ふるさと呑風便  04・3   NO.179
    きぼう

 秋田市の西、黒松林の中に福祉団地がある。
 その一角の千秋学園は児童自立支援施設で現在、小中学生20数名が学んでいる。
 そこの学園だより「きぼう」は読んでいて楽しい。今どき、手書きなのがまたいい。なかに園外からの音楽講師、大谷祥子先生への質問コーナーがあった。 
 好きな曲は?との問いに、「ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番
 一番弾いた曲は?との答えはショパンの幻想即興曲≠ニあった。
 こんな素敵な曲を作ってくださったショパン様ありがとうございますとも答えている。
 私はこの学園の後援会員で3月25日開催の激励会の案内状が届いた。園生の進級、進学、卒業という成長した姿にふれてほしいとある。

 一昔前。世界パーカッション祭を秋田市文化会館で開き、千秋学園の園生を招待した。
 3年前の夏も、同会場での早稲田大学グリークラブ秋田公演に園生を招待し、後で引率の職員から園生達も感激したとの電話を頂いた。
 千秋学園との縁は、野球でも深い。道路を隔てた向かい側にあるグランドで何度も野球の試合を楽しんだ。
 私にとってはゲンのいいグランドである。ホームランも何本か打った。
 ワンナウト一、二塁でバントをねらい、二塁前にうまく転がしてオールセーフになった。誠に快感の思い出が埋まっている。去年は、ピッチャーをやって三回も投げた。千秋学園グランド様である。

 3月。移動の季節で悲喜こもごもの時期。宮仕え人にとっては宿命で、人事権者の裁量権、さじ加減で天国か地獄に分かれる。
 十数年前から、内ポケットに入る牛革製システム手帳を使っている。財布兼用だが、札入れの隙間は膨らむことはない。中にバインデックス能率手帳を入れ、県民手帳の秋田県資料編を切り抜いて挟み込んでいる。
 12月に手帳を買い換え、新年となってもおぼえの欄の住所、勤務先は空欄にしている。三ヶ月後に変わるかもしれないからである。
 3月中旬。内示があってやっと、手帳の勤務先欄に書き入れる。書きながら希望と落胆が様々に交錯する。
 定年まで後2年。内示の前に、希望の色はあせ、かといって失望の色合いも薄い。
 元本荘市長で哲学者の佐藤憲一先生は県教育委員会の社会教育課長時代から、青少年に希望を与え続けてこられた。 昔、琴丘町で佐藤先生の講演を聴いたことがあった。
 青には春の意味があるといわれ、古代中国人が万物を構成する5大元素と考えた木・火・土・金・水を方位と季節に表すと次のようなると黒板に書かれ、
 木が東で春、色は青
 火が南で夏、色は赤
 金が西で秋、色は白
 水が北で冬、色は黒
 土は中央、色は黄色
を象徴すると教えてくれた。

 青二才といわれようと、青少年時代は人生の春。
 千秋学園の激励会では、園生達には「きぼう」に満ちた春の旅立ちをして頂きたい。
 春3月の花。ショウジョウバカマの花言葉は希望。
 激励会でショパン様の幻想即興曲を聞けるだろうか。これは私のささやかな、きぼう。
 ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成15年2月28日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「東海林太郎物語」(2)
★ 宮越郷平氏(作家)

