ふるさと呑風便   2004.2    NO 179
  
   公会堂と記念館

 千秋公園入口。国民的歌手・東海林太郎の胸像が見守る。胸像の上には昔、記念館があった。もっと昔には公会堂もあった。ルネサンス風の美しい建物だった。
 この公会堂の建設を発案されたのが明治33年。武田千代三郎という文化知事と県民に愛された方。文化の殿堂として明治の開化思想を現す豪華な建築だった。武田知事はその完成を見ることなく、山口県知事に発令される。
 送別会が文化知事らしい。

 武田知事は料亭で開催との県民有志から申し出に手をふり、「県会議事堂で音楽会を催させてほしい」と希望を述べ、当日、送別会場では正面に赤い幕を張り、それに送別と白い文字を浮かし、窓辺には色とりどりの造花が飾られた。式は、「金剛も磨かずば・・・」を合唱し、終わってからピアノとバイオリンの合奏が流れた。酒は一切なかったし、美辞麗句による送別の演説もなかったが、送る人と送られる人の、心と心が温かくさわやかに触れ合った。
 公会堂は大正天皇御成婚御慶事記念として、県議会に総工費5万円の公会堂建築案が提出された。二階建て洋館で、内外部の装飾は仏国ルイ16世式を採用する、という設計が当時の県会議員をびっくりさせたが、これは満場一致で可決されている。
 公会堂開堂式は明治37年11月3日に、天皇の佳節の日に行われた。武田前知事はこの開堂式に招待され、次のような祝辞を述べている。
「曽(かつ)て在任の日設計したる本会堂は県民の尽瘁(じんすい)によりて落成を告くるに至りたるは、予の最も欣喜に堪へさる所なり」       (秋田魁新報)
 優美な公会堂は残念ながら、短命だった。大正7年4月29日に炎上。隣り合って県記念館が完成に向かって槌音が響かせていた。
 記念館は大正天皇御即位記念会館として大正4年10月に着工。設計は日本銀行本店や赤レンガの東京駅を設計した明治洋風建築の権威・辰野金吾博士。同7年に完成。
 残念ながら記念館も昭和35年6月に老巧化したと解体されてしまった。

 記念館にはかすかな記憶がある。昭和30年代、小学生の頃。記念館の中を歩き、ギシギシ鳴ったのを覚えている。
 絵の記憶もある。10年程前、アトリオンでの威知義曜展。 水色の美しい木造建築の絵を鮮明に覚えている。記念館だった。この春に、その絵と再会できたのである。
 元青年会館理事長をされた田口勇先生に電話。記念館の話を伺うと、何と威知先生から絵を預かっているとおっしゃる。送られてきた。小包を開けると、額に入った水彩画。 確かにあの水色の美しい記念館の絵だった。かって見た、ルーブル美術館の「モナリザ」より感動を覚えた。 
 田口先生は威知先生宅を訪ね、私が記念館の話を聞きに来ると話してくださった。  
 2月7日の午前十時。秋田市手形の威知先生宅を訪ねる。 大正元年生まれの92歳。ご夫婦で温かく迎えて頂いた。 記念館の話を伺うと、公会堂と一緒の絵があると見せて頂く。ん?。二つの美しい建物は位置が逆になっている。
 威知先生。もう一度、描いてみると約束された。
 秋田県の文化の殿堂であった二つの典雅な建物が近く、絵筆で再建される。
 ふるさと塾地域づくり実践ゼミ

★ 平成15年2月28日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「東海林太郎物語」(1)
★ 宮越郷平氏(作家)

 私は東海林太郎といえば、秋田中学の先輩でいつも直立不動で装う大歌手というくらいしか知りませんでした。
 そしたら何年か前、テレビの「知ってるつもり」という番組で東海林太郎を取り上げていたのを視て、その非常に波乱に富んだ生涯を題材にして、小説を書いてみたいなと、思いました。
 ただ当時、東海林太郎のことは全くわかりません。そしたら、東京に中村邦雄さんという方がおられて、この方は東海林太郎歌謡芸術保存会の会長さんで、日本福祉大学の事務長さんをなさった方ですが、東海林太郎後援会の初代会長がお父さんだった。その後を引き継いで中村邦雄さんも会長を戦後ずっとやっておられた。
 後援会を東海林太郎歌謡芸術保存会として改称し、今でも全国にたくさんの会員がおります。非常に立派な機関誌も発行しております。
 その中村会長が、東海林太郎に関しては一番詳しい方です。東海林太郎が出したレコードも一枚残らずお持ちです。
 東海林太郎の、色々な遺品も中村さんのところにはいっぱいあります。そこへいけば東海林太郎についてはほとんど分かるということです。東京の町田市に住んでおられます。
 何回かお訪ねし、小説の材料を得るために、お聞きしているうちに、だんだん詳しく分かってきた訳です。
 そんな時に丁度、魁新報社から話があって、さきがけブックスに東海林太郎を書くことになりました。
 これがそうですが、完売されて今書店にはありません。
 中村さんからお聞きしたものをまとめたのが、この「不滅のアリア東海林太郎」です。
 そしてそれを材料にして書いたのが「冬の航跡」という小説です。
 幸いにこれがさきがけ文学賞に入りまして、後に第二部、三部を書き加えて一冊にして、さきがけから出たわけです。
 
