ふるさと呑風便  04.6   NO,182

   わだつみ忌

 男鹿市加茂青砂。日本海に突き出たマサカリ状の半島の南側。ここの集落に名前のとおり、青く美しい海岸がある。 
 昭和58年5月26日の正午。
 大地震がこの美しい磯浜に津波となって襲った。遠足に来ていた合川南小学校の生徒45人、引率の先生達は津波にのまれ、13人の生徒が犠牲となったのである。
 20年ぶりにこの慰霊祭に参列した。地震津波殉難の碑の両側に二本。山査子(さんざし)の花木が赤く小さな花を咲かせている。木の名前が山の子を象徴し、殉難の頃に花を咲かせると植えられた。

 21年前の秋。この地に建立された慰霊碑除幕式に参列。遺族の父親達は同年代。身につまされるものあった。慰霊祭が終わった後、青い海岸縁に歩いて行くと、腰の曲がったお婆さんに聞かれた。
「あの担任の先生は来てないか」大きい声だった。
「あ、あの先生は事故で背骨を怪我をして入院中のようですよ」
「オレ、あの先生を助けたんだ。息を吹き返したら、海の向かって子供を助けに飛び込んでいったけ。オレどこ新聞に書いてけれ」
 新聞記者に間違われたようだ。 彼女は、マスコミ不信が高まっていた地域の人にたしなめられて、すごすごと引き下がっていった。

 21年目の慰霊祭の終わった後、遺族達は海岸縁に降りていった。 花と弁当を携えていた。二手に分かれて磯浜に向かっている。それぞれ子供達が引き上げられた場所にである。遺族は静かな海辺の砂に花を立てていた。
「子供達は遠足の弁当を食べる暇もなく、海にいってしまったんです」とあるお母さん。「供養と思って食べてください」とお菓子を頂いてしまった。
 遺族達は子供の代わりに遠足弁当を食べ、青砂海岸の小石を拾ってふるさとへ持ち帰っていたのだ。
 加茂青砂の駐車場に秋田湾観光の社長・高桑賢二氏と喪服姿の奥様が待っておられた。
 午後一時から遊覧船が出航する 高桑船長は去年から秋田ふるさと塾の塾生となった。「男鹿出身としてふるさとに恩返しをしたい。5月26日に遺族を遊覧船に招待したい」と、4月の塾で提案された。
 男鹿温泉郷の若手経営者達に相談し、海上慰霊祭実行委員会(大野晨一郎会長)が発足。男鹿沖で殉難された23名の慰霊を、スイス人女性が亡くなった水族館沖と青砂海岸沖の中間で行うことに決定。
 
 少し横揺れがする。遺族達で満員の遊覧船・第十一澪丸は桜島沖に停止している。
 黙とうの時間帯に私は、風呂敷につつんだトランペットを取り出して「ふるさと」を吹いた。
 男鹿温泉郷の若女将の宮坂靖子さんが詩を朗読。
 
  碧の祈り
    大友 康二
 
  海 ゆらぐ日
  いのち 消え
  潮 語らず

  還れ
  幼なき 魂
  慟哭の 胸に

  沈黙 ひろがり
  祈り
  碧に 染まる

 遺族達が実行委員会で用意した花束23本を海に投げ入れる。
「あやこー。帰ってこーい」
 娘の名を呼ぶ母親の声に胸が痛む。
 最後に遺族代表の土濃塚謙一郎氏が「この悲劇を風化させてはいけない」と挨拶。
 私の隣の席は、21年前、子供達を乗せ、マイクロバスを運転してきた方だった。恨めしい海でラッパなんぞ吹いて、余計なお世話ではなかったろうかと反省した。
 後日その方、合川町社会教育課長の三浦欽一さんからワープロではない、美しい字体の丁重なお手紙を頂いた。
「五月二十六日は心のこもった海上慰霊祭を行っていただき本当に有りがとうございました。
 二十年も経過したのに多くの方々が心にとめていてくだされ、亡き娘はもちろん親としても感謝の気持一杯と無常の幸せを感じさせられた一日でした」
 海の男・高桑船長は海に沈んだ子供達のことを心にとめていた。 救助にあたった加茂青砂のお婆さんのことも心に留めておきたい。
  ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成15年4月28日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「仕事づくりの研究から」
★ 浜口忠信氏(くろしお地域研究所)