 楽譜を見たら、国定忠治だとか板割の朝太郎とか勘太郎などやくざの名前が並んでいる。
 しかし、東海林太郎が歌いたいのはクラシックの歌です。
 こんなやくざの歌、その世界もわからないし、自分がやくざの歌なんて歌えるかと。その場では断るわけにはいかないので、考えさせてくれと帰ろうとしたら、入れ替わりに着流しの人物が辻所長の部屋に入ってきた。所長は部屋から出て行こうとする東海林太郎にちょっと待ってくれといって、その人物を紹介します。彼がこの歌の作詞家の、佐藤惣之助さんだと。君はやくざの歌はわからないといったが、彼とよく話し合ってみてくれといわれます。
 佐藤惣之助がいったのは、「これはやくざの歌なんだけれども、やくざというのは自分たちが好きこのんでやくざになっているんではない、みんな農家の次三男で、農業も継げないし、彼らは徒党を組んで何かをしなければ生きていけない。そういうのがやくざなんだ。この歌は男の泣く歌なんだ。そういうつもりでこの詞を書いたんだ」
 そういうふうにじゅんじゅんといわれ、そうでなくとも佐野学に傾倒していた東海林太郎は、農家の次三男のことを聞いて、最後には何とか歌わせてくださいとなったのです。そうして楽譜をもらったのが12月28日。辻所長から吹き込みは1月8日といわれます。10日しかありません。楽譜を持ち帰って、二番目の奥さん、渡辺シズのピアノ伴奏で猛練習をします。 ところが、東海林太郎は訛りのある人なんです。生涯抜けなかったんですね。歌ってみた。ですが訛りが抜けない。
 さてどうしようと奥さんが楽譜の一つ一つに口の形を書いて訛りを直そうとしました。
 又、ある人が教えてくれたんですが、これはクラシックではない、流行歌だからマイクを舐めるように歌うものだといわれます。
 舐めるようにといわれてもクラシックをやってきた人がすぐにはできない。それにビブラートが普段でも非常に強い人なんです。それを10日間でどうしてとるか。まず口の形はそれでいいとして、舐めるようにというのはどうしてもダメだった。
 そこで、流行歌だけれどもクラシックの歌い方で歌おうと決めました。マイクから腕一本離れて歌おうということになりました。それからできるだけ口を大きく開けて歌おうと、そしてクラシックだから直立不動で歌おうということにしたのです。
 それを生涯ずーっと通したのです。それも燕尾服で、ブラームスの子守歌を歌うような気持ちで歌おうと決めたんです。そして、赤城の子守歌ができあがったのです。8日に吹き込んで、それが大ヒットしたのです。

 それは高田浩吉が主演した映画の主題歌だったんですね。映画はそれほど話題にならなかったのですが、歌がヒットして、50万枚も売れたのです。
 当時、昭和9年の50万枚というと、今だと何百万枚といえるでしょう。ともかく大ヒットしました。その時、東海林太郎は36歳です。今だと考えられないですね。
36歳の新人スターの誕生です。
 その後はご承知のとおり、国境の町や、野崎小唄、紫小唄などが、次々とヒットしていくんですね。
 一躍大スターとなります。
 ところがそれに続いて戦争の時代となります。
 そこで今度は軍歌を歌いそれもまたヒットしていきます。
 戦地に慰問に出かけたりしますが、終戦となりますと、GHQからお達しが出て、軍歌とやくざの歌は歌ってはいけないとなります。
 なにも東海林太郎の歌だけではないのですが、そうすると東海林太郎の歌うものがなくなってしまいます。
 それで戦後は非常に生活に困ってしまいます。キャバレーやストリップ劇場の前座で歌ってみたりします。
 そうしているうちに、昭和22年に2ヶ月ほど中国、四国地方を巡業します。その間、何かお腹の具合が悪いのを無理しながら、四国の高松が最後でしたが、大阪でワンステージをやって打ち上げということになっていました。高松では食事もとれないぐらいになっていましたが、町医者に行って診てもらったら、その当時は簡単に言ったんですね。あなたガンですなといわれたのです。S字結腸ガン。大阪に来たときはほんとうに立てないほどになっていたんです。
 ですから幕を下ろしたまま、抱えて連れて舞台に行って立たせて幕を開け、歌い終わると幕を下ろして、又、袖から抱えてかえす。
 東海林太郎は大阪から東京に帰る前に、保戸野小学校の1年後輩で京都大学医学部の教授をやっている青柳安誠から、診てもらいたいといいます。その結果、やはりガンだとなって、京都で手術する訳にはいきませんので、東大の大槻菊男という教授を紹介してくれました。大槻教授に診てもらってもやはりガンで、すぐに手術をします。
 そうこうして昭和28年の12月28日。奥さんのシズさんが亡くなります。
 30年にはガンの再手術をします。そして34年にはお母さんも亡くします。
 奥さんもなくなり母も床にふして、何とも生活ができません。そこで母の亡くなる少し前に、後援会の事務を手伝っていた青木美瑳子という25歳の方と結婚します。36歳も違います。
 東海林太郎の偉いところは、亡くなる直前に自分の方から財産をいっさいやって、まだ若いからもう一度新しい人生を歩めるようにと、彼女とは離婚いたします。
 
