ふるさと呑風便 04.8 NO,184
オリンピック
この夏の猛暑に、腰痛が再発して唸った。
昭和39年の冬。関西学院大学とのレスリング定期戦で、寺西選手との対戦で腰を痛めた。
以来、いまだにフカフカのソファに座ると腰が痛い。
こまち球場の内野スタンドの椅子は固いから腰にはいい。
という訳ではないが、母校本荘高校が久方ぶりに甲子園出場かと、準決勝と決勝の応援に行った。残念ながら決勝で、秋田商業高校に3対1で惜敗。
いい試合だった。試合前の応援風景もいい。本荘高校応援団が敵側の秋田商業スタンドへ、ガンバレガンバレ秋商とやると反対側応援スタンドから、ワーッという歓声と拍手がわき上がる。
この美しいエールの交換を、サッカーアジア大会決勝戦での北京・工人体育場の無礼なサポーターに見せてやりたい。
国際試合での国旗に対してのブーイングは中国が始めてではなかろうか。あれでは、国旗掲揚に反対してきた日教組系の方々でも北京オリンピックには行きたくなかろう。
アテネオリンピックの日本人選手団の活躍は嬉しい。金メダルの獲得数が東京オリンピックの15個越える勢い。
東京オリンピックの年。私はレスリングでメキシコオリンピックを一度は目指したことがあった。オリンピックの期間中、レスリング道場がフェッシング会場になり、立教大学のレスリング部道場で立教大学生と一緒に稽古をしていた。
上武洋次郎先輩が留学先のオクラホマ州立大学から帰国して、一緒に練習。彼はオリンピックの日本代表選手となり、バンタム級で金メダルを獲得された。上武さんが金メダルを持って、道場に現れた時。私はキラキラのメダルに触らせてもった。一瞬、おれもメキシコオリンピックを目指して、頑張ろうかと思った。
以来、私は上武金メダリストの付き人にされて、上武さんを早慶戦の神宮球場へ案内した時のこと。地下鉄で降りて、青山通りを一緒に歩いていたら、先輩の歩き方がちょっとおかしい。よく見たら爪先立ちで歩いておられる。
食事をした時も、右利きなのに、左手で箸を持って食べておられた。その訳を尋ねたら、こういわれた。
「佐々木なあ。オレにはレスリングしかないんだ。メキシコでも金をねらう。だから一日中、トレーニングだよ」
この言葉を聞いて、世界一は違うなあ、目に見えないところでも人の何倍も練習しているんだ、オレにはとても真似できないとメキシコへの夢は消してしまった。(上武さんはメキシコオリンピックでも金メダルを獲得。現、小幡洋次郎、足利市在住)
当時、我々レスリング部には山男の唄の替え歌があった。
♪おいらはワセダの
マットのうえで、
ブリッジしながら
涙を流す
アテネオリンピックで残念ながら、レスリング72キロ級銅メダルの浜口京子選手。試合終了後、バッテングで右目を腫らしながらも、笑顔でマットの中央部に駆け寄り、かがんでキスをした。テレビで見ていて思わず涙が浮かんだ。
マットの味はどんなだったろうか。おいらのように涙の味だったろうか。父親のアニマル浜口は娘に向かって叫んだ。
「北京にいくぞ、いいな」
いいなあ、だからスポーツはいいなあ。
ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成16年1月23日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「私の歩んだ道」2
★ 深谷政光氏(樺j鹿水族館社長)
そんなところで私は富良野に51年から3年間いてそういう体験をしました。
会社は結構人使いがあらいももんですから、出身が岩手ですから雫石へ転勤になりました。国土に47年に入って53年の間に、スキーの大会、ワールドカップを富良野で2回。
アルペン競技の大会の運営をすることになった訳ですが、その事務局を引き受けてやったのが5回やりました。
これは又、国内大会ですと、お互いにしゃべるとわかる訳ですが、国際大会となるとなかなか通じないということで苦労しました。
国際スキー連盟というのが運営する訳ですが、すべて申請して、承認して公認料を払って、それから海外の選手をすべて、飛行機代から何からすべて日本で持たないとできない訳です。これらをすべて処理するというのは大変だったということがありました。
