ふるさと呑風便 05.12 NO,199
由利本荘ベースボールクラブ
嬉しきこと想う人よりの文(ふみ) (井上ひさし・日本博物誌)
文ではないが先日、想っていた人から突然、携帯に電話があった。
「手紙を出そうと思ったんやけど、声を聞きたくて電話をしたんだ」
残念ながら女性ではない。
声の主は斎藤勝朗さん。高校、大学の先輩からだった。
彼は本荘高校時代は野球部の捕手でキャプテン。現役で早稲田に合格し、野球部へ。今は、大阪に住んで居られる
野球少年だった自分は勝朗さんのように神宮で野球をやるのが夢だった。中学までは野球部だったが、高校ではレギュラーになれる自信がなく音楽をやろうとブラスバンド部に入っていた。
高校3年の正月。勝朗さんが帰省されている。野球部の同級生に誘われ、本荘のご自宅を訪ねたことがあった。「合格したら野球部の寮、安部寮に遊びに来いよ」といわれる。帰り際の玄関先。同級生が「失礼します」とお辞儀をした。私はつられて礼をしただけ。礼儀をわきまえていない自分を恥ずかしく思った。 その年の春。何とか憧れの大学に合格。野球部ではなく、レギュラーになれそうな運動部のレスリング部に入った。
桜の咲く頃にすぐ、戸塚町の安部寮に勝朗さんを訪ねた。
以来、ほんとうに先輩から御世話になりっぱなしだった。
昭和39年春。新宿東口の小料理店・白鶴。ここで生まれて初めて辛口のお酒を飲ませてもらった。その時、早稲田の名ショートで鳴らした浅利(現、飯田)金広先輩も一緒だった。運動部のたまり場だった新宿・ルピナスというスナックにも連れて行かれた。
卒業後、勝朗先輩は倉敷レーヨンに入社され、社会人野球でも活躍された。私の卒業後は、しばらく風来坊をやっていて、岡山の勝朗さん宅に泊めてもらったこともある。
その時、低迷している本荘高校野球部の監督になって強くして欲しいとお願いしたことがあった。
それから三十数年後。勝朗先輩は関西の関連会社の社長になられた。私は、柄でもない役人生活を過ごし、三ヶ月後に定年を迎える歳になった。
勝朗さんに母校の監督にと勧めた張本人はこの秋、母校の野球部出身選手が7人もいる硬式野球クラブ「由利本荘ベースボールクラブ」のジェネラルマネージャーとなった。
ふるさとに硬式野球のクラブチームの結成のアイディアを持ってきたのは三年前、由利郡鳥海町の地域作りの仕掛け人、佐藤定樹氏である。
今春、故郷は一市7町が合併し由利本荘市となった。この機会にと地域一体型のクラブチームの設立を進めた。
十月2日。本荘市・小園旅館で発起人会議、その後設立役員会開催、選手選考会を経て、12月10日に設立祝賀会がホテルアイリスで開催された。
市民に愛され、地域に貢献する市民球団づくりには創造の喜びがある。これから、運営の苦しみを楽しめたらいい。
想う人だった勝朗先輩は、由利本荘ベースボールクラブに全面的に協力したいとおっしゃる。そこでクラブの関西支部長をお願いした。快諾されて、大阪か秋田で一杯やりたいと言われた。涙がでる程嬉しかった。今度電話する時は先輩にこういいたい。
「新宿で初めて飲んだ辛口で飲りたいものです。今度はこっちに持たせてください」
ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成17年1月28日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「これで秋田を活性化する」
★ 日景賢悟 氏(秋田活性化?社長)
新年早々、お招き頂きましてありがとうございます。私は大館の釈迦内という所の日景という者でございます。
秋田活性化株式会社というのは元々、同じような発想でいわれていまして、私も地元の青年会議所に所属しておりまして、昭和44年生まれで、35歳になります。
地域をよくする、町を元気にするという我々の組織でして、その発想の中から秋田活性化株式会社が生まれました。