 くろしお地域研究所の浜口と申します。
 私は吉田と一緒に最初からこの研究所に携わってきました。
 色々な調査をやらせていただきまして、ここ十年ぐらいは雇用労働ということで、調査研究をやってきました。そういうことから今日のテーマであります「仕事づくりの研究から」ということで報告させて頂きたいと思います。佐々木所長から報告がありましたが、高知県人は酒を飲むと議論するといわれておりまして、議論のテーマといいますか、そういったものを提示した形になっています。
 実は私が労働と関係してきたのは平成2年ぐらいからでした。労働省の補助事業で平成12年度までの10年間、その時その時に応じた自らが提案するテーマで色々調べてきておりました。
 そこで今日、思いつくままに地域の問題点・課題を提起させて頂きました。
 ここでは大きく4つに分けて、一つは地域の問題、2番目が行政の問題、3番目が企業の問題、4番目が労働者の問題としました。これ以外にも沢山あると思うんですが、調査の中で出てきたということで、考えて頂ければと思います。
 一番最初は、中山間地域の就業・雇用の場をこれからどうしていくのかということです。これは多分、高知だけの問題ではなく、秋田も結構厳しい状況ではないかなと思います。
 例えば、中山間地域におきましては、やはり働く場というのは農林業を中心とした一次産業、そして建設業、公務が主な就業・雇用の場ではないだろうか。私どもが調査をやらなくても、地域を廻られるとわかると思うんですが、一次産業、農業、林業ここらあたりが軒並み低迷しています。
 建設業はどうかといいますと、公共事業削減でこれもダメになってきています。公務はどうかといいますと、これも定数削減があったり、あるいは合併というのがあって、これも非常に雇用の場としては厳しい状況になってきています。
 そういった意味で今まで、雇用・就業の場として依存してきた産業はもう頼られなくなってきている。じゃあどうしていくのかということが一点。
 それから2番目に、これも最近よく新聞でいわれていますが、新規の学卒者の就職をどうしていくのか。毎年毎年、就職内定率が報告されているんですが、これが下がってきています。
 特に高知県は一月の就職内定率が50%を割っておりまして、下から2番目ぐらいの数字だったと思います。高知県の場合は県庁とか市役所なんかで6ヶ月の臨時採用をやっております。
 しかしこれについては、かなり企業の間で疑問の声が上がっております。なんであんな生ぬるい行政の中で、6ヶ月やってるのか。
 そんなことをするんだったら企業で6ヶ月働かして、労働の厳しさを経験させた方がいいという企業者の方が多い。また、行政がこのまま臨時雇用を続ける間に、新規学卒者の就職市場が改善し、雇用が増加するといった問題なんだろうかと疑問に思います。
 新規学卒者の労働市場というのは構造的な変化がきてるんじゃないか。経営者協会とか行政なんかに働きかけているんですが、やはり企業と学校、行政の方々を含めてもう一度、新規学卒者の就職指導のあり方の見直しをしていく必要があるのではないかと思っています。そういう形でこれからどうしていくのかという提案をさせて頂きました。
 それから行政の問題なんですが、今まで労働行政を担当する課として職業安定課が県庁の中にありました。それが外に出まして労働局となりました。県庁の中には職業安定課にかわり県独自の雇用担当部署ができていますが、市町村の中には労働行政を担当する専門の部署を設置している所が少ないんです。
 今の時代、それでいいんだろうか。やはり身近な市町村でも労働行政が必要ではないか。もう一度そういう意味で考えて頂ければと思います。
 それからもう一つ調査をやっていたら、産業振興と労働行政の連携がとれていなければいけない。それが、今申しました市町村には労働行政がないところが多い。
 今後、雇用労働を考えた場合は、産業振興と一緒になってやっていかないといけない。
 つぎに、企業の問題なんですが、企業を色々調査をやりますと、自社では人材育成をもうやらないと、あるいはやるカネがないという所がどんどん増えています。それでいいのか企業という形で提案させて頂いたんです。
 やはり人材というのが企業の一番の基礎となっているんではないか。その人材をスカウトしていていいのか。そこらあたりをもう一度考えて頂ければと思います。
 もう一つは、今、終身雇用の廃止とか、あるいは成果主義が導入されてきているんですが、それは一企業としてはいいかもしれませんが、大きな社会から考えると社会の不安定性を高めているのではないかと思います。
 例えば、結構、事件が多くなってきました。あるいは交通事故が多くなってきました。これは成果主義の導入など企業の改革が影響してきているんではないかと考えます。
 もう少し大きな意味で考えていく必要があるのではないかと思います。
 最後に、労働者の問題として、仕事の内容が複雑化、高度化してきています。今までの技術、技能ではなかなか対応できないような仕事が増えてきています。そういった中で色々アンケートをとりますと、労働者の方は企業にいろいろやって欲しいという方が結構多い。それでいいのかと思いまして、やはり自助努力が労働者側にも不足している。自助努力をしていかねばいかんのではないかと思います。(拍手) 
 「NPOの風」   竜馬の子孫達

