども、これは何がいいたいかというと、やはりまちづくりのうえでは、地域の個性とか、アイデンティティが非常に重要だろうと、今までのように中央集権的な、中央に目を向けいたやり方では地域が存立できないというふうに私は思っています。地域の方々が自立し、自主的にリスクに係わっていって、それで地域の個性をどうやって出していくか。
これからのグローバル化時代には、日本のいろいろんな都市や地域が、直接、あるは世界と繋がっていくだろうと思っております。そういう意味で「グローバル化時代における地域文化とまちづくり」という主題にいたしました。
私達が色んな地方都市の中心市街地の活性化プロジェクトで、北は帯広、南は延岡のプロジェクトに係わってきて思うのは、都市がどこも同じような顔をしている、個性が亡くなってしまっているなというのを痛感した訳なんです。
やはり、地域や、まちの個性、独自性とは何なのかと常に考えております。これは今まで、経済性を中心に都市形成を図ってきたということで、地域の歴史だとか伝統とか、そういったものをどちらかというとないがしろにしてきたと思います。
昭和30年、40年代につくられた中心市街地の商店街が今や風化してしまい、どこも衰退してしまっている。
その中で、我々もセゾンにいたのんですが、中央資本に依存したまちづくりというのは、状況が悪くなるとすぐ撤退してしまうということで、やはり地元の事業者が中心となってまちづくりをしていかなければいけないなと痛感しております。
中央からの補助金でまちをつくってきたところ所がありますが、どうしても中央の基準にのっとりながらやっていたたものですから、画一的なまちになってしまっています。そのへんが地域の個性をだすために考えていかなければならない内容かなと思います。
中央市街地の空洞、衰退化というのは皆さんにはもう、釈迦に説法のようなもので、詳しくは述べませんが、1970年前後から、モータリゼーションが進んでいって、市民のその移動範囲が非常に拡大したということで、都市機能がどんどん郊外に移転しました。それで中心部が空洞化してしまって、今まで中心に住んでいた商業者も郊外に一戸建を作ってそこに住んでしまう。今中心市街地に住んでいる方々もかなり高齢化してしまっているというのが現状です。後は交流人口ということで昼間、働きに来たり、街に買い物にきたり、色んなアミューズメントを楽しみに来た人たちが余り来なくなって、交流人口も減少しています。
最初に申し上げましたとおりマチの顔、アイデンティティというのが、だんだん薄れて来てしまっています。
ではどうしたらいいか。
新たに現状にふさわしい機能を導入すればいいじゃないかという議論がありますが、相変わらず地方都市の場合、中心部の地価というのは、高止まりしております。商業地域も下落はしているのんですが、実際そこで事業をやるとなると、十分な利根回りが確保できない。なかなかそこに都市機能を入れられない。
結局、駐車場のままになってしまっているというのが地方都市の現状ではなかと思います。
70年代に急激に車が増えていって、以前は一家に一台といわれていたのが、一人に一台というような時代になりました。
一方では高齢者の免許保有率が少し前で女性が5%といわれたことがあったんですが、今はもう少し増えてきていますが、だいたい65歳以上の高齢者は免許を持っていません。男性でも40%ぐらい。平均すると20%ぐらいということで、やはり高齢者にとって必ずしも車だけで郊外のいろいろ色んな施設にアプローチしているかというとそうでもない。
ただ、相当不便をかこっているのではないかんじゃないかと思います。
あとは我々が手伝ってやった経済産業省の診断助言事業といって、全国、毎年10都市ぐらい選んで診断助言のお手伝いをして19の都市と係わりました。
その中で秋田県の横手と大館があります。ここでも中心部に色んな都市機能が前はあったのが、郊外に移転してしまった。極端な例では、横手は中央病院が郊外に移ってしまう。
