ふるさと呑風便   NO 181   04.5

     誠

 新撰組ブーム。この5月の連休に東京都日野市を訪ねた友人は、土方歳三資料館前の行列を見てきたという。
 新撰組のふるさと・日野市には司馬遼太郎の「燃えよ剣」の主人公・土方歳三の資料館の他に、新撰組六番隊組長・井上源三郎の資料館、沖田総司も稽古した日野宿本陣跡の道場も残っている。
 「誠」と書かれた旗があちこちに翻っていたと聞く。

 名秋田市長と市民に親しまれた高田景次氏は昨春、惜しくも亡くなられた。
 平成6年に発行された故高田景次氏の「市長爽々記」の出版記念会に出席。なかに秋田魁新報に書かれた「佐賀の空に揺れた竿燈」が掲載されている。
 これは平成5年12月11日と12日。佐賀県武雄市と佐賀市で行われた秋田の竿燈披露の経過とその情景を記されたものである。
 高田景次元市長は秋田戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊竿燈団の顧問として参加された。
 その時の寄稿文が魁紙に掲載される前、文化欄担当の友人から「高田さんの原稿に佐々木さんの名前が何度もあったんですが、削りましたから」と電話があった。「いっこうに構わないよ」と答えた。
 だが、高田さんは私の名前が新聞紙上に載らなかったのをひどく気にされ、私はお詫びの電話まで頂いていた。
 出版記念会で「佐賀竿燈」の名文を読んで驚き、高田先生の誠実さに心うたれた。
 付記として、次のように書かれていたからである。
「右の計画実行については、秋田委員会の佐々木三知夫事務局長び推進力の強かったことを付言しておきます」
 
 尊敬する田川誠一先生からの色紙がある。「百術不如一誠」と書かれている。「百の術策を弄するより一つの誠の方が大切という意味」と教えて頂いた。 
 不実で汚れた政治の世界で自治大臣まで務められた田川先生は最後まで筋を通し、誠を貫ぬかれた政治家である。
 ところが、同じ選挙区だった現在の我が国の総理大臣。 国民に向けた約束である「公約なんて守れなくても大したことない」といい放つ。
 日本人が本来持つ伝統的な資質としての誠実さ、礼儀正しさ、勤勉さは感じられない。
 一方、北朝鮮への経済支援は国交正常化後とした国と国との約束は、拉致家族の5人の子供と引き替えに、自らホゴにして制裁措置はしない、そして110億円もの人道支援を約束してしまった。
 政策より政局、誰もやらないことをするのが好きだという小泉さん。夏の参議院選挙前、自らの年金未加入問題を訪朝の成果でそらす術策で参議院選挙での勝利をもくろんだ。
 バラには多くの花言葉がある。情熱、愛、美、秘密。
 白いバラは清純。赤いバラは愛情。盟友の山崎拓元自民党幹事長に北朝鮮と秘密交渉させて、平城に乗り込んだ小泉首相には黄色いバラ(不誠実)を贈りたい。

 平成5年12月の佐賀竿燈の後、帰りの飛行機の中で、高田先生と隣合わせだった。
 お好きな言葉は何ですかと聞いて、私の手帳に次のように書いて頂いた。「貫誠」
   高田先生、いいお言葉を有り難うございました。 (合掌)
  ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成15年4月28日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「地元学の視点からの地域づくり・人づくり」〜四万十川中流・十和村を事例として
★ 松田高政氏(くろしお地域研究所)

 どうもこんばんは。くろしお地域研究所の松田と申します。
 私は高知県の最南端にある大月町の出身です。高知から4時間ちょっとかかります。同じ県内で4時間かかるというのは本当に不便な所で生まれ育ちました。地元の人が、自分が小さい頃からここの地域には何もない田舎だとか、高知から4時間もかかる秘境の地だとか、不便さや田舎の悪い面を強調した声を聞いて育ちました。自分の意識としてはどうしても都会の方に気持ちが向いてしまって、東京の大学に行きました。
 何故、高知に帰ったかといいますと、これは佐々木さんと共通しているんですが、国会議員の秘書になろうと政策秘書の勉強をしていたところ試験に落ちまして、ではこれからどうしようと思ったときに、地域づくりに興味があったので、地元高知で勉強しようと今の会社に拾われました。
 ジョン万次郎ではないですが、農家の出身の私が偉そうに地域づくりの仕事に携われたということで精一杯がんばっているところです。

