ふるさと呑風便                  NO,188   04.12

    柿の木坂

 東京・柿の木坂。急な坂だった。東横線都立大学駅から東に歩いて数分、坂道の途中から右に降りた所に古ぼけた大きな下宿屋があった。2階6畳間が慶大4年生の吉本槇夫さんの部屋である。
 昭和41年の秋だった。
 慶応ボーイらしくない風貌の吉本さんはラテンアメリカ研究会の会長。この夏に、キューバに招待され1ヶ月前に帰ってきたばかり。
「北ベトナムから来た少女のような兵士がキューバに招待されていてね、アメリカの空軍機を打ち落としたといって英雄扱いだったな。イタリアから来た学生は世界文化の中心だといってて、キザな奴だったが、よく女にもてたなあ」
 私は吉本さんのスケールの大きさに感心しながら、キューバに行って世界の若者と会ってみたいという想いにかられた。
 吉本さんの故郷は福井県武生という。「たけふ」という町をこの時始めて聞いた。ふるさと自慢をされ、一度行ってみたいと答えた。

 昭和42年夏、キューバに行って東南アジアの農業開発を夢見た。大型特殊免許を取るため、小松製作所に勤めていた吉本さんに相談。 取引先の千葉の建設会社社員扱いで、小松製作所枚方工場のブルドーザー教習所に入所の手続きを取ってくれたのである。 
 大阪に発つ前日。吉本さんは、行きの電車賃しかない私に餞別をくれた。胸に熱く染み入るほど有り難かった
 一ヶ月の教習で大型特殊免許を取ったが、休日に京都で飲んでしまった。吉本さんからの餞別を使い果たし、教習所で知り合った友人が働く神戸・松村組のお世話になった。二ヶ月間、神戸の須磨区にある高倉山の現場で、ブルドーザーの運転手をして東京に戻った。

 吉本さんはその後、小松製作所を辞められ、かねてから念願だった貿易の仕事でパナマへ渡られた。
 以来30数年、年末のパナマからクリスマスカードとこちらから年賀状での付き合いだった。
 3年ほど前からパナマへ呑風便をメール送信。何度も返信を頂いた。柿の木坂で会った後輩の志ままならずを案じ、この5月に、武生を訪ねるようにとメールがあった。
「小生の友人に三木勅男というのがいます。彼は将来の政治家を目指し東大法科にストレートで入りましたが、途中で気が変わり東大卒業後、旭川医大に行き精神科医になり福井県立病院で医者をしていました。小生の出身地武生市にいる若い人達が旧態依然とした武生市政を革新すべく三木を市長選に担ぎ出し昨年再選を果たし二期目を勤めています。
 潔癖症で清濁併せ呑むことが出来ず政治の世界は務まらないと距離をおいていたのですが、若い人達の自分たちの愛する郷土を変えなければならない、そしてそれをやれるのは三木しかいないと言う情熱には抗し切れず古いしがらみが絡み合った超保守田舎町の市長選挙出馬を決めた訳です。
 個人の冠婚葬祭には一切出席せず、公用車も使わず自転車通勤する変人市長ですが市の職員に日本でも初めて外国人を採用したり,住み易い町造りのための革新的な行政を進め市民の期待に応えています。
 佐々木さんも人一倍の郷土愛と有るべき政治の姿をはっきりと意識した信念をお持ちですから、ここは一旦引いて"時”を待つと言うことも悪くないのではないでしょうか」

 武生市役所市長室。11月4日。
 三木勅男(ときお)市長が笑顔で迎えてくれた。吉本さんの従弟城戸茂夫市議も待っておられた。 城戸さんが開口一番。
「私に見覚えがないですか、柿の木坂の吉本の下宿で会ったことがありますよ」
 そうだった。懐かしかった。
 三木市長には、市長出馬のことを訊ねた。
 「城戸くん達、若い人達に担がれてしまったんですよ」
 
 パナマの吉本先輩。素晴らしい御方を紹介して頂きました。
 小生未だ、柿の木坂で出会って以来、数々の恩義に報いておらず。
 熱く御礼申し上げます。
   ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成16年4月23日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「食のまちづくり」
★ 赤沼秀夫氏
  (フードプロデューサー)

