ふるさと呑風便 04・4 NO 180
サクラよ
「日本人が桜を好きなのは散り際が潔いから」
といったのは数学者岡潔の親父さんだった。
大内町の実家の庭に樹齢40年程の枝垂桜がある。
親父が植えてから十年たっても咲かないので、来年咲かなかったら切ってしまおうかといったら、翌春には花をつけた。
学友で作家の小田豊二が櫻守の佐野藤右衛門さんと日本の桜行脚して聞き書きした「櫻よ」(集英社)。この本の中にも同じようなことが書いてあった。
「瀬戸内寂聴さんの嵯峨の庵に、枝垂桜、普賢象、鬱金、山桜の四本の桜を植えたんや。何年たっても咲かん桜にしびれをきらして『そんなに咲かへんのやったら、今日でもう伐ってしまう』といったら、その年から咲きはじめたというんやから、怖いもんや」
小田氏は藤右衛門さんと北海道・根室の「千島桜」を見に歩いて、花見のマナーも聞いた。
「まずあかんのが、あの青いビニールかなんかのシート。あれを幹の根元に敷きつめられたら、桜が息が満足にできんようになります。風、通さんですからね。口と鼻にマスクをかけられているようなもんですわ。それにカラオケ。これも花を早く散らせる一因や。昔みたいにゴザを敷いて、手拍子で歌っている時はよかったんです。拡声器にマイク。これは桜が嫌がります。あの震動が、幹にはちゃんと伝わっているんやから」
この春、桜前線を南下した。 4月3日12時57分秋田発新幹線こまちに乗車。千秋公園の桜はまだ固い蕾の頃。曇り空の秋田を出発して、田沢湖を過ぎ、仙岩峠のトンネルをくぐると雪景色だった。盛岡駅前の小公園に雪が積もっていた。持参した司馬遼太郎講演集を読みながら、左側の車窓から見えてくる桜木を観察。司馬さんの講演のなかの言葉にうなづいた。
「明治以後、こんにちにいたるまで役人による中央集権がすすむにつれ、日本文化の多様さがつぶされていった」
持参のもう一冊、司馬遼太郎「旅のことば」にいい言葉。
「美しいものへのまなざし」
美しい桜木を見つけたのは東北新幹線がトンネルを抜けて関東平野に入った時。遠くにかすかに色づいた樹が目に入った。 近づいてくる。それは二分咲きほどの桜だった。
宇都宮駅を通過後に現れた桜木は半開き。菜根譚にある「花は半開きに見る。酒は微酔に飲む」の一瞬だった。
大宮駅に着くと、満開のソメイヨシノの樹々が通り過ぎる。
目的地が千葉県芝山町。花と緑の農芸財団理事長故土井脩司氏が作った花の里に着く。彼は花の里建設途上に西行が夢見たごとく、散って逝かれた。
翌日、花の里・和(にぎわい)処で昔の仲間が集まって偲ぶ会がある。玄関先に土井脩司氏最後の弟子が植えた河津桜がある。少しばかり咲いた花びらは、もう散ってしまったという。
桜前線を北上し、小田が櫻守と見た網走の千島桜を見たい。 札幌・円山公園のエゾヤマザクラも見たい。それは初代秋田県令で札幌の創始者・佐賀の乱で斬首された島義勇を供養して植えられた桜花である。
この秋。第5回全国職人学会が飛騨高山で開かれる。秋田の職人技を全国に伝えるため、秋田職人祭を計画している。その途上、太平洋と日本海を繋いだ桜の道を車で走りたいと思う。 中部山岳地方を南北に貫いて走る旧国鉄バス「名金線」に沿って桜を植え続けたいい日本人。国鉄バスの車掌だった佐藤良二さんが植えた桜を見たい。
飛騨高山に着いて、秋田職人展での私の役目は、サクラ。
ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成15年4月28日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「龍馬のまちのまちづくり」
★ 吉田文彦氏 浜田容輔氏
(くろしお地域研究所)
私どもくろしお地域研究所のこれまでとこれからということですが、資料を後でゆっくり見て頂くことにして、設立と趣旨と経過のなかにありますが、「ジョン万」(アメリカに渡った中浜万次郎の勇気と好奇心を育んだ土佐の海〜黒潮〜)があります。龍馬のまちから来て、何でジョン万かといいますと、実を言いますと、ジョン万は龍馬にも時代の変わりを予感させる影響をもたらした人物なのです。