私は大館で生まれでして、地元の小中学校、大館鳳鳴高校を卒業しまして、一年目に全部大学を落ちまして、浪人をした後、何とか青山学院大学に引っかかりましてそこで4年間、学生時代を過ごしました。
学生時代は正直、学校には全然行かないで、いつもアルバイトをしていまして、すべて稼がなくてはいけないと四〇種類ものバイトをしました。何を勉強したのか、申し訳ない学生でした。
今となっては、学生時代に東京の色々な世界を見れたことが、勉強にはなっているんだろうと思います。
卒業してから、自分は何をやりたいのか考えまして、何かを作るものづくりをしたく
て、大学では経済学部でして、物を生み出すというのとかけ離れた生活をしたんですけど、就職が店舗の設計施工の会社に入りました。
そこで1年間、社会人として東京で過ごすんですが、バブルがちょうどはじけて、平成4年ですが、就職が去年と今年とこんなに違うのかという年でした。
就職難の時に何とか店舗設計施工の会社に入りましたが、バブルの影響を受けまして、その会社が見事に倒産の危機に陥りまして、東京に百人の社員がいたんですが、1年間で最終的には25人になっていました。私が3月に辞めて、その半年後には倒産していました。
私は最初、営業でしたが最後には経理に回されまして、小切手手形の発行、仕入れ先からのクレーム対応といった経験を社会人一年目で味わいました。
会社というのはこういう風にするとこういうふうになくなっていくんだということを
勉強しました。もう一度東京で就職も考えましたが、やはりこれは、神様がいて、長男なんだから家に帰れという思し召しを感じまして、実家に帰ってきました。
私の父親が昭和44年に秋田日産を脱サラして、ガソリンスタンドをやりました。将来、それを継がなくてはいけないと思っていました。帰ってきてすぐ、ガソリンスタンドを継いだんですが、自分の家だと甘えがでるだろうと、秋田市で二年間、スタンドの修行を致しました。そこで嫁さんと知り合いまして、結婚しました。
今、大館のスタンドの方も代表取締役をやっていまして、秋田活性化株式会社と両方の会社で大館、秋田、東京と行ったり来たりしてやっております。
地元に帰ったのが7年前で27歳の時でした。父親がスタンドから離れまして、市会議員になっていまして、私がほとんどスタンドの経営をまかされていました。
8年前に地元の青年会議所にメンバーにならないかと誘われまして、当時は青年会議所とは、まちづくりとは何なのか全然、わからない状態でした。先輩から、「誘われるうちが花だよ」といわれて、青年会議所に入りました。
そこでまちづくりの委員会に酸化してましたが、初めは何やってんのかよく分からなかったんです。
27歳で世の中のことも知らないで、行くと飲みに行っている、何やっているのかわかないが終わると飲みに行っていると。(笑い)
偉そうに楽しそうにすごく飲んでいて、最初の一年間入って、辞めようと思ったんですが、何となくやっていくうちに、意味がわかってきまして、自分の商売も慣れてくると、地元で商売をやっていると、地域とのつながりがないといけない。うちのガソリンスタンドというのは、自分の父親、母親が培ってきた歴史といったものが、響いていて地元で商売させてもらっているんだなということが、30歳になってわかってきました。
これから商売をやっていくとしても、明らかに人は少なくなっていくし、この中で我
々、どうやって飯を食っていくのか。色々考えていくと、地元が元気がないと商売というのはありえない。
まちを元気にすることが、我々のような小さいスタンドもやっていけることになると
いうことがわかってきたんですね。
こんな忙しい中でも青年会議所の会には何時も参加していますし、
まちを元気にしていきたいということをここ7、8年ずっと続けてきました。
青年会議所には人間力の開発とか、LDといいまして、リーダーシップデベロップメ
ント、人を指導する力の開発とか、青少年教育とかの活動もやっているんですが、