 さらにまた、39年にも3回目の手術をします。それ以来人工肛門をつけています。その頃から、リバイバルブームが起こり、東海林太郎が再び脚光を浴びることになります。
 ところが、人工肛門で3回も手術していますが、人工肛門のことは誰にも話していません。 知っているのは奥さんと後援会の中村邦男会長だけです。人工肛門ですから、歌うときに力が入りません。そこで、お腹にさらしを巻いて舞台に立っています。
 歌い終わって、さらしをとると血で真っ赤になっていたそうです。
 その頃、LPレコードがでてきます。もちろん東海林太郎のLPもできます。
 その頃、歌手協会が設立され、初代の会長に東海林太郎が選ばれています。
 昭和47年9月24日。立川にマネージャーの家がありましたが、東海林太郎がそこに立ち寄って、ソファに座って、「いやあ、おれ眠くなったよ」といってゴロンと横になった。それから10日後に亡くなりました。
 
 東海林太郎の人柄をいろいろ調べてみますと、非常に楽天的なんですね。
 ガンで3回も手術していますが、楽観しながら乗り越えていった。
 それから非常に親しみの持てる人柄で、秋田の訛りがあって、それが何ともいえない親しみを覚えさせていた。周りの人から非常に慕われていたようです。
 それに、非常に気配りの細かい方だった。劇場の切符売りのおばちゃんやおにいちゃん、掃除のおばさんにも言葉をかけて、気配りをしておったということです。
 しかし、周りの方々に優しい、人のいい反面、ガンと闘った不屈の精神力が持ち主だった。
 また、歌に対しても、非常に厳格で厳しかった。朝の発声練習は欠かしたことがない。何歳になっても。これは歌手仲間でも有名な話で、晩年は巡業に行ってもピアノあるホテルをとってくれと頼んでいます。
 ピアノのあるホテルをとってもらって、朝、必ず発声練習を欠かしたことがありませんでした。
 老年になると声の高さが落ちてくるので、半オクターブを下げましょうというと、怒ったそうです。生涯、自分のオクターブで歌った。
 東海林太郎の有名な言葉に、ステージの上の「一尺四方は歌の道場」というのがあります。決してそこから動かなかった。
 それから盛んに言った言葉に「一唱民楽」(一つの歌で民を楽しませる)というのがあります。
 この一唱民楽という言葉は何からきたかといいますと、宮本武蔵です。東海林太郎は宮本武蔵に傾倒していまして、熊本に巡業に行くと必ず宮本武蔵の墓参りをしていまして、そこの売店で売っているろうそく、線香を全部買って、お墓の周りに全部立てて、拝んだということです。
 宮本武蔵の言葉に、「一剣護民」というのがあって、それに習って「一唱民楽」ということをさかんにいっておったのです。
 まさに、一つの歌で人々を楽しませるという、歌一筋の人生でもありました。
 呑 風 日 誌 抄
2月1日(木)ダッタンソバの電話調査。岩手県軽米町の高沢昇さん。10年前から1町五反歩のダッタンソバを栽培。近頃のブームで普通のソバの倍で売れると聞く。
 5日(木)横手市。よねや会長の佐々木雄一さんから、満鉄時代、タイ。バンコックでの軍隊時代の話を聞く。手記「土から土へ」をお借りする。大曲市の仙北組合病院へ。知人の見舞い。病院の廊下に看護婦さんの写真入り紹介版がある。さすがに美人が多い。医師のがないのは片手落ち。
 7日(土)秋田市手形の威知義曜(たけちよしてる)画伯宅へ。田口勇先生から秋田の偉人と聞かされた先生。92歳でかくしゃく。記念館の話を伺う。何と大正7年4月に消失した公会堂の火事を木内デパート前から見ていたとのこと。貴重なお話しをこれから聞き書きさせてもらうことを約束。公会堂と記念館の絵をもう一度、描いて頂くことになった。嬉しい限り。
