ふるさと呑風便 NO,186   04.10
   ザ野球

 「たかが選手が」
 東京読売巨人軍の渡辺恒雄オーナーのこの発言がプロ野球騒動を引き起こした。
 この欄で去年、原巨人が二連覇出来なかった原因の一つに、ビジター用ユニフォームをTOKYOからYOMIURIと代えたからだと書いた。
 原辰徳監督の下で常勝巨人軍復活と思い上がったのか、読売新聞社長でもある渡辺恒雄氏は、東京代表の誇りを抱いていた選手やファンの気持を無視して、ユニフォームのマークをYOMIURIと代えさせた。案の定、金満巨人軍は、堀内監督でさえ今年も優勝できなかった。
 誇りある巨人軍選手には、読売の宣伝マンではない、野球少年の憧れだとの矜持がある。

 巨人軍の育ての親は、警察官僚として大正時代の米騒動や学生運動をねじ伏せた正力松太郎氏である。読売新聞社長となり、巨人軍中心のプロ野球を思うがままにした。
 後に衆議院議員となったが、富山の同じ選挙区で、正力・金満政治家は、清貧で反骨政治家として名高い松村憲三先生には一度も勝てなかった。
 富山には、坊主と松村さんの悪口をいうとバチがあたるといわれた程、根強い松村ファンがいたからである。
 渡部オーナーは正力松太郎氏の遺伝子を受け継いだに違いない。その尊大さが、根強い野球ファンに負けた。
 謙虚さと矜持を持つ星野仙一前阪神監督はいっている。
「たかが野球だと言われるかも知れませんが、タイガース優勝が関西の人々に勇気と感動を与えられたとしたら、野球の果たす役割が大きいのかと思います」(NHK人間講座・人を動かす組織を動かす)

 野球少年だった。プロ選手になろうと思っていた。
 小さい頃、春は家の庭や神社の境内で、秋は田んぼで野球ばっかり。小学校4年で一人だけ野球部に選ばれ、教員室前の掲示板に張り出された時は嬉しかった。中学3年生まで野球部。高校では野球部から勧誘されず、音楽をやりたいとブラスバンド部に入り、2年生の時に県大会でのコンクールで優勝した。
 その年、軟式野球部が国体で優勝して、3年になってから軟式野球部に入ろうと決心。昭和38年の春。家からグローブとスパイクを持って帰ろうとしたが、親父と家で飲んでいた中学の校長先生から、ブラスバンド部に残って頑張れと説得されて断念。
 昭和46年、東京から故郷に帰って、野球チーム上川若連中を結成。秋田市内に住む中学野球部OBで結成。ユニフォームは縦縞の阪神と同じだった。
 昭和53年1月。秋田県立球場で世界初の雪上野球を挙行。日本雪上野球連盟を結成し、現在は東由利町で開催。元気の出るまちづくりに一役かっている。 20年ほど前に東京6大学秋田野球連盟を結成し、理事長となる。神宮球場で大分6大学選抜と交流試合を決行し、最終回にマウンドを踏んで三者凡退。
 仙台の稲門野球クラブとの交流試合は一〇年を過ぎた。山形稲門チームも合流し、昨年、東北稲門野球連盟を結成し、副会長に就任。
 五百歳野球の中通クラブに入会して十年。ここ数年は合気道で痛めた膝が完治せず、試合に出れずに、飲み会には参加。
 10月23日、こまち球場で、東京六大学能代選抜と秋田6大学選抜交流試合で最優秀選手賞を受賞。愛用のバットは、クドースポツの工藤幹夫氏(元日ハムエース)から提供のイチロースタイルのバット。会心の当たりでランナーを返す、投げては完封。この快感故に野球は辞められない。野球で得た友情も厚い。
 球友無限。野球はたかがではない、ザ野球様々である。
  ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成15年5月23日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「秋田の観光と男鹿半島」
★ 山本次夫氏(雄山閣社長)

