ふるさと呑風便 NO,198 05,10
故郷が呼ぶ
東海林太郎音楽館。8月1日に秋田市大町2丁目の榮太楼菓子舗の2階に開館して、二ヶ月たった。
らせん階段を上がってすぐ、東海林家生家の控えの間に使われていたガラスの障子が迎える。その陰に、「誇り」と題して音楽館の使命を壁に掲げた。地域づくりは誇りづくりだと思っている。
国民的歌手・東海林太郎は郷土の誇りです。
東海林太郎は「歌手としてこのわたしの立つ一尺四方は道場だ。この舞台はわたしの修養の場だ」としてあの直立不動の姿で歌い続けました。
ふるさと秋田をこよなく愛した東海林太郎を秋田県民の誇りとし、「郷土に寄する言葉」を心に刻み、東海林太郎音楽館で「東海林太郎の人間性と音楽」を共に学んでほしいと思います。
東海林太郎音楽館
この下に東海林太郎が戦前、NHKの仙台放送局に請われて書いた郷土に寄する言葉を入れた。
私の故郷の家は、佐竹侯の城跡の、山のすぐ下にありました。
私は子供の時から、よく
裏の山へ駆けのぼり高い松の木に のぼっては(中略)
かうして私は殆ど誰か ら教わることなく、故郷の四季折々の姿を心に写しては、
歌をうたってきました。この懐かしい故郷こそ、私の最初のそして最大の音楽の先 生であったと考えて居ります。
太郎少年がのぼった松の木は、今でも千秋公園の東屋の側にある。7本の黒松が遠く男鹿の海を望んでいる。
ふるさと秋田の自然こそが、後の国民的歌手・東海林太郎の歌の師匠であった。
東海林太郎音楽館のテーマは「伝えよう東海林太郎の人と歌」である。そこで、音楽館附属の東海林太郎ふるさと継唱団(後藤正次団長)を発足させた。開館以来、2回、老人ホームへ慰問活動を開始した。最初のデビューは増田町の「りんごの里」福寿園。何とアンコールまであった。
ふるさと継唱団の一番若いメンバーとして東海林太郎先生の歌の勉強を始めた。
ずいぶんとふるさとの詩が多い。その一つ。
故郷は呼ぶ
風に吹かれて 峠に立てば
山は夕焼け あかね雲
なつかしい 過ぎし日の
故郷恋し
熱い涙に 瞼も濡れる
旅の日暮れの わびしさよ
今、この歌を練習しているが、 東海林太郎の澄みきった美声に比べ、詞はどうもめそめそし過ぎである。
どうせ故郷が呼ぶのであれば、漢の高祖が諸国を統一して故郷に帰った時の詩のほうが壮大でよろしい。
「大風吹き起こって雲飛揚す」
大風は吹き起こらないが、ふるさと由利本荘市でのある出版記念会に呼ばれた。
10月9日。大内町農業改善センターで敬愛する阿部力(つとむ)先生の「男の人生物語」の出版記念祝賀会。
最後に一本締めを頼まれ下手な詩を添えて唸った。
「ツトム先生 ふるさと愛し泣き笑い 夢あきらめず 未だ序章」
「阿部力先生は郷土の誇りです。よーっ パン」
ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成16年10月22日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「我が人生、夢を追い、 美を伝えん」
★初瀬 武美 氏(創和技術且ミ長 日本ローラースケート連盟副会長)
私が写真集「鳥海山麓獅子舞番楽」を発刊したことを、今年一月に、NHK秋田放送局で番組作成し、放送されました。秋田市文化選奨を授賞させて頂いたこの写真集が話題になったことは、十年間、撮影し続けたことが評価され認められたことだと思います。
なぜこのようなことをやってきたのか、お話をさせて頂きます。
私が昭和36年に就職したのは、現在、横浜市に本社をおく椛n和測量コンサルタンツという企業です。今、私が秋田で経営している創和技術株式会社は、昭和49年に秋田営業所として開設し、昭和54年に分離独立しました。
