ふるさと呑風便  NO.173号  2003.9月号
   
  十年目の空と海

 「先輩のやられたニコライ少年の慰霊碑が今年で十年目ですよ。十周年記念祭をやることにしました」
 本荘市の佐々木栄吉総務課長から仕事場に電話。高校のブラスバンド部の後輩からだった。7月末のこと。
 私のホームページに掲載している「空ひとつ海ひとつ」にあるニコライ少年慰霊碑の記事を十周年記念祭のパンフに使っていいかと聞く。「著作権なんていいよ。どうぞかまわないよ」そうか。十年経ったのか。仕掛け人は消えていいと思っていた。

 昭和7年12月1日。本荘市深沢海岸にウラジオストク・ルスキー島からロシア漁船が遭難し、乗組員4人のうち、ニコライ少年(16歳)が死亡していた。深沢地区の人達は共同墓地に少年を懇ろに葬り、他の3人を手厚くもてなした。 数日後、3人は有難うといって帰国していった。

 この事実を教えてくれたのは十三年前、本荘図書館に勤務していた作佐部直氏だった。
 図書館講座で秋田戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊碑を建立した話をした後、ニコライ少年の墓地跡に案内してもらった。 そこはゴミ捨て場となっていた。共同墓地は国道7号線に分断されていた。
 ここに慰霊碑の国際版、露国遭難漁民慰霊碑を建て、環日本海時代への草の根交流の拠点にできないだろうかと考えた。「地域づくりは子どもや孫への贈り物」という、日本ふるさと塾主宰萩原茂裕先生の言葉がある。深沢地区の方々から子どもや孫にいい古里を残して貰いたかった。
 その為には地元の方々からその気になってもらうこと。同じ土俵に上がってもらうことが肝心。最初、これがなかなか簡単ではなかった。
 何度も深沢公民館に足を運び、講演会を開き、懇親会で酒が入るとある御仁から「慰霊碑建立には反対だ。そんなものをつくってどうなる、お金もかかるし、これは佐々木さんの売名行為でないか」とまでいわれた。しかし、若者と母親達は違っていた。
 手始めに若者達とゴミ捨て場の掃除に汗を流した。

 平成3年夏。私はウラジオストク沖のルスキー島に渡り、ニコライ少年の遺族を捜したが果たせず、島から三〇a大の大理石を持ち帰った。
 その石は漁船の形をした慰霊碑の台座に埋め込まれた。 ゴミ捨て場は夕陽の見える日露友好公園となった。
 十年前の夏のこと。露国遭難漁民慰霊秋田委員会の会長になって頂いた元本荘市長の佐藤憲一先生に尋ねた。
「12月1日は寒いでしょうから、もっと前に除幕式をやりましょうか」「私の身体のことは心配しなくていい。ニコライ少年が発見されたその日にやるべきです」
 その日の冬の空は青く、海も凪いで蒼く輝いていた。

 十年後の夏の慰霊祭。この日の空は曇り、海は鉛色。
 夕陽の見える日露友好公園に白いテントが貼られている。 大友康二先生・菅原良吉先生作詞作曲の追悼歌「空ひとつ海ひとつ」が音楽グループ「フォーグレイス」によって歌われた。十年振りに歌う彼等の頭に白いものが目立つ。
 在新潟ロシア総領事から露国遭難漁民深沢委員会会長の小川隆一氏へ感謝状が授与。 感謝状は深沢住民の故郷愛の証でもあった。
 
   ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成14年7月28日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「沿岸貿易と北東アジア」3
★ 浅利久樹氏(協働インターナショナル社長)

 向こうで商売をしたい場合は調査を自らされるというのがオーソドックなやり方ですが、とりあえず何か欲しいとなったら、一番早い方法は現物サンプルとこちらで買う値段と数量をバーンとぶつけてしまうのが一番早いです。これだとスピーディに行きます。
 この件について何か情報がないか、どのくらいで手に入るのかなんて質問していたら、三年たっても望む答えが返ってこない位です。