 男鹿温泉で元湯雄山閣という旅館を経営しております山本と申します。秋田ふるさと塾にお招きを受け、有り難うございました。
 私は秋田県の観光といった大げさなことは話せませんので、実際に自分が実践してきたことを申し上げたいと思います。
 私の旅館は昭和40年にオープンしました。38年になります。社長は私の叔父でした。東京におったんですが、秋田と掛け持っていました。昭和47年までやっていて、二代目の社長も叔父でした。私が3代目の社長で、昭和58年からです。社長に就任した時、私なりに勉強し、「男鹿観光の今後のあり方」という事を発表致しました。
 私が勉強したのは菅江真澄のことです。秋田県、男鹿の歴史を探っていきますと、必ず遭遇するのが菅江真澄という人です。この人の書いたものを何回も何回も読みました。
 これを読んでいて私の行き方というのは、菅江真澄を観光に結びつけたいということです。
 全国の旅館ホテル2万5千軒の組織、全旅連主催の旅館の地域づくりといった賞があります。 今年が第六回ですが、私も実践しているところを書いて応募しましたら、優秀賞に選ばれてしまいました。6月3日に宮崎県で全国大会があり、そこで表彰をうけることになりました。
 審査員は立教大学観光学部教授の岡本伸行先生、日経新聞の方、厚生労働省、主婦連合会の方々、十人の審査で決定しました。
 審査基準というのは特性を生かした活動で、1、温泉料理、まちづくり、2、経済の活性化、情報技術、IT、3、歴史文化の振興、イベント、祭り、趣味、4、生活環境の美化、5、スポーツの振興、6、福祉の充実、7、その他、人にやさしい地域づくり、宿づくりといったジャンルで審査されました。
 そこで私の応募した実践報告がすべてに優秀ということで選ばれました。
 
 私は旅館というのは地域の文化館、あるいは歴史館であるという一つの信念を持っています。
 男鹿の観光のことを申し上げますと、私はやはり、男鹿というのは景観が素晴らしいんです。だけども景観だけでは観光地間競争で勝負できません。それはなぜかというと、そこには歴史や文人墨客、あるいは文化、そういうのが男鹿にはあるのにかかわらず、どなたも関心を持たないきらいがありました。
 そこで私がこれだと考えたのが、なまはげで有名な男鹿の真山、本山、真山神社の周辺を観光開発して、お客様から一人でも多く見て頂く。そして案内、説明していくことを始めたのが昭和58年です。
 将来この山に必ず資料館のような物を造ることに努力すると云ってきました。
 男鹿の歴史を探っていきますと、真山、本山は天台宗のメッカとして東北の一大文化の中心地だと訴えて歩いてきました。 鎌倉時代から由緒ある地域なんです。
 県指定文化財の万体仏などは代表的な建造物であります。
 最初は真山神社にあったんですが、今は中間にあります。三回移動してます。北浦にも移りました。
 こういう約二八〇年も前に普明という人が彫って作りました。これにお客さんを案内、説明しますと男鹿にこんな素晴らしい歴史があったのかと御礼の手紙も頂いています。そうしますと勇気づけられるんです。
 地域興しというのは、やはり少しバカにならないといけないと思いますね。
 それから、彼奴は変わり者だと実際、私は言われました。
 私はそれでいいんです。
 勝海舟もいってます。批判は他人、行動は自分。
 これですよ、これ。これを懐にいれて、男鹿観光の宣伝のために七つ道具を持って歩いています。半纏はツバサ広業さんから作ってもらいました(笑い) こうやって人々をご案内しました。これがマスコミに注目され、新聞テレビに登場して、私の名前が広がっていきます。
 そうやっているうちに、菅江真澄が、大滝という滝に文化7年4月12日に訪ねていることを発見しまして、この大滝に人々をご案内できないかと思いまして、作業をしました。大滝そのものは、地元の人はほとんど知らないんです。
 そこに行くには道路もないし、草ぼうぼう。有名な人が来て、歌も詠んでいる大滝を何とかしたいと思い、ほんとは旅館の方にお金をかければいいんですが、そちらの方にお金を使い、道路をつくりました。川がありますから、橋を八カ所架けなければいけません。
 地域の人の協力を得て八カ所に架けました。橋に名前を付けました。最初の橋は宝来橋、二番目が千人橋、三番目が桜の滝或いは、山藤橋と自分で名前を付けてPRしました。
 だんだんとお客さんがそこへ入れるようになりました。
 大滝のことを申し上げますと、菅江真澄が真山から入っています。一句に
 その花のあらばやいかに
八重かすみ旭日かげろう
       虹の滝なみ
 という歌を詠んでいます。  この歌の看板を作って能書きを書いて説明をしました。 
 その花のということはどういうことかというと、昔、善八という人が菅江真澄を、その滝に案内します。そうして一生懸命、滝を説明して、昔そこににあったというその桜をするんです。
 20年前の大水で流れてなくなってしまった。せめてひこばえでもあればということで、その花のあらばやいかに八重かすみ旭日かげろう虹の滝なみと詠んだ訳です。
 私は滝に来られたお客様にこの歌を礼状に書いて送りました。 私のホテルで約1万枚を印刷して御礼状を書きました。これが伝わっていって、今だとJRがそういうことをやっているのかと、宣伝してくださいます。
 そこで青森から静岡までJR東日本の範囲ですが、新幹線に乗るとトランヴェールという本があります。それに大滝が載っています。私も写真入りで載っています。
 県では一施設ではなく男鹿全体で受けるということで次の年から、8軒で菅江真澄ツアーを組んで現在まで至っています。
 菅江真澄が男鹿に来て書いた紀行を積極的に売り出すため、男鹿市が4年前に大滝への道を舗装してくれました。駐車場も作ってくれました。
 最初から行政に頼り切らないで、自らやっていくことがどうしても必要になってきますね。
 