雫石は岩手県では冬季観光の開発拠点の指定第1号でした。これは地元の雫石町と岩手県から国土にスキー場開発の要請があって、私が出身地が岩手でしたので、そこへ行けということでした。
岩手に19年おりました。
当初は全く道路がなくて民宿から、山の上まで千四百b。地元の民宿から毎日、歩きました。55年に雫石スキー場のオープンをしましたが、53年に行ってから、百五十回以上調査に歩きました。迷って沢に入ったこともありますし、熊と会ったこともありますし、開発事業というのは大変だなと思いました。
当時は観光を開発するという機運でした。今は全く皆無ですが、当時はこぞってそういう状況でした。
最初にスキー場が出来て、それからゴルフ場ができ、55年のスキー場を開業し、60年にゴルフ場がオープンしました。平成2年にホテルを開業。
その間、継続して営業してきましたが、開発と営業、開発と営業の繰り返しの経験をしてきました。これが地元の町とか県とか、許認可がある関係で一緒にやっていかないときちんとした開発はできないこともありますし、地元の民宿ですとか、旅館ですとかそういう関係の人たちとのタイアップする部分に時間を食うこともあります。
昭和60年代後半に非常にいい時がありました。当時で50万人を超えるお客があり、車がスキー場から渋滞して、小岩井農場までガーっと並んだことがありました。それぐらいのブームがありましたが、結局、このあたりでしぼむなあと感じなければダメなんですね。ところが感じないんです。この勢いはまだ行くまだ行くとどんどん太鼓を叩くわけです。会社もそうです。
経営者の立場もそうです。
限界を知りたくないんです。まだ大丈夫だと、ということで投資していく訳です。それが最終的には、開発過剰ということで、全国に過剰なほどスキー場ができました。
実際に直接、運営している立場とすれば、大変なことになるなと当然、わかりましたね。当時で。スキー場の経験のない不動産屋さんがスキー場を造ったり、鉄鋼屋さんが造ったり、上信越にはそういうスキー場が沢山あります。
最近どんどん潰れていくんですけれども、日本の風土といいますか江戸時代からお父さんがコツコツやってきたことはいいんだというのでなく、誰かがいいことすると、俺もいいんじゃないかという機運があって、わーっとやったのがスキー場であり、ゴルフ場でした。日東産業だとか皆んな潰れました。
もっとも大変なのは宮崎県のシーガイアです。外国資本になってしまうのかもしれません。最後は責任をとらずにお金で解決で、二束三文で売ってしまうんです。
やはり雫石時代の一番大きな体験は、過去5回のワールドカップというスキーの大会の運営をした経験をしたことに加えて、長野にオリンピックが決まる前に、国内で4候補あった訳です。蔵王と旭川と盛岡・雫石と長野です。この4都市が国内で誘致合戦をした訳です。
最終的に日本オリンピック委員会とIOCが長野に決定した訳ですが、それの大きな理由は、長野は国内でも長期にわたって、スキー界には大変大きな貢献をしているということでした。
盛岡・雫石が負けて悔しい、何かないかと即、世界選手権に立候補したんです。それが又、ラッキーだったんですけど、世界で4カ所か5カ所の立候補の中で、偶然にも一発で盛岡雫石に決まったんです。
これも又、12日間の大会を連続してやるというので大変な動員数でした。二月でしたから天候不順で大変な運営をしましたけれども、それにしましてもオリンピックのアルペンの部分がそっくり来ているという大会で、本来のスキーの選手からすると世界選手権の方が重みがあるという大会でした。雫石の19年間の中で非常に大きな体験だったなあと思います。
特に大会では官民一体となって、県庁の中に160名ぐらいのスキー連盟から県からすべての関係するJR、JTBから出向したスタッフをつくって準備して、長い人では2年もかかって準備しましたけれども、最終的には大成功だったなと思います。
その後、平成2年に私はサラリーマン生活も短いと会社が考えたのか長野の妙高高原のスキー場に転勤になりました。5シーズン、4年半。そこでは妙高を中心とした関西、関東、北陸と三百六十度からの誘客の手法は、東北では出来ないびっくりしたことでした。妙高は志賀高原も近いですし、妙高高原の中でも5つも6っつもスキー場がありますので、隣近所で競争なんですね。お客さんの取り合いです。そこの中でもダントツにワンシーズンでトップ。
