ふるさと呑風便   04.7  NO.183
  自己責任

 毎日新聞余録。6月21日付けに、熊本県のハンセン氏病の入所者施設・国立療養所菊池恵楓園の自治会が「差別文書綴り」を自費出版したとあった。
 熊本県黒川温泉のホテルによる宿泊拒否事件に泣いた療養所へ全国から寄せられた中傷・誹謗の手紙と葉書107通のコピーが、A4版、202nの全巻にわたって掲載されている。
 余録子の論説委員・三木賢治氏に頼んで、その差別文書綴りのコピーを送ってもらった。202nにもあるその冊子は中傷文107通がそのまま印刷されていた。差出人はほとんど名前が書かれていない。女性代表という匿名もあった。皆、読むに耐えない文面である。これに対して、発行元の恵楓園自治会は何らの反論も編集後記もない。
 三木氏はそれがかえって、元ハンセン病患者の悲痛の叫びが伝わってくるとし、「心ない言葉を浴びせた人々はなぜ、元患者を加害者扱いにしたか。誤解か確信か。自身も何かの被害者で誰かを攻撃せずにはいられないほど傷ついているせいか。悲しいまで醜悪な文言は、人の弱さを映し出す。これきりにしたい記録だ」と結ぶ。

 イラクの日本人人質事件で、邦人保護が仕事である外務省職員と一緒に帰国した日本人へ、「自業自得」と書いたプラカードを、顔を隠して持っていた者がいた。そこには三木氏のいう人の弱さは映し出されていない。
 危険を承知でボランティア活動に行った者が人質になって、誰が迷惑を被ったのだろうか。日本人は、名を名乗らずに顔を隠して被害者を責める。かくも卑怯な天つば民族なのだろうか。
 小泉首相が、イラクでNGO活動をしていた女性が救出された際、「イラクで再び子ども達のために活動をしたい」と答えたことに対して「あれほど危険な場所にいくなと警告していたのに」といったコメント。
 この発言がきっかけで自己責任論が沸騰し、被害者である人質や家族が責められた。
 イラクで人質が殺された韓国の対応とは大違いである。 

 平成15年5月。元ハンセン病患者の違憲国家賠償訴訟団が国の控訴阻止行動に首相官邸前で座り込みをした時、官邸からでてきた飯島秘書官は被害者である元患者達に向かって「集団暴力だ」と叫んだ。それに対して、元患者達は、「国こそ集団暴力じゃないか」といった。そのとおり、権力側の暴力だった。
 全国15カ所の元ハンセン病療養所の入園者数3千606人。平均年齢76.4歳。
 弱きを助け、強きをくじくのが政治だとすれば、日本の政治家は弱きをくじいてきた。
 
 違憲国家賠償訴訟団に見知った顔があった。鈴木幸次さん。秋田県出身で、群馬県草津町にある栗生楽泉園におられる。群馬原告団副団長をされていた。
 昭和56年。上司とケンカして秋田保健所に移された。防疫担当だった。学生時代に商社マンになりたいと、貿易論をとったからではない。お陰様で鈴木さんとお会いできた。
 当時は、らい病といっていた時代。秋田県出身者をふるさとへの里帰り事業で宿泊先を手配し、秋田市にある社会福祉会館で歓迎会を開いた。結核予防婦人会会長の小畑好子知事夫人が親しくお相手をされた。
 鈴木さんから後に、御礼の手紙が届き、しばらく文通したことがあった。草津温泉にきたら是非寄ってくださいと手紙を頂いていた。

 7月15日の夜。青森県の国立療養所を訪ねてきた三木賢治氏と川反で飲んだ。彼は全国にある15施設全部を廻るという。
 私は再び鈴木さんに、手紙を出してみよう。勿論、実名で。
 ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成16年1月23日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「私の歩んだ道」(1)
★ 深谷政光氏(樺j鹿水族館社長)