 今日は地元学の視点から地域づくり・人づくりということで、私がここ3年ぐらい、今までの仕事の反省点からたどり着いた考え方をお話したいと思います。
 地元学という言葉なんですが、私が導き出したということではなく、私が出会った水俣市役所の吉本哲郎さんからの言葉で、その方は現在、地元の人と一緒に地域にあるものを調べてそれを最大限に生かすという取り組みをされています。現在、地元学の取り組みは全国的に広がっており、東北でも岩手県が長期計画の柱にしています。宮城県では結城さんと言う方が地元学と同じような考え方で地元の食材や生活品等を調べて、食の博物館という取り組みをしています。
 私は吉本さんと知り合って、地元学というのは地元に学ぶ・地元を楽しむという意味だと教えてもらいました。その時私が思ったのは、会社に入社してこれまで色んな地元の人たちに教えられて育ってきたという感があります。地元に学ぶというより、学ばせてもらっているという感覚ありました。
 ただ吉本さんの言葉からいうと違っていて、あなた達コンサルタントが一生懸命調べても、地元の人にとっては何も変化がないと言っています。自分で調べた訳ではないので、いくら大学の先生やコンサルタントが地域を色々調べて、立派な提案をしても、何も係わっていないで普段の生活をしているだけだと言うのです。
 確かに、その情報が全然地元に伝わってないとすれば何も変化がない。そういった部分が私も心当たりがありまして、行政の仕事をして業務の内容が決まっていたという部分があったんですが、実際に行政や地域の人に代わって地域を調べ、これまで一生懸命、林業のことや観光資源のことなど調べてきました。
 今思うと、自分自身は地域のことに詳しくなるんですが、その報告書を地元に出したとしても、それを見る人は行政の一部の人で限られています。その結果、提案した事業が行われることもなく、地元にとっては何も変化がありませんでした。
 そういった意味で、吉本さんの言葉を聞くと非常に反省すべき点がありました。それからというもの、基本的には地元の人が主体で私たちと一緒に地域を調べましょうと説得するような形で仕事をしてきました。今回、その取り組み事例として紹介するのが四万十川の中流域に十和村での取り組みです。
 
人口四千人弱の村で、農業と林業を主体とした村なんですけれども、そこである一つの集落、広井地区を徹底的に調べようということで、地元の人を中心に四十人ぐらいで調べました。地元の人が主体ということなので、吉本さんの言葉を借りますと、私たちは外部から参加した風の人で、地元に刺激を与え、風を起こす役割でした。
 岡峰さんという家の周りに何があるかというテーマで地元の人と調べたところ、ここは庭先農業というか、作物の量はあまり作っていないのですが、それでも家の周りに29種類の作物が育っていました。それから岡峰さんはお茶も作っていますし、漁師でもあります。一晩で鮎を二百キロを捕ったこともあったといいます。それは冷凍して一年間食べるということで、岡峰さんの周りとかやっていることは、所得は低いんですが非常に豊かなんです。そういうことを風の役割である私たちがいうと、地元の人はそういえばそうだなと気づく訳です。
 それから川漁師さんの色んな漁を取材しました。食料がなくなれば自分で鮎を捕ったり、エビを捕ったりウナギを捕ったりということで、食料にも困らないし、実際に年に半分は仕事をしてなくっても漁をしながら売ったり、自家消費したりして、所得は少なくとも毎日楽しく仕事をしています。
 これまで私は地域の資源というのは観光資源だったり、文化財だったり、ある固定概念に固まっていた部分がありました。でも実際、調べてみると普段の生活の中で地元の人が当たり前だと思っていることが、外から見ると案外すごいことだったりします。そういった外の人とのふれあいによって、「私たちの生活も満更でもない、何もないと思っていたが自分たちで調べることによっていろいろあることに初めて気づいた、知らないことがたくさんあった」と地元の人が気づくようになりました。
 地域づくりの面からいえば、まずは調べるという行為を地元の人と一緒にやったことで驚きや普段の身近なものの価値に気づいた。そして実際に地域の資源を生かして地域づくりをしていこという動きになりました。さっそく次の年に、調べたことを子供達や若い世代に知ってもらいたいということで、おばあさんの暮らしとか炭焼き名人とか、地元にあるもので調べたものの一部を見やすいようにパンフレットにしました。
 