ジョン万は土佐清水の小さな寒村の漁師さんの息子さんでした。子だくさんの中で幼い頃から漁の手伝いをして、大きくなって漁師となって生計を支えていたんですが、ある時、仲間たちと出漁中に黒潮に流され、鳥島に漂着します。そこでアメリカの捕鯨船に助けられ、その後アメリカ本土に渡るなど、数奇な運命を辿って幕末の日本に帰ってきます。
沖縄に上陸し薩摩藩の保護下に置かれるんですが、そのことが薩摩藩に大きな影響を与えることになった。長崎に移送されるまで、薩摩藩はジョン万をぎりぎりまで留め置いた。当時の日本は海外との交流は限られており、それだけ海外の情報や技術が欲しかった。高知に帰った後も幽閉状態ではありますが、当時の土佐藩の人たちはジョン万の経験をいろいろ吸収しました。
その中で時代は確実に動いていると、それは薩摩、土佐を通じて他藩にも少しずつ伝わっていったものと思います。
幕末の黒船の頃にも、幕府はジョン万を必要として、土佐藩に幽閉を解かして、通訳として、またジョン万の知識を吸収します。勝海舟らの咸臨丸での渡米を船長として通訳として支えてのをはじめ、幕末から維新を経て明治初期までの日本の外交を支えたと言えます。
漁師の息子でなければあのような数奇な運命に遭わなかっただろうし、歴史の表舞台にその名前が出ることもなかったでしょう。だが、運命の悪戯があって、近代日本の礎(いしずえ)づくりに影響を及ぼすことになった。こうしたことはひょっとすると、誰にでもあり得ることではないか。誰でもその人生に一度や二度は大きな転機がある。その時に、人が転機や運命をどう迎えるか、どう向き合うかで違ってくると思います。ジョン万は運命に翻弄(ほんろう)されたのではなく、正面から向き合っていったのだと、私は思っています。
そういう人間への思いを込めて、地域人材の活躍と育成を期待して、社名を「くろしお地域研究所」ということにしております。
1988年に調査研究活動を通じて地域づくりに貢献するとして設立して以来、研究所活動の15年を振り返ってみますと、第一期は総合計画や商店街振興などの調査研究が中心でしたが、第二期は住民参加、企画制作、マーケティング等といった手法面での拡充、第三期は森林・林業、環境計画等といった分野面での広がりといったふうに、設立当時に比べると、分野も方法・手法も広がり多様になり、分野別の比重が移ってきています。
くろしお地域研究所に対する外部からの評価は、基礎的な調査研究を真面目にやることで大きな評価を得てきました。これが基本です。しかし、最近では応用的・実践的調査研究へ比重を移し、そのために新たな手法を採り入れ工夫するなど、今までよりも多くの領域で多面的な研究所活動ができるようになり、応用的な政策立案に関与することができるようになっています。これは、行政をはじめクライアントの要請に応える形で対応してためですが、スタッフが当初の2名から現在の十数名に増え、横断的ないしは重層的な活動が可能となったためでもあると言えます。
大ボラになりますが、小泉さんではありませんが、研究所活動を通じて社会経済の構造改革に寄与していきたいと考えております。これも夢のまた夢ですが、技術や情報の環境が大きく変わる中で、私らみたいなカネのない者でもメディアの最前線に参入できるのではないかと、その機会を狙っています。
時代環境が変わる中で、それに真正面から向き合って新たなステージに乗られるように、自らを磨き変えていくことが私たち研究所とスタッフ一人ひとりの在り方です。
スタッフは職業、地域、そして家族のバランスをとりながらやっていこうとしており、いわばアフターシックスですが、スタッフが業務時間外の活動もやっていけるようにすることが私の責務の一つだと思っています。
