ふるさと呑風便 04.11 NO,187
サクラ、桜
飛騨高山。このまちの名前を聞くとなんだか日本人のふるさと。といった感じを受ける。
匠の町でもある。
秋田音頭に歌われる能代春慶塗は飛騨高山が発祥の地。
飛騨高山行きの目的は、全国職人学会in高山(親方会議)に出展する秋田職人のサクラになること。そして、太平洋と日本海を桜でつないだ、国鉄バスの名物車掌だった佐藤良二さんが植えた桜を見てくることだった。
佐藤良二さんは、昭和2年に岐阜県白鳥町に生まれ、17歳で国鉄バスの車掌となった。
しかし、映画俳優になる夢に破れ、人生に生きる希望を失っていた。
昭和35年。岐阜県を流れる庄川に東洋一のロックフィルダム「御母衣(みぼろ)ダム」が完成。湖底に沈む運命にあった樹齢400年の二本の桜の巨木が二百b上の台地に移植された。
佐藤良二さんはある時、その桜の木にすがりついてる老婆を目撃した。ダムの底に村が沈んで、バラバラになった村人達が二本の荘川桜の花見に集まった時だった。その老婆は桜の幹をなでて、泣きながらいった。
「桜はええなあ。強くて優しくて、人の心を呼ぶんや」
「人様のためになることをせないかん」と父に教えられた良二さんはその光景を見て、ある決心をした。名古屋から金沢まで
「太平洋と日本海を桜で結ぼう」と。
昭和41年春、良二さんはバスの出発点である名古屋の営業所前に一本の桜の苗木を植えた。 以来、昭和52年に四十七歳の若さで亡くなるまで10年間。
2000本の桜道を名古屋から金沢まで繋がれたのだ。
11月1日、夜9時。秋田市の榮太楼旅館にて、高山親方会議秋田職人塾一行の結団式が開かれた。3日から7日まで飛騨高山市で開かれる「みちのく職人街」への出展者達である。
集まった職人は、団長の工藤幸彦氏(染師)。4年前の秋田市で開催した全国職人学会in秋田の実行委員長。そして能代市桶樽職人の孫、戎屋鉱希氏。能代春慶塗の古里飛騨高山に里帰りさせたかったが叶わず、春慶塗の作品3点を持参。
それに秋田市のかんざし職人の阿部康昭氏。彫金作家で大森山のキリン象を作った佐々木勇氏。樺細工の高橋弘氏、 漆芸工房の齋藤國男氏、陶芸秋田焼の三浦ユリ子さん。御殿まり・本荘市工芸組合長の阿部登志子さん。 秋田市・アート工房Rumiの齋藤るみさん。そして川連漆器の山田栄一さんご夫婦。稲庭うどん職人の佐藤信光氏は4日から現地参加の予定。親方会議のテーマは技の競演にあり、秋田職人の技と誇りを示して頂きたいと願う。
夜十一時。弘前から青森の職人を乗せたバスに一行は乗り込む。サクラ役の私は4日から参加すると約束して、見送った。
愛車・花太郎で油坂を越え、飛騨高山に着いたのは、4日の午後4時。宮川沿いの朝市の終点にある駐車場が「みちのく職人街」となっていた。秋田の職人達はそれぞれのブースで実演、展示をしていた。「みんな仲良く元気にやってますよ」と、工藤幸彦団長の笑顔に会う。
翌朝から、展示のみの大館曲げわっぱのブースに入って宣伝。 同行の花火師・鈴木務氏とツバサ広業の舛谷政雄社長も手伝ってくれた。昼は飛騨ラーメン。 高山の町並みを歩く。特設の京都職人街を覗く。サクラ役の私は大して役立てなかったが、かんざし職人の阿部ちゃんは家紋入りの簪の注文がとれた。
帰り道の沿道。佐藤良二さんが植えた桜並木を発見。そしてダム湖の高台に立つ二本の荘川桜。良二さんの心を呼んだ桜、強くて優しい秋の桜に会えた。
ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成15年5月23日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「秋田の観光と男鹿半島」2