 こういう経験は初めてで、話し上手でありませんのでご容赦ねがいます。私は今、60歳、こちらへご縁があって男鹿水族館という名前で、それなりに準備をすすめています。大半は秋田県の観光課が担当して、水族館の建設にかかるすべてをすすめて頂いております。
 水族館の仕事の進め方については営業的にどうしたらいいのか、人の採用をどうしたらいいのか、そういうことの組み立てを今、やっております。来月の3日から二日間、18人の採用に300人の応募がありました。書類選考で百数十名を落とさなければならない、非常に悲しいことなんですが、やりくりしまして現実は非常に関心の高い世界だなということで、驚いております。
 私は民間企業のサラリーマンとして育ってきましたので、官庁の仕事のややこしいことについては全く不合理で、今も戸惑っております。何でこんなことをしなければいけないのか。ここまでくると水族館という株式会社は不用であると、そこまで追求しないとこれから公営で民営していくというような企業というのは活性化されないんではないかというドキッとするような場面にしょっちゅうあうもんですから、だんだん最近はおkんなもんかというあきらめみたいな方向に転換している状況にあります。
 そうはいっても80億円に近いお金をかけて水族館を造って頂いている県民の皆様にはそういう訳にはいかない。
 少なくともきちっとした、堅実なサービスの行き届いた施設に育てていかなければとふんどしを締めながらやっていきたいと思います。
 現在は職員3人しかいなんです。実質二人でがんばっています。オープンのメドといいますか、営業してからの大体こういう形で進むなあという所は民間でやってきた経験が簡単に判断できる部分がいっぱいあります。そこには全く心配がないんですが、スタートまでの時間がかかりすぎてまだ予算がつかない。二月議会でどうこうというような状況を繰り返し繰り返しやってますので、担当しているそれぞれの課の方々もよくくたびれないなと思います。
 逆に考えますと、あれだけの無駄な能力を別の所にいったら相当な生産ができるんではないかと。(笑い)
 これがやっぱい道路公団であり、国のそういった大きな所の改革が進んで、JRのように民活にして大成功をした。 
 そこらへんが、役所の不合理さというか、こちらに来させてもらって、ちょっと戸惑っているのが現状です。

 標題が私の歩んだ道ですが、私はあんまり歩んだ道はなくて、あちこち曲がったり、まっすぐいったりでした。 
 生まれが岩手県の松尾鉱山です。そこは雪深い所で、私の経験では、男鹿は暖かいと思います。寝ていて暖かくて足を外に出して寝ています。
 やはり住んでいる環境の違いを感じました。生まれてこの方六十年は雪との生活がほとんででした。小学校、中学校、大学までスキーをやりました。スキーも距離競技で、私たちの頃、昭和三十年代ですが、秋田県の鷹巣農林高校は全国トップクラスで、スキーの国体は花形でした。そういう大会に出たいという夢があって、国体も十一回、出た経験があります。岩手、秋田、青森と隣接する三県が強かった時代で、今でも各県には知り合いがたくさんいます。大会に行きますと、自分が年取ってるのを忘れて、仲間と会うとオオーオーとやってしまいます。先般も鹿角市花輪でインターカレッジがありましたが、非常に懐かしい顔と会ったり、やっぱり雪とスキーの世界はいいなあと感じます。
 私は昭和四十一年に早稲田を卒業しました。OBの話し合いがあってというか、国体があるからおまえは岩手に帰れということで帰りました。
 6年間高等学校の先生をやったことがあるんです。国体要員ということで地元に帰って点数を稼げといわれて六年間やったうちの後半の三年間だけ、札幌オリンピックの男子の距離コーチをやりました。
 そのきっかけは当時の総監督をやった方が、年配だけのコーチングスタッフではうまくいかないということで、選手と同じような戦力になる年齢のコーチが必要ということで、ワックスだとか諸準備に必要なトレーナーとかの関係で、合宿に通ったのが年間150日。ほとんど学校にいないと現象が起きてしまいました。札幌オリンピックが終わって、学校に戻ったら机がない。(笑い)
 それで学校を辞めさせて頂いて、四七年に当時国土計画鰍ノお世話になって、それからスキー産業という、スキーの競技とレジャーを連動した、スキー産業を観光としているトップ級が国土計画でしたので、幸運なことでありました。たまたま本社へいって、企画、計画、観光、当時はスキー課というのもありました。
 そういう課を経験して、五年ほど本社にいて、昭和51年、北海道富良野に出向となりました。本社にいる間は観光事業に対するものの考え方を学びました。 当時は観光開発という機運がすすんでいました。いろんな会社がこぞってスキー産業に参入しようという状況ではなかったんですけれども、今のように全く乱立して、それぞれが潰れていくような状態を想定してはいなかった時代です。
 富良野に行きましたのは、当時、北の峯観光というスキー場の会社が地元にありました。それがあまり業績がよくなくて、スキー場もコースが少なくて。索道も古く、当時の富良野市の市長とか観光協会から大手に投資をして頂くような環境を作らないと発展できないと。それを一つの起爆剤にしようというような機運が生まれてきた時に、たまたま私がラッキーに富良野に入りました。
 そこから一気に話が進んで、北の峯観光が国土に入って開発がすすみ、私も富良野の下から上までどれほど歩いたかわかりません。
 スキー場の開発というのは、足で山を歩いて、それぞれのコースを全部見なければいけません。全部を踏破してコースを設定し、索道の選定だとかの調査をして、その後に会社の投資で今の富良野になっています。
 富良野の良さというのは、観光開発の長期ビジョンがありました。それは単純なスキー産業だけでなく、文化村というものを想定して、文化人を分譲地にお呼びして住んで頂くということを目的とした用地の販売をしました。
 そこに今、倉本聡先生がお住みになって、二〇数年にわたって「北の国から」をロングランでやるということも非常にラッキーなことでした。
 ああいうことが富良野の大きな長期ビジョンの中に整理されていました。
 私がちょうど行った時、高松さんという市長さんが、熱心でございまして、東京にしょっちゅう出張して、自分で文化人と会って、富良野市にはこういう価値があるんだ、いいところだといって一生懸命、売って歩きました。自らが富良野を今のような国際的なリゾートに発展させたと私は思っています。
 単純に文化村があれば、観光に結びつくかといえば、そういう訳には行きません。
 富良野は富良野ワインがあります。それほど優れたぶどうがとれるわけではなく、それは広域的に近郊の町村と連携して、ブドウ栽培に適した場所をさがし、農業と何々を組み立てて、ワイン工場を一つの森に造りました。
 そういうことをして、ワインを販売して、綺麗なデザインで最近は味が落ちたということで味を良くしようと努力しているようです。
 ラベンダーも51年頃は全くありませんでした。今、富田ファーム、富田さんという人が中富良野町の広大な用地に植えて、六月の下旬から七月にかけてラベンダー畑に沢山の観光客が訪れます。
 四季を通じて富良野には何があるんだろうということを組み立てていって、一番足りないところはどこだ、十一月か、あるいは三月だといって足りない所を知恵を絞って、何をしようということを組み立てていったんです。