 海上運賃について申し上げますが、20フィートコンテナと40フィートコンテナがあるわけですが、コンテナとは箱に物を入れて来る時代ですから、荷主さんの物を詰め込ませて持って来るわけですが、コンテナというのは、一つの箱を買ってしまえば、自分の物だけを安全に目的地に来ます。ドアツードアです。20フィートコンテナとは、高さ2bぐらい幅も2bちょっと長さが6b。倍の12bが40フィートコンテナです。
 大連から秋田港まで、40フィートで大体15万から17万円ぐらいになるんじゃないかと思います。これは海上運賃だけです。20フィートコンテナは大体10万円。
 分かり易くここで運賃計算をしてみたいのですが、例えば秋田市のゴミ袋が、20フィートコンテナに2000個入るとしたら、一個50円ですね。
 タマネギを30キロネットで40フィートコンテナに千百個入るんです。15万円を千個で割ったら百五十円です。キロ五円ぐらいになりますね。如何に海上運賃というのは安いかということです。 
 給料は向こうで高卒で一万円いかない訳ですし、工場の人達もその程度ですから、日本は貿易立国でつまりは関税がかからない国が基本で、物によってはかかりますけれども、そうなりますと、向こうと結びつくメリットというのは、充分にあります。
 うちの女房の親父さんは、戦争から帰ってきて昭和二十何年かに秋田で商売をやって、仕入れに神戸に夜行列車で二日ぐらい行って、最初はよかったといっておりましたけれども、今や海外と繋がらないと仕入れのメリットはでてきません。
 運賃たるや個数に直すと、それだけにしかすぎないというのが現実です。

 日本と中国のビジネスチャンスについてお話してみます。
 私は当初、大連にケンターキーフライドチキンやマックができた時にうまくいかないと思ったんですよ。鶏肉は中国料理で最も基本ですから、もっとも美味しい部分ですから。だけど今や、各街々の繁華街には全部この二つがあるという状況になっています。
 アメリカのピザハットも大連の駅前で高級料理店みたいになって高いのにお客さんがワンワンと入ってます。ここに行かないと何か都会人ではないようになってます。 従って、中国は我々が辿った道を確実に通っているなと感じます。 
 私が行った93年に、私を案内してくれた人が、これは肥えた美味しい豚肉でねといいましたが、今はダイエットで脂の多い肉は誰も食べませんね。
 それから、当時は女の人は シャワーや風呂に入っているんだろうかと思いましたが、今やテレビのCMで日本よりも格好の良いシャンプーがテレビ宣伝がされて、美しさへの関心は大変です。
 昔、お土産に何を持っていったらいいかと聞かれ、パンストでもいいだろといってましたが、今や資生堂の化粧品を持っていかないと相手にされません。(笑い)
 不動産部門もマイホームの時代で、保険でもそうです。我々が通ってきた道をきている訳でそこにどう参入するかということです。 電話でも携帯電話は五年前に18万円で買いましたよ。今や一万円ぐらいで買っているんでしょうか。 どんな人でも持っている時代に入っています。
 旅行ブームでもありますね。みんな旅行に行きたがっています。 飛行機に乗って国内旅行も流行っていますし、確実に我々の来た道を辿っていますから、何かやるという点で大変な参考になると思います。

 中国の人達に、今度日本に来てくださいといっても、来れません。 日本は県庁に行ったらパスポートを発行しれくれますけど、向こうは第一審査にいけたらいいほうです。最近はお金があって、身元が保証されていれば出れるという状況になってますが、そう簡単にいきません。

 最後に中国とこれからの秋田ですが、二つの観点かなと思います。 一つは基本的に物は買うが売れないというのが基本的スタンスです。ところが、この頃は向こうがマーケットになってきたなと思います。何かやっていいなという気がします。皆さんでももうそろそろやってもいいんじゃないかという具合に思います。
 二つ目、今度は秋田のほうですが、秋田というのは日本の一部で東北で、日本全体が苦しいのでここも苦しいんだと思いますが、今のままのスタンスだと、日本も秋田も大変だろうなと思います。
 秋田の優れている点というと、伝統的に強いという点があるわけですね。それは何といったって農業だとか、林業だとか、漁業だとか、鉱業だとか、そう言う部分というのは伝統的に強いです。
 そういったものの設備なりを向こうに移転するとか、何かができるだろうと。そうすると空洞化するんじゃないかといいますが、
 私はそうはならないんじゃないかという気がするんです。
 行ったらそちらに日本人が移住することはないわけで、又、何かのリアクションがあってそこで初めてこっちの方にも何かが返ってくると思います。
 こっちにいて閉塞化していて、向こうからして、喉から手が出るような技術やお金を中だけで閉塞化させているのは、トータルで高い所からみると、持ち腐れであると思いますね。
 そんなことで郷土の伝統的な産業でいけるんじゃないかと思います。秋田のお味噌やさんが大連で味噌を造って、秋田ブランドで売ったら売れると思いますよ。
 今来ているのが、長野かどっかの味噌やさんで、旨いとも思わないんですが、日本のブランド味噌ということで売れているんです。
 そうしたら、飯田川町や湯沢であれお味噌やさんでもできるんじゃないかと思います。
 そういう地方から発信できる時代ではないのかなと思っています。
 