 菅江真澄の話を続けますが、この絵は大桟橋です。天明5年、菅江真澄が吉川五明という方、これは那波家の関係にでてきます。秋田から男鹿に入ってきて今の門前と大桟橋を描いています。
 ですから男鹿の観光の元祖は菅江真澄なんです。
 高桑船長これは、遊覧船ですよ。人が乗ってるでしょ。
 このことに私は気がついたんです。真澄はすでに男鹿の観光は海上からだとこの絵を描いているんです。このことを強調して歩いています。
 八英(やつふさ)の梅というのをご存じですか。男鹿の脇本にあります。これは日本で三本しかない、一本が脇本城、安東氏です。もう一本は新潟県北蒲原郡の小島という村に一本あります。それからもう一本は伊達政宗の瑞巌寺の一本です。
 秋田県男鹿の脇本にもあります。なぜここにあるかというと、安東氏という豪族がおられてそういう木が手に入ったということに
なる訳です。
 これが文化元年に真澄がきて一句歌っています。
 真澄という人は約四千句歌っております。絵は三千六百枚描いています。それが今、重要文化財になっていますよ。皆さん。 ところが柳田国男先生は、真澄の歌をあまり評価してないようですが、真澄という人は歌でも優れた人物といわれております。そこで一句が、一つの花に八つの実がなるということです。 今は脇本になくなって、枯れてしまいました。今、彦映えに実がなったので、近々新聞に出ると思います。
 誰植えて八つの花房はるはさぞ 秋は紅葉の色をみせらん
 すぐでるんですあの人。(笑い)
 
 次にやっているのが、滝の頭の案内。これは男鹿の水源地です。寒風山の麓にあります。
 湧水でいたるところから滝の様に流れ、感動的です。
 ここを観光名所として、秋田市からも多くの方々が来てくれています。
 日本の名水、おいしい水と宣伝しております。
 透き通った綺麗な沼、ここも案内して、大滝、真山神社に入ります。今ご存じの真山神社は前、光飯寺という寺でした。
 東北地方ではお寺が廃寺になって、神社が強くなったという傾向がありました。
 真山の陰が長楽寺。これが天台から真言に代わっていく訳です。鎌倉時代からですから、秋田県で一番古い寺です。そうやって真山神社を中心に、皆さんをご案内して歩いております。
 
