ふるさと呑風便   NO,200    05,11 
     青 春
 
青春とは
ほんとうの青春とは
若き肉体のなかにあるので はない
若き精神のなかにこそある
(サムエル ウルマン 新井満訳)
 
 この詩は、兵庫県芦屋の佐藤正喜さんがメールで送ってきてくれたもの。
 彼が7月に屋久島を訪ねた際、ユースホステルで掲げられいた「青春」の詩が覚えていた詩と違っていたので、デジカメで撮っておられた。
 その訳は作家の新井満によるものであった。若者向けに訳されている。
 佐藤さんとは7年前、観光国際協力人材養成事業研修で、タイ、マレーシア、ボルネオと一緒だった。マレーシア政府観光局のアダブラ総裁と会見したり、小生の事を夜の帝王と名付けたりで気があった。 
  この夏、彼は秋田市の東海林太郎音楽館に私を訪ねてきてくれた。定年後の佐藤氏はまさに「青春」をしている。

 YOUTH(青春)
             Samuel Ullman
Youth is not a time of life; it is a state of mind.

 この詩の冒頭の言葉で我々が覚えているのは岡田義夫訳である。
「青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ」
 私の手帳にメモしていたのはちょっと違っていた。

 青春とは人生のある時をい うのではない。心の持ち方 をいうのだ、
 (中略)
 歳を重ねただけで人は老い ない。理想を失う時に初め て人は老いる。

 何だかこの訳は、肉体的に衰えた年寄りの負け惜しみに捉えられても仕方がない。
 負け惜しみついでに私流に訳せば、「青春なんて歳じゃねえ。気持ちだよ。
 夢があれば歳くわねえんだ」

 しかし、夢ある青春にむごいこともある。
 新設なった由利本荘ベースボールクラブ(BC)の選考会に合格した青年が交通事故死した。
 10月25日未明、にかほ市象潟町の国道7号線丁字路交差点で、コンクリート製信号柱が倒れ、そばにいた3人が死傷した事故で、意識不明の重体となっていた同市象潟町関字有耶無耶の関六一、農業須田嘉太朗さん(21)は一日、入院先の由利本荘市内の病院で死亡した。死因は頭部の外傷や肺挫傷など。
(秋田魁新報11月2日記事)

 11月3日。由利本荘市での役員会で須田選手の事故を報告し、彼宛の合格通知書を作った。甲子園球児だった須田嘉太朗選手。役員会に出席した工藤幹夫監督(元日ハムエース)は須田選手をレギュラー内野手として期待していた。 この日は奇しくも彼のお通夜だった。同じ、にかほ市象潟町に住む武田弘野球部長に合格通知書を託した。ご遺族のことを想うと胸が痛む。          (合掌)
 この19日に、合格した選手22名を、由利本荘市の「はまなす」の会場に集めてミーティングを行う。
 市民に愛され、地域に貢献する市民球団の理事長として選手達にこういいたい。
「夢をあきらめず。須田君の分まで青春して欲しい」
  ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成16年10月22日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「我が人生、夢を追い、美を伝えん」2
★初瀬 武美 氏(創和技術且ミ長
日本ローラースケート連盟副会長)

 それは、米軍の弾薬庫のあった土地が、3分の2を県に3分の1を市に払い下げられ公園敷地に整備されたんですが、そこが開催面積34fは、かって私が測量調査業務を受注し、仕事をした場所だったんです。
 そこで何としても作品として仕上げたいと思い、自費出版して神奈川県と相模原市及び秋田県内の小中学校に寄贈しました。