 夕方、三味線茶屋すがわら。
岐阜の吉田旗店の吉田稔社長(全国大漁旗フォーラム会長)、親方会議in高山事務次長の大野修司さん、弘前コンベンションビューローの小林陽一次長と。秋田側から秋田職人の会の工藤幸彦会長、舛谷政雄氏。御2人共、昔、吉田旗店で修行されている。
 11月6日、岐阜高山での全国職人学会への出席相談。秋田職人の会で、出席したい。 11日(水)飯田川町のブルーメッセの蘭展へ女房と。
 12日(木)花と緑の農芸財団の小町常務より、故土井脩司元理事長の詩碑の文案が送られてくる。瀬島龍三会長揮毫の「花のいのちは短し されど花の心は永遠なり」土井脩司君の遺徳を讃える
 秋田側で造ることにして、西目町の石の勘左エ門・高橋正社長に相談するとさすがに早い。鳥海石を探しに仁賀保町に見に行くことになる。
 14日(土)石の勘左エ門・高橋正社長と秋田市の高清水寿光園へ。横山園長へ除鉄、徐マンガン装置の設置の相談。
 午後、象潟町公民館。鳥海山にブナを植える会総会へ。
 もう10年になる。今までブナを一万九千五百二十四本を植えてきた。元日本銀行秋田支店長だった故井上謙吾さんの奥さん(ニューヨーク在)からブナの会に50万円の寄付があった。この感動的な話をニューヨークと日本銀行との良縁にしたいものである。
 20日(金)午後、西目町の石の勘左エ門・高橋正社長と仁賀保町の採石場へ。瀬島龍三会長の詩碑の自然石探し。遊佐採石の佐藤毅夫社長がおられ、応接間にはヒグマの剥製3頭が鎮座している。
 広大な採石場で佐藤社長から4トン程の鳥海石を寄贈してもらうことになった。
 21日(土)秋田市手形の威知義曜画伯宅。一級建築士でもある先生は建設関係の著書を2冊も出しておられた。記念館の絵を私に描いて頂く。 遊学舎へ。ボランティア教会の菅原雄一郎会長と。
 22日(土)東由利町町民球場。ワールドカップ雪上野球大会。今春、この大会は東北雪対策連絡協議会から雪対策功労賞特別賞を受賞された。東由利をおもしろくする会の小野克弘会長はこの功績が認められ、日本雪上野球連盟の副会長に昇進。平理事の私は開会式では3言挨拶。18チームが出場。秋田県面白くする会チームでキャッチャーをやる。大森クラブが対虎ノ門に4対2で優勝。
 金子拓雄さんが手がけてきたフランス鴨の飼育を見学。
 27日(金)ふるさと塾。川反塾舎にて、秋田青年会議所青少年開発委員長の奈良依里子さんの講演。「輝きを放ちながらかっこよくいこう」青少年に愛国心を育てることを心がけている。話も上手で説得力があて、二次会でのカラオケも上手い美形の委員長。 28日(土)午前、榮太楼旅館旅館。東海林太郎顕彰会役員会。10月3日の33回忌に土崎港の菩提寺西船寺にて慰霊祭とホテル大和にて東海林太郎祭を開催し、実行委員会を設けることになる。
 夕方、象潟町。昭福丸船長・斎藤敬一郎氏の漁師小屋にて、斎藤平実氏を偲ぶ会。
 大漁旗を持って鳥海山にブナを植えている漁師の斎藤、ブナの会の須田、商工会の倉町、役場の斎藤、細谷の5氏と多献。昔の漁師の聞き書きをやることとし、今年の聞き書き実践講座を象潟で開く。
 29日(日)秋田市八田のログハウス。バレリーナの豊島季里子さん宅へ。舛谷政雄氏。・カナダ日系2世で日本語が駄目なヒロ君と。ヒロ君のカナダでの剣道の恩師で秋田出身の鎌田先生を捜す約束。