 それでは私のわかる範囲で東海林太郎についてお話ししたいと思います。 前半で東海林太郎の生涯、後半ではそれがどういうふうに小説にしていったのかということを若干、お話してみたいと思います。
 東海林太郎は、明治31年12月11日に秋田市台所町、榮太楼旅館の前を公園の方に入った所で生まれました。お父さんはお婿さんでした。
 お母さんはイチといいまして、小学校の先生をやっていた方です。
 お父さんは大象といって県庁に勤めておりました。兄弟は5人おります。 男が四人、女が一人。一番わかりいいんです。太郎、次郎、三郎、四郎なんです。妹が一人であと、お祖母さんがおりました。 
 明治41年、小学校4年の時にお父さんが県庁で上司とトラブルがあって辞めてしまいまして、満鉄に入ります。 秋田の実家にお祖母さんと太郎と次郎の三人を残して大連にいってしまいます。ですから、東海林太郎は小学校4年生から両親と別れて、おばあちゃんに育てられます。
 書いたものを見ますと、非常に寂しかったようで、裏の公園に上って、松の木に登っては歌を歌っていた。青葉の笛という歌をよく歌ったようです。 その頃は男鹿半島の海も見え、その向こうには大連があって、親があそこにいるんだなと思いながらよく歌ったものだと回想しております。
 明治44年に秋田中学に入ります。秋田中学では、体操部なんです。鉄棒の名手でした。後で自慢しては、「俺は鉄棒の上を足駄をはいて歩けた」といってます。体操部に入ってすぐ大車輪なども出来たようで、走るのも速く、ともかくスポーツマンだったようです。
 ところが、友達がバイオリンを持っていた。たまたまそのバイオリンを借りた訳です。そして独学でバイオリンを勉強した。そしたらそれがめきめきと上達して、バイオリンの名手になってしまうんです。そこでどうしてもバイオリンが欲しくなって、大連にいる父親にバイオリンを買って送ってくれないかとねだる。
 そしたらある時、東京の三越から長い小包が届いた。それはもうバイオリンが来たというので、喜んで開けてみたら、バイオリンではなくて、空気銃だったんです。手紙には、お前は身体も丈夫なほうではないし、軟弱なそんなものをやるよりも空気銃を持って、山野を跋渉しろ、身体を鍛えろと手紙が添えてあったそうです。(笑い)

 東海林太郎が秋田中学でバイオリンの名手と言われていた頃、成田為三が秋田師範学校に入っています。為三は秋田師範でピアノの名手で有名だったんです。そして、秋田高等女学校には庄司久子というソプラノの名手がいました。
 同時代に秋田中学のバイオリンの東海林、師範はピアノの成田、秋田高女のソプラノの久子が有名だったんです。 これが後でからんできます。
 東海林太郎は友達から借りたバイオリンが上手になって、何としても東京音楽学校に入りたいと思うようになってきました。ただ、父親にそんな事をいったら怒られます。そこで大連の父親に黙って東京音楽学校の器楽科を受けます。それで合格する訳です。合格したらさすがに親だって賛成するだろうと思っていましたが、親からの手紙は絶対まかりならんと、音楽なんて河原乞食の真似をしてはいけない。どうしても音楽をやるんだったら、五本の指を一本切っても反対するといい、これは五人兄弟の一人を勘当してもという意味です。 
 それで非常に悩むんですね。最後は諦めて、早稲田大学に行こうと浪人して、その頃、秋田と東京を何度か往復している間に成田為三と会うんです。
 成田為三はその頃、東京音楽学校の学生で、遊びに来いといわれます。
 為三は東京音楽学校に通いながら、山田耕筰の師範代をしていました。山田耕筰の代わりに弟子にピアノや声楽を教えていたんです。そこで山田耕筰の家にもしょっちゅう出入りしていたんですね。遊びに来いというので、東海林太郎は遊びにいって、歌が好きだったので、成田為三の伴奏で歌ったら、為三がびっくりしてしまった。
 これはお前、早稲田なんか止めて、もう一度東京音楽学校に声楽で受けてみろ、大丈夫だ、もしなんだったら山田耕筰先生に話してもいいとまでいわれるんですね。
 ところが太郎としては、父親の反対で、早稲田に決めたというのに、又、音楽学校という訳にはいかない。
 そこで口では言えないものだから、手紙に書いて持っていくんです。
 為三は火鉢に股あぶりしながら、断りの手紙を読んで、手紙を火鉢で燃やしてしまったというんです。それ以来、為三とは会ってないようです。
 このことは成田為三が亡くなってから、太郎が書いています。
 そこを膨らませて書いたのが小説なんですがね。(これは後で・・・)
 
