ふるさと呑風便    NO.185    04/9

   東海林太郎音楽祭

 燕尾服、直立不動、赤城の子守唄。あの国民的大歌手・東海林太郎の生家跡が近所にある。
 この日曜日(20日)の朝。小雨の中を生家跡へ歩く。榮太楼旅館を横手に信号を右に曲がってすぐ左側の狭い道へ入る。
 10bほど行くと右側に二階建てアパートがある。その生け垣の真ん中に横長の記念碑が見える。白御影石の台座に縦36p横120pの銅板。「秋田が生んだ永遠の歌手 東海林太郎生誕の地」とある。この記念碑は平成2年年11月に、生家の隣にあるアパートを経営している渡辺アイさんが,生家と周辺の土地を売却したため,東海林太郎生誕の土地に何かを残そうと,自分の敷地に建立されたものである。
 生家跡から真上に見える千秋公園に上る。東海林太郎が子どもの頃、登ったとされる松の木を探すためである。
 昭和15年。東海林太郎はNHK仙台中央放送局に「郷土に寄する言葉」として、「子供の時からよく裏の山へ駆けのぼり、高い松の木にのぼって、はてしなくひろがる日本海を眺めながら、いつも、声を限りに歌ったものでした・・・」とある。
 日本海を見渡せる東屋の周りに黒松の大木が7本あった。その中の一本の松の木に腰掛けできそうな枝ぶりがあった。太郎少年はあの枝に腰掛け、父が渡った遙か満州を眺めていたのだ。
 父・大象は、明治41年、東海林太郎が小学校5年生の時、県庁の上司とケンカして大連の満鉄に渡ってしまっていた。
 秋田中学では体操部でバイオリンの名手だった太郎は父の反対で音楽家への夢を捨て、早稲田大学商学部に入学。経済学者を目指した後、千秋公園の松の木に登って眺めた、父のいた満鉄に入社。「満州と産業組合」という優れた論文を残している。 
 しかし、数年で上司とケンカして、辺鄙な鉄嶺図書館長に左遷され、満州の廣野にて再び音楽家への道を目指したのだった。

 この正月。大正琴の佐々木嶺松先生から提案があった。今年は東海林太郎の三三回忌、この機会に東海林太郎祭りをやったら、秋田のまちおこしになると。
 私は以前、青少年に友情の尊さを現そうと親友同士だった東海林太郎と斎藤憲三(TDK創設者)の二人の銅像建立を提唱したことがある。やりましょうとすぐに乗った。名称は東海林太郎音楽祭。
 東海林太郎顕彰会(後藤正次会長)と相談し、5月に東京町田市に住む東海林太郎歌謡芸術保存会の中村邦雄会長と会ってきた。中村会長は東海林太郎の話をするには3日かかるといわれる。秋田に常設の記念館を建設するのであれば公立でなくてもいい、東海林先生の史料を寄贈したいともいわれた。
 東海林太郎顕彰会の故柳沢格会長は、東海林太郎記念館建設が念願。音楽祭も記念館設立も手段、秋田のまちづくりのお役に立つことが目的。秋田市土崎のホテル大和の故佐渡谷栄悦社長は、六年前の東海林太郎生誕百年祭の実行委員長だった。佐渡谷、柳沢両氏の供養と中村会長のまごころに応えるためにも、音楽祭の副題をー東海林太郎音楽館の建設に向けてーとした。主旨は音楽祭の開催によって日本の芸術文化の向上と高邁な目的をあげた。
 十月3日の秋田市土崎港の菩提寺・西船寺での三十三回忌の後、東海林太郎音楽祭としてホテル大和で開催することに決定。 
 作詞家の東海林良さんの講演、東海林太郎の歌の競演、白根一男ショー、特別記念展示展も開設、記念祝賀会も行う。
 七月26日。東海林太郎音楽祭実行委員会が正式に発足。秋田市土崎の秋元医院院長で秋田市の文化を育てる市民の会会長から実行委員会の会長を快諾して頂いた。
 東海林太郎のお孫さんの東海林光樹・雅子夫妻も出席される。
 生誕の地に銅板の記念碑を建てられた渡辺アイさん。現在、娘さんの住む広島に居られるが、実行委員会へカンパが送られてきた。 多くの善意に支えられる秋田が生んだ永遠の歌手の歌と、人間性を伝え、受け継いでいきたい。
 ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成16年1月23日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「私の歩んだ道」3
★ 深谷政光氏(樺j鹿水族館社長)