研究所は昨年(平成14年)から、「こうち農業ISO14001チェーン構想推進事業」に関わっています。この事業などを通じて、人と環境にやさしいものづくり、ほんとの意味で寄与できるものづくりを推進し、全国的に生産から消費の末端まで人と環境にやさしい取り組みを貫き、また、縦軸、横軸で面として広げていきたい、野望というか野心をもって関わっていきたいと考えています。このことに関する動きはすでにいろんなところから出てきており、そういうところとも積極的に手を結んでいこうと考えています。
それから、FSC森林認証事業の普及啓発と認証取得の推進に関わっていますが、このことは、流域単位での地域の見直しをする上で、きっかけづくりにもなると思います。昨年度の仁淀川流域資産活用事業では、流域の資産を地域の方々とともに見直し、それに基づく提案をしましたが、引き続き、流域の森林環境を地盤にしながら、森から川、海に繋がる流域単位で、くらしや産業を含めた仕組みを再構築するための研究を進めています。
また、自発的に独自の視点でいろいろな地域活動にも関わっています。そのうちの一つ、県立仁淀高校の活性化についてふれることにします。高校の背後には3つの町村がありますが、中学の生徒数が減少してきて、このところ3年生が60人位しかいません。全部が入学しても、やっと独立校の「30人学級2クラス」という条件を満たされるという状況です。例えば、なかには野球のうまい子がいて明徳義塾高校に進学することになると、60人は残りません。スポーツだけでなく、芸術系に関心のある子もいますし、大学進学のために高知市内の高校に進む子も出てきます。実際は30人すら確保できそうにない状況になっています。実際は、独立校はもとより分校としても存続が危ぶまれる状況になっておりまして、どうやって残すかという相談を受けたことを契機に、引き続きこの課題も勝手に抱え込んでいます。
地域の問題は多様で多面的です。自然や歴史、文化、くらし、環境などの視点をこれからも大事にしていきますが、正面から大手門からの経済の問題としてもしっかり取り組んでいくことも大事だと考えています。
ところで、本人が来られなくなったので代わりに紹介させていただきますが、お配りしている中に土居貴之君の「市民の力で呼んだドイツ・フライブルグのジャズコーラスグループ」という資料があります。これは、市民レベルの交流を考えられる際の参考になるかと思います。
それから、土佐の地酒を運んできました。四万十川中流の造り酒屋で、かつて千代登酒造、今は無手無冠酒造というところ酒や焼酎です。そこが高知市内に地酒屋という販売店を出していて、そこの女将、無手無冠酒造の社長の奥さんから、昨日電話があって、地酒大会をやるかた来てくれということでしたが、秋田の利き酒大会に行くから出られないというと、是非、酒処の秋田の方々に高知で地酒大会をやりよるからということと、いずれ行ったり来たりできたら楽しいねということを伝えてほしいと、土佐の地酒を持ってきてくれました。みなさんで飲んで頂きたいと思います。
最後に、女将からのメッセージを読ませてもらいます。
「秋田のみなさま、なんというても日本酒は国の文化、守らにゃいかんぜよ。急ぎざったき、思いをどっさり伝えれん。残念でござる。壱千万かけて作った土佐のことが全部わかる土佐の酒袋を押しつけプレゼントします。絶対土佐が好きになるき。ちょうど4月29日、蔵元さん全員集合新酒祭りやってます。来年は絶対ツアーで来てよね。取り急ぎ地酒屋女将・山本紀子」
どうもありがとうございました。(拍手)
二番目の発表になります、くろしお地域研究所の浜田容輔と申します。演題は「龍馬の生まれた町のまちづくり」です。実際、龍馬の生家は現存していないのですが、誕生地碑のある町が会社のすぐ近くにあるんです。
自分は高知の人間ではないのですが、高知に来て地域活動を一つしたいと考えていました。そんな時に、上町の住民の方々がまちづくりをがんばっているという話を聞きまして、上町のまちづくりに関わっていくことになりました。