 おばんです。赤沼と申します。フードプロデューサーというのは聞いたことがないと思います。
 フードコーディネーターというのは聞いたことがあると思いますが、フードコーディネーターの先を行く、さらに統括するという感じで、最近、フードプロデューサーを名乗る方が増えてきましたが、私はその言葉がなくとも最初からプロデューサーだと名乗ってやってきました。 5年前、オフクロの介護ということで秋田に帰ってきました。当初、介護で明け暮れまして仕事は何もなかった。
 ただ、向こうで独立した段階で飲食業の開業指導とか、食の商品開発とか、スーパーにおける従業員教育とか、そういうことで独立していましたので、オフクロが亡くなってしまい、それを機に秋田に根を張りたいなと思いまして、料理教室を細々と仕事を受けております。
 食にデザインありということで、秋田デザインネットワークにも所属しました。
 各地でデザイン協会の名称が主流ですが、秋田の場合は異業種も集まりながら、堅くならないネットワークという名前でやっております。
 公の仕事として、商工会等の依頼であちこち飛んでおります。
 一昨日は湯沢、今日は横手に行ってきまして、ほとんど全県を廻って、食のまちづくりというか、全県の中でスローフォードということが叫ばれていますが、もともと、秋田自体はスローフードだと思っております。
 中央からファーストフードに浸食されまして、本来の秋田そのものの食生活、食事体系が変わってきたなと感じております。大体はほとんど昔から、秋田に限らず日本はスローフードでした。たまたま、イタリアでスローフードという言葉を発したもんですから、それに追随しているという状況があります。
 ただ、スローフードそのものは商売に利用してはいかんとイタリアの総会で決まっていますので、最初の頃に便乗して入ったところは今、ことごとくご免なさいといって謝っております。
 それに代わるものとして地産地消という言葉。これは使ってもよろしいという状況にあります。ただスローフードそのものというか、地産地消や最近は身土不二と土産土法というのを聞いたことがありますか。
 その土地でとれたものをその土地での料理方法で食べているということが風習や民族性にかかわってきます。
 そんな中で、食のまちづくりというだけで、考えるわけにいきません。
 そもそもまちづくりのまちとは、街とも書きます。土が行くと書きますね。ですからまちづくりは土づくりから始めなければなりません。
 そう思って私は、全県を廻ってこのことを説いています。
 別名、食の伝道師というひともいますけれども、そんな格好いいものでなくて、常に土をいじって農家に行って、「かあさん、これ、どうやって作ってるんだしか」と聞きながら、それを知らない人に教えなければいけません。そういう橋渡しの役目をするのがコーディネーターといいいます。それ以上に私はやっていますので、食のプロデューサーと名乗っています。

 秋田に戻ってきてから、デザインネットワークでも大々的なテーマ、「食とデザイン」を頂きながら、デザイナーのヒヨコが一杯いますので、何とかして食を通じたデザインを勉強してもらおうとやっておりました。
 まちづくりの街イコール土が行くとあります。
 スローフードイコールスローライフということでずーっときてますけれども、そういう考えの中で、人間の根元は食にあるといわれています。
 その食自体はファーストフードの為にどんどん浸食されてきた。昔の料理ではない。味も昔の味ではない。そんな状況の中で、本当にこれでいんだろうか。
 私は、料理あるいは商品開発を頼まれて行ってますが、当然、安心、安全、健康というキーワードを持ちながらやっています
。昔は、合成添加物とか保存料がない状態できたはずです。
 食物の保存は永久的とはいきませんが、かなり長期間にわたって長持ちさせてきました。半永久的な保存方法には缶詰とか昔からあった訳です。
 ですが今、缶詰業界はガタガタです。そういう保存方法があったにもかかわらず、色んな冷凍技術、レトルト技術に脅かされながら壊滅状態に近い。
 でも最近、テレビで話題になりましたが、ゴミ屋敷を撤去する番組がありましたね。そのゴミ屋敷の中に、30年も前の缶詰が見つかった。リポーター缶詰をあけてしぶしぶ食べてみたが全然変わってなかった。
 そういう缶詰の保存方法は日本人は大得意でした。その缶詰業界がほとんどダメになったが、それではダメなんです。
 保存も大事ですが、現実に今、生存しているもの、人間も生存し、生かされています。当然、動物や植物も生かされています。その生かされているものの有難味に感謝しながら、人間は動植物の命を頂いている訳です。
 ですから感謝の気持ちと同時に、仏教から入ってきた手を合わせる感謝の気持ちで、いただきまーすといって最初の食事に入っています。
 このいただきますという教育をやってないから食を大事にしていません。
 我々は生かされているということを最初に教えていけば、食に対する、お米にたいする、動物、牛、馬や豚、ニワトリ、そういったものに対する考え方が変わってくるのではないかと思います。
 二年前ですか、十文字町の方の小学校で、ニワトリを育てて食べようとした教師がいて、ニワトリを飼って食べようとしたら県の教育委員会から待ったがかかったという話を聞いたことがあると思います。
 それでいいんでしょうか。
 昔は皆、そういうふうにやってきました。昔がすべて良かったという訳ではありませんが、時代とともにどんどん世の中は変わっています。便利の方がどんどんベクトルが上がると同時に、不便さが逆に格好よくなっている時代と思えればです。
 では、本当の食の根元とは何かと考えながら、あちこちを私は廻っております。