 作業は全て聞き取りでつくったもので、主に七十歳から八十歳代のお年寄りから話を聞きました。調べたことは地元の人もあまり知らなかったことで、世代間での知識や情報の伝承がうまくいっていなかったことがわかりました。語って受け継いでいくというこれまで当たり前に行われていたことが少なくなり、四十歳代の人も知らない人が多かった。三十歳代になるとほとんど知らない。そこで是非知ってもらいたいということで、パンフレット「四万十・ひろい図鑑」を作りました。
 これは子供達の学校での副読本の意味で作ったのですが、外から来た人が見ても欲しいというものになったということで、これをガイドブックにして、地元の人が地域を案内するツアーを開こうということになりました。当たり前のように生えている野草を摘んだり、河原で天ぷらをしたり、遊んだりしました。
 それから、広井のお年寄りがワラジを作ったりホゴという籠やしめ縄を作ったり、地元の人が当たり前に作っているものがあります。これをイベントにしようと、地元の人がやりたい、習いたいということを基本メニューにし、外から来た人も一緒に楽しもうと、ワラを利用したモノづくり教室「生活文化祭」という名前でやりました。今年はワラを利用したものですが、これからは食べ物や川料理と色んなことができるので、ぜひ続けて欲しいと思っています。
 それから最後に、私もやってヘトヘトになったんですが、間伐材を利用した小屋づくりです。この取り組みの目的は、小屋をキッドとして商品化できたらということなんですが、それは将来的な建前で、実際は、地元の人が世代間で集まって話す場がなかったということで、結局飲み小屋をつくろうということになりました。つい最近、材の刻みから柱を組んで、棟上げまでやったところです。予算がないということで製材所の社長さんが、奥さんの目を盗んで板を少しづつくすねて今、貯めているところです(笑い)。夏までには板をふいて完成させようかなと思っております。
 これまでの取り組みの中で私が気づいたことは、地域づくりとは何かということですが、特に難しいことではないということです。個人でいうと地域にとって良いことをすることが地域づくりではないかなと。個人でできることといえば、自分の暮らしを前向きに楽しむということが地域づくりにつながることになるのではないかなと思います。
 今回、紹介した事例というのは、個人ではなく共同で、しかもみんなで楽しむにはどうしたらいいかということでワラジを作ったり、ツアーをやったり、飲み小屋をつくったりしました。基本的には自分たちの生活をいかに楽しむかという、個人の気持ちが集まってみんなでやっていくということなのではないかと思います。
 最終的には、主体となって地域を調べ、自分たちが何をやるのかを考え、行動していくという人が出てくるか、結局は人づくり、自分たちの地域をどういうふうに楽しむかということを考える人づくりなのではないかという結論に至りました。