 3作目はダリアの写真集でした。秋田市雄和の妙法字糠塚に農産物加工等の旧町有の第三セクター施設の敷地内にダリア園を経営している鷲沢幸治氏は、脱サラしてダリアの育成に情熱を捧げ、日本有数の新種改良に取り組んでいる方なんです。
 何回となく、ダリア園に通っていたら、来園者を増やすために、ダリアのカレンダーを作りたいとの相談を受けたんです。私はアマチュアの写真家なのでプロに頼んだらと言ったところ、プロに頼むと一コマネガが15万円といわれたそうです。よし、それなら私の写真でよかったら協力しましょうと、3年くらいカレンダー制作をしました。
 日本園芸協会で花の写真の通信教育があることを知りまして、一年間毎月、添削する勉強を4月から受講したんです。ところが、十月になったら卒業していいとなり、コンテストに出品することを勧められました。そのコンテストで大賞を受賞し、題名が「夕ぐれの訪問」として、蛾の一種で蜂雀が日没時にダリアの密を吸いに来た瞬間を撮ったものでした。

 雄和町合併四〇周年記念としてダリアの写真集を発刊しました。
 審査委員長の秋山庄太郎先生には再度、感謝しました。園長と相談して、岩手県と山形県民に対して、ダリア園の宣伝したことにより入場者が倍以上になり、写真集の売り上げにも少しばかり貢献させて頂きました。

 平成7年の阪神淡路大震災の時ですね。新聞を見たら疎開した子どもが仁賀保町にいるとあって、その中学生が帰ると聞いて、すぐ学校に行って校長先生と会いました。疎開した子どもが帰るんだったら、その生徒の学校に写真集「鳥海山四季」を贈呈したいと申し上げましたら喜んで頂戴したいといわれます。鳥海山の四季の写真パネルを生徒と学校に寄贈したんでしね。
 そしたらその学校から御礼がきました。その被災した住民達が何が今一番求めているかという、全国版のラジオ放送がありました。それを聞いたら緑と花が欲しいとあり、自分の撮ったダリアの写真集がぴったり合うと思った訳です。

 そしたら、神戸の市役所からその写真集を審査したうえでないと受け取るかどうかわからないということで、まあ、教育上の基準があったようですが、一応、審査をパスしまして、写真集を送ったんですが、その他にプラスアルファの要求がついてきた。
 被災した学校が、100近くありまして、ダリアでグランプリを頂いた作品をパネルで寄贈してくださいときました。
 もう一つ今度は父兄会があるので、講演にきてくださいといわれました。名古屋の駅から地下鉄で三つか四つ目の駅にその学校がありました。ところがその学校は、そんなに大きな被災は受けておりません。木造建てでした。それが強かったのか、地形が良かったのか。そういう所の学校へ行きました。
 私は、子ども達に話しても10分か15分ほどたつとざわざわするのが野球を教えて分かっていますから、持ち時間が45分でしたが、生徒達は真剣に聞いてくれました。
 過ぎたことは仕方がないのでともかく前向きに前向きにと話したと思います。
 ところがその話しがすごく良かったと御礼の手紙がきました。その中の手紙の一つにあなたは秋田のどこの大学の先生ですかとありました。(笑い)