 私はそれだけでは物足りない。 やはり食文化にこだわりを持たなければ、これからの旅館業は生きのびていかないと思います。食文化です。
 そこで私の戦略として、実践してきたのは食文化についても、真澄にかかわるのが「いじょうろ飯」。ユリ科のいじょうろとあります。しかもこれは、一の目潟当たりに群集しています。
 これはちょうど真澄が私の所を通る時に、食べれるということを発見し、その当時、村人がご飯に混ぜて食べれるとわかったんです。この草は男女に別れていて、翌年になると女になるんです。(続く)
今ちょうど旬です。これを堀にいって、お客様に出しています。いじょろ羊羹も作っています。
 それからもう一品はあんぷら餅。あんぷらというのは、オランダ語なんです。
 畑のリンゴという意味です。
馬鈴薯、皆さんはジャガイモといってるでしょう。これを私がお客様に出しています。
 やはり旅館というのは、よその旅館と同じ事をやっているのではとても対抗できないということです。
 独自のもので、食にこだわるもので行かなければなりません。生き残れません。
 それから古代米も出しています。私の旅館に来て頂ければ他に食べたことのないものを食べられます。
 もう一つは菅江真澄が、文化8年の正月に食べた宮沢の畠山という家で食べた料理を再現しています。7品、真澄が正月料理を食べています。
 それを克明に書いています。
 一つはうちまめとワラビ、うちまめとは最初わからない。聖霊短大の菊地先生に尋ねたら、教えてくれました。
 昔の豆を石臼できなこにして、それを練って固めて、あみわたしに切って焼いて食べたものです。わらびはわかりますね。後はハタハタ、いわし、かんなぎという魚、イトヨです。フナの寿司、小エビ、それからあえ物、これはバッケ、フキノトウだと教わりました。それを私が復元しています。この7品をだして頑張っています。
 それが男鹿だけでなく、秋田県につながっていくものと考えております。
 男鹿の観光は200万という時代が長く続きました。十年ほど前です。宿泊客が30万から40万でした。今はどうですか、20万を切ってます。
 ですから今、男鹿の観光は大変なんです。これは男鹿だけでなく、秋田県全体の問題なんです。もう一つ私たちが苦労しているのは低価格時代です。これに対応できない旅館は容易でありません。それに耐えれるような体力をつけていかなければなりません。
 それは板前の腕一つです。
 お客様はその土地の匂いのあるものを食べたいのです。それが真澄の食べた正月料理です。このように実践しています。
 我々が男鹿全体で反省しなければいけないことがないか。接客態度、料理、接客係、これには非常に神経を使っています。
 来年は水族館が出来ます。これは男鹿の最後の起爆剤と考えています。
 それもそうですが、お客様が何を求めているか。山ほどあります。
 やはり、男鹿市民、秋田県民が同じ気持ちにならなければいけません。地域がよくなれば旅館も良くなります。
 旅館も良くなれば地域もよくなります。そういう相互の関係があります。
 それから、秋田市の方々に安藤氏のことを掘り起こして頂きたい。私は真澄のことで一生懸命やってますが、やはり秋田市は安藤氏です。
 佐竹さんの四百年入部をやってますが、その前の殿様を思い出してほしいんです。
ん。(続く)