★ 山本次夫氏(雄山閣社長)
ユリ科のいじょうろは今、ちょうど旬です。これを堀りにいって、お客様に出しています。いじょろ羊羹も作っています。
それからもう一品はあんぷら餅。あんぷらというのは、オランダ語なんです。
畑のリンゴという意味です。
馬鈴薯、皆さんはジャガイモといってるでしょう。これを私がお客様に出しています。
やはり旅館というのは、よその旅館と同じ事をやっているのではとても対抗できないということです。独自のもので、食にこだわるもので行かなければなりません。生き残れません。
古代米も出しています。私の旅館に来て頂ければ他で食べたことのないものを食べられます。
もう一つは菅江真澄が、文化8年の正月に宮沢の畠山という家で食べた料理を再現しています。7品、真澄が正月料理を食べています。それを克明に書いています。一つはうちまめとワラビ、うちまめとは最初わからない。聖霊短大の菊地先生に尋ねたら、教えてくれました。
昔の豆を石臼できなこにして、それを練って固めて、あみわたしに切って焼いて食べたものです。わらびはわかりますね。
後はハタハタ、いわし、かんなぎという魚、イトヨです。フナの寿司、小エビ、それからあえ物、これはバッケ、フキノトウだと教わりました。それを私が復元しています。この7品を出して頑張っています。
それが男鹿だけでなく、秋田県につながっていくと考えます。
男鹿の観光は200万という時代が長く続きました。十年ほど前です。宿泊客が30万から40万でした。今はどうですか、20万を切ってます。男鹿の観光は大変なんです。
これは男鹿だけでなく、秋田県全体の問題なんです。もう一つ私たちが苦労しているのは低価格時代です。これに対応できない旅館は容易でありません。それに耐えれるような体力をつけていかなければなりません。 それは板前の腕一つです。聡工夫です。お客様はその土地の匂いのあるものを食べたいのです。それが真澄の食べた正月料理。このように実践しています。
我々が男鹿全体で反省しなければいけないことがないか。接客態度、料理、接客係、これには非常に神経を使っています。
来年は水族館が出来ます。これは男鹿の最後の起爆剤と考えています。
それもそうですが、お客様が何を求めているか。山ほどあると思います。
やはり、男鹿市民、秋田県民が同じ気持ちにならなければいけません。地域がよくなれば旅館も良くなります。
旅館も良くなれば地域もよくなります。そういう相互の関係があります。
それから、秋田市の方々に安藤氏のことを掘り起こして頂きたい。私は真澄のことで一生懸命やってますが、やはり秋田市は安東氏です。
佐竹さんの四百年入部をやってますが、その前の殿様、安東氏を思い出してほしいんです。
秋田の経済発展の基礎を築いてくれた大豪族安東氏です。
私は堂らん伽藍が48カ寺もあるといいましたが、これは安東があってからなんです。これは事実です。これからの秋田県は安東の話をしていかなければいけないと思います。
私はそろそろ真澄をやめて安東にかかろうと思っています。
今どうしてもやりたいことがあります。能代から男鹿に入ってくる道路を整備してもらって能代の先、世界遺産の白神山地のお客さんとの交流です。
男鹿市の人口は3万人を切っ てしまいました。どうするか。それは交流人口を増やすということです。白神に来る人、そこからの交通のアクセスをどうしたらいいのか。それは男鹿温泉から八郎潟駅、東能代駅までは相乗りタクシーでやっています。