まず、上町がどこにあるかといいますと、高知城のあるあたりを昔、家中といいますが、この西側が上町と呼ばれていました。東側が下町と呼ばれていまして、上町には武家屋敷に奉公する人たちが住んでいました。下の方には外からこられた方々、京町、掛川町とか外の町名がついています。
上町は、今は、上町1丁目から5丁目とありますが、昔は辻ごとに町名がついていました。北奉公人町、本町筋、水通町、通町、南奉公人町、築屋敷と昔は呼ばれていたようです。
3丁目から4丁目〜5丁目方面を写した写真がありますが、ここは火曜日に市がたつ通りです。
このまちの問題点。住民の方が何を問題だと思っているのかといいますと、まず他地域の中心市街地と同じように、街の崩壊が始まっていると。
どういうことかというと、お年寄りが多く、亡くなったら駐車場が出来るとか、マンションが出来てまちの雰囲気が変わるとか、近所づきあいがそんなに頻繁ではなくなってきたとか、独居老人が多く、病気になってもわからないというようなことがあります。
ただ、早くから住宅地として人が住んでおりましたので、龍馬を初めとして歴史上の偉人が輩出されたことに誇りがあります。活気が徐々に失われていると感じているのですが、まだまだ多くの宝物、人とか物とかがあり、それを今後は活用していこうと感じております。
二つ目の「上町そだての会」という、これが上町を舞台にまちづくりをしている組織です。この組織がどういったものかといいますと、平成13年7月に高知市がまちづくり協議会として最初に認定した、街並み環境整備を目的とした協議会で、運営は住民主体で行っています。
ただ、上町商店の会のメンバーは、町並み環境整備があるからできた会とはしたくなくて、今後も環境整備を進めると同時に、ソフト面も含めたまちづくりを行っていきたいと考えています。
メンバーは出入り自由で、地元の住民と他地域の人(支援隊)で構成されます。自分は他地域の人間ですので、支援隊という分類になります。活動は月一回の寄り合いというのを開催しています。その寄り合いの内容ですが、平成13年度の7月20日に会が発足しまして、それ以降、一ヶ月に一回ほど町並み整備にとらわれない、地域のコミュニティづくりを目標にした活動を展開しています。
なるべく多くの方々が参加できるように、カレンダーを作ったり、お祭りを開催して、地域の人同士の繋がりが生まれるような取り組みを進めています。
会では機関紙として瓦版を発行しています。住民の方が全部手作りでやっていまして、漫画を描ける方は挿絵を書いたり、昔の上町の様子を寄せ書きしたり、それぞれ皆さんの得意なことを盛り込んで瓦版を作っています。
会は、3年間支援が得られますが、今年で終わりです。その後どうしようと、活動の経費をどのように賄うかというのが今一番悩んでいるところでです。ただ、会ができて3年目で、いろいろな活動を通じて地域の中の認知度が非常に上がっています。月一回の寄り合いを通じて、幅広い世代が交流できるという場ができました。今後、活動をどういうふうに続けていくかと、上町のなかでどういう位置づけになったらいいのであろうかというのを今、会のなかで話し合っているところです。
ここでもう一つ、「女子大生が商店街をご案内」というのを紹介します。商店街活性化の組織として高知TMOというのがあります。その取り組みの中で、高知の女子大生に街の中を歩いてもらおうと。役割としては掃除とか案内役などがあるんですが、商店街に来て頂いた人が、楽しく快適に過ごせるような環境整備を一緒にやっていこうということをやっています。
これはすごく人気がありまして、松山をはじめ、全国にも展開されるようになっているようです。毎週日曜日に行くと女子大生に会えると。(笑い)以上私の報告を終わります。 (拍手)
呑 風 日 誌 抄
3月3日(水)秋田市中通・笑屋。39会で何故か小生の慰労会と七井辰男毎日新聞秋田支局長の送別会。同年の加成義臣県議と菅谷理市労働金庫秋田本部長が開いてくれた。二次会は有楽町の小生命名の「おげんき」で皆、元氣。
