ふるさと呑風便  2004・1  NO 178


  鐘楼の夢

 朝な夕な千秋城に刻告ぐる
    誰が撞く鐘かわが心まで
              (瀧広明)
 千秋公園の時報の鐘を撞いているのは、堂の真下にある江戸時代から吉敷家。長女の宏美さんから暮れに手紙が届く。正月3日にNHKテレビに登場するので、見てほしいとあった。タイトルが、若者たちの現場2004「わたしも輝きたい 引きこもりを抜け出して」とある。
 歌人でもある瀧広明先輩から頂いた「歌集・夢うつつに」には吉敷家のことも詠まれている。
  江戸の昔ゆ秋田城下に刻告ぐる 
         その末裔に吉敷親娘は

 吉敷家から「除夜の鐘を撞きにきてください」ともいわれていた。
 雪のない、大晦日の夜。娘と二人、千秋公園の鐘撞堂への階段を登った。鐘楼の前には五〇人程が並んでいた。
鐘撞堂は三層になっていて、一階の階段前に吉敷家のご主人が何か紙の札を渡している。
 続々と人が集まってきた。
 「ゴォーン」
 十二時数分前。除夜の鐘の音が真上から秋田市の空に響いていった。
 行列は少しずつ前に進む。看板が立てかけていて、除夜の鐘の意味と、強く撞くと鐘にヒビが入るので優しく撞いてくださいとある。
 戦後、この千秋の鐘を制作した林家に記録が残っている。
 林金属工作所 林金太郎
 製作担当者 
   工場長 林次郎
   鋳匠  中村周市
 製造所要人員はインゴット鋳造230人、錫流し及炉の基礎孔堀り10人、鐘原型木型鋳型製造溶解砂出390人。
「昭和二十三年八月十五日 秋田市に寄付せる時鐘に関する記録  林家」
 千秋公園の時鐘は戦後の平和を願って、林家が総力を賭け、実に630人もの方々の汗の賜であった。
 当時の新聞を見ると、この鐘が千秋公園に運ばれるとき、秋田市民が総出で迎えたとある。市民待望の鐘だったのだ。
 
 鐘楼の階段前。自分の番が近づき、吉敷家のご主人から紙札を渡された。57と書いている。後ろにいた信心深い娘が紙切れの数字を覗き見て、
「あ、パパの年と同んなじじゃない。今年はきっといいことあるわよ」
 57番目か。あちこちに地域づくりの種を蒔いてきた。 57歳のこの年に芽を出し、花を咲かせるだろうか。
 千秋の鐘の横で、吉敷母子が鐘の撞き方を教えていた。 自分の番がきた。
 綱を渡され、撞木をゆっくりと引いてうった。ちょっと弱くあまり響かない。
 宏美さんから「佐々木さん、もう一度どうぞ」といわれたが、大丈夫と娘につないだ。
「ゴォ〜ン」嫁入り前の娘の方が力強く響いた。
 階段を降りると、行列の輪に、結婚披露宴の時のように、若者達がアーチを作っていた。
 愛のトンネルをくぐり、公園を下って、国民的歌手・東海林太郎の胸像の前を通る。

 胸像の上には昔、公会堂があった。ルネッサンス建築の美しい建物だったが、大正7年に消失。隣には大正ロマンを感じさせる典雅な記念館があったが、老巧化したと昭和35年に解体されてしまった。
 県民待望のあの美しい記念館を再建し、ホールを東海林太郎記念ホールとする。
 57年芽。そんな美しい故郷への夢を強く響かせたい。
  ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成14年8月28日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「秋田ワールドゲームズが残し  たもの」2
★ 三浦広巳氏(元秋田ワールドゲームズ事務総長・三伝商事社長)

  世界スポーツ団体競技総連合の総会に、日本から出席していたのは今は辞めましたが日本ボーリング連盟の赤木さんという会長がただ一人でしたね。そこへいけば会いたい人に会えるわけです。一同に介している訳ですから。
 ワールドゲームズが残したもの一つに、ラグビーの7人制が秋田大会から初めて正式競技となって来ました。