  呑 風 日 誌 抄
 9月2日(木)三味線茶屋すがわら。岐阜の吉田旗店の吉田社長から秋田職人塾の工藤幸彦塾頭と飛騨高山での親方会議への職人出店派遣の要請を受ける。 かんざし職人の阿部康昭氏、岐阜出身の雷電ラーメン職人の川口和男氏を紹介。
 3日(金)榮太楼旅館。東海林太郎音楽祭の実行委員会。後一ヶ月に迫った。プログラムの広告等の打ち合わせ。
 4日(土)午前中、東海林太郎音楽祭の会場・ホテル大和で東海林太郎顕彰会会の後藤正次会長と下見。実行委員会の会長・秋元医院の秋元辰二先生から腰痛を治してと治療を受ける。直々に注射をされる。イテテ。
 実行委員会副会長の港タワー・セリオンの石田俊介社長と会い、諸々の協力依頼。彼はダークダックスの後輩で、秋田男声合唱団の団長。ご快諾。
 5日(日)秋田ビューホテル。親戚筋にあたる雄和町の工藤文彦・里矢さんの結婚式。四百人もの大盛会。実質的仲人が河辺町の木村友勝県議だったとは。
 7日(火)横手の金子弘子さんから嬉しい電話。秋田聞き書き大賞の話手「それぞれの郷に入りて」伊藤キサさんの娘さん、広島の妹に聞書き村文庫を贈りたいとの事。無料で四冊送る。
 8日(水)雄和町の国際教養大学へ。佐々木重人氏と彼の恩師・中嶋学長と新しくモンゴルからきた留学生との交流の件で顔合わせ。学長夫人も一緒。
 9日(木)山王屋台。中小企業問題研究所。稲本俊輝所長の引越し研究。早稲田野球部出身の米村洋樹君が去年、日刊スポーツを辞め、野球の指導者になりたいと帰郷。ゲストに呼ぶ。彼と二次会は山王・館。
 11日(土)雷電ラーメンの川口和男氏を那波商店の那波宗久氏に紹介。那波社長のご配慮で川反3丁目、ふるさと塾の隣に屋台を始められることになる。十月から川反に屋台が登場する。
 12日(日)秋田市御所野グランドで中通野球クラブの練習。夜、駅前迎賓館にて、五百歳野球の壮行会。神馬総監督から眠狂四郎が秋田に来た話を伺う。
 13日(月)榮太楼旅館にて東海林太郎音楽祭実行委員会。ラドン温泉にて、ボクシングの棚屋文雄さんとばったり。ねぶり流しで一献。ボクシングと中国旅行等の話を聞く。
 17日(金)ホテル大和。東海林太郎音楽祭実行委員会。秋元辰二会長含め実行委員17名が出席。プログラム協賛等、最後のお願い。
 19日(日)秋田市牛島。ラーメンたんぽぽ。学友・三洲相竜の店で、韓国留学生3人に公約のキムチラーメンをご馳走。三洲夫人がオモニ直伝のキムチを留学生達へお土産。皆歓声。
 20日(月)男鹿へ。凧職人でもある原田龍人さんから安東家家臣団と一族の話を伺う。木都能代を創った井坂直幹記念館へ。ツバサ広業の舛谷政雄社長、小林孝哉先生、山谷銀二郎さん一家と。市役所の戎谷さんのご案内。彼に11月3日からの飛騨高山での親方会議へ能代春慶塗りの里帰りを依頼。一子相伝で難しいが桶樽職人の孫である彼は協力を約束してくれた。 
 21日(火)秋田市東口・アルヴェ。秋田テレビの大友直氏、雄物川町の佐々木太郎氏、男鹿水族館の深谷政光社長と一献。川反で二次会。太郎さんは空手部後輩で前田建設工業の重役の病気を治すため、魔法の水を持って、翌朝、飛行機で飛ぶ。
 23日(水)秋田市泉のニューヨークニューヨークで何年ぶりかのパチンコ。玉は直ちになくなり、渡部眞吾社長に東海林太郎音楽祭への協賛をお願い。直ちにご快諾。有難し。
 24日(金)雄和町の秋田ステージ倉庫へ、東海林太郎音楽祭記念展時に使うパネル39枚を借用。ホテル大和に運ぶ。
 ふるさと塾。「モウズイカ流・秋田式ガーデニング」モウズイカさんこと齊藤雄孝さんが講師。優モアたっぷりのスライド映写の講演。特技が植物名三千種を知っていること。女性ファンが三人も出席。二次会を「あい」、斎藤氏とレディで三次会。彼、二足の草鞋の悩みがあるが、やっていける。応援したい。
 28日(火)夕方。男鹿半島入道崎。天女の舞。満月の夜、北緯40度で幻想的な光と音楽と舞踊。雄山閣で打ち上げ前、天女役の加藤瑞穂さんとモダンバレーのプリマドンナ・豊島季里子さんの写真を撮って、吉永小百合さんのポスターがある福ノ屋で男二人、ビールとラーメン。
 29日(水)榮太楼旅館。東海林太郎実行委員会で、最後の詰め。準備の過程を楽しもうといってきた。悲観準備で楽観行動を確認。東海林太郎の保戸野小学校後輩、生け花松生派根本柳月先生に会場に飾る肖像画を生かすリンドウの生花をお願い。
 30日(木)TBSテレビで深夜。中国の衝撃という番組で、日中国交正常化の前史を創られた田川誠一先生のお姿を数秒だ拝見。今の日中関係がトゲトゲしいのは東洋の真義を重んじた廖承志元中日友好協会や松村憲三先生のような大物がいないことにも原因がある。