 こういう写真の道楽をやって、ああいう形で被災者のために励ましができたことは道楽冥利に尽きるというんでしょうか。

 つい最近の話です。
 朝3時に起きて佐渡に行って来ました。それは私の作品を推薦してくれた先生が、高山茂先生といって日本大学の民俗芸能のスペシャリストのお陰です。
 私のことを非常に評価してくれまして、それは何故かというと、11年前、平成5年に鳥海町で秋田県の無形文化財にされて30周年の夜明かし番楽というのがあります。夕方の6時から翌朝の6時まで12時間です。団体が25来て、50演目やった。
 私がそれを知らないでいたら、建設省のある課長さんから電話がきまして、「初瀬さん、こんな行事があるんだけど写真を撮りに行かないか」といわれて行きました。
 その課長さんは森吉山ダムにも関係して記念誌を3冊ぐらい作ったんです。
 それから本荘に鳥海ダム調査事務所の課長に来て、鳥海の番楽の写真が何時か役に立つし、新聞社に頼むのは堅苦しいから、貴方、今のうちに番楽の写真を撮っておいたほうがいいと。
 そんな訳で行きましたら大イベントでしたね。それから去年ちょうど10年たったんです。県の指定を受けて40周年だったんです。それで鳥海町は全国獅子舞フェステバルを開いて、全国から獅子舞の団体を呼んで、大きなイベントをやったんです。
 そこで、番楽の写真集を出すことにしました。
 番楽の一つは山形の遊佐町の杉沢比山という集落が番楽の発祥地で、唯一の国指定なんです。秋田県阿仁町の根子番楽が今年の2月に指定になったんですが、一昨年に番楽の写真集を出す予定が、ローラースケートのアジア大会がサーズの影響で今年に繰り下がってしまい、去年、鳥海山麓獅子舞番楽という写真集をだしました。
 それは下百宅(しもももやけ)という番楽の発祥地です。
 375年程前にある芸達者な修験者が京都から来て百宅に入って鳥海山を越えて裏側が山形ですから、行ったり来たりして鳥海山麓に広めていったのが番楽なんです。
 私が収集したのは30団体ですが、昔はその3倍くらいあったと思われます。
 それがだんだん過疎化して鳥海町自体にも獅子舞と番楽を合わせて17あるんです。おそらくその数は半分ぐらいになっていると思います。
 私は番楽の火を消してはならないと作品づくりをしたい。
 その為に役場の教育委員会と提携しておくんです。どこかに公演や演奏に行く場合に必ず連絡をもらうことにしています。それが土日に入れば基本的に必ずついていきます。
 そういうやり方で作品づくりをしました。
 なんで十年かかったかといいますと、昔は幕開きといって一月の行事でこれをやります。お盆は霊と弔う、先祖を祭るということでやります。
 それから今度は、ほとんど農民ですから、収穫を祝うためにやるという三つの行事でやっていました。

 ところが今はお盆しかできない。13日から20日ぐらいまでいっせいにやるもんですから、全部回り切れません。
 撮っても内容が気にくわないと又、次の年にいかなければなりません。そういうことで同じ場所に2回、3回と行って年数がかかったというのがその理由です。
 写真の絵を見るとあどけないのですが、これだけの写真集をまとめるには年月と執念を燃やさないと作品づくりというのはすごく難しいものだということになると思います。

 佐渡の話に戻りますが、猿橋という所に行くために、船に乗って案内人の人に聞いても猿橋といってもわかりません。そこで船を下りてレストランに入りました。一人だけ年配の人でわかる人がいて地図を書いてくれたんです。
 その猿橋という場所は港から1時間くらいかかる所でした。地図に道路が載ってなくて、林道でしたね。
 マイクロバスで行ったんですが、奥地まで入れないので特定の場所で待ってなさいとということで、そこから山を登って程よい高さの所に校舎があった。
 そこに早稲田大学の名誉教授の鳥越先生がいて、その先生が奥地に入って閉校になった学校の体育館に文学と民俗系統の本を何千冊と置いていました。
 教室は二つに分けて男女が寝泊まりできるようになっていました。もう一つが舞台のようなスペースがあって、あとは管理人の部屋でしたね。
 そこには学生が40人ほどいて、夏期講習というんでしょうか、実際に演技をして見せ、今まで色々な勉強をしていても、こんなに心に染みるような公演は学生も一般人も初めてだったと感銘を受けるんですね。演技の終わった後は懇親会。そこらへんの畑の野菜だけで、酒は出たんですが盛り上がってきて、番楽の人達が衣装は着ないんですが、演技をやりだした。大騒ぎになりました。
 この中に鳥越先生を慕って7世帯が入っているんですが、人形浄瑠璃をやっている人もいて、奥さんが能代と横手出身の人がいたんですね。自分の生まれたところから来てくれたとすごく待遇をよくしてくれました。(笑い)
 番楽の写真をとるために、すごく楽しい体験でした。