 これが決まったのはモナコの会議です。新しい種目にラグビーの申請を入れますと。 なぜそうなったかといいますと、ラグビー協会ははじめからオリンピックにエントリィしたいと。やはりサッカーとの人気の度合いです。オリンピックにでるにはワールドゲームズの種目にエントリィしなければいけない。そういうことでワールドゲームズに急遽エントリィしました。 
 我々は2002年秋田大会でラグビーが正式にやることになりました。そしたら日本協会から怒られました。
 それで私、菓子折持って、お詫びといったらおかしいですが、日本協会に行った訳です。たまたま吉田さんの母校の監督だった白井さんが専務理事でした。協会なんか行ったことはないので、行って説明してきました。世界ラグビー協会から日本協会、それから秋田の協会にくるのが普通なんですが、そうじゃなくて我々、ワールドゲームズに直接、委員会でやることになりましたからといわれて、日本協会も秋田の協会もつんぼ桟敷だったんです。日本的に考えればラブビー協会のようなきちんとした協会ですと問題があるんですね。
 ところが、会長が理事ですから理事会で、その話しは聞いていたと思うんです。だけども正式な文書が来てませんし、まず秋田あたりに来るわけがないだろうと思っていたようです。
 かなりプロの選手もいるということで、ホテルだとか、つまり待遇がかなり難しいだろうと脅かされました。
 でも結果的に来ました。
 そして、すばらしい試合をやってくれました。日本ラグビー協会の松井会長もこられれています。
 ラグビー協会のようにちゃんとしている協会はいいんですが、柔術という競技があります。日本の協会がいっぱいあるんですよ。みんな喧嘩しているんです。(笑い)
 世界連盟の会長がどうすればいいという。柔術の会長が3人も4人もいるし、柔術をやっている方々は、体育会系でいっちゃ悪いけど不気味なんです。(笑い)
 世界のトップアスリートを集めた大会だというのが売り物です。組織委員会としては実は来たのが二軍では困るんです。これにはものすごいプレッシャーをかけました。
 ラグビー選手にしても、どういう選手なのかインターネットで調べました。
 秋田大会から女子新体操の個人がオリンピック種目からワールドゲームズの種目に変わったんです。
 ロシアのカワエバという金メダリストが来る予定で、パンフレットにも載せたんですが、急遽来れなくなって二位の人になって。ほんとにそういう本物を寄こすのかチェックしなければいけない訳です。
 県庁の語学のできる人たちにそれぞれ何競技か持ってもらい、その競技のホームページで何時の競技でどういう選び方をしていたかを全部チェックして、ほんとうにその選手が来るかを調査させました。
 これは勉強になりました。
 我々も世界連盟に申し入れしまして、上位30位までの選手を20人とか、やはりトップは必ず出してもらわないと盛り上がりません。
 私は興行主ではないけれども、それには非常に神経を使いました。世界連盟とやりました。その結果、世界のスポーツ専門誌、ラグビーや、日本の専門誌にもワールドゲームズの大会の成果が載りました。その映像は百三十三カ国ぐらいに流れました。短いのは一分ぐらいでしたが、お国柄でその国に盛んなスポーツを撮って放映しました。
 海外で流れたニュースのビデオを何とか確認したいと思い、フランスのスポーツニュース、VTRを手に入れました。秋田のワールドゲームでこういう人が勝ったとか、これは感動でしたね。間違いなく世界の国々に秋田の状況が伝わっている。
 秋田という場所は日本なのか、韓国なのか中国なのかわからない人が沢山いる訳です。ですが、少なくともGAISF(世界スポーツ団体競技総連合)の会員の中では秋田といえば、すぐわかる訳です。
 板東副知事がいらした時に、彼女がその会議で挨拶する時、そこで、JAPANといわなくてもいいかと聞かれ、AKITAといえばすぐわかりますよといったんです。