そして、白神へ行って、深浦へ行って、逆にこっちにも引っ張ってくる。それはバスです。
これは今もやっています。
もう一つは秋田空港から秋田駅東口を通ってのエアポートラインです。こうやってアクセス問題ですが、3次アクセス。門前へ行って、真山神社をみたくても見れません。どうしてもタクシーが車でないといけません。船ではいいんですが、それも考えております。
そうやってお客様を呼んで、観光産業、農業も漁業も林業も全部がっくるめての観光産業をすすめていかなければなりません。農業、漁業を足しても30億、観光は80億から100億です。この数字を見てもすぐわかるでしょう。いかに観光産業が大切か。国もようやく、大きな話ですが、小泉総理もこれからは観光だといってます。なぜかというと、日本人が外国へ一七〇〇万人ほど行ってますよ。向こうから何人来ていますか。5〇〇万人ほどです。
可笑しすべ。とうとう小泉内閣も観光だと打ち上げました。
私はこれからは精神観光だといっています。絶対そうなると思います。人々の心は。
やはり有難い神様、或いはお寺、そういう精神観光というものが植え付けられていくと思います。宗教観光というより精神観光といえると思います。
この言葉が流行るかはわかりませんが、そういう気分でいくのではないかと思います。
実は今、サーズの問題で毎日県庁です。毎日、新聞社に追いかけられています。毎日のように総会、支部の総会へ行かなければなりません。秋田支部、象潟支部、毎日です。勉強する暇がありませんでした。
二一世紀の花形産業は観光ですよ。ね。米もだめでしょう。漁業だって二〇〇海里に始まって。私がしゃべるのは、男鹿の駅に客が降りるでしょ。まずジュース買うか、タバコを買うか。それから交通機関を利用する。お腹が空けばラーメンを食べます。すべてが観光に繋がっているんです。だから交流人口なんです。お客さんから一人でも二人でもおカネを落としてもらわなければいけません。
タバコを買えば男鹿市にタバコ税が入ります。ラーメンを食べれば食堂におカネが入ります。タクシーに乗れば運転手もいいです。車が走ればガソリンスタンドもいいすべ。全部関連します。これをもっと皆さんから気づいてもらいたいんです。
男鹿のこれからは観光しかないと行政に人にも訴えています。
男鹿温泉はようやく環境整備に取りかかります。1060万の予算で、グランドホテルまで遊歩道を造ります。それから今流行っている足湯、これは必ず実現します。こうやって男鹿温泉を元気づけて、活性化しなければなりませんね。
それには秋田市の方々にもうちょっと男鹿に意見をだしてもらいたいと思いますね。そして利用してもらいたいと思います。
やはり30万の秋田市が動くと全然違います。交通の便もよくなりました。一時間もかかりません。その為にも従業員一同で命をかけるぐらいで頑張らなければなりません。
今日の話は私が実践してきたことでしたが、自信を持って営業できる、するということです。
それから自分の生まれた所を誇りを持つことが絶対必要です。
これが男鹿に欠けていることではないでしょうか。
これからの男鹿の観光、秋田県観光は、がんばってもらわなければいけません。佐々木さん、本当ですよ。(笑い・拍手)
我青春風来記 (141)
早海三太郎
下井草(11)
学友・栗原秀司と朝方までナポレオンを飲んで解ったこと。良き友とのいい酒は二日酔いしないということだった。
秋。澄み渡った東京の朝。親友の自転車を借り、世田谷の経堂から伊豆半島の南端・下田へ出発。国道一号線を西へ走る。自転車一人旅の計画は最初の泊まりが熱海。池袋での下宿で一緒だった高校生の西宮君の実家が熱海で旅館をやっている。