国土で二百万人超えているのが苗場です。その次が私のいた所で、妙高高原スキー場で、国土の30数カ所のうちの第2位です。妙高では胸を張って最後の生活をさせてもらいました。
48万人のうち、72%が企画です。企画商品を売り歩く訳ですね。前売り券で二億売ろうと。子供企画や列車企画、飛行機とどうするのか、ハイウエイカードと組み合わせてあらゆる新聞に、弱い期間にクーポンと称して、通常の平日料金の半額ぐらいでダーッと印刷して、長野、新潟、北陸福井までの新聞社にいっせいに出すんです。それ一色になりますね。ですから収入が減るかといいますと、そうじゃなくて数をこなしてますから、そんなに減らないんです。その分、外に行くのを逃がさないという関西商売のようなものです。そういうえげつないというほどでもないですが、企画力の勝負です。
私の所は鰺ヶ沢、ここは森吉阿仁、千畑に同じグループでスキー場がありますが、これは私が19年雫石にいる間に、すべて調査して、全部完成させたスキー場です。
各地のスキー場に私の所から出て行った支配人が張り付いています。
やはり首都圏から遠くて、その分足代が高いんです。売るのに料金が高いですから、販売するには、がんばっても遠いということは回数ができないんです。その点、今苦戦しているのは八方、白馬地区が交通が不便というような状況でちょっと下火なんですね。
志賀高原は最近のドライバーは安全運転をしたいと、特に女性がそうです。志賀高原は山が高いんです。ああいう所に行くには帰りが怖いと大変渋滞するんです。
そういう所から、運転が安心です妙高と入れたりして、それで勝とうとしたり、得になることをどんどんコピーしていくんです。
今年の数字を眺めてみましても、依然として変わってないですね。スキー産業は斜陽という状況になっています。
その大きな理由は、一般の皆さん、若い人は携帯電話ですとか、そんな装備にお金をかけて、遊びにお金をかけない、寒い所に行きたくないということではないと思います。
10年前のスノーボードの流行った走りの頃は、山じゅうがスノーボードでした。コースの中にいっぱい座っていました。でも行ってみよう、みんなやるからやろうといった時代だったんです。今は座っている人はいません。全部上手になったんです。上手になってしまった人達はどうするか。下手な人を誘ってといった回数が減るといった現象でないかと私は思っています。
上手になって、いつでも行けるという現象ですが、スキーも中高年の皆さんが増えだしていますが、若い人が出不精になっているのではないかと思っています。
午前中滑った方がいい。あるいは午後だけでいい。一時間でいいといった小刻みな選択になっています。当然、そういう利用研修を考えていかなければいけません。収入も減ります。当初、大変な額の投資をしてしまった会社というのは持ちこたえられなくなってしまいました。(続く)
呑 風 日 誌 抄
7月2日(金)夕方、秋田市仁井田。石川商事へ舛谷政雄氏と。東京の松村謙三先生宅へ、モロコシの送付をお願い。石川善春社長は毎年、値段以上のモロコシをどっさり送ってくださる。島倉千代子が変装して行って手に入れたという魔法の水を、頂く。
3日(土)午後、昭和町インターで仙台藩志会の御一行11人を出迎え、男鹿半島へ秋田県出身1285人のシベリア抑留死亡者の慰霊碑前で、御一行と黙祷。たまたま車にあったサイパン島でアメリカ兵に拾われた軍隊ラッパで、国の鎮めを吹く。ラッパを聞いていた東京からの旅行者で小さい頃、サイパンに住んでいた女性と会って驚く。竜宮館で昼食後、男鹿温泉郷の雄山閣へご案内。
4日(日)朝、韓国留学生と里親達20人を乗せたマイクロバスを男鹿半島へ先導。秋田コリア地域交流研究会の主催。那波商店の那波宗久ご夫婦がバスを手配してくれた。
戸賀漁港へ。遊覧船の高桑船長が国際交流に協力したいと、留学生を無料で乗船させてくれた。入道崎の竜宮館で昼食後、雄山閣で温泉。午後二時から秋田市川反に建立された殉難仙台藩士の慰霊碑である、川反観音像前で慰霊祭。