奉仕活動といった、何か上から下に何かをしてやっているんだというような気がしました。皆んは経済人なんですが、経済的な、お互いに商売をしようというのは一切なくて、あ、そういう世界なんだなとそれはそれでいいなと納得したんです。
最近はこれだけ集まっているんだから、まちづくりといって、地元におカネが落ちる
ような、あるいは経済人が集まってやるんだから、もっとパワーを結集してやればいいことができるんだなということが最近、議題に上るようになりました。会議所自体もそういう形に変化してしてきているのかなというものがあります。
秋田活性化株式会社というのは青年会議所での発想の中で生まれたもので、いかにも怪しい名称も私が付けました。
ここの発端は、大館青年会議所から秋田ブロック協議会に出向という形で出してもらいました。 そこには湯沢から、横手からも色んなメンバーが集まりました。 その中の一つの委員会の委員長を一昨年やらせてもらいまして、秋田の真価探求委員会という会の委員長を突然、やれといわれました。 その時のブロック会長が、秋田の東北物産の深沢さんでした。
秋田にはすごいものがいっぱいあるんだが、それがうまく浸透していなんだと、それをこの一年かけて拾い集めろといわれました。 それでもピンとこなくて、それでもって秋田の活性化につなげる何かを考えなさいといわれまして、「わかりました」とその時、いったんですが、頭に浮かんでこないんです。
各地からメンバーが15人ぐらい集まってきて、私は委員長の立場で、秋田県には素晴らしいものが沢山あるらしいので、それを拾い集めて考えましょうといったような、初めはすごくいい加減でした。
会議は二ヶ月に一回やるのがブロックの委員会なんですが、毎週土曜日、午後5時から月に2回やりました。大館に、横手に集まったりして地元の情報を地域の人間が集めてこいという話しをしまして、会議を重ねていきました。
確かに知らないことばっかりで、例えば横手でこういうお菓子があるとか、地元のことを知らなかった。外ばかり見ていたんですね。
歴史とか人とか物とか、地元のことを知らない。そこでテーマを決めまして、人、環
境、食べ物、自然といったテーマで集めていったら、横手の焼きそばって何?、大館の老犬神社、神社って何?といった話しがでて、委員会のメンバーもだんだん面白くなって、一年ずうっとやってきたんです。
秋田県の青年会議所のメンバーは600人ぐらいいます。そのメンバーが一同に介するブロック大会が年一回あって、そこのメインフォーラムを私がプロデュースすることになりました。
そこでフジテレビの朝の番組をやっているキャスターの小倉智明さんに交渉しまして、50分ぐらいの講演をして頂きました。
パネルデスカッションでは秋田県を客観的に見れる人が欲しいなと思いました。それから秋田県出身で今、東京で活躍している人、後は秋田県で活躍している方、あとはそれを全体的にまとめてくれるコーディネーター。
その時、コーディネーターにお願いしたのが今、参議院議員になった秋田テレビの鈴木陽悦さん。
そして、東京で活躍している今、一緒にやっていますマネーの虎の安田さん。後、稲川町の川連漆器でイタリアと繋げている佐々木伸さん。
あとは秋田を知らずに客観的に見れる人ということで、マイクロソフト社の本部長さんに直接交渉しましたら、それは面白いと二つ返事でOKでした。
役者が揃いまして、そこで我々が素材を集めてきたものを各メンバーがビデオを持ってそれぞれ取材に行って、それを私が夜中までかかってビデオ編集しました。
それをフォーラムで流しました。
人のテーマでは、秋田県ではかってこういう人がいました。今こういう人たちが活躍しています。
食べ物のテーマですと、こういう食べ物があると紹介して、環境のテーマではこれだけ秋田県は素晴らしい環境にあると、色々秋田県というものを皆さんに紹介しました。
会場が仁賀保町でして、会場が500人のホールでしたが、人が入れないくらいで、小倉智明さんが来ましたので外におばちゃん達が並ぶくらい集まりました。