二日目は熱川にある松村謙三先生の別荘を訪ねて温室にある支那蘭を見せてもらって、下田市須崎の森竹治郎先輩宅に夕方到着の予定。
卒業後の進路が定まらない貧乏学生の三太郎は、悩んだら旅と自転車を選んだ。
温かい森家の家族が待つ下田の海を見たかった。
東京を走る国道一号線は車が多く、排気ガスを大いに吸う。
神奈川県の湘南海岸を走る。お尻が痛くなった。栗原の自転車はサドルが高く、尻の摩擦が多い。三太郎の足が短いからだが、辛抱できなく頃、小田原から箱根の手前を135号線に入った。ここから静岡県だ。
空がだんだん暗くなってくる。ようやく熱海に向かう山道を上がった。自転車を止めて熱海の夜景を眺めた。海岸がキラキラと輝いている。
坂を下って富士屋ホテルの前にお宮の松がある。
西宮君の旅館はホテルの裏手を上った山の手にあった。
西宮旅館。ちょっと瀟洒な造り。玄関先で「お願いしまーす」というと、感じのいいお母さんがでてきて、「お待ちしてました。息子から聞いております」
豪華な夕飯をご馳走になり、二階の階段を上がるのに尻が痛くて、やっとのおもいで部屋にたどり着いた。布団にバタンキュウーだった。
翌朝。アジの干物が旨い。
今日も快晴。太平洋は波静か。
西宮君のお母さんは優しい。
お尻が痛いんでしょうと自転車の腰掛けにと座布団を用意してくれた。お代をお願いしますと聞くと、「息子が御世話になっているんです。結構ですよ」
有り難かった。三太郎のズボンのポケットには三千円たらず。
座布団をサドルに取り付けて出発。ヨイショ。目指すは熱川温泉。さて、坂を上ってトンネルを越えると、錦ヶ浦。自殺の名所だ。予定は未定。寄ってみたくなった。(続く)
呑 風 日 誌 抄
10月1日(金)滝不動産会長室。瀧廣明会長。東海林太郎音楽祭実行委員会顧問のご快諾御礼に。会長室に東海林太郎の菩提寺・西船寺に生まれたチベット学者・多田等観の掛け軸。「粛」とある。
額装の「粛」の文字の粛々と
日々いく度か我の心に 広明
2日(土)ホテル大和。東海林太郎音楽祭記念展示室の準備。
音楽祭会場左横に等身大の肖像画を運び、根本柳月師範から肖像画の前に東海林太郎の愛したリンドウの花を生けて頂く。
夜8時。榮太楼旅館にて東海林太郎の孫・光樹夫妻を迎え、懇親会。北嶋昭宮司、小国輝也社長と。光樹さん50歳。学習院初等科のテニス部監督。東海林太郎神社建立計画にご賛同された。
3日(日)いよいよ東海林太郎音楽祭。光樹夫妻を三十三回忌の西船寺に案内。瀧廣明氏もご出席。
歌ひとすじ生きこし人の眠る墓 多田等観の生れしみ寺に 広明
ホテル大和。前東海林太郎顕彰会の故柳沢会長の遺児からお花が届く。会場舞台の右袖に後で置いた。全体総括。東海林良さんの講演で始まる。三百席にほぼ満員。白根一男ショー。サービス精神満点の白根さん。祝賀会には百人が出席。光樹夫妻にアイキャンの渡辺哲夫社長が作ってくれた東海林太郎の酒と歌詞入りの湯飲み茶碗を贈呈。大変に喜ばれる。二次会は榮太楼旅館で東海林良さん、光樹夫妻達と美酒。セリオン社長の石田俊介さん、北嶋昭宮司と川反まで繰り出す。
5日(火)駅前人情酒場・久保田。東京6大学野球連盟理事会。能代6大学野球連盟との交流試合の打合せ。23日こまち球場にて。監督に明治の石井広氏にお願い。元日ハムエースの工藤幹夫親子にも出場させることになる。
7日(木)岩城町。六百歳野球大会前夜祭。元野球少年の球友達、大先輩達は皆いい顔をされている。
8日(金)午前。秋田銀行本店。榮太楼旅館小国輝也社長、北嶋昭宮司と新開卓頭取と東海林太郎記念館の相談。大橋隆常務も同席。