昭和40年代の高度成長時代、測量設計の技術者を採用したいといわれ、私の郷里から30人ほど就職させました。
今、少子高齢化が問題となっておりますが、その頃から既に少子化は始まっており、採用してたほとんどの人が長男で、いずれ地元に戻らなければならない若者たちでした。
しかし、そのような事情は会社は知るよしもありません。
後になって、昭和48年に就職した人の親御さん達と学校とで、約束事があったと聞かされました。秋田県出身者は、一生懸命仕事をし会社の業績に貢献しているので、秋田に事務所を開設し、地元に戻って働けるようにするということでした。
その当時、たまたま私が一番年上だったため、徐々に若い技術者を帰す予定で、秋田事務所の責任者を命じられました。
社長とは二年から三年経って軌道に乗ったら本社(横浜)に戻る口約束をし、家族で地元秋田に移り住みました。
秋田県に拠点を作り、忙しく奔走しておりましたが、何年たっても本社から戻ってこいといわれないまま、5年ほど経った時、社長がガンで亡くなってしまいました。
その時本社には、社長との口約束の件は言えませんでした。
秋田県に事務所を構えて七年目の2月に、本社役員会で議題に取り上げてもらい、戻ってきても良いということになり、長男が中学二年生、長女が小学校六年生の3月になって、これは良いタイミングだ!と、すぐに家族を自宅のある神奈川県相模原市に帰しました。(昭和47年に33歳でマイホームを建てていました)
しかし、秋田事務所の代表の後継者が決まらず、結局私が継続して、代表をやることになり、それ以来、26年間、単身赴任となって現在に至っております。
で、49年から14、5年、自分の母校・西目農業の野球部の監督が初瀬に後援会をやってもらいたいといわれ、高校野球のサポーターをずうっとやってきました。
平成元年の年に母校がベストフォーに入ったんですね。これ以上に自分の学校が行くのは無理だろうと現場に行く作業は退かしてもらうとなってから、写真にいっちゃったんですね。
何で写真にいったかというと、野球の審判をずっとやっていて、秋田から六大学に入った選手を追っかけていたんです。秋田で活躍したあの選手はここで活躍しているなと、東京へ行くときは必ず神宮球場へ行っては野球を見ていました。
秋田出身の選手がいるなということで、たまたま長嶋ジュニアの一茂と同じ、慶応のキャプテンをやっていた猿田和三選手、今、秋田県庁にいますが、彼、早慶戦でホームランを打ったシーンを写真を撮ったんです。それをパネルにして、親父さんの所に持っていったんです。そしたら喜んでくれましたね。
私は学生時代、野球をやっており、審判もしておりました。高校野球は中央地区(秋田市内)が中心となっており、野球レベルの向上も考え、審判をする傍ら、判定の正確さを反省するために審判仲間の写真も撮りました。
それから、審判にこだわった理由は、我々地方の観客から見ると、秋田市内の高校野球を見ると、審判に対し、ストライク・ボールの判定に疑義を感じており、正確なジャッジをしたいと審判になった訳です。
審判員として秋田支部に在籍しておりましたので、休日はほとんど自ら審判を願い出て練習試合に同行し、多くのジャッジの訓練を心掛けました。あるとき、審判部長から、郡部のレベルアップの為、本荘・由利郡内に移籍して指導者になって欲しいと言われましたが、技術交流はするが当分、秋田に在籍するといいました。
野球レベルの向上は、選手と審判が表裏一体でなければならないと常々考えておりましたので、昨年春の甲子園選抜大会の審判員として、由利本荘市(旧大内町)の審判仲間である佐々木藤一氏が東北代表として派遣されたことは、自分のことのように感激いたしました。