    我青春風来記(139)
        早海三太郎
  下井草(9)

 大隈小講堂。午後2時。「キューバは今」と題しての講演に臨んだ。
 舞台の右横に演壇。会場には中南米研究会の部員達が応援に駆けつけてくれている。
「この夏、私は日本学生キューバ友好視察団を組織し、キューバの国際交流機関の招待を受けて、メキシコ経由でキューバのハバナに7月24日に到着し、二日後の26日。キューバの東、革命の発祥地であるサンチャゴデクーバにおりました。
 この日はカストロ首相が26歳の時、バチスタ政権打倒の為、モンガタ兵営を襲撃した日です。7月26日運動記念日の会場には一〇万人もの観衆がある待っていました。私達はカストロ首相やドルチコス大統領、革命政府の要人が座る演壇のすぐ下の海外からの招待席にいました。手を伸ばすとカストロ首相の足に届くくらいの距離です」
 スライド映写で、そこから撮ったカストロ首相の姿が映しだされた。
 三太郎は初めてカストロ首相と会った話をした。
「サンチャゴデクーバからバスで10時間もかかったグランティエラのコーヒー農園。
28日の夕方。カストロの演説があった。私は少しでも近くで見ようと、演壇の脇で降りてくるフィデル・カストロを待ちかまえていました。
 来た来た。一緒にいたメキシコとキューバの娘達が『フィデル、フィデル』と叫びます。ヒゲの軍服姿が近づいてきた。と、ちらっとこっちを見た。護衛兵を押しのけて、目の前に来た。そして、左隣のメキシコのマリアアントニアに話しかけたんです。
『どっから来たんだ』『メヒコよ』彼女はカストロからサインをもらった。
 右隣のキューバ娘、ニレテが私にカードを渡して、フィデルからサインをもらえという。『フィデル、彼は日本の学生代表団の団長よ。彼にもサインしてやって』
『おお、娘。そんなに重労働させないでくれよ』といって、フィデルは緑色のボールペンでサインをしてくれて握手をしました。カストロの手は柔らかかったですね」(続く)