 平成16年10月に山形県遊佐町より、写真集「鳥海山麓獅子舞番楽」に対して地域振興賞を受賞しました。
 また、同年六月には第十回アジアローラースケート秋田大会の実行委員長を務めたことに対し、アジア連合より表彰され感謝状を頂きました。
 写真集は参加記念として大会役員、選手及び関係者へ贈りました。 秋田県内には国指定・秋田県指定の民俗芸能団体が六十四もあるので、この2、3年で写真撮影収集し、作品として努力していきたいと思っております。

 最後に、番楽の詩をつくってテープをつくりましたので、披露したいと思います。

「鳥海山麓獅子舞・番楽」
      作詞 初瀬武美
      作曲 加賀谷忠志
一、♪ハイソラ ハイラソラ
  祓い清め 獅子の舞
 切り顎 白式 翁舞
 切り顎 黒式 三番叟
  足踏地堅 悪魔退散
  囃し太鼓 山々・里々 
  鳴り響け 
  ドンドン ドンドン 
  番楽拍子
                (拍手)
 呑 風 日 誌 抄
 10月1日(土) 雨。能代球場での能代6大学選抜と秋田6大学選抜との野球戦は中止で、スポールセンターでボウリング大会。その間、明治OBの打川猛団長と八森町の市場へ。料亭・金勇にて交流会。それぞれの校歌を歌い合って盛り上がった。
 2日(日) 秋田市大町。ニューシティにて瓶入りグッピーを買う。東海林太郎音楽館にて作曲家の津雲優氏に「十和田夫婦傘」という十和田湖ニジマスの和井内定之の夫婦愛を作詩した黒川喜代司さんを紹介。津雲氏に作曲依頼されCD化の相談。快諾される。東海林太郎の法要を土崎の西船寺。墓前で国境の町を歌う。
 電車で本荘市へ。4時から小園旅館にて、由利本荘ベースボールクラブ(BC)の発起人会議。
 秋田県ローラースケート協会会長の初瀬武美氏他、7人集まって頂く。クラブの理念と規約を説明。由利本荘市民が渇望していた硬式野球のクラブチームである。成りゆきで理事長に選任される。懇親会。吉田スポーツの吉田隆久氏がお酒を届けてくれた。大雨の中、駅前「かっぱの皿」にて由利町の佐藤千秋理事達と二次会。又、乾杯。
 5日(水)秋田市立城東中学校へ。石川直人講師の依頼で講話。1年生全員に「地域づくりは親孝行。自然と人に学ぶまちづくり」の話。 
 去年話した勝平中学校の生徒達と比べ、随分とおとなしい。
 6日(木)夕方。岩城年金センターにて、球友無限600歳野球大会(大友康二会長)の懇親会へ。元野球少年達の和みと賑やかがいい。
 由利本荘市の教育長になられた乾杯役の佐々田先生に由利本荘BCのお願い。全面的に協力しますとの心強いお言葉が嬉しい。
 7日(金)県庁地下喫茶にて田沢湖町商工会の田中昭一さんから「田沢湖フォトコンテストの相談。
 8日(土)秋田市若草団地の須藤文也先生宅。シベリア抑留の話しを伺う。池田修三先生の版画はいっぱい飾られている。本荘中学時代からの親友とのこと。東海林太郎ギャラリーで池田修三遺作展をお願い。
 9日(日)実家の近く大内町生活改善センターにて恩師佐々木昭三先生の葬儀。小さい頃野球を教わった。呑風便を愛読して頂いた。(合掌)
 午後から大内町農業改善センターにてアベツトム著「男の人生物語」出版記念会。情熱と愛に生きる阿部力先生の愉快で感動的な出版会。力先生を由利本荘ベースボールクラブの役員にお願い。出版会の推進役佐々木浩先輩と美佐子食堂で一献。