母校・西目農業高校の野球部監督から講演会活動を要請され、秋田に来た昭和49年から15年ほど、技術指導等のサポートをしておりました。
平成元年の県大会で母校がベスト4に入った後、私は体力的限界を感じてグランドでの後援会活動を退きました。
平成元年を契機として写真が趣味となりました。秋田魁新報の「読者の写真」に、3月から12月まで応募した私の写真が連続入選することが出来ました。最終的に60点ある写真の中から大賞と優秀賞及び努力賞を選ぶことになっており、私が大賞受賞と聞き、びっくりしました。
ほとんどの作品が過疎地のネーチャー(風景)が多かった中で、全国大会予選秋田県大会のサッカー決勝戦でのスナップがグランプリとなりました。選考した写真部の話しでは、シュートしたボールがキーパーとゴールすれすれの間に飛んだ、正に「間一髪」という題がぴったりする、このようなシーンはなかなか写真に撮れるものではないということで、全員一致で大賞に選ばれたと聞きました。
その年の8月に出した作品を通して、写真家八柳吉彦氏から知人をとおして面会したいといわれ、私のことが男なのか女なのか分からなかったと言われました。(笑い)
私の写真について、新聞社だけへの出品だけではもったいないので、他のコンテストにも出さないか薦められ、出品する写真の選考を八柳先生に一任し、出品することにしました。
すると、ほとんどの写真が入選・入賞となるので、写真の訴え方をなるほどと理解できました。印象深いのは、東北二科展に初出品・初入賞となったことです。表彰式が11月末で、事業が忙しいこともあって欠席させていただきますと言いましたら、必ず出席するように指示され、仙台に行きました。表彰式では二科展の大御所・写真家・秋山庄太郎先生から直接賞状を授与され感激したことが思い出になっております。
私はこれまで四冊の写真集を自費出版いたしました。最初に発刊した「鳥海山麓由利の四季」のエピソードとして、写真集「十和田湖・八幡平の四季」を出版され、素晴らしいネイチャー写真と撮られる高橋さんという警察官がいらっしゃいます。この方は五城目町出身ですが、十和田湖と八幡平の美しい自然に魅せられ、その地にある駐在所を希望して写真と撮っていたそうです。写真友達から「高橋さんは、次ぎに鳥海山の写真を撮るために鳥海の駐在所転勤を希望されると思うので、地元出身の初瀬さんが先にチャレンジすべきだ」と言われ、平成元年から十年頃まで、本荘市の実家に下宿し、夜明けと、日没を主として鳥海山麓の四季を4年間撮影し、写真集の発刊となりました。
以前、テレビ県民室という知事がでられる15分ほどの番組がありました。秋口は芸術文化月間なので、私の写真集の番組を作りたいと要請を頂いた時、私よりも優れた作品を出されている先輩はおりませんでしたからと尋ねましたところ、平成16年の院展に最高賞を受賞した有名な堀川達三郎氏へ番組依頼をしたところ、辞退された経過があると聞きました。
たまたま堀川氏は私の親戚でして、元国鉄職員でしたが、絵を描くことで田舎で常に話題になっていたことを、子ども心に覚えていました。
堀川さんの色合いは、ほのぼのとした朝夕の農村風景を主として描かれる素晴らしい画家です。私の実家の前が堀川さんの実家でしたが、私とは年が離れていたので、ほとんど会ったことがありませんでした。
ところが、ある日、私の母に堀川さんから「初瀬武美はあなたの息子ですか?」と電話で尋ねてきたことがきっかけで、展覧会などへ招待され、話をする機会もありました。
そのときの逸話です。