 で、ちょっと反省なんですが、第三者的にこれまで色んな提言を報告書で書いてきました。その一部実現したこともあり、その時はその時で嬉しかったんですが、ほとんど提言した内容というのは自分で一生懸命調べて考えたものです。それは地元の人と一緒にやったというのでなくて、地元の人は勝手に自分たちが仕事をしているということで、結局はほとんど実現しなかった。
 これからは、地域づくりも市町村合併という大きな流れに飲み込まれようとしています。そういった中で、地域の将来を考えるときに、なおさら自分たちで調べて、地域の価値に気づいて、それをどういうふうに生かすか、前向きに自分たちの生活をどう楽しむか考える必要があると思います。なかなか所得増にはつながりませんけど、最初に説明しましたが、所得は少なくとも自給自足をしたり、それから地域のみんなで助け合って色んなことをやっていくということで、お金では計れない、貨幣経済でない経済が山間地域には多く残っています。所得も増えればいいんですが、所得だけではない地域づくりを今一生懸命やっているということです。
 地元の人も言っていましたが、できれば最終的には所得増につなげていきたいということなんですけれども、最初からお金ということになると難しいので、最初は自分たちがどういうふうに生活を楽しむかということで、それを人に売ったり、外部の人に来てもらって少しでもお金を落としてもらって、最終的にはお金につなげようということで取り組んでいる最中です。