 我々と一緒にその会議に出席した大阪市がオリンピックの招致活動の真っ盛りでした。大阪、北京、トロントの関係者は一つのブース(小部屋)を与えられ、我々秋田も一つのブース、2002年でお待ちしていますとやっていた。大阪の一回目の総会ではすごかったですね。着物姿の女性がいっぱい来て、お茶をたてたりでしたが、最後の総会ではもう負けたという感じでブースにアルバイトの女の子が二人ぐらいしかいませんでした。大阪の市長、助役さんと一緒に、レセプションに出た時、サマランチ会長が「今度のワールドゲームズは秋田でやりましょう」と話してくれます。
 大阪の助役が「秋田は有名ですなあ」と(笑い)。
 信じられないくらいで、秋田の人に見せたかったですね。
 ですから、ワールドゲームズをやったということで、世界の人に知ってもらったし、来た人は秋田というところはいい所だよといってくれます。
 それから国際スポーツイベントを成功させたということは、国際会議も或いは単種目のワールドカップもできるということなんです。秋田は自信を持っていいんです。
 それを世界のスポーツ団体の責任者が認識したんです。
「秋田だったらいい」と。
 認識させるのに普通はお金がかかる訳で、私はほんとにやる気になればオリンピックだってやれないことはないと思います。ただ人脈というものが日本人に少なすぎる。
 ルールはどんどん自国のために日本人に不利に変えていかれるでしょうし、これには日本のスポーツ団体の関係者が世界に出て行って、丁々発止やって人脈を作らなければいけません。
 日本の経済力とスポーツ力のギャップが大きくて、ああなればスポーツ後進国ですね。
 今年は十一月にGAISFの総会に我々はもう行く必要はないんですが、ワールドゲームズ記念会として、基金管理をしてますが、一年でもブランクがないように、ここで二人だけ出そうと考えています。私は行けないので、語学をわかる人ともう一人出して、きちんと挨拶してもらいます。そうすれば、きちっとそこでつながる訳です。これをずーっと繋げていくことによって、何かあった時に、例えばラグビーのワールドカップをやると行った時に、そこへいって直接お願いできる。
 そのネットワークを持っているのは、四十七都道府県でおそらく秋田だけです。日本人がそれだけいなんですから。 そういう意味で世界連盟の会長達の年齢は五十、六十代で皆若いんです。そして非常にフランクです。
 私はスポーツ団体の会長でも何でもないんですが、そういうネットワークを持つことができたということはワールドゲームズの成功です。
 運営上困ったことは、2500名の受け入れでした。何時、秋田のどこに入ってくるかわからなんです。
 オリンピックでは選手村があるからいいんです。ワールドゲームズではホテルとか宿舎ですから、大変です。
 終わったら2500万円の未払いがあるとの話がでてきました。結果がどうなったかといいますと、GAISFの会議でその未払いのリストを示したんです。(笑い)
 お国柄の違いがありましたがそれで回収できたこともありました。
 この人脈、ネットワークをどう使うからはこれからの楽しみです。これは秋田のみんなの財産です。これを持続させるには、県の教育委員会から毎年、GAISFに派遣するような仕組みを作ってもらいたいと考えます。
 フィンランドのラファティで前回、ワールドゲームズが開催されましたが、七万人の人口のラファティ市のスポーツ担当係長のような、トミーランキンという人が、世界の総会に一人で出ているんです。それで常に世界大会を開催しているんです。その情報を市に持っていって、次はこの大会をやろうと企画して、一人の人間が動いているんです。
 秋田ワールドゲームズをやったお陰で何が残ったかというと、世界のスポーツ連盟とのネットワークができた。
 このネットワークを地域活性化のために生かして、いろんなことが展開できるのではないでしょうか。(拍手)
  呑 風 日 誌 抄
 12 月2日(火)大潟村役場。黒瀬村長、藤田助役と。環境循環型農業のクリーンバイザーの話。公民館に寄り、畑沢先生、高橋課長と愛媛丸、聞き書きの話を伺い、大潟村耕心会川島昇一会長からの菜の花の種をどっさり頂く。