病院が中央部に立地していると、病院は多くの人たちを集める集結客装置でして、郊外に移転してしまうと、今まで元気だった中心部がたちまち衰退してしまいます。今まであった都市機能が郊外に出て行ったで現状がおわかりかと思います。
住まいも郊外に移り、県庁とか市役所や合同庁舎も外に出て行ってしまう。図書館だとか公民館、病院といった公共施設が郊外に転出してしまっているというのが現状でがあります。
商業施設についても言わずもがなですが、大規模なショッピングセンターが郊外に立地し、ロードサイド型のお店が郊外に立地してしまう、。ということで中心部の商業地がどんどん空洞化してしまうというのが現状です。
どうして都市機能が郊外に移転してしまったかというと、開発関連の都市計画法や農地法、森林法があったのですが、徹底してその制度を活用しなかった。結局は野放しで開発させてしまった。それが無秩序な都市の拡大に繋がってしまった。
そこで、これは都市計画学会の小林先生という方先生が、色んな都市を分析して、どういう形で郊外に都市機能が移っているかというのをパターン化した表です。
中小市街地に相変わらす都市機能が集積しているのが鶴岡、佐世保、長崎等、こういった都市は土地の地形的な条件が手伝って今でも郊外に移らずに中心部に立地しております。こういうところは今でも元気です。
佐世保なんかは中心部が非常に元気で人通りも多い。
一方、秋田市がここに位置づけられているようですが、中心部に都市機能が一部ありますが、郊外にニュータウンができて、そこに都市機能が集積しています。こういう都市機能が外にでてしまった都市ているいうのは、中心部に再度のどうやって住宅を又導入して、定住人口を増やそうと施策を施してみてもなかなか難しい。
やはり実際、中心部に住んでみても生活利便施設、生活支援サポート機能がないためにどうしても生活しずらくて、住めないという状況にであります。やはりこういう所を活性化するためには、もう中心部は諦めるか、あるいは新たに都市機能を中心部に導入するか、そうしたことをしなければ活性化はありえないのではないかというのが我々、こういうプロジェクトに係わってきての実感でございます。
この写真が全国で二番目にPMOが認定されて、鳴り物入りで開発された佐賀の再開発ビル「エスプラッツ」プラッツという再開発ビル、佐賀の再開発ビルです。商業も含めての施設で上層階上が住宅になっています。その中の中核テナントの商業が抜けてしまい、第三セクター、「まちづくりパテルクル佐賀」というのが倒産してしまい、今そこが相変わらす空いたままになっています。住宅以外は、3階の公共施設だけが入っているという状況で、その周辺も人通りが非常に少なく、全くないような状態になってしまいました。
その下が佐世保で、山に囲まれた町で、片方が海ですので、市街地を拡大しようにもなかなか出来ない。 そういう地形的な条件も手伝って、中心部に今でも色んな施設が立地しています。そういうことで非常に元気な街です。
今日のテーマであります、「地域文化とまちづくり」のヒントとなるこういう歴史的な町並みとか、地域の文化を持ち続けている所は、観光客も非常に多いですし、いつ来ても非常に心休まる所ですので、そういう文化の残っている所は活性化する可能性が非常に高いのではないかと思います。
四国の丸亀市という所はかなり衰退しているのんですが、その中の一角に古い施設を利用して町の駅という名前で地域の人たちがここで、休んだり交流したりする施設を作り直したりしています。
その下は私がながく係わった町、水戸ですが、県庁が郊外に移転してしまったために、県庁所在地でありながら少しずつ衰退しているという状況です。こうした現状を考えますと、どうしたら地域が再生できるかなということで、今日の議論のテーマであります。