 私は仕事としてだけでなく、行政も予算が少ないし、自分のライフワークの一部としてやっていこうと思っています。秋田のふるさとづくり研究所もライフワークとしてやられておられますので、仕事とは別と割り切ってでもこの活動をやっていきたいと思っております。
(拍手)
 呑 風 日 誌 抄
4月1日(水)昼。秋田県庁喫茶室にて酒田市の前田製管・前田直己会長から二件の依頼。去年亡くなったソクラテスシオタ氏がペルーから持って来た植物の種探し。なかに豆の種があったら山形大学農学部の高橋教授に育ててもらい、シオタさんの冠をつけるとのこと。 石の勘左エ衛門にもう一度夢を見させ、彼の開発した水質浄化車をイラクにNGOで送り込みたい。
 2日(土)東京駅・成田エクスプレスのホームで藤沢市のシオタ氏のお姉さんに電話。ペルーの種が冷蔵庫の中にあるという。種を全部秋田に送ってくれることになった。有り難い。千葉県芝山町山中の土井脩司氏宅で焼香。息子の久太郎君達もいた。花の里和処。花と緑の農芸財団理事長・故土井脩司氏を偲ぶ会前夜。弟の信行氏、千葉県庁の田正男氏、花の生産舎組合の貴島則雄氏達と一献多献。
 3日(土)花の里にて土井脩司氏を偲ぶ桜花の宴。桜はすでに散って、花の下には関東タンポポ。土井さんと学生時代にベトナムへ行った立川市の佐野良子さん。3年前にベトナムに学校を建てた。保育所の保母さんをやって十年間で千万円貯めて寄付。何時かベトナムの学校にご一緒しませんかと誘われる。息子も連れて行ってくれとお願いする。さいたま市にジョンレノンミュージアムを作った浜田哲夫氏とアーカイブ土井脩司をつくることになる。芝山花の会の方々とも一献。皆いい方々。芝山はにわ祭り実行委員長で軍艦武蔵会千葉県支部長の五木田勝氏から、男鹿市の戦友・笹剛三さんの調査を依頼される。
 7日(水)大潟村役場。仙台藩志会の木名瀬敏正さん、相沢製作所の佐藤常務と。仙台市役所で実験中の生ゴミ肥料を耕心会の新田新会長に託す。北海道から取り寄せたのダッタン蕎麦の種を進呈。
 大潟村あきたこまち生産者組合の涌井徹社長へ。シオタテツオ氏もここでお世話になった。常務の宇佐美千世子さんにシオタさんが去年亡くなったと知らせると、シオタさんから頂いたアンデスの花が咲いて、種も採れていると、涙。
 夜、千秋公園のあやめだんごにて「もも太郎の会」毎日新聞秋田支局長の吉野理佳さんの歓迎会。金萬の大内マドンナを紹介。勘左エ衛門、歓迎の皿回しをご披露。
 8日(木)佐々木重人氏提案のモンゴル林業研修生受け入れを仕事場に来られた山田博康・阿仁町議長に相談。快諾。
 夜、秋田市大町・亀楽。比内鳥の焼き鳥が旨い。マスターとお世話になった初代八郎潟干拓事務所長の故出口勝美さんの話。
 9日(金)イヤタカ。県庁同期46会で定年退職され千葉に住む小柳徳一郎氏の壮行会。13人出席。会長として壮行挨拶。二次会は人情酒場久保田。
 10日(日)彌高神社。能代養護学校の白井美樹先生、小林孝哉先生と秋田「親学」講座の相談。8月1日、イヤタカにて開催する。
 14日(水)東京・町田市新百合ヶ丘駅。広袴フレッシュタウンの中村邦雄・東海林太郎歌謡芸術保存協会会長宅。昼から4時間程、東海林太郎と秋田の記念館建設に協力の意向をお聞きする。東海林太郎先生の話をするのには3晩かかると夕食を誘われたが、約束の虎ノ門・東京財団へ。吹浦忠正常務、難民を救う会の相馬理事長とイラクへの水質浄化車を派遣の件。今、イラクで必要なのは水道水確保で、チグリスユーフラス川で劣化ウランが検出され、その浄化は不可能で開発者の高橋正氏は酒の飲めないイラクに行かずにすむ。 吹浦先輩から近著「愛唱歌とっておきの話」を寄贈される。
 新宿の池林房にて椛コ役場の林社長、まちづくり推進機構の佐藤社長、学友の若林正彦と一献。
 15日(木)早稲田の大隈銅像前で毎日新聞論説委員の三木賢治、総務部長となった渡部慶一の両氏と落ち合い、「すぎうら」。高田馬場駅前のスナックへ三人でいくと、フラメンコダンサーのママが生ハムづくりの修行に秋田市山王のグランビアに行ったという。
 16日(金)新宿住友ビル31階の平和祈念館へ。ここに早田貫一先生がシベリア抑留幻想絵画を数点寄贈されている。堀清幸上席主査から祈念資料を頂く。
 新宿・薩摩おごじょにてNHKの奥津典仁氏と、東海林太郎記念館を秋田に建立する相談。
 17日(土)池袋駅前から佐藤さんの車で林村長と千葉芝山・花の里へ。バラ園、古代米の田圃、温室の視察。和処にて札幌の佐藤史郎氏達とバーベキュー。
 21日(水)日吉神社にてグループ森の会合。5/11日に栗田養護学校、10/17日にブナの植樹計画。
 秋田駅前・魚酔にて打合会。
 23日(金)ふるさと塾。川反塾舎。「食の地域づくり」フードプロデューサーの赤沼秀夫氏が開発した「秋田ビビンバ」の試食会も兼ねる。なかなかいける。
 25日(日)佐藤幸之助さんと秋田県立大学の松林にある炭焼き小屋で、炭の窯だしを手伝う。
 彌高神社の御輿祭りで担ぎ手。
今年から第一七連隊記念碑前で祭事。北嶋昭宮司が記念碑前での祝詞は感動的であった。
 27日(火)協和町万松寺へ。戊辰の役戦没鳥取藩士の墓参。枝垂れ桜の巨木が満開で美しい。
 同町の公民館前に姉妹提携町・宮崎県砂土原町の戸敷町長が5年前に記念植樹された5本の山桜の写真を撮る。
 29日(木)秋田市総社神社。ツバサ広業主催の特攻隊招魂祭で黙祷の間、ラッパで国の鎮めを吹く。その足で本荘市招魂社へ。由利本荘市遺族会主催の慰霊祭にてご遺族の前で、国の鎮めと消灯ラッパを吹く。夕方、秋田市大町の無限堂にて、反省会。
 30日(金)夜、本荘市新山閣。高校同期の3人、高橋、柴田、川村が本荘高校、矢島高校、新山小学校の校長就任祝いを有志で。
 山間部の校長柴田善彦にくろしお地域研究所の講師を推薦。学校の活性化を図ってもらいたい。