建立5周年に仙台藩志会会長から、高橋正・石の勘左エ門社長、伊藤住宅の伊藤和雄社長に感謝状が与えられた。記念品は伊達家の家紋入りの文箱。千葉美栄さんの茶道会席に招待され、みずほ苑へ。
6日(火)十文字町のナンの館へ。秋田聞き書き学会の役員になってもらっているイスミヤ印刷の泉谷好子さんが創った館。8月22日に小田豊二講師の聞き書き実践講座をここでとお願い。ご快諾。
夕方、秋田市山王の入船。花の企画社の白石源次郎社長が岩手から秋田に寄り、旧知の金萬・大内睦子専務と一献。
近くの三味線茶屋すがわらに誘い、岡本新内を聴く。
7日(水)上京。統計局で話力総合研究所の永崎一則先生の講演。大いに勉強となった。後に写真を撮って御礼の手紙を出したら、著書3冊、又、拙書「青春 旅 故郷づくり」をお送りしたら、鹿児島出身である永崎先生から特攻基地知覧の知覧高女なでしこ会編の「群青」も贈られ感謝感激。
8日(水)昼、アキタパークホテルにて秋田稲門会役員会。会則を地域振興をする秋田稲門会と改正。幹事長辞任を改めて表明。
9日(金)榮太楼旅館。秋田まごころ委員会主催の「秋田まごころ大賞授賞式」今年の受賞は大潟村の「耕心会」
大潟村で菜の花ロードを育て、昨春、千葉県で開催された全国植樹祭へ、菜の花三千五百株を送ったことが認められた。
10日(土)ラグビーの佐藤忠男先生の端宝少綬賞祝賀会。平安閣。百五十名のラグビー関係者が集まり、素晴らしく楽しい祝賀会だった。挨拶をさせられ、歌を披露。
ラグビーを 愛してすすむ人のため佐忠先生颯爽と行く
15日(木)卸売り市場へ。ニュータケヤの武藤攻一社長が招待したロシア極東総合大学の学生二人、アントン君とステファン君と市場の午後セリを見学。夜、ニュータケヤにて彼らの歓迎会。青森のハンセン氏病の施設を訪ねた帰りの毎日新聞の論説委員三木賢治氏が来て、川反のたかの家にて一献。アザミの階段を上がる彼は偉い。
18日(日)午前、イヤタカにて第一回親学講座の運営委員会。午後、榮太楼旅館にて東海林太郎音楽祭実行委員会。夕方から、むつみ造園土木が天王町に造られたボタニカルセンターへ。植える花夢物語。ネーミングもよく大盛会。
19日(月)帰郷している娘、女房と男鹿半島へ。入道崎の竜宮館で昼食。そこから戸賀湾の新設なった男鹿水族館へ。大ラッシュで2時間かかった。
水族館にやっと辿り着いて深谷政光社長と会ったら昨日の入場者が1万2000人とのこと。一年間の目標24万人はすぐ達成されることだろう。
22日(木)イヤタカ30周年記念祝賀会へ。二次会が近くの待夢里。イヤタカ北島昭会長、秋田ペルー協会の綾小路洋子さん。高橋正氏とお祝い酒。
23日(金)秋田ふるさと塾。川反塾舎にて、講師は農林漁業見習い見習いの土井敏秀氏。演題「里海に暮らす」男鹿の加茂青砂での暮らしぶりを元新聞記者の報告。土井さんは加茂の自然が好きで、地域の人に愛されているなあと感服。
24日(土)腰痛再発。駅前クリニカオルトの裕子先生に診てもらう。骨には異常なしだが、以前と違う場所が痛い。パークホテルでの秋田市大内会を欠席。
25日(日)舛谷政雄氏の車で男鹿半島へ。腰痛で座席に板を敷く。男鹿凧職人の原田達人氏宅を訪ね、工房を見学。ガラス職人でもあった。早田貫一画伯夫妻と。シベリア抑留体験者であられる早田先生、抑留慰霊碑前でタバコとお線香をたむけられた。男鹿市船越の大龍寺にて、インド古典音楽シタールの演奏会。県職員でもある相場勝也氏の演奏が素晴らしい。
26日(月)こまち球場。高校野球決勝戦へ。友人工藤利ちゃんの息子工藤行文君が一番センターで出場。母校本荘高校が秋田商業高校に3対1で負け、甲子園ならず。
榮太楼旅館にて、東海林太郎音楽祭実行委員会設立総会。尊敬する秋元辰二先生から会長を引き受けて頂く。これで成功する。
29日(木)イヤタカ。秋田稲門会総会。幹事長として最後の総会。二次会は人情酒場久保田にて。
31日(土)象潟町公民館。鳥海山にブナを植える会総会。十周年記念講演が東京情報大学教授のケビンショート先生「自然とくらし、山海川となかよくしよう」
秋田市千秋公園内のあやめ団子。秋田ウラジオ会主催で、クラシックバレーの鎌田久美子先生が招待したロシアのバレリーナ母娘の歓迎会。美しければすべてよし。