ある日、道川海岸で曲がった松の木の絵を描いていた人がいたので、私は堀川達三郎という人を知ってますかと尋ねたところ、その人、私は堀川さんの弟子だと言ってましたと。このことを堀川氏に話したところ、「私は弟子を全く持っていない」とおっしゃいました。(笑い)要するに、細川氏の名前を出すとその人の格が上がるという訳なのでしょうか。
先ほどのテレビ県民室に出て、ビデオ映像を活用し、県の協力もあり、札幌の北海道事務所、大阪のカメラメーカーのギャラリー及び神奈川県内各地で「鳥海山麓由利の四季」の展覧会を行い、県内外へ鳥海山をPRすることが出来ました。
次の作品は、全国都市緑化神奈川フェアーに挑戦することになりました。
神奈川の自宅に帰った時、小田急線相模大野駅からイギリスにある二階建ての赤いバスが往来するのが見え、これは何だろうと不思議に思いました。それが、都市緑化神奈川フェアーのイベントでした。
約三ヶ月間に180万人の入場者を越えたこのイベントを、自宅に帰る回数を月に6回から7回くらいに増やして写真を撮り、写真集を作ろうと考え、事務局へ行きました。
事務局長はNHKの今福アナウンサーの弟さんでしたね。
私はネガを提供するので写真集を作りませんかと申し出をしましたら、実行予算処理は終わっているとの回答でした。
開催地の相模原市からも同じ回答だったため、それでは自費出版しようということになりました。そこまでして、写真集を出すことには理由がありました。
それは、米軍の弾薬庫のあった土地が、3分の2を県に3分の1を市に払い下げられ公園敷地に整備されたんです。そこの開催面積34fは、かって測量調査業務を受注し、仕事をした場所だったんです。そこで何としても作品として仕上げたいと思い、自費出版して神奈川県と相模原市及び秋田県内の小中学校に寄贈致しました。
三作目はダリアの写真集でした。 秋田市雄和の妙法字糠塚に農産物加工等の旧町有の第三セクター施設の敷地内でダリア園を経営している鷲沢幸治氏がおります。 (続く)
呑 風 日 誌 抄
9月1日(木)午後2時・秋田空港でシンガーソングライターのケーシー・ランキンを出迎え。彼も好きな大江戸ラーメンに電話したが、2時閉店で残念。能代市に寄り建築士・櫻庭徹さんと藤里町へ。
白神の里「森のかぞく」(小坂球実代表)にて「平和への道ライブ」で挨拶。好きな詩人・小坂太郎さんの詩画数点が飾られている。
2日(金)ケーシーを鹿角市のシンガーソングライタ・奈良節夫さん宅へ。奈良家の池に鯉の幼魚が群れる。
3日(土)彌高泉神社の例祭に北嶋昭宮司と。直会で象潟町出身の根本アイさんと会い、姉やおふくろも知っていた。
4日(日)朝、榮太楼旅館。渡部東照ジャパン社長の車で菅江真澄研究会の田口昌樹副会長、小笹鉄文氏と男鹿へ。菅江真澄の足跡を訪ねる。高桑賢二船長運転の遊覧船で菅江真澄もくぐった大桟橋のトンネルを潜る。
東海林太郎音楽館にて日韓里親会議。今年も韓国留学生の里親を引き受けてくれる人、十二名。
5日(月)夜。秋田市職員会館にて姉妹都市フォーラムへ秋田ウラジオ会の役員として出席。
6日(月)仙台市・匂当台会館。仙台藩志会の木名瀬敏正氏と牛タン喜助駅前中央店へ。稲門仙台野球同好会の石川劭会長と交流試合を十月29日、秋保温泉球場で開催。
7日(水)仁賀保町役場。巴徳雄町長に東海林太郎音楽館への強力御礼。斎藤憲三のドラマ・2勝つ98敗の男のビデオを頂く。
教育委員会の佐藤英夫次長にお借りした東海林太郎の掛け軸2点を東海林太郎音楽館に寄贈依頼。
9日(金)本荘・流石にて鳥海町・佐藤定樹氏、大内町の佐々木正人氏、小笠原良一氏と由利本荘市に硬式野球クラブチーム設立の件。スナックRにて二次会。
10日(土)遊学舎にて「地域社会の活性化と助成団体の役割」シンポ。姜尚中(かんさんじゅん)東大教授の言葉が印象に残る。