 3日(水)鹿角市・美ふじ。キリタンポ料理の雑誌取材があって、加藤照子ママの元祖キリタンポを田中幸徳氏、奈良東一郎さんとご馳走になってタンポポ茶を買う。大湯温泉・仙台館へ。佐々木重人さんが十和田湖から男鹿半島まで2週間かけて歩く彼に大潟産の菜の花の種を渡す。交通戦争への花挑戦。道路端に立つ犠牲者の石碑の所に菜の花の種を撒くようにお願い。
 7日(土)朝、救急箱を持って秋田県民会館へ。心に響く名曲コンサート。本部詰めの裏方を務める。妻は当日券売り場のボランティア。日が照ってきたが寒く、ボランティアの鈴木勝さんが並んでいるお年寄りにホカロンを渡している。開場一時間前から入場してもらう。当日券だけで90枚販売。二階までほぼ満席となった。灰田勝彦の新雪を歌う予定であった小林工業の故小林忠彦会長の家族も来てくれて、楽屋に案内し、長男の憲一郎社長から歌手で作詞家の伊藤要さんに花束贈呈。
 最後、「ふるさと」を一八〇〇人の合唱で終わった。
 イヤタカにて実行委員会の打ち上げ。新雪の曲を編曲された佐々木久美子先生、「小林会長の写真をピアノの上に置いて弾いたんですけど、涙で楽譜が見えなかったわ」
 10日(水)近所の「京や」にて、前東北フジクラ社長の菅省冶先輩と一献。秋田に農機具メーカーの開発と、先輩が開発され福祉施設に寄贈された電気遊具「ホタル」の話。
 12日(金)秋田市山王・橙屋。秋田湾観光の高桑賢二社長・ツバサ広業・舛谷政雄氏と一献。四艘の観光船をもつ高桑氏、新男鹿水族館との連携の話。海の話はロマンがあっていい。近くの酒盃にて毎日新聞秋田支局の忘年会へ。
 13日(土)アトリオンにて漫画家ティムさんの個展へ。加藤芳夫画伯の絵もいい。
 正午、秋田刑務所へ。歌手の伊藤要さん達が50年以上も続けているのど自慢の慰問に着いていった。NHKのど自慢で昭和26年から30年まで使われた鐘、チューブラベルの組み立てを手伝う。これは民謡日本一となった長谷川久子さん、佐々木常雄さんに合格の鐘をならした物だと伊藤さん。体育館で坊主頭の出場者は緑色の服に着替えて10人。2番目の歌は「涙そうそう」司会者が、どこで覚えたかとの質問に「はい、娑婆の飲み屋で覚えました」
 半世紀ものど自慢の慰問を続けておられる伊藤先生や歌要会の皆さんは立派です。
 16日(火)ニュータケヤにて秋田ウラジオ会役員会。佐藤忠作会長、那波宗久理事、佐藤攻一理事と四人。ウラジオ会の名前で竹谷社長が秋田に招聘したロシア極東大学の女子学生二人の研修報告。
 18日(木)駅前アゴラ広場で連合秋田主催のイラク派兵反対集会。日本を危ない国にしてはならない。加成義臣県議と一緒にデモにも参加。
 19日(金)稲川町へ。斎藤光喜町議と会い、来月16日、秋田市での辻幹雄十一弦ギターライブのチラシを渡して相談。湯沢市の阿部和夫氏と同じくライブの相談。役所の忘年会が平安閣。
 21日(日)鹿角市。鹿角パークホテル。インターネット茜蔵美術館設立祝賀会。内藤湖南の書などを集められた奈良東一郎さんのコレクションをホームページにしたもの。
 何故か佐藤市長の次に来賓挨拶。仕掛け人は消えゆくもの。これは人の足を引っ張らず、手を引っ張る鹿角の方々の底力の賜であろう。
 22日(月)駅前人情酒場久保田。幼なじみで後輩の畠山公一君と多献。NTT東日本秋田の法人営業部企画調整担当部長となって秋田に帰ってきた。もう転勤はないという。
二次会をい多良で、愉快酒。
 23日(火)秋田ビューホテル。原辰徳トークショー。十回目。巨人ファンではないが、主催者の原前監督と親友でラグビーの瀬下和夫フアンの故。 花工房みどりへ。むつみ造園土木(佐々木吉和社長)のクリスマスパーティ。花あり、人ありのホットなパーティ。
 29日(月)息子洋平が故土井脩司氏と飼っていた柴犬・ハナを乗せて千葉から車で帰郷。家に猫がいるので大騒動。
 31日(水)年越し蕎麦を食べ、朝型の妻と息子は寝てしまい、娘江津子と千秋の鐘楼に登り、除夜の鐘を撞く。 五十七番目だった。