 リストラしたって何したってモノは残ります。償却しなければいけませんし、金利は残ります。早く撤退という決断が最近、非常に多い。
 今年のスキー産業界は、相当な打撃だと思います。白旗を揚げる所が相当、出てくると思います。ということは、国有林を活用しているようなスキー場というのは、当然開発行為の中で許可をされてますので、止めるということは現状復帰しなければいけません。それをさせないということは無法です。そこの所はキッチリやっていかないといけません。今、適当に状況が悪いから、一旦休止みたいに済ましているところが沢山あるんです。これはいい傾向ではありません。
 私共のスキー場では千畑が苦戦しておりますが、阿仁なんかは夏場の方が良くて、経営は完全にペイしています。
 森吉は冬だけでも十分で、鰺ヶ沢も大丈夫です。雫石も大丈夫です。やはり、何といってもお客さんに利用して頂いていくらですから。
 サービスの徹底が何よりかなと思っております。
 夢中で山を歩いて開発して、どんなに地元の皆さんからいい活用をして頂くのかと当時、若い30代に考えたことが、非常にやりがいがありました。
 やってよかったなというそれ一つです。民宿やペンションの方々も増えましたし、お客さんも泊まって頂きましたし、民宿の旦那さんが自分で一億かけて温泉を掘るといって、止めなさいといったこともあります。いろんな人がいました。用地交渉をやったり、うまくいかないと裁判をやって裁判所へ行ったり、色んなことを経験しました。
 
 冒頭に話しましたが、ご縁があって男鹿水族館に参りました。この施設は、全く別な観点でご利用して頂かないといけません。そろそろ決着するのかわかりませんが、入場料金も条例で決めて頂くことになります。大人の入館料金が上限千円。子供料金が半額の五百円。その料金を元にして、二十四万人ぐらいのご来場者で見積もって、それで収入を算定して、収支計画を組んでやってるんですが、これも県の予算の中でどうこうするというのでありますので、県議会で承認を頂かないとダメな部分があって、何回繰り返しても決まってこないんです。子供料金を勉強になるからタダにしろという県会議員がいるそうです。(笑い)
 タダほど高いモノはないと思うんです。その論法というのは想像できません。タダにしろということと、少子化対策になるというんです。水族館のタダにすると少子化対策になる。どこが少子化対策になるんでしょうか。私は頑としてダメと、そこまで行くなら民間発想の経営はできない。全く県直営でやってくださいと。当然なんですが、最低の入館料金で、収入は絶対増えないんですから、経費はあの水族館で、一年間の動力費、電気代が、一億かかります。
 年間に電気一億です。収入の半分持っていかれます。そういう現実を見ますと、利益を生むような施設ではないんです。博物館、水族館といった施設にはある程度の税負担、県民の皆さんからの負担を認めて経営を組み立てて行かなければダメだと思うのが普通だと思います。
 そうでもない感じがしてならないんです。そこと戦うという自分が不思議でならないんです。少なくとも第三セクターを民営にするというのであれば、子供の入館料金は五百円でなければダメだといっております。
 夏のお客が多い時期には、臨時の方々とか、アルバイトの方々を含めて42名ぐらいで、冬場はお客さんが少ないですし、それなりのスタッフにしませんと30人ぐらいでしょうか。削って魚を見殺しにするわけにはいきません。(笑い)そこらへんはしっかりやらなければいけません。
 ただ富良野のお話をしたように、広域的な連携をすすめて、少し近くに温泉があります。入道崎の食堂街もあります。色んな施設が沢山あります。その方々と共存共栄し、良いところを取り合って、サービスの徹底をしたいと思います。
 ですから是非、オープンして水族館にお出でになった時、何だこのサービスというところがありましたら、どんどん言ってください。悪いご指摘に関してはすぐ改善します。
「いやーいいよ」と言われるように、初年度に社員教育をそこまでいけるかどうか分かりませんが、頑張って3年間で男鹿水族館の運営者としては、立派なサービスをついた水族館にしたいと思います。
 お忙しい時間にお出で頂いた皆さんに、色々ご指導を頂いて一生懸命やりたいなと思っております。今日はさっぱりまとまらない道でしたけれども、お相手を頂いてありがとうございました。(拍手)
  我青春風来記(140)
   早海三太郎
        下井草(10)