5日(金)早朝6時。本荘市ホテルアイリス。倫理法人会にて講演。「君はふるさとを愛しているか」。朝の二次会は清吉の中華ソバ。やはり旨い。夜、榮太楼旅館。役所の班の成見さんの定年送別会。二次会はなし。
6日(土)ジョイナス。映画「白神の夢」の山下勉プロデューサーの講話。八森町の本館地区の歴史経過を学び「知産智承」をすすめ本館学で八森は変わりだしたと。
7日(日)秋田市飯島の松林。県立大学の小林一三教授が主宰する炭化炉の炭出しの手伝い。秋田木炭の会の鈴木勝男会長と窯の中に入る。秋田職人の会で、炭焼き職人養成講座を開催したら面白い。
13日(土)秋田聞き書き学会顧問の小田豊二氏から、今日NHKラジオに聞き書きの話をするからと電話。彼曰く聞き書きの3原則は一、庶民の歴史を残す。二、お年寄りから学ぶ。三、お年寄りの生き甲斐づくりの必要性と聞く。
仙北町の後藤裕文さんから電話で、転作田にひまわりとコスモス(10e)作付けして子ども達に喜んでもらった。。ひまわりは東を向いて咲くので、道路の東側に植えて背を向けられたと失敗談。五月の苗植作業へ手伝い予定。
15日(月)秋田駅前人情酒場「久保田」天才水墨画家・卓吾氏とバウハウスの森川恒社長と一献。一昨年千葉・九十九里に移住したが卓吾県水墨画協会会長の出版する画集を秋田で製作することの相談。
18日(木)秋田市大町・竹谷本店へ。秋田聞き書き学会顧問の津谷裕貴弁護士のご好意で、秋田聞き書き大賞の副賞として、銀線細工の耳かきを寄付してもらう。
19日(金)趣味線茶屋すがわら。作家の小田豊二氏を迎え秋田聞き書き大賞審査会と授賞式。大賞・話し手伊藤キサ・聞き手川田光子、聞き書き村名誉村長賞・話し手佐々木雄一、聞き手俵谷裕子。特別賞・話し手・駒木佐助、聞き手小田嶋隆一の各氏に決定。
小田顧問と大町・亀楽へ。毎日新聞新旧秋田支局長の歓迎会へ。初の吉野理佳支局長。
20日(土)西目町の石の勘左エ門石材工業へ。黒松林に残る春蘭の救出作戦。春蘭娘の佐藤チヤ子さんの案内。松食い虫にやられた松林が裸になって、半日陰に育つ春蘭が重機に轢かれている。数株を西目町の鳥海山有用植物園と秋田市千秋公園内に移植。
21日(日)秋田市ジョイナス。石塚洋裁専門学校卒業記念ファッションショーへ。ツバサ広業・舛谷政雄社長のお誘い。少々照れくさいがタイトル「JOY楽しくいこう」とあるように楽しいもの。
22日(月)むつみ造園土木の杉本文夫専務のお誘い。秋田市飯島・小林緑邸にて骨董品見立て会へ。知人所蔵の室町時代の職人尽図屏風と芭蕉直筆の書簡の話。同様の職人尽図はサントリー美術館にあり、時価2億円だった。
23日(月)秋田稲門会役員会。秋田市山王・うどん茶屋讃岐。会則改正、役員案で総会前にもう一度開催することに。今期で幹事長を退任すると表明。山王・館へ佐野元彦校友会幹事長と二次会。
25日(木)秋田県立千秋学園の卒業・進級激励会へ。学園の実践目標一、暴力は絶対に用いません、五、お礼はていねいに。朝夕のあいさつを。
学園生は皆、礼儀が正しい。
ある朝、県庁玄関で毎日の機関誌を配る組合役員のおはようございますの挨拶に答えているのは20人に3人だった。千秋学園後援会会員として学園野球部のコーチに要請。
26日(金)ふるさと塾。島村恭則秋田大学助教授「こんなに面白い民俗学」成る程。
尊敬する石川佐三男教授達と二次会は「あい」
27日(土)秋田市土崎図書館での「港洋画人展」早田貫一先生の絵と佐々木信吾先生の「旧記念館」の絵を観る。早田先生宅に寄り、プリマドンナの熊谷バレー教室に案内。
28日(日)大内町の春一番。
民謡の里大内町に民謡史料館建設に夢をのせてと題する「大内町民謡競演会」へ。今年も盛況。大会副委員長だが、委員長佐藤定夫さん達のご尽力の賜である。秋田大学での国際スローフードフォーラムへ。敬愛するタカヤナギの高柳恭侑先輩と出会って抱き合う。舛谷政雄氏と河辺町の藤田文二氏から北海道開拓時代の貴重なお話しを聞く。