 昭和52年に国土が富良野の北の峯観光を吸収合併して、入っていった時に、あのスキー場にこれまでにどれくらい投資したか。四百億円以上投資したと思います。
 ホテルが二つ。ゴルフ場が二カ所。それからスキー場が約2、5倍の面積の投資をしています。それが一つの核となって、北の峯という山麓一帯を開発しております。広域的に他の市町村との交流をどんどん展開していく中で、倉本先生が「北の国から」を25年も連続してやられた。
 このようにきちんとした組み立てで、現在にいたるまで着実に発展しているリゾート地は他に例がないのではないでしょうか。私にはまれないい事例だと思います。

 そんなところで私は富良野に51年から三年間いてそういう体験をしました。
 会社は結構人使いがあらいももんですから、出身が岩手ですから雫石へ転勤になりました。国土に47年に入って53年の間に、スキーの大会、ワールドカップを富良野で二回。アルペン競技の大会の運営をすることになった訳ですが、その事務局を引き受けてやったのが5回やりました。
 これは又、国内大会ですと、お互いにしゃべるとわかる訳ですが、国際大会となるとなかなか通じないということで苦労しました。(続く)
 呑 風 日 誌 抄

 6月3日(木)榮太楼旅館。東海林太郎音楽祭実行委員会。白根一男さんがゲスト出演と決まる。
 4日(金)東京赤坂。妻の元同僚で橋田壽賀子さんと同級生だった大島多佳子さんと光和総合法律事務所へ。学生時代のクラブ先輩・豊田愛祥弁護士、小野寺眞美弁護士と年金相談。 
 午後、新宿・紀伊國屋書店一階の串焼き屋にてアメリカから帰省中のレスリング部同期・石原剛と一献。レストラン経営に成功し、息子と台湾人に経営権を譲り、足利市に家を建て、日米半々でこれから人生を楽しむという。
昔、苦労を共にした人間探しを依頼される。末広亭前の「薩摩おごじょ」に移って又、じっくり飲る。
 5日(土)白金台のアークフェリーク白金。学友・若林正彦長男の一正君の結婚式。
 秋田から大潟村の相馬喜久男氏も出席。乾杯の音頭をとる。同席で旧知の鴨下一郎副大臣秘書になる三光薬局の倉持清氏、西新宿プラザクリニックの中川文利氏が食のプロジェクトを持って来秋する。
 6日(日)早朝、恒例の勝平浜クリーン&プラント作戦。渡辺哲夫アイキャン社長達とゴミ拾い、菜の花の種を蒔く。
 午後、遊学舎にてボランティア市民活動支援助成公開審査会へ仲間の応援。
 8日(火)村田建築設計事務所へ。一級建築士で岐阜出身の山田尚紀氏が地域作りにはワビ、サビとカビも必要だと恩師から学んだ。
 10日(木)仙台市。NPO支援センターを訪ねる。
 11日(金)秋田市山王・和飲亭にて、彌高神社北嶋宮司達と千秋公園の時鐘を守るボランティアの会の打ち合わせ。
 川反・たか乃家にて演歌師の山本実さんを呼んで、鹿角市のさわやかシスターズと一献。
 12日(土)午後、秋田駅前・バウハウス。森川恒社長、工藤幸彦秋田職人の会会長と11月の高山市での全国職人学会・秋田職人街への参加募集の件。民謡は三味線茶屋すがわら一座に派遣依頼。
 13日(日)能代市・延命寺。東雲飛行場殉難者慰霊祭へ。