 大隈小講堂。カストロ首相からの、日本の学生へのメッセージを披露して、「キューバを旅して」と題する講演を何とか終えた。昭和42年の秋。
 スライド映写を手伝ってくれた中南米研究会の3年生・坂本幸穂君(現小堀、石川県在)を誘って、新宿の「雀の叔父さん」へ向かった。(この老舗の焼鳥屋は大正時代からあった。民俗学者の柳田国男も高尾山への調査の後、立ち寄ったと記録にある。三島由紀夫と楯の会の面々もここをよく利用して、三島由紀夫の短冊を部屋に掲げてあった。レスリング部同期の石原剛がアメリカに渡る時、ここで壮行会を開いた。この6月にアメリカから一時帰国した石原と雀の叔父さんで待ち合わせていたら、何とハイカラなレストランに代わってしまっていた。)
 後輩の坂本と飲っていて、酔っぱらってくると、同期の古川と飲みたくなった。 
 同期の4年生9人のうち、7人が南米へ、一年休学して南米地域経済調査隊と称して行っている。河野と山本はペルー、小泉、橋本がチリ、小田、服部、岡田の3人はアルゼンチンにいる。残されたのは幹事長の三太郎は夏休みにキューバへ行ったが、一人だけ熊本出身の古川昭尋は弁護士になるからと4年になってから、「司法試験の勉強を始めるからとお前ら俺を飲みに誘うな」と宣言していた。
 雑司ヶ谷の下宿先に電話すると、いた。「おい、飲みにこないか」というと「おお、よく誘ってくれた」
 やってきた。
 九州男児にしては多少ダンディな男。酔うと熊高健男児を歌う。
♪歩く姿はナンパでも
 心にゃ硬派の血がかよう
 わしは熊高健男児

 彼はこの年の司法試験は失敗で、留年して再挑戦するという。「まあ、弁護士になったら、福岡で開業して、弁護士会の会長ぐらいにはなれるだろうよ」(古川は5年大学にいて、郷里熊本に帰ってから一年で司法試験に合格。今、福岡市で弁護士開業。福岡県弁護士会会長になったかはまだ聞いていない)
 「オマエはどうすんだ?」
 「んーん。わからんなあ。もう就職試験はどこの終わってるしなあ。入学した時は商社マンになろうと思ってたけど、通信簿の優の数が極端に少ないし無理だな。キューバにいって、自分は日本のこと、ふるさとのことを随分と知らないことがわかった。何時かは田舎に帰ろうと思ってんだが・・」

 三太郎は確かに迷っていた。外から日本を見て、自分の無知に気がついた。そして、キューバでベトナム人とあって、日本はアジアの中にあると。
 東南アジアで農業開発、それには何か技術をもってないといけない。将来、政治家を目指して、政経学部に3年編集も考えたが、これ以上親の臑をかじるわけにはいかない。
 大学院、これは無理だな。学者になる気もさらさらない。
 交通論の中西ゼミの中西睦先生は、キューバに行く前、帰ってきたら何とかしてやるといってくれたが、将来何をしたいのか、はっきりしないと相談にもいけない。
 
 体育会系の三太郎。迷ったら身体を動かして前に出る。こんな時は旅に出よう。自転車で伊豆の下田へ行こうと考えた。下田市須崎は、クラブで合宿に行った場所。そこで森竹治郎先輩宅が民宿をされており、父上の森貴義さんも先輩で、下田市の助役をされていた。美しい姉妹もいる。
 自転車はトーメンに就職が決まったスペイン語クラスの栗原清司から借りる。出発前日。世田谷区経堂の彼の家に泊まった。父親も商社マンでアメリカ・シアトルに駐在しているという。商社マンの家には外国製品が一杯。嬉しいことに高級洋酒がある。ジョニ黒もあった。栗原と翌朝まで飲んでしまった。(続く)