 それで東海林太郎は一浪して大正六年に早稲田の商学部予科に入り、九年に商学部に入学します。
 商学部の同級生に皆さんご存知のTDKをつくった斎藤憲三がいます。
 その他に浅沼稲次郎、河野一郎、平野力三の、後の代議士、ほかにも雪印の社長になる瀬尾俊三というそうそうたる商学部の同級生がおります。
 その中で特に親しかったのは斎藤憲三と瀬尾俊三でした。
 
 商学部に佐野学という満鉄を辞めて教えている講師がいて、太郎も講義を受けるんです。佐野学という人は非常にダンディな人だったようで、冬の寒い時期なんか、授業の時でも、濃紺のコートを着て、赤いマフラーをして講義をする少壮の左翼学者だった訳です。
 そこで佐野学に傾倒していくんですね。そして佐野に可愛がられます。
 大正12年に学部を終えて、学者になりたいと研究科、今の大学院に進みます。
 その前に、秋田高女で声楽で有名だった庄司久子が東京音楽学校の声楽科に入っていました。
 成田為三に久子を紹介されて、学生時代から交際があったんです。それが深くなって大学院に入った大正12年に久子と学生結婚します。
 東海林と庄司が結婚したわけです。久子は東京音楽学校を卒業して、日本女子音楽学校の先生になっています。 太郎は佐野学の研究室に出入りしていて、ある時、佐野学がドイツに留学することになって、一人助手が必要だということで、東海林太郎にドイツに一緒に行ってくれないかといわれます。太郎は妻もいるからと断ると一緒に行って、ドイツで声楽を勉強したらいいじゃないかとすすめられ、太郎も乗り気になった。 
 ところがだんだんと佐野学が研究室に顔を見せなくなるんです。そしてぴたっと姿を見せなくなった。どうしてかというと、佐野学は第一次共産党の結成に参画していました。第二次にも佐野学は主要なメンバーとして参画していたんですね。そして官憲に追われるようになっていました。
 佐野が研究室に姿を見せなくなったというのはモスクワに亡命してしまったんです。そのためにドイツへ一緒に留学の話はおじゃんになってしまったんです。それで東海林太郎はがっかりしまして、学問を続ける意欲を失います。それで大学院も辞めてしまいます。

 大正12年8月に自分も満鉄に入るんです。父親も満鉄にいますが、大学を辞めて妻の久子と一緒に大連に行きます。大正12年9月に関東大震災です。東京の谷中にそのまま住んでいたらどうなったかわかりません。
 満鉄に入ってエリートの集まる調査課というところにいて、テーマを与えられて論文を書きます。「満州における産業組合のあり方」という論文を上司に出したら、大変に怒られてしまいます。というのは佐野学の影響があるものですから、非常に左翼的だったんです。この論文は、アメリカで最近、発見されております。
 それで上司に睨まれてしまうんです。
 その頃、奥さんは大連で子供達にピアノや声楽を教えていました。そういう時に渡辺シズという人が久子のことを聞いて訪ねてきます。彼女は東京音楽学校のバイオリン科を出た人です。 先輩の久子が妊娠していたものですから、久子の音楽教室を手伝います。奥さんの代わりにピアノを見てやったりします。専門がバイオリンです。東海林太郎もバイオリンで東京音楽学校に入りたいと思っていました。話が合ってしまうんですね。それでだんだん深くなってしまいます。
 それが奥さんにも知られまして、大正14年に久子は長男だけを連れて東京に帰ってしまいます。
 ところがその時に、東海林太郎にはいってないのですが、二人目の子供がお腹に入っていました。
 東海林太郎はそんな時、上司からは睨まれる、奥さんには帰られるといった訳で、非常に荒れた生活を送っています。そして昭和に入って満鉄の本社から左遷されるんです。鉄嶺という小さな町の満鉄の機関区のような所の図書館長ということでやらされますが、館長といっても小使いさん一人です。