 10日(月)カミサン、帰郷した娘と雄物川町の十郎リンゴ園へ。渡邉保子さんが去年、中越地震の被災者に大量のリンゴを贈った所。早生のリンゴを頂く。被災した十日町市でエリンキを栽培している池田農園の息子太一君が秋田大学大学院に合格との事で面倒をみる約束。
 15日(土)早朝。伊藤一さんとジープに乗り、大内町の芋川沿いに植えた桜の周りのクリーンアップ。東海林太郎音楽館に戻り、ふるさと継唱団の一行の一行と泉の在宅サービスステーションへ。阿部一哉氏の依頼で東海林太郎の歌の披露。私は等身大の写真パネルを運ぶ役。
 16日(日)佐賀県武雄市の古庄市長から贈られた佐賀銘酒窓乃梅を持って秋田市新屋の葉隠墓苑へ。戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊祭。子ども達の前で葉隠墓苑の説明。「君たちのお父さん達が作った葉隠墓苑を誇りに思い、大事に護って欲しい」と。
 佐賀出身のNTT秋田支店の青木清児支店長も参列された。
 17日(月)午前、雄物川町の十郎リンゴ園で手伝い、美郷町から本荘市の「はまなす」本荘第一病院の小松寛治院長、鈴木貢、長谷川盟両先輩、由利本荘ベースボールクラブ野球部長の武田弘氏と5人。高校同級の三氏の友情で小松寛治先生に会長就任をお願いし、ご快諾を得た。
 これで前に進める。級友無限。
 本荘駅前で一杯やりたかったが、財務担当の工藤利典氏が早く帰った方がいいという、8時の汽車で帰る。
 19日(水)東海林太郎音楽館。辻幹雄11弦ギターコンサート。展示品のガラスケースを移動して音楽館で初めてのライブ。何時聴いても辻さんの音色は宝石のように美しい。終わってから、ギャラリーで懇親会。
 22日(土)鳥海山3合目の霊峰。ブナを植える会(須田和夫会長)の植樹祭。参加者多数で3本植える。
 鳥海山麓をジープで横切り鳥海町の鳥海球場。由利本荘BCの選手選考会。24人参加。司会進行役。発起人代表の吉田久男氏から開会挨拶して頂く。NHKの鈴木敏之記者から取材を受ける。地域貢献型球団に興味があったとのこと。心配された雨も降らずに終了。参加選手に2週間後に文書で合否を連絡すると挨拶。
 本荘市「はまなす」でスタッフの反省会。何とかここまできた。今野総監督の家で二次会。代行で実家へ。
 24日(月)雄物川町の十郎リンゴ園へ。渡邉保子さんのご好意で千秋学園の子ども達にリンゴを寄贈したいとのことで、職員の船木、高橋さん、秋田トヨペットの田中道生さんとリンゴをどっさり頂く。
 東海林太郎音楽館で副館長の作家の東海林良さんと会い、浅草の6芸神の一人、東海林太郎像の分詞の相談。NHKの夕方のニュース番組に選考会のことが放映。何度も小生の顔がアップで出て、気恥ずかしい。
 28日(金)東海林太郎音楽館。ふるさと塾とAIグループ、中小企業問題研究所の例会。講師は秋田商工会議所の鈴木義則さん。演題が「経営指導とマラソン人生」講演後、鈴木講師のマラソン二百回記念懇親会。
 29日(土)仙台・秋保温泉グランド。恒例の秋田稲門野球部対仙台稲門野球同好会の交流試合。先発して5回投げてバカスカ打たれ敗戦投手。打つ方は3安打で好調。自信。
 勾当台会館で交流会。今年は法政大学OBも参加。国分町の牛タン喜助にて大河原会長も入って二次会。
 30日(日)アキタパークホテル。秋田市大内会。田口勝一郎先生から「大内の先人に学ぶー岡田藤九郎を中心にーのご講演。東海林太郎ふるさと継唱団からの歌を披露して頂く。鳥海町の佐藤明美さんの美声が素晴らしい。二次会がサガン。95 歳の畠山千代志会長もご出席。前大内町長の佐々木秀綱氏と、さだまさしの「案山子」を歌う。