「格差が容認されていく社会。地域社会の人や文化が横に流出し、伝承されていないのは不幸」
秋田市駅前迎賓館にて「五百歳野球チーム・中通クラブ」の壮行会。秋田漫才が出来る新人加入。
11日(日)土崎グランドにて「みっちゃんズ」と「松寿会」の初野球試合。元日ハムのエース工藤幹夫氏と三塁を代わり、三打数二安打。投げても3回を一点に抑えたが6対7で苦敗。打ち上げをオーナーの駅前久保田にて。十月末、阿部一哉監督と3人、我がチームから仙台の稲門クラブとの試合に派遣することとなる。
16日(金)本荘市の吉田スポーツの吉田久男先輩を訪ね、由利本荘に硬式クラブチーム設立の相談。
昭和30年代に本荘にもクラブチームがあって八橋球場に出場したことがあるとのこと。合併を機会にクラブチームを発足に全面的に協力をご快諾。市役所にて柳田弘本荘市長にも相談。由利本荘市民の一体化のためにもと、応援お願い。
東海林太郎音楽館にてNPO法人の役員会。音楽館の運営について法人会員を増やす方向に。ギャラリーにてアサヒビールで乾杯。
17日(土)大江戸ラーメン。四時から秋田市・イヤタカ。稲門会支部総会。「超能力より面白い科学の神秘」大槻義彦教授の講演。懇親会にて東海林太郎音楽館設立の報告。佐野元彦幹事長達と和心庵(伊藤和雄代表)にて二次会。吉田典雄副幹事長と駅前の「心」で東海林太郎のカラオケ。
18日(日)朝、東海林太郎音楽館を開け、堀口健治早大副総長一行を案内。DVDで東海林太郎の最後の絶唱「都の西北」をテープにして送って欲しいといわれる。
19日(月)朝、男鹿市若美町の吉田典雄氏の小百合田へ。春先に五反歩まいた肥料・未来君の所だけの稲は倒れず、黄金色に稔っている。典雄さんの写真を撮り、私が作りましたと吉永小百合さんに贈るという。「稔るほど頭を垂れる稲穂か」。
東海林太郎ふるさと継唱団(後藤正次団長)の初舞台。増田町のリンゴの里福寿園へ。ここに50年間、中国で記憶喪失となっていた石田東四郎さん(92)が居られる。東海林太郎のファンだった。10年前、中国から石田さんの救出に一役買わせてもらった。亡き弟小十郎さんの奥様、妹の石田テルさん達と慰問。50人程の聴衆の前で継唱団の皆さんが東海林太郎を歌う。東四郎さんは反応なし。終わってから、アンコールがわき上がった。
22日(水)佐々木正人氏と本荘市菅原病院へ。本荘高校野球部OB会の鈴木貢会長と武田弘OBへ硬式野球部設立の相談。鈴木先輩からクラブチームの設立は渇望していた、役員人事は見切り発車して急ごうといわれ、展望が開けた。野球部の監督人事はお任せする。
24日(土)本荘市・清吉ラーメン。本荘郵便局にクラブチーム発起人会議の案内を28通。ATMにいた方が郵便を出す入口まで案内してくれた。タクシーの運転手さんがバックして当方の車を割り込ませてくれた。何だか、ふるさと由利本荘の人は優しく幸先がいい。
同級生のフラワーまきの(牧野正社長)から花を買って由利組合病院へ。菅原病院の菅原和夫先生のお見舞い。先生のご先祖が岩手の気仙沼で海苔の養殖を手がけ、海苔神社で神様になっている話は興味深い。
25日(日)毎日新聞の吉野理佳支局長から社会人野球の資料をどっさり頂き、ユーランドホテルの松村譲裕オーナーから硬式クラブチームの運営等を聞く。参考大。
秋田市文化会館にて秋田市芸術祭バレエ公演へ。
28日(木)本荘市・日の出食堂。
由利本荘ベースボールクラブの総監督就任の今野忠良前本荘高校監督を囲んで9人の侍。監督の元日ハムエースの工藤幹夫氏が内諾。市民球団設立に気勢が上がる。
30日(金)ふるさと塾。音楽館にて講師は藤里町「白神森のかぞく」の小坂球実さん。志を持って頑張っている姿は美しい。自然生態写真家 江川正幸氏もご出席。