 この時代は酒に溺れて、軍人と喧嘩したり荒れていました。そんな時にやはり頭をもたげていたのは、声楽をやりたい。かって成田為三にも認められている。それを認めたのが渡辺シズです。太郎はだんだんと歌手への道、それもクラシックの歌手になりたいとの気持ちが強くなってきます。
 満鉄にいてもラチがあかないと、昭和5年に満鉄を退社します。そして、東京に渡辺シズと弟の三郎と一緒に引き上げます。
 太郎も次郎も四郎もみんな早稲田なんですが、三郎だけは耳が悪かったので大学に行ってない。手に職をつけるということで中華料理の勉強をしていたんですね。
 太郎が東京に帰るというので、一緒に帰って早稲田大学の前に「東瀛閣(とうえいかく)」という中華料理店を開かせます。
 そして自分は歌手の勉強をはじめるんですね。ところが三郎にやらせた東瀛閣は見事に失敗するんです。退職金をみんなつぎ込んで店を出させたんですが、東海林太郎は人がいいもんですから、友達だとか後輩に飲ませ食わせして、お金をとらないんですね。これでは商売になりません。斎藤憲三もよく来たようですよ。弟の三郎がこれでは店はなりたたないというと、いや、今種をまいておけば、必ずその人たちが友達を連れてくるといいますが、結局つぶれてしまいます。