 その食のまちおこしに関するほとんどの資料がありますが、
60数カ所の商工会や商工会議所の主催です。
 例えば、調子商工会議所では、鯖カレイ餃子とかでまちおこしをしようとか、札幌商工会議所では麺ずクラブというものを作って札幌ラーメンを大々的に更に深めていこうというまちづくりを4年前から始めています。
 こういう資料を見てみますと北海道が4件、青森が2件、岩手4件、宮城が2件、山形4件、新潟1件、富山3件、長野6件、
ほとんどの県で食のまちづくりが行われております。
 秋田の場合は残念ながら大館商工会議所が、食の活用による地域振興、まちおこしのタイトルの中で、去年市内の飲食店ガイドを発行しただけで、えっと思いましたね。
 秋田は素晴らしい食材の宝庫だといわれています。その素晴らしい食材を、動植物を含めて何でそれらを使わないのか。
 3年前に私は、秋田ハタハタ一〇〇%塩汁という食品の開発に携わることができました。
 今までの塩汁というのは、アジ、コウナゴ、鰯のたぐいを塩漬けして発酵させたものです。 でも本来、ずーっと遡りますと平安時代頃から、日本海側にハタハタが押し寄せてきてまして、その時には捨てていたということです。だんだん勿体ないということになってハタハタを保存しようとなって考えたのがハタハタの塩漬、塩魚汁だったんです。それがいつの間にか、秋田や土崎、男鹿、二ツ井ぐらいまでの沿岸の番屋で作っていました。醤油の普及からいつの間にか作らなくなったと同時に、ハタハタが捕れなくなって高級魚となってしまいました。
 今、東京の料亭に行きますとぶりこのついたハタハタが二匹で二千三百円だそうです。
 地元秋田でもこの間まで一匹五百円とかしてました。
 それが三年間のハタハタの禁漁でやっと元に戻りつつあります。そこでハタハタだけでしゅっつるを作ってみようとなって、今、非常に脚光を浴びています。
 先ほどスローフードといいましたが、本部イタリアからその塩汁が呼ばれています。イタリアでも魚醤というのがあるのですが、現在はほとんど作られていません。作っているのは鰯だけの魚醤です。ですから、しょっつるが見直しされています。 しょっつるでのまちおこしが出来たらと思います。  
 男鹿では田沢湖のわらび座がホテルをオープンしました。七月には新しい水族館がオープンします。色んな所と絡んで、ドッキングして大々的に構想を打ち上げて発信する。そういうようなところが食材を生かす方法だし、アピールする方法ではないかと思います。
 先般、秋田にイタリアのスローフード協会の副会長が訪ねてきましたが、由利町周辺でしか栽培していない、カナカブといって大根とカブのアイの子のような繊維質が多くて、ほんのり甘い。カブを使ってにぎり寿司を提供したら感激してました。 くくり方でいえば、大館にある絞り大根、辛み大根ですね。
 そういうものがいっぱい、秋田県にはあるんです。そういうものを地元の人が好んで食べていたかというとそうではなかった。料理方法とかが気がつかなかったということもあって、なかなかでてこなかった。
 地産地消、土産土法を生かしながら、食のまちづくりをすすめて行きたいと思っています。
 これと同じようなことを各市町村がやっていくと、本当の食材の宝庫と映っていくはずです。
   呑 風 日 誌 抄
 11月1日(金)秋田キャッスルホテル。秋田市文化功労賞受賞祝賀会。伊東要先生、宮越郷平先生のお祝い。夜9時。榮太楼旅館のロビーで、高山・親方会議へ参加する秋田職人塾一行(工藤幸彦団長)の結団式。樺細工職人の高橋弘さん他十人。十一時前に弘前から大型バスも荷物を積み、無事出発。見送った後、我家に悪質電話。
 3日(水)秋田市・ふきみ会館。第31回明治節。ツバサ広業主催。北海道師友会上田三三男(ささお)会長の講演。「戦犯を志願した男・笹川良一」終わって懇親会。
 4日(木)朝6時。ツバサ広業から九谷焼の里・石川県寺井町へ愛車・花太郎で出発。山形県に入って煙火打上従事者の鈴木務氏と交代。もう一人の同乗者は舛谷政雄さん。 目的地に着いたのが午後六時。秋田市出身の仏師・山田耕健氏の工房にやっかいになる。クワハウス寺井にて一献。料理長が象潟町出身だった。大学クラブの後輩で隣町の小堀酒造店の小堀幸穂氏から電話。山田氏と代わる。