 秋田市川反3丁目。飲食ビル3階にある秋田ふるさとづくり研究所へ高知からの客人4人が来られた。4月25日。鰍ュろしお地域研究所の吉田文彦所長他研究員の3人。迎える秋田ふるさとづくり研究所は高知と違って資本金ゼロで社員もなし。だが給料なしの優秀な主任研究員が8人いる。平成元年4月から毎月、第四金曜日の夜、地域づくり実践セミナーを開いてきた。
 他県の研究所との交流は初めてで、これは吉田所長の友情の賜物である。名づけて「いごっそう・かたっぱり地域づくり研究交流会」とした。迎え撃つかたっぱり秋田からは西宮公平主任研究員の「道は海のみちにあり」と題してポシェット航路の報告。いごっそう高知からは3人の地域づくり報告があった。濱田容輔研究員の「龍馬の生まれた街のまちづくり」は、共同学習を重ね、自慢作りの町内会の活動報告であった。何か問題があると、「そんなことをいったら竜馬が泣くぜよ」の一言で片付く。「地域づくりは、先人に学び、いいところを伸ばし、悪いところを直していけばいい」そして「地域を愛する人間づくり」といってきた。 
 が、時々泣かされることがある。秋田市内のある自治会の会合で道路端に花を植えたらとの提案に、「お金がかかるし、花を植えてどうなるの」といって反対する主婦がいた。 
 竜馬ほどでもなく、「そんなことをいったら誰それが泣くよ」といえるような、地域の先人のだれそれがいないものだろうか。探していなければ、まず、自分一人でも自腹を切って花を植えたらいい。四国から来た竜馬の子孫達は実に明るく、酒も又めっぽう強く、ふるさとを大いに自慢して帰っていった。
                   (佐々木三知夫・ 秋田ふるさとづくり研究所所長)(03・6・11 秋田魁新報掲載)
 