 そんな苦しい生活の中でもクラシックの勉強を続けていたんですけれども、時事新報という新聞を見ましたら音楽コンクールがでていたんですね。
 それで応募してみようということで、後に毎日音楽コンクールにかわった権威のあるコンクールなんです。それに応募して、見事に入賞するんです。
 昭和8年でした。これで入賞したから今度はいいだろうと思っていましたが、クラシックではそれですぐ声がかかるというものではないんですね。
 それでアルバイトでバックコーラスをやったりしているうちに、暮れも押し詰まった12月28日。
 ポリドールレコードの辻所長がちょっと来てくれと呼び出されます。辻所長は東海林太郎にこれを歌ってくれないかと、映画の主題歌なんだけどと楽譜を見たら、題が「赤城の子守唄」とあった。(つづく)
  呑 風 日 誌 抄
1月1日(木)元旦、好天。朝、家族で千秋公園の彌高神社へ。大行列で後にして、彌高泉神社へ北島昭宮司と。歳旦祭。秋田市新屋の日吉神社へ、柴犬の花太郎も連れて初詣。
 2日(金)家族で彌高神社初詣。グランマート泉店で犬の餌の初買。書き残した年賀状に添え書きして、近くの郵便ポストに賀状を持って犬と散歩がてらに数回往復。
 3日(土)何故か吉永小百合さんから年賀状入りのカレンダーが送られてきた。カレンダーは毎年、彼女に秋田米を送っている若美町の吉田典雄さんへ渡すことになっている。千秋の鐘を撞いている吉敷ひろみさんが登場するNHKテレビ「私も輝きたい」を観る。全国に感動を広げた。
 5日(月)朝、娘を秋田駅に送り。御用始め。吉田典雄氏へ小百合さんのカレンダーを渡す。夕方、今年第一回の新年会。山王・橙屋。ツバサ広業の舛谷政雄氏。煙火打上従事者の鈴木務氏、アキラ製作所の林勇一氏と。何故か菜の花の話となって、秋田から千葉県まで菜の花街道で繋げることにする。東日本菜の花連合を結成し、寺内の草生津川の土手三百bに子ども達と菜の花を植えた鈴木氏が会長に就任。又、会を作ってしまう。
 7日(水)秋田駅前人情酒場・久保田。小坂町の金属鉱業事業団の細井義孝氏、北嶋昭宮司、高橋勘左エ門氏、田中玲子先生。保育園の園長になったとのことで一献。二次会が駅前ラーメン。旨い。
 9日(金)尊敬する田口勇先生から、記念館の水彩画が送られてきた。確かに昔、アトリオンの個展でみた美しい水色の記念館の絵だった。威知義曜(たけちよしてる)画伯の絵だった。感激。
 10日(土)秋田県公文書館。記念館の設計図を見て、写真に撮る。大正7年に消失した公会堂とつながっている記念館の青写真があった。大正3年から7年までの資料が残っている。当時の知事が樋口一葉の婚約者だった坂本三郎。ホームページにー昔、秋田にもこんなに美しい建物が残っていたーを作成。徐々に増やしていく。
 11日(日)女房と駅前に買い物。イトーヨーカドーで保健所の大先輩・今野等さんとばったり。何故か「立ってくださいじゃあ」と激励されて嬉しく思う。午後、秋田ビューホテル。ふじ保育園の園長さんになった田中玲子先生の「運動と栄養を語る会」へ。信望の厚い本山物産の本山秀昭社長や秋田ペルー協会の役員の方々と同テーブル。記念館の話をし、秋田北高のあげまき会のりこ会長にも話し、再建の話に同調を得る。
 14日(水)秋田・平安閣。秋田青年会議所新年会。快男児で同学の松村譲裕氏が新理事長に。人間力増進に応援すべし。
 16日(金)イヤタカ。教会にて11弦ギターの辻幹雄コンサートへ女房と。翌日、湯沢市でもコンサート開催の予定ができず、辻さんへお詫び。何時か、湯沢市か横手市でコンサート開催の約束。
 17日(土)大館市・秋北ホテル。敬愛する石田病院の石田眞先生の叙勲祝い。大盛況。
 秋田市・国際交流会館へ。中国留学生新年会へ。留学生のお父さん・佐藤孝之助さんに誘われ、床下正宗を持参し、水餃子のご馳走。
 18日(日)秋田ビューホテル。ミセスNOPの小西とも子さんから招待状を頂き、秋田ユネスコ協会新年会へ。バングラデシュの留学生、田口勇先生、小玉正一大先輩とお会いできた。
 21日(水)イヤタカ。県庁大内会。二次会はいつものスタッフと人情酒場久保田へ。
 22日(木)イヤタカ。秋田稲門会新年会。小林忠雄・佐藤祐司両先輩の叙勲祝いを兼ねて、幹事長として最初の司会役。二次会は今日も久保田です。
 23日(金)ふるさと塾。講師は男鹿水族館の深谷政光社長の「私の歩いた道」国土計画で全国のスキー場開発、国体やスキーのワールドカップを足で歩いてを手がけてこられた。謙虚さを絵に描いたような先輩。水族館経営もサービスの徹底という言葉に感服。
 階下のレディにて二次会。
 24日(土)本荘市・アイリス。本荘高校同窓会・新年祝賀会へ。諸先輩、58期卒同期の面々と久しぶり。特に女性達。
 25日(日)小林孝哉先生、ニュータケヤの武藤攻一社長と東能代の機織会館。楽生会(山谷銀二郎会長)で講演。「青春 旅 故郷づくり」花と緑の農芸財団の元理事長故土井脩司氏の話をする。
 26日(月)榮太楼旅館。秋田コリア地域交流研究会で韓国外国語大学校の゙圭哲助教授の歓迎会。役員8人が集まってくれた。二次会を川反。゙先生を研究会の顧問にお願い。
 28日(水)金浦町・白瀬南極探検隊記念館にて、雄物川の佐々木太郎氏、ケーシーランキン氏と落ち合い、渡部幸徳さんから象潟町の食堂「その」でラーメン。エニワンにてケーシーの白瀬南極探検慰霊碑再興チャリティライブ。男鹿からやってきたなまはげ郷神楽の小林義隆君と三人で金浦温泉。 ケーシーと珍しく12時前に寝る。
 29日(木)ケーシーファンになった佐藤チエ子さんがおみやげ持って宿に来てくれた。四人一緒に、西目町の石の勘左エ門に寄り、本荘市の清吉ラーメン。5つ星だ。 
 ケーシーを雄勝町院内の小町共和国首相官邸に案内。佐藤芳嗣総理から稲住温泉を案内してもらう。 
 戦時中、武者小路実篤が疎開していた温泉。女将から絵や画帖を見せて貰う。有名な「仲よき事は美しき哉」もある。何と吉永小百合さんのサインもあった。女将さんのゆったりとした「また、来てたんせ」の言葉が心に残る。