一つは地域資源の掘り起こし、それを再編成してネットワークしていく。地域には色んな人材とか産物、観光資源が眠っている場合があります。そういうものを顕在化させるということが重要だろうと。地域文化というのは食にもあり、色んな方言、歴史伝統、芸能、デザイン、景観、まち町並み、こういったものが地域文化として生きておりますので、そうしたものを通して、資源の再編成、あるいは資源の商品の製品化をするといった、抽象的ですけれどこういうことが重要なのかなと思います。
そうした地域の魅力、個性を確立確率して日本全国に情報発信していくという姿勢が重要かと思います。
それから交流人口の増加、拡大策の推進ということで、町に人が来てくれなければ活性化しませんので、そういう来街該当者をどうやって増やすかということですが、それはやはり、今、高齢者が時間的にも経済的にも余裕ができています。
私も団塊の世代なのんですが、5、6年すると高齢者の域に入っていきます。今までの単なるバスツアーなどので団体旅行で名所旧跡に行くという観光ではなくて、小グループあるいは、個人で町を訪れてそこで美味しいものを食べたり、色んな文化に触れていくという都市観光に変わりつつあるのんだと思います。それは後ほど、中村から沖縄の観光の現状を通してご報告させていただきますが、そのへんを痛感しております。
それから小泉さんが最近いっております、外国人を沢山、日本にお呼びするという観光立国をきちんとやろうとするには、都市、地域がそういう魅力的になっていかなければ外国から来た人も満足しないだろうと思います。
それから地域産業の創出ということで、地域資源を活用して、地域文化を反映した産業をどうやって興していくか。健康とか観光とかエネルギーとか、グリーンツーリズム、エコツーリズムといった地域にふさわしいテーマを設定して、そこから新たな産業を興していく。そういう姿勢が重要かなと思います。
冒頭にお話ししましたが内発型の展開、発展ということで地域内部のポテンシャルを誘発していく。それで地域の個性、魅力を出していく。こうした姿勢が重要だろうと。東京のコンサルが体裁のいい報告書をまとめてそれでおしまいになるようなことではすまされない。
我々コンサルも、自ら地元の方々と一緒にお手伝いしながらやっていかなければいけない時代になってきていると実感しています。
そうしたことによって、グローバル化社会における地域が、直接、世界と交流し、情報発信していくという時代になってきていると思います。
呑 風 日 誌 抄
2月1日(火)秋田市大町。比内屋。稚内から犬ぞりの縁で金浦町へのご一行8人の歓迎会。白瀬の会、渡部孝徳さんのご案内。写真家でもある初瀬武美さんが隣席。
県内重要無形文化財の番楽の写真を数年がかりで撮っておられる。
2日(水)仙台市・牛タン喜助駅前中央店。東北稲門野球連盟の石川劭会長、中野三樹ご夫婦。仙台藩志会の木名瀬敏正さんも同席され、山形県高畠町の銘酒「紅一点」再建の話と野球の話。
4日(金)秋田キャッスルホテル。高松和夫県議の新春の集い。大盛況。秋田市山王・橙屋へ。息子洋平の歓迎会を舛屋政雄氏が開いてくれた。南高校先輩の田崎宏明君も出席してくれる。
5日(土)イヤタカ。城下町スタジオ・まちづくりコンソの集い。
異質で面白い面々が集まり、有意義な集い。流れ流れて二次会はどこだったか最後、金華園ラーメン。
6日(日)西仙北町強首の「おも観荘」へ。舛谷政雄氏、田崎宏明君、息子洋平と。熱くていい温泉。地元の郷土史家佐藤好攻さんから戊辰戦争や、アイリス園の話を拝聴する。佐藤さんが編纂された秋田仙北歴史年表・用語事典のCDを頂いてしまう。深謝。
7日(月)鷹巣町、昼。北士館の七尾宗専師匠。小生のHPに七尾先生の北士館を掲載することに。
8日(火)仙台の木名瀬敏正氏、相澤製作所の阿部久男常務と大潟村のあきたこまり生産協会に設置された復動式連続生ゴミ発酵処理機の状況調査。寿しやまとにて一献。循環型社会への話。