  呑 風 日 誌 抄
 5月1日(水)彌高神社例祭宵宮祭。
 四十雀が子育て終えてと笑まい  つつ 板金工は壁穴ふさぐ
金子貞子(仙南村)
 直会にて山田実先生、昭和35年に解体された記念館の遺品を持っている人を知っている。ルネッサンス風の記念館再建に賛同された。
 4日(火)早朝、女房と帰省した娘と車で仙台へ。藤崎デパートでの買い物に付き合いきれず迷子になる。女達は元気。雨の中、松島へ。ラッシュで車から松島を見て仙台に引き返す。大川原要大先輩経営の「喜助定禅寺店」で牛タンを女房は初挑戦。
 5日(水)秋保温泉へ。秋保大滝不動尊に参拝。不動茶屋で美味しい豆腐。緑水という偉い立派なホテルの露天風呂へ。女達は超長風呂。待っている間、文庫本一冊。
 8日(土)ツバサ広業の舛谷政雄社長と男鹿へ。八望台のシベリア抑留慰霊碑の下に日本スミレが咲いていた。戸賀湾にある遊覧船発着場から一時発に乗る。定員76人。乗組員2人、暴露部43人、ロビンに31人。戸賀湾から青砂海岸沖まで往復40分。工事中の男鹿水族館を尋ね、中田朋孝係長から白クマの住処を見せてもらう。カナダ州政府からいわれて二億円かけて急遽作っている。
 合川南小学校地震殉難児童慰霊碑のある加茂青砂へ。河北新報の片桐記者も同行。ここに旧知で元河北新報記者の土井敏秀さんが漁師見習いをしている。あいにく留守で奥様にふるさと塾に講師に来て欲しいと伝言。
 戸賀湾の「雄和丸の店」で遊覧船の船長と5月26日の海上慰霊祭の打ち合わせ。豪快なウニエビどんぶり。政雄氏友人の男鹿市の菓子舗ゴンタローの社長が慰霊祭へお菓子を寄贈してくれるというので、ゴンタローに寄って草団子を買って帰る。
 9日(日)午前、榮太楼旅館にて東海林太郎顕彰会総会。中村邦雄・東海林太郎歌謡芸術保存会長との話し合いの復命報告。一〇月3日の三三回忌に、東海林太郎音楽祭として、実行委員会を結成することになる。
 11日(火)午後、グループ森で栗田養護学校にブナの植樹。夜、秋田駅前・魚菜にて反省会。メンバーには一級建築士が多い。
 14日(金)夜、本荘市・ホテルアイリス。進藤成保先生勲五等端宝章・菅原和夫先生読売医療功労賞受賞祝賀会。菅原先生からの日頃のご厚情に深謝。
 15日(土)男鹿半島へ。ツバサ広業の舛谷政雄氏と竜宮館のて海鮮ラーメン。細川清忠氏からシベリア抑留時代の話を聞き。当時の軍服、ロシア帽もを見せてもらう。
 ロシア船積み来し丸太寒々と
  若き日捕囚のシベリア偲び
     (寒流 細川龍月)
 16日(日)八橋陸上競技場。全秋田対釜石シーウエイブスとのラグビー試合観戦。秋田苦敗。
17日(月)秋田キャッスルホテル。秋田外科の会(内山忠司会長)にて講演。「あなたはふるさとを愛していますか」高野征雄先生のご依頼。秋元辰二先生もおられるて緊張。二次会は高野先生達と多良。
 18日(火)榮太楼旅館。東海林太郎音楽祭実行委員会。会長に秋田市の文化を育てる市民の会の秋元辰二先生に依頼することに。
 19日(水)ダッタン蕎麦キャラバン隊秋田到着。椛コ役場の林社長、まちづくり推進機構の佐藤正則社長。大町の比内鳥の焼き鳥亀楽にて一献。佐藤社長と川反・江戸中にて二次会。六月のふるさと塾の講師依頼。ご快諾。
 20日(木)朝、新幹線で学友の若林正彦を出迎え。キャラバン隊一行と峰浜村のぽんぽこ村へ。空と海と川の塾の佐々木正憲代表と地元の石川蕎麦。八森町本館。斉藤進さんが去年栽培に成功したダッタン蕎麦の話を聞く。役場へ行き、千葉良一助役と懇談。
 男鹿温泉郷の雄山閣へ。男鹿沖海上慰霊祭の打ち合わせ。山本次夫社長、高桑賢二船長、実行委員会会長の大野晨一郎さん。桜島沖に止まって執り行う。殉難者23名の名前を呼び、花束を用意。大友康二先生(地震当時の県保健体育課長)の詩の朗読。小生は黙祷の時間に鎮魂のラッパを吹く。
 21日(金)大潟村役場。ダッタン一行と耕心会の新田会長と産業課長と打ち合わせ。新田昭典会長に北海道の安田農場産のダッタン蕎麦の種を佐藤社長が進呈。
 22日(土)昼、榮太楼旅館。秋田まごころ委員会。第6回秋田まごころ大賞審査委員会。新野直吉委員長、大友康二先生、工藤清一郎氏、滝広明氏、佐野元彦氏、石黒かほるさん、小国輝也氏。大賞に大潟村で菜の花街道を育て、去年、三五〇〇株の菜の花を千葉での全国植樹祭へ送った「耕心会」。
特別賞がヘニー・サンダー夫人(ニューヨーク在)で鳥海山にブナを植える会に夫の故井上健吾氏(元日本銀行秋田支店長)の遺志を継ぎ、50万円の寄付をされた。
 7月9日に授賞式を開催。
 26日(水)男鹿市加茂青砂。相川南小学校児童津波殉難の碑前にて慰霊祭へ。遺族達を戸賀湾の遊覧船発着場へ案内。海上慰霊祭(わだつみ忌)。桜島沖。
 終わってから、雄山閣にて直会。隣が男鹿市市民功労者の桧山鉄実さん。21年前、なまはげ役をしていてスイス人女性と津波にのまれ、助けられなかったことを悔やみ、マリア像建立に尽力された。
 27日(木)秋田市山王・和飲亭。彌高神社の北島昭宮司と千秋の時鐘を守る会の打ち合わせ。宮崎県砂土原町の戸敷正町長から電話。3年前、有縁交流提携した協和町に植えた山桜の写真のお礼。宮崎市と合併しないで自立の方向で頑張るとの事。応援したい。
 28日(金)ふるさと塾。講師は石川商事社長の「チョウザメへの挑戦」秋田国体までにキャビアを特産化したいとの話。期待大。
 29日(土)日韓ふるさとづくり里親交流。秋田・コリア地域交流研究会主催。赤い紐で12組の里親・里子が誕生。小生の里子は成銀水(ソンウンヨン)さん。