一昨年の7月5日でした。秋田県を皆の手で元気にしていきましょうというフォーラ
ムを終えました。終えましたが周りからこのまま終わっていいのとの声が上がりまして、パネラーとも言われまして、これは実際に何か形にしていかなければと思っている時に、パネラーの安田さん、レストランを東京で何店舗も持っている方から、何かやらないと言われました。
安田さんの頭の中にも、秋田というテーマでレストランをやったらいけるんじゃない
かなとぼやっとしたものがあったようなんです。
そこに我々が実際、秋田にこれだけのものがありますよと見せたもんで、安田さんは店を流行らせるプロなんで、店のオペレーションをやると。我々は地元にいるので、地元からの素材を収集して、いいものを厳選してやる。
そういう役割で何かやったらいですよと二人の中で生まれまして、やっちゃおうかと7月のフォーラムから一ヶ月ぐらいで起こりました。生まれは青年会議所から何ですが、実際、オカネの絡むビジネスなんですから、別組織を作ってやろうと我々メンバーも考えました。なんだかんだ考えた結果、秋田県にオカネが入ってくるには株式会社にしようとなりました。
自分で会社を作ったこともありません。色んな人からお話を聞きまして、こういう目
的で株式会社を作ったら何かいけるよねと構想を最初、絵に描きました。
秋田を活性化する会社をつくるんだなと安田さんが東京にいて、レストランをやったとしたら、テーマ的になまはげといっているし、場所は東京・六本木か銀座にレストランを作って、我々はその素材を送ってやって、あっちはプロとして流行らせると。実際にそこで秋田県をPRして、旅行なんかも企画できるよなと考えたんです。
レストランという形態だけだと少数なのでもっと広く商売するとしたらネットの力が
必要になってきます。秋田県の素材がいっぱい集まっていますので、秋田天国というのを勝手に作ったんです。
これを実際に安田さんに話してレストランをやっちゃいましょうと8月に話しがまと
まりました。
オープンさせたのが、昨年の3月。話が生まれて完成するまで、6ヶ月ぐらいでした(続く)
呑 風 日 誌 抄
11月2日(水)秋田市商工観光課。東海林太郎肖像画を3月まで借受。九十九エージェンシーに保険加入。
3日(木)秋田市・ふきみ会館。明治節(ツバサ広業主催)へ。佐々木満先生のご講演「今こそ、憲法改正・教育改革」午後。由利本荘市・グランドホテルにて由利本荘ベースボールクラブ(YHBC)役員会。 入団テストの合格者の発表。今日、合格した故須藤嘉太郎君のお通夜。合格通知を武田野球部長から遺族宅に託す。西目町のハーブワールド秋田にて由利本荘市議当選の斎藤作圓氏の激励会に出席。高橋勘左エ門宅にやっかいになり、一緒に中国に行った岡田実さんと久しぶり酒。
4日(金)市町村会館地下・館。前NHK秋田放送局副局長の鹿又勝巳氏(現国際部)、金浦町の白瀬の会、渡部幸徳氏、中津定男の両氏と一献。鹿又氏のご栄転、中津氏の象潟郵便局長就任で乾杯。
5日(土)東海林太郎音楽館にて故池田修三画伯のモデルといわれたマリンバ奏者須藤八汐さんの演奏会。池田修三画伯の遺作に囲まれ感動的な演奏会であった。
8日(火)朝、由利本荘市役所前。マイクロバスで小島彼誰いしぶみ探訪行。鶴舞公園の本丸の館に愛子様誕生記念の桜が咲いていた。小島彼誰顕彰会の鈴木憲一、土井洋一両先生の絶妙なコンビによるご案内。由利本荘の名所旧跡の碑の探訪。ふるさとには素晴らしい景勝地があった。
9日(水)あゆかわのぼる氏に東海林太郎音楽館の資料を渡し、PRをお願い。鹿角十和田観光物産協会の田中幸徳氏に和井内貞行ご夫婦の愛情を歌ったCD(黒川喜代司作詩 津雲優作曲)を送り、観光PRに活用依頼。
14日(月)朝。秋田トヨペットの田中道生氏と東海林太郎音楽館大友康二館長宅から黒竹の鉢植えを二鉢頂く。、二人で由利本荘の中華ぞば清吉でラーメン。ビーギャルでパチンコ。私は三分持たず、田中氏は箱勝ち。文化地所を訪ねYHBC理事長の名刺を置く。