9日(土)昼。萬帝楼にて「白神の夢」秋田上映会実行委員会。7人出席。来年一月に秋田市文化会館で上映会。県立大学の蒔田明史先生が実行委員長。相談役に私。
10日(土)秋田駅。作詞家の中脇操さんを出迎え。千秋公園前の東海林太郎小公園経由で五城目町の赤倉山荘へ案内。
11日(日)本荘・清吉ソバへ中脇さん達を案内。東京でもこんなに美味しいラーメンはないと絶賛。八郎潟町公民館にて、白根一男・大潟八郎ショーへ。大潟さんはふるさと八郎潟で熱演。中脇操さん作詞の白瀬南極探検隊の歌を熱唱。
12日(火)夜、第一会館。オアシス会(高橋十郎会長)で講演。「異業種交流の活性化のために」AIグループで、河辺町にへそ神社を造った話をする。
14日(木)早朝。ホテル大和。秋田北倫理法人会で講演。「君はふるさとを愛しているか」
午後、秋田市の相場助役に北嶋昭宮司、小国輝也氏と東海林太郎記念館建設の相談。
16日(土)朝、秋田市新屋の葉隠墓苑。むつみ造園土木の庭師の泉田・船木の両氏が立派な梅の木を移植してくれた。武雄議会議長の大坪勇郎氏が記念植樹された梅が枯れた為。大坪さんから佐賀銘酒が送られている。
17日(日)午前10時。佐賀出身の早田画伯夫妻を葉隠墓苑に案内。佐賀藩士慰霊祭。毎年、集まった子供達へ葉隠墓苑物語をするのが私の仕事。午後、秋田日赤病院。グループ森のメンバーと杜づくり。宮下院長も参加。山紅葉、ナナカマド、桂、ハナミズキ、200本ほど植える。秋田市東口アルヴェ。あきたデザインフェスタ。工藤幸彦、森川恒、阿部康昭の三氏と高山親方会議行きの打合せ。夜、川反の焼鳥屋でプラネットフォーまちづくりの佐藤社長、中村取締役、北海道・安田農場の安田伸一代表、国産産直の今村真一社長と一献。
18日(月)安田さん達と大潟村。藤田助役、耕心会の新田会長へ安田さんがダッタンソバの再挑戦に協力を約束。佐藤、中村両氏と能代市へ。十八番ラーメン。柴田助役に循環型社会への取り組みに廃食用油再燃料化装置の奨励。飛騨高山親方会議に能代春慶塗の展示を依頼。快諾。夜、榮太楼旅館ねぶり流しにて本荘市の渡部聖一総合政策課長、プラネットフォーの佐藤、中村氏と一献。
22日(金)ふるさと塾。AIグループ経営実践講座。講師は写真家でもある創和技術の初瀬武美氏。演題が「我が人生、夢を追い、美を伝えん」日本ローラースケート協会も設立。大感服。
23日(土)朝、帰省した息子洋平と鳥海山三合目へ。鳥海山にブナを植える会の十年目の植樹祭。ブナ百本を植え、故井上健吾・へニー夫人の杜として、標柱をたててくれた。鳥海山を愛した元日本銀行秋田支店井上健吾氏の三回忌に多大な寄付をされたニューヨーク在のへニー夫人への感謝の印。
午後、こまち球場。東京6大学能代選抜チームと交流試合。四対三の勝利。最終回に投げて締める。
ユーランドホテルにて授賞式。なぜか最優秀選手に選ばれる。
24日(日)早朝。高橋幸雄氏と日赤入口、中庭に菜の花ゲリラ作戦。家族で十和田湖へ。紅葉が美しい。森吉町の浜辺の歌記念館へ。
26日(火)セレモニー平安・加成義臣氏御母堂リナさんの葬儀。
夜、大昌園にて韓国留学生の歓迎会。NPO「桜槿花」の田口義人代表のご招待。新しい留学生が6人。里親交流をすすめる。
30日(土)鹿角市のストーンサークルにて縄文5本柱建物完成記念対談。富樫泰時先生、高木豊平先生、陶芸家の樽田広衛氏と。仙台屋で交流会。ここにカナダの白オオカミの剥製がある。
31日(日)大内町での元祖とろろ飯大食い大会へ。実家へ息子と墓参り。大森山動物園にキリン像を造ったサム工房の佐々木勇氏に高山の親方会議への出店参加依頼