 呑 風 日 誌 抄
 8月1日(金)アキタニューグランドホテル。秋田大学法医学教室開設30周年記念歓談会。吉岡尚文教授は昔、中国から50年振りに帰還された石田東四郎さんのDNA鑑定を引き受けてくれた。警察医でもある敬愛する高野征夫先生と多良へ。
 2日(土)朝。秋田市新屋の葉隠墓苑。今春、佐賀県知事を引退された井本勇氏の標柱・杏の木の写真を撮って、井本さんへ送る。
 平安閣。法政大学野球部歓迎会。秋田経済法科大学との記念試合に東京六大学秋田野球連盟理事長として呼ばれる。経法大学の伊藤護郎教授のご子息が母校野球部の主将で、貴樹君。今、野球の指導者になるべくロスアンゼルスに留学中とのこと。ロスにいるレスリング部時代の親友・石原剛に面倒を見てもらうことにして連絡をとる。 
 3日(日)午前、秋田市・ジョイナス。東海林太郎を歌い継ぐ会へ。午後から大友康二先生と本荘市深沢海岸の露国遭難漁民慰霊十周年慰霊祭へ。先生作詞「空ひとつ 海ひとつ」が十年振りにフォーグレイスによって歌われた。ロシア新潟総領事夫妻も出席され、慰霊委員会の小川隆一会長へ感謝状を授与された。地元小学生の鈴木友揮君の作文発表がいい。「大きくなったらニコライ少年のお墓を、生まれた故郷のロシアに作ってやりたい」
 4日(月)秋田竿燈祭。秋田市大町・北野水産。井戸端ゼミナールの懇談会。
 5日(火)吉永小百合さんから何故か夢いちずと書かれた桐の箱に入った扇子が送られてくる。
 6日(水)サユリストでもある秋田市山王・北都情報システムの佐々木攻社長と稲門会役員就任の相談。
 8日(金)秋田市山王・うどん茶屋・讃岐。早稲田大学グリークラブ秋田公演一周年記念懇談会。一生懸命に頑張った実行委員一〇人が集まってくれた。剰余金を稲門会へいれ、そのうち50万円を母校に寄付。来期に地域振興基金として設立することに理解を得る。
 9日(土)アトリオン。くまがい卵油研究所の熊谷良一社長。吉永小百合さんに送るといったら美人の元の卵油を大サービスしてくれた。
 11日(月)駅前人情酒場久保田。天才水墨画家卓吾氏、県空手協会副会長の片野裕氏と一献。九十九里浜に引越した卓吾さんに「心に響く名曲コンサート」のポスター用に夕焼けの絵を依頼する。
 13日(水)象潟町小砂川へ。女房と土門三之丞叔父の墓参。伊藤均宅に寄り、象潟町・斉藤平実氏の初盆へ。道の駅から牡蠣を買って大内町の実家へ。墓参りして、夜、近くの広場で盆踊り。 
 14日(木)元大内町商工会長の高橋喜一郎氏宅に寄ると、花と緑の農芸財団故土井脩司氏への香典を頂く。芋川の主・斉藤金一氏宅で、カジカの話。今年、滝地域を流れる雪谷又川にカジカを60匹放流したという。芋川にカジカを戻したいもの。葛岡の東海林喜和女宅に寄って、夜。美佐子食堂にて恒例の中学同級会。
 15日(金)白神オーガニックの舟橋慶一社長と秋田市泉のニューヨークニューヨークへ。渡辺眞吾社長へグリークラブ秋田公演協賛の御礼。生き生きとワクワクするような地域づくりと草生津川土手に遊歩道公園を作られる。虎キチの渡辺社長から星野監督絵入りのTシャツを頂く。
 16日(土)グランマート割山支店の花屋さんからお花を買って、女房とツバサ広業の桝谷靖恵さんのお見舞。お元気なご様子で安心。吉永小百合さんの扇子で扇いでもらった効果があったか。昼、千葉の土井信行氏来秋。花と緑の農芸財団の今後の話。
 19日(火)秋田メモリアルクリニックにてCTスキャンで脳の検査。頭を器械の穴に突っ込んでガタガタやられて、異常無し。 
 21日(木)栗田養護学校へ。特殊教育支援教育コーディネーター養成講習会。能代市立第四小学校の白井美樹教諭の意見発表は勉強になった。
 22日(金)ふるさと塾。能代市の地域づくりグループ「楽生会」山谷銀二郎会長の「小友沼からの地域おこし」故郷の美を再発見されて、幻の榊米の復活を図る。石川商事の石川善春社長の鮎焼きが超美味。森吉町の武石音吉さんが数千匹のカジカを養殖していると聞く。
 23日(土)秋田駅前・バウハウス。岩城町CG祭りのあやますみ実行委員長、石井護氏と森川恒社長に協力依頼。快諾。3人で小江戸ラーメン。
 24日(日)秋田大学裏の平田篤胤大人墓前際。大沢公民館にて直会。平田篤胤先生と正洞院の講演。秋田のヨサコイ祭りの仕掛け人三浦芳美さんの話を聞く。
 26日(火)秋田メトロポリタンホテル。スローフードフォーラム。「風と水の大内米」のチラシをつくって出席。食味来学・金沢市のソムリエ・木村功一氏の講演後、懇親会。
 27日(水)九州・大分県の地域づくりの達人・木ノ下勝矢氏と川反の大分県出身の佐藤直次さんの店・味里で一献。かぼすをどっさり頂く。
 28日(木)福岡・大分県境の山国川上流にブナと植えたいという木ノ下氏を八森町のハタハタ館から合川町の伊東農園へ。伊東毅氏からボランティア価格でブナを大分へ。秋田市山王・橙屋。毎日新聞論説委員の三木賢冶氏、舛谷政雄氏、女房と多懇。
 29日(金)朝7時。三木氏と千秋公園鐘撞堂へ。江戸時代から鐘を撞いてきた吉敷家のひろみさんが出した「春の道を歩く」不登校を乗り越えての本を二冊買う。大分の木ノ下氏を中仙町から秋田空港に送り、夜、秋田パークホテル。秋田市大内会。十一月に大内町芋川へ桜植樹の案件。
 昨夜、三木氏と行けなかった大町の「いずみ」へ。
 30日(土)秋田市有楽町・シアタープレイタウンにて「ヒバクシャ」上映会。アメリカのハンフォードが放射能の被爆地だと知る。夕方、アキタニューグランドホテルでは最後の稲門会総会。総長室の井原徹氏から亡き伊藤功元秘書課長の娘さんが父の母校へ行くと聞き、嬉しくなる。
 31日(日)ジョイナスにて「心に響く名曲コンサート」実行委員会。水墨画家卓吾氏が友情価格で描いてくれた八郎潟の夕焼けを使ったポスター、チラシを示す。夕方、河辺町の田口則芳氏宅へ。「ヒバクシャ」監督の鎌仲ひとみさんを囲んで懇談。