鳥海町のかおる堂・柴田忠雄さん宅へ。YHBCへの協力お願い。田中氏に黒竹を音楽館に置くことを頼み本荘に残り、夕方、大町の一平。
教育委員長の大越英雄氏と魁新報の斎藤淳一支局長と一献。佳き旨酒で秋田行きの最終列車に遅れてしまい上横町の「これ酒」へ。旧知の高堂晃治さん達と会え、大越家にすっかりやっかいになってしまう。
18日(金)夕方、由利本荘市東町。「ふるさとネットワーク」の設立委員会。有為な人材を集めた石井護氏の熱意と創意により設立なる。この事務所を野球クラブと秋田ふるさと塾の共同事務所にお願い。
19日(土)昼、由利本荘市の石碾屋にて絶品の蕎麦。ふるさとネットワークのメンバーである江幡亭主に蕎麦ライブを勧め、蕎麦好きのシンガーソングライター・ケーシーランキンに電話し、12月17日にケーシー蕎麦ライブ開催。夕方、「はまなす」にて由利本荘ベースボールクラブの合格選手達との顔合わせ会。
選手達に拙書「青春・旅・故郷づくり」を渡し、自分の為、地域の為、交通事故死した須田嘉太郎君の分まで青春を楽しんで欲しいと挨拶。
20日(日)秋田市の須藤文也先生宅。棟方志功の版画カレンダー十年分を拝見。安川電機が限定出版の奥の細道シリーズを額上して東海林太郎音楽館で開催したい。仕事場で同僚の保坂氏からふるさと芋川の中流に絶滅危惧種・イバラトミヨとアカヒレタビラの生息地を残したと聞く。夕方、秋田市川反にてソリューションシステムの佐々木伸一社長と一献。白樺茸の話等々で先酒。クラブチームで優勝したユーランドクラブの伊藤監督の店へ。松村譲裕部長も来る。
21日(火)温故堂の岡田茂広さんから棟方志功の奥の細道シリーズ・象潟や雨の・・のカレンダー版画の額上の依頼。アートスペース晃を紹介され、表具をお願いする。
午後。八竜町へ。仙台の木名瀬敏正さんご一行を有機野菜に取り組む八竜町の牧野さん、菜の花街道の大潟村の耕心会の皆さんと交流し、由利本荘市の小園旅館へ。塩竃市でカット野菜を作る八百照の下山雄司社長と近くのこれ酒にて一献。
23日(水)西目町の秋田ニューバイオファームへ。一行に斎藤作圓代表から説明を受け、一行はさかんに頷く。秋田市に戻り、東海林太郎音楽館に案内し、榮太楼旅館にて昼食後、仙台で再会を約す。
夜、メトロポリタンホテルにて津雲優デナーショーへ。
24日(木)午前、由利本荘市役所。YHBCの鈴木貢、初瀬武美両副会長、今野忠良総監督、武田弘部長と顧問就任依頼と祝賀会案内の挨拶回り。鷹照助役、井島議長、商工会(村岡淑夫会長)、社会福祉協議会(本間達雄会長)、森林組合(小松佳和組合長)由利工業(須田精一社長)、由利高原鉄道(大井永吉社長)JA秋田しんせい・岡部五一郎常務、体育協会(加賀亮三会長)へ。
25日(金)本荘市・アクアパル。小島彼誰顕彰会の総会。講演を依頼され、「旨酒、聞き書き、東海林太郎」と題し、東海林太郎の等身大写真パネルを持参し、聞き書きの話しをして、YHBCのPR。
夕方、東海林太郎音楽館にて秋田ふるさと塾人間道場。ストリートミュージシャンの及川知宣さんの演奏、大道芸人・城南亭鶴亀師匠のチンドン芸と南京玉すだれ。作家の学友・小田豊二も横浜から出席。二次会のライブすがわらにて、来年の彼の年賀状用のチンドン屋扮装の写真撮影。城南亭しょっ鶴と小田の芸名になる。
27日(日)秋田市牛島の「たんぽぽ」親友・三洲相竜のラーメン店に韓国留学生の里子・パクさんともう一人の留学生を連れ、キムチラーメンをご馳走。奥さんから自家製のキムチをもらい、彼女達大喜び。
30日(水)市町村会館地下・館。魁新報のメディアシステム部長・那須優氏と一献。彼に頼んでおいた魁紙のマイクロフィルムに残る本荘高校が甲子園出場した記事を見る。
由利本荘市の野球人を顕彰する野球史料館を創ろうと話す。
どんぷう後記
今年の暮れは近くのマンションに引っ越しでてんやわんやです。今年もご愛読、有難うございました。どうぞよいお年をお迎え下さい。