 呑 風 日 誌 抄
 8月1日(日)秋田空港。第一回親学講師・高橋史郎先生(明星大学教授)を出迎え。秋田親学運営委員会主催。イヤタカにて、小林孝哉運営委員長のご挨拶後、「親学のすすめ」と題してご講演。家庭の崩壊、少子化、非婚、晩婚化の状況。「しっかり抱いて下におろして歩かせろ」と。脳科学を教育に生かすことも提唱される。事務方の能代養護学校の山谷美樹先生の熱情の賜。ニュータケヤにて運営委員会の反省会。高橋先生。障害児の川柳の紹介。自分中心でない川柳に感心する。
ろうそくは光わけあい身をけずる
もちさんはいつもたたかれ痛そうだ
 3日(火)竿燈へ何年ぶりかでカミさんと。自分中心でない川柳を一つ。
提灯は中のろうそくゆれて熱そう
 5日(木)昼、秋田聞き書き村文庫第2集が出来てきたので、秋田聞き書き学会の井上章会長から県立図書館長と秋田市立図書館明徳館長を訪ね進呈して頂く。
 夕方、山王・橙屋にて、舛谷政雄氏と仲人と務めた私と、田崎宏一こずえ夫婦の赤ちゃん誕生祝い。
 6日(金)榮太楼旅館。伊達政宗侯の師匠だった岐阜・虎哉(こさい)和尚顕彰会と仙台藩志会のご一行を出迎え。竿燈に案内。米町西町内竿燈のお囃子の粋な女の子がかんざし職人阿部ちゃんが造ったのを刺しているのを発見。
 7日(土)鎌田久美子バレー教室の鎌田先生が秋田ウラジオ会名義で招待したウラジオストクのバレリーナ・ラリサとマリア母子を男鹿半島に案内。入道崎の竜宮館へ。細川清忠館主はシベリア抑留体験者でロシア語通訳もされる。
 来年七月29日に鎌田・ラリサの友情公演が秋田市文化会館にて開催計画に協力することに。
 午後から北嶋昭宮司と西目町西光寺へ。石の勘左エ門高橋正氏ご尊父・勝治殿の葬儀。第十七連隊戦友の慰霊に観音像をフィリピン・ルソン島へ建立された方。十七連隊事務局長金森信様が「人生は夢のごとく煙のごとく」と弔歌。
 12日(木)榮太楼旅館。東海林太郎音楽祭実行委員会。チラシ作成。皆で案内状書き。
 13日(金)大内町の実家へ。墓参りして、カミさんと近く農村公園で盆踊り。
 14日(土)夕方。美佐子食堂で恒例の中学同期会。千葉県松戸市から伊藤信義君が久しぶり。同級会はいいものだ。
 16日(月)本荘市の金浦映画祭実行委員会の石井護会長からインターネットHPをメンテナンスしてもらう。御礼として、膝痛にも効く吉永小百合さんの扇子を無料貸し出しして一緒に山王の大江戸ラーメンへ。
 佐々木重人氏と男鹿半島入道崎で待ち合わせ。9月28日「満月の夜天女が舞う」と題する、舞踏家浅野瑞穂さんの舞のイベント。入道崎の親分・細川清忠さんに相談する。
 19日(木)秋田駅前・ニュータケヤにて親学反省会。能代市議で親学副委員長の飯坂誠悦氏も駆け付けられる。
20日(金)夜、聞き書き実践講座の小田豊二講師を秋田駅に出迎え。帰郷していた息子洋平から三味線茶屋すがわらに送らせる。益実女将から岡本新内を聞く。
 常陸太田市から明日からの本荘追分全国大会に出場する19歳の相沢歩さんが来てた。舞台で歌ってもらい小田と二人で臨時審査員を務める。小田審査員の評。ーその笑顔でいきましょうー(残念ながら彼女予選落だった)
 22日(土)息子の運転で小田講師と象潟町へ。10時から象潟町公会堂で中央地区聞き書き実践講座を開催。井上章会長もご出席。大潟村から二人、受講者8人も。夜、役場の細谷氏達とじゅんちゃんへ。須田正美さん宅でもやっかいに。
 22日(日)十文字町へ。県南地区聞き書き実践講座。ナンの館で開催。4名出席。泉谷印刷の泉谷好子さんから頑張って頂いた。携帯にシンガーソングライターのケーシーランキンから電話。「ミッチャン、おかげでガンが8ワリガタ治ったよ。アリガト」島倉千代子の魔法の水が効いたらしい。小田講師を大曲駅へ送る。車中で今、「遠くへゆきたい」のジェリー藤尾の聞き書きをしていると聞く。
 24日(火)ふるさと塾事務所。秋田稲門会役員会。正式に幹事長退任。「あい」にて副幹事長の吉田典雄氏と一献。吉永小百合さんからこの夏、送られてきた江戸切り子のグラスを進呈。彼は毎年、小百合さんへ自家製の秋田こまちの新米を贈ってくれている。
 25日(水)駅前人情酒場「久保田」にて、工藤幸彦氏とバウハウスの森川恒社長と。秋田職人塾(工藤幸彦塾頭)結成の相談。11月3日から始まる飛騨高山での全国親方会議参加の打合わせ。 
 27日(金)ふるさと塾。講師は岐阜市出身の川口和男氏。雷電ラーメン屋台ソバを保健所から許可もらうのに3年かかった。講演終了後、外で雷電ラーメンを皆でご馳走になる。細麺で厚めのチャーシュー7枚、あっさり味でなかなかいける。ラーメン好きの国際教養大学のジョン・モック教授も旨いという。10月から川反3丁目に那波商店の那波宗久社長のご厚情で雷電屋台ラーメンが誕生する。
 28日(土)夜7時、学友・小田豊二を駅に出迎え。今回は我が家にて一献後、榮太楼旅館へ案内。
 29日(日)藤里町へ・秋田コリア地域交流研究会の大沢かすみ副会長と韓国留学生で私の里子になった成銀永さんも案内。旧防中小学校の音楽教室で県北地区聞き書き実践講座を開催。シベリア抑留者で地元の市川博之さん他5人出席。教室に赤とんぼが飛んでくる。