 5日(金)早朝、近くを散歩。九谷焼の里に、平らな森が見えた。古墳だった。午前八時。山田夫婦に見送られ福井県武生市へ。十時着。市役所に車を止め、市内を三人で歩く。いわさきちひろの生まれた家があった。中に入り発見者の元教師の上坂紀夫さんという方から案内される。三木勅男市長は教え子とのこと。「元気なまちづくりのすすめ」という本に登場していた市中央街区の蔵を活用した「蔵の辻」を見学。ギャラリーやブティック、民芸品店、料理店等が落ち着いた風情で並んでいた。 十一時に三木勅男市長と会見。パナマの吉本槇夫さんの従弟城戸茂夫市議も待っておられた。お二人に東海林太郎の酒と湯飲み茶碗を渡す。城戸さん、私に見覚えがありませんかという。柿の木坂の叔父の下宿で会ったことがありますとのこと。そういえば、だった。三木市長ともパナマの吉本さんの話しになってしまった。蕎麦を食べにいきましょうと、市長公用車の乗せられ「かめや」という蕎麦屋に案内される。車中、市長交際費のことを聞くと、「交際費を公開したら議会では使うのが少なすぎるともいわれているんですよ」 蕎麦屋では合併の話。ここでも名称でゴタゴタしている。武生で蕎麦をご馳走になり、福井県境の油坂峠を越え、飛騨高山へは四時到着。みちのく職人街で秋田の職人さん達と再会。泊まりが変更になっていて、彼らと合宿研修ならず、サンメンバーズホテルで同行の3人で乾杯。
 6日(土)いなにわ饂飩職人の佐藤信光氏達と名物の朝市を見物。二カ所あって、宮川沿いの朝市の方が観光客も多い。九時からみちのく職人街で秋田職人の店の手伝い。昼は飛騨ラーメン。町並みを歩く。ローズジャイアントの花が綺麗。 「飛騨高山まつりの森」へ。地中ドームに仏師山田耕健さんの彫刻が施された巨大な5基の平成の祭屋台。圧倒された。
 夕方から高山コンベンションホールにて交流会。全国の職人達、旧知の北海道の職人さん達の姿も。二次会を居酒屋「からくり」にて。実行委員会幹部達が隣席。俳優で今回のゲスト中尾彬氏を囲んで飲んでいたが暗い。明るくしてやろうと石原忠幸事務局長と仁義を切り、秋田職人達と合流して交流酒。
 7日(日)朝、元秋大生・幸村成美都君のおかあさんが高山に住んでいるが会えず、新潟米と秋田のお菓子、拙書をホテルに預けみちのく職人街の店開きの手伝いをして、秋田へ向けて出発。二本の庄川桜と会って、世界遺産・白川郷に寄る。車が渋滞するし、すっかり観光地化されて、つまらない。秋田到着が夜9時だった。
 8日(月)秋田市川反の方が高山より落ち着く。お多福にて共立設計の小畑次郎会長、作家の西木正明さん達と一献。西木さん、歴史上人物の割をくった人間を書きたいといわれている。今、潜行三千里で行方不明となった辻正信の取材で近くラオスへ行くらしい。 二次会で西木氏、カラオケで三橋三智也の「星屑の町」結構上手。
 10日(火)四日市市の主婦伊藤ミイ子さん(稲川町出身)から電話。秋田市に住む父の聞き書きをして本にして欲しいとのこと。第一回秋田聞き書き大賞受賞者の渡部紀代子さんに聞き書きのお願いをする。
 13日(土)ふるさと塾次長の佐々木啓助氏と河辺町岩見ダム奥へ。名水・三内雫をペットボトル数本に汲む。島倉千代子の水を増やす。
 14日(日)イヤタカ。井戸端ゼミナール十周年記念祝賀会へ。記念誌が「ヘバナントシタ」。面白い。40人程の出席で、男はあゆかわのぼる氏、長谷川健悦氏と3人。「産みの兄」としてかんたんに挨拶。感謝状まで頂いてしまった。
 県外出身者の主婦の会の井戸端ゼミナールは地域を新しく変えうる仲間である。
 20日(土)男鹿遊覧船の船長・高桑賢二氏の持ち船「光良丸」を見に秋田港へ。3.5d。沖縄で開発されたハイブリッド媒体装置で精製された植物性油は従来のと違い軽油と重油の代用になる。その実験の事前調査。その油を船に使ってデモを行いたい。
 21日(日)「花庭工房みどり」にて「小林明美さんの出版を祝う会」へ。本の出版経験者として突然の挨拶。本荘市アクアパルへ。金浦町映画祭(石井護委員長)へ。喜劇の監督王「斎藤寅次郎の世界」矢島町出身の斎藤監督は母方土門家の血筋。親戚の映画はみなくてはいけない。(以下次号へ)
 どんぷう後記
 いやはや何とか今年も呑風便を出せました。来年は誤字脱字のない面白情報を心がけてお送りします。年末ご自愛され、皆様、よいお年をお迎えください。