 今年もラッパ「国の鎮め」と消灯ラッパを吹く。北海道音更町から来られた林恒材(つねき)さんから話を伺う。
「軍は飛行機の事故原因を徹底的に調査し、それが飛行機事故再発に役に立った。事故死した戦友は無駄死にではなかった。彼らのお陰で、今日の平和な日本があると思っている」急降下事故での殉難者7人。来年も戦友のために吹いてくださいと頼まれる。
 15日(火)象潟町道の駅能原島。引退される金巌町長と、三浦皓助役と一献。象潟は私の故郷。金先輩、三浦さんには今後ともご教導を賜りたい。
 16日(水)午前。大潟村の農業研修センターにて、尊敬するむつみ造園専務の杉村文夫氏による造園研修の受講。根回しとは造園用語であった。
 夕方、仁別の養魚場裏の畑に石川善春社長とインターネットでゲットした百円玉大のブルーベリーの苗を植樹。収穫が楽しみ。
 さとみ温泉。作家椎名誠の奥さんと昔、机を並べた田口榮一さんのご依頼で「すみれ会」の戦友会にてラッパ・国の鎮めと消灯ラッパ。御礼をされてかえって恐縮。
 18日(金)平安閣。大友康二先生の叙勲祝賀会。三百人の盛況。大友先生の魅力ある人間性の豊かさ大の会であった。
 19日(土)早朝、秋田市内の某所、柳並木の下に花ゲリラ。沖の伊良部島朝顔の苗を植える。県民会館にて花かげ会大正琴チャリティコンサートへ。敬愛する浜辺の歌研究所所長で花かげ会会長の佐々木嶺松先生の情熱。
 20日(日)峰浜村水沢川上流ホタルの里広場。空と海と川の塾主催の白神山地へのブナ植樹会へ全国から参加者多数。雨中、5本のブナを植える。雨のため、茅葺き屋根の民家で昼食。
 鹿角市毛馬内の船友の伊藤正隆氏に寄って、鹿角パークホテルにて多賀谷吉朗さん、あゆみさんの結婚祝賀会。愉快で涙の披露宴であった。二次会が美ふじ。
 21日(月)榮太楼旅館。東海林太郎音楽祭実行委員会。7月26日に正式な実行委員会を立ち上げることにする。
 24日(木)千秋公園・あやめ団子。千秋公園の時鐘を守るボランティアの会。北嶋昭宮司。秋田商業高校レスリング部出身の武田文具の武田章男氏と久しぶり。鐘とレスリングの話となった。
 25日(金)ふるさと塾。講師はプラネット・フォーまちづくり推進機構の佐藤利明社長と中村良三チーフプランナー。「グローバル化時代における地域文化とまちづくり」単に風でない、実践禄。
 お二人のモットーは「現場に神は宿る」と「人を幸せにする人が幸せになる」宮古島の雪塩等、まちづくり実践セミナーとなった。二次会は三味線茶屋すがわらにて、中村さんが沖縄で習った三線をご披露。人的魅力が大の二人講師。
 26日(土)秋田市立図書館。秋田聞き書き学会総会。事業計画等を承認。終わってから新図書館長の北条常久先生、井上章会長と懇談。秋田聞き書き村文庫第2集を井上先生から北条館長に贈呈してもらうことになる。
27日(日)親友・三洲相竜の秋田市牛島・たんぽぽ。韓国人留学生の成、李、朴さんにキムチラーメンを公約でご馳走。
 29日(火)八橋球場。千秋学園野球部の応援。山形県の朝日学園に快勝。午後、天王町長沼球場で課対抗野球試合。農林政策課に9対0で大敗したが、後半3回投げて、完封。まだまだいける自信。