9日(水)イヤタカ。大内町の町長、議長、幹部との県庁大内会新年会。3月末に大内町が由利本荘市に合併。最後の大内会となる。二次会を駅前人情酒場久保田。幹事や、今春卒業の能代港湾の三浦忠悦先輩の要望もあり、県庁大内会は解散せず残すことにする。
10日(木)秋田市新屋田尻沢の故武藤英明氏宅へ弔問。NPOあきた地域通貨協議会臨時総会。NPOは解散の方向だが、仲間の繋がりは続けていくことになる。
11日(金)彌高神社にて紀元祭。黒一点であった、アトリオンの花の写真展へ。元同僚の写真家・柳原清氏から特別に花カレンダーを頂く。音楽ホールにてシンホニックウインドアンサンブル演奏会。秋田南高校ブラバンOBの本田正博氏のご招待。イヤタカ。佐々木實氏秋田県芸術文化章祝賀会へ。大盛況。山王・なでしこ。大町・たかの家で打ち上げ。
13日(日)本荘・清吉。インターネット師匠の石井護氏、市役所の渡部聖一氏と大盛りラーメン。
14日(月)秋田市山王・三味線茶屋すがわら。岐阜の吉田旗店の吉田稔社長一行と11月3日弘前市で開催の全国職人学会の打ち合わせ。世界職人学会も開催の方向へ。
バウハウスの森川恒氏と館。
15日(火)昼、大人の男の生活応援誌「エイジー」を発行される渋谷明美さん、団塊世代の代表格・秋田市文化室長の小松正夫氏と大江戸ラーメン。
16日(水)秋田市南通の赤坂ヘアサロンへ。髪技師の岩見谷尚宏氏と濁り酒で一献多献の聞き酒。
18日(金)59歳の誕生日。ぎりぎりに免許センターで運転免許更新。何と視力検査で眼鏡使用が免除となった。午後一時に勝平中学校へ。数学教師となった石川直人氏の依頼で、3年生の教室の教壇に立つ。演題は「郷土」菱形自己紹介表を示し、キューバの国づくりに燃える若者の話、佐賀藩士慰霊や、ふるさとへの熱い想いを語り、最後にミニトランペットで伴奏し、「ふるさと」皆で合唱。
夜、榮太楼旅館。石川先生と本日の臨時講師役の前秋田青年会議所理事長の松村譲裕氏、トラパンツの長谷川敦氏。勝平中学校の佐藤多恵志先生、音楽教師の神戸博先生と懇談。二次会は広面の梅安亭へ。山王での讃岐うどんを辞め、一人で居酒屋を始めた同学の畠山文夫さんの店。トランペッターでもある神戸先生に、日露戦争百年記念秋田県戦没者慰霊祭で、「海ゆかば」の伴奏をお願いする。
19日(土)岩城町厚生年金休暇センター。町の50周年記念祝賀会。記念講演講師の広沢曄夫先生の講演に感動。底辺への人々への想いがあふれ、相手をどれだけ知りうるか、徹底して相手の話を聞けるようになることだと。感激して学友で聞き書き作家の小田豊二に電話。聞き書き運動の大切さ。
20日(日)秋田駅・高桑賢二船長とプラネットフォーの佐藤利明氏、中村良三取締役、油に詳しい山崎猛司氏を出迎え。土崎のフジオートへ。佐藤幸雄社長の協力を得て、沖縄産のBDF(バイオディーゼル燃料)の実験。佐孝石油の佐藤孝之助さんからご助言。成功。夕方から皆で高桑船長の西仙北町強首のおも観荘へ。
23日(水)秋田市川反・料亭濱乃家。県庁早稲田人会で定年退職の佐々木良博氏の送別会。30数年前に小生が作った会だが、とうとう名簿で一番上になって、来年同じ目に会う。雷電ラーメンで後輩達と二次会。レディで三次会。
25日(金)ふるさと塾。講師は中国・長安大学教授の田奇さん。元秋田大学留学生で小生が保証人。彼の第2のふるさとで「秋田と中国との貿易について」講演。
雷電ラーメンで二次会後、県立大学本荘校客員教授の田奇さんを大内町の佐々木正人氏から本荘まで送ってもらう。
26日(土)森吉町・四季美館。
森吉山ダム工事事務所の笹木綱彦さんからの依頼で講演。「まちづくりは聞き書きから」広沢先生から聞いた話をし、会いたい人で森吉議長の庄司憲三郎さんと会えた。 夕方からは秋田ビューホテル。秋田ノーザンブレッツ交流会。畏敬する三浦廣己会長やサポーター達、若いラガーマン達と会えた。