ふるさと呑風便  03, 8  NO, 172 
  里帰り喇叭

 ラッパのおじさんになった。
 7月25日。秋田魁新報能代支局を訪ねたら、村上昌人支局長が
いう。「うちの旭谷記者が佐々木さんをラッパのおじさんと呼んでますよ」
 6月13日。能代市・延命寺の本堂で第九回東雲飛行場慰霊祭が開催された。全国から戦友の方々が集まっている。
 その席に呼ばれて私は「国の鎮め」を吹き、急な求めで「消灯ラッパ」も吹いた。 
 参列者から戦後初めてラッパの音を聞いて感動したといわれ、思わぬ反響に私の胸も熱くなった。 取材に来ていた旭谷有桂子記者から写真を撮られ、翌日の新聞にラッパを吹いている足の短い男が出てしまった訳である。

 4年前から秋田市総社神社の境内で催される秋田県特攻隊招魂祭で「国の鎮め」を吹いている。
 吹くラッパは敗戦後、サイパン島でアメリカ兵から拾われ、十年前太平洋を往復して里帰りしたラッパである。朝顔の根本部分が少し凹んでいて、歌口は抜けない。色は真鍮色がくすんでいる。
 アメリカ兵が玉砕したサイパン島のラッパ手の死体の側に落ちていたの拾ったものであろうか。
 縁があって今、私の手元にある。
 そのラッパで4月29日の特別攻撃隊招魂祭で黙祷の時間帯に吹いた。
 その後の懇親会で能代の武田安一さんと向いの席となり、東雲飛行場で亡くなった方々の慰霊祭をやっているので、そこでラッパをふいてくれと頼まれた訳である。
 以来、ラッパのおじさんに戦友会からお座敷がかかった。

 6月19日。秋田市・さとみ温泉で「すみれ会」満州第209部隊戦友会。
 7月11日。秋田市・榮太楼旅館での「離石会」戦友会。
 勿論、会費持参での出席だが、
私が感銘するのは戦友会での代表の方々のご挨拶である。
「今日の平和な日本は、戦友の尊い犠牲のもとにある」
「国の為に戦死した仲間にあの世で顔向けできないことをしてはいけない、という気持ちで今日まで生きてきました」
 秘書付公用車でパチンコやって首になったどこかの副知事に聞かせたい言葉である。
 離石会でお会いした能代市の宮野松雄さんからお手紙を頂いた。
「五八年振りに聞く喇叭の音色は心に沁み通るものでした」

 宮野さんは7月31日付け北羽新報に「サイパン島のラッパ=平和を誓った戦友会=」として、最後にこう書かれている。
「ラッパが吹奏される静かな消宴の座敷は60年前に戻った。中国戦線で聴いたラッパの音色に、それぞれの思いに若い頃を重ねているようであった。吹奏者は秋田ふるさとづくり研究所の佐々木三知夫氏。国の鎮めに続き消灯ラッパが鳴り、過酷な戦場を思う。平和な日本の二度と戦争に走らないため、平和を誓う戦友会であった」
 秋田県出身の戦没特攻隊員の英霊を慰霊されてこられた元特攻隊員で、ツバサ広業の桝谷健夫会長が教えてくれた。「新兵はラッパの音色を覚えるのに、歌にしたものです」
 「起床ラッパ」
 起きろよ起きろ 皆起きろ
 起きなきゃ隊長さんに叱られる
 「消灯ラッパ」
 新兵さんは可哀そうだねー
 また寝て泣くのかよー

 「国の鎮め」にはない。
 戦争を知らない不肖・私が作詞してみた。
 国のために 殉じた友よ
 二度と戦を 起こさない故
 安らかに 眠れ

 残された我等 子どもや孫へ
 平和な世界を つくらんと
 心から 誓う
 
 この詩を今、作詞家の大友康二先生から見てもらっている。

 被爆国日本は国際法違反のイラク戦争にも荷担しようとしている。
 こんな時、里帰り喇叭を持ってサイパン島で「国の鎮め」を吹いて、歌う義務があると思っている。
 世界の平和を祈るだけではなく、強く訴えたい。
  ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成14年7月28日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「沿岸貿易と北東アジア」2
★ 浅利久樹氏(協働インターナショナル社長)

 日本のように滑走路一つ造るのに、数人の人が反対して、最終的にはハブ空港が韓国にいってしまったというようになって、それが果たして国益になっているのかなと個人的に思います。
 四っつのうちの二番目、中国人の気質。私は来年で中国とビジネスを始めて一〇年目にはいった経験から、日本人と中国人の物事の進め方は違うと思います。
 まず大きく違う一点目は、日本人は組織で動きます。私のところに誰が電話をくださっても、まず会社を名乗って、会社を代表します。少なくとも誰々がいなくてわからないとかは平素、いけないんだとどこの会社でもそういう教育をします。
 ところが中国ではそうでありません。上のであれ、中堅、新入社員であれ自分の担当したことは人には伝えません。伝えた途端にその人がいらなくなってしまうからです。それから上司に対してもなるべくいわないようにするのが中国人のビジネスマンのやり方です。
 上司とどういうつながり方をしているか、日本とまるきり違います。代理の方を出してください、上司の方に面会させてくださいといってもわかりません、誰も出てきませんし、避けようとします。
 二番目については、中国で仕事をやっている方は言わずもがなですが、あるところにいきなり入っていくと何故そこに、どんな立場で、どういう目的でここにいるのかと一群の人にどっと囲まれてしまいます。そしてしばらくたってからやっと、この人と話をしたらいいのだと分かります。
 その時にやり方を間違ってしまうと、誰かをとおしていったり、色んなことがありまして、無視をしても後に問題が残りますし、いろんなややこしいものがあります。一つのことに色んな人が口入れをして、わっあっと取り囲んで来ます。こういうのがありまして、結構面倒です。
 日本だったらきちんと名刺を渡して、立場でもってわりと頭で整理しながらやるんですけれども、二年ぐらい前にタマネギを秋田に持ってきた時に、その値段の交渉をホテルのロビィでやったんですけれども、ともかく訳の分からない人まで参加しているんです。結局、ガンガン文句を言ってくる人がいましたが、ビジネスに全然関係のない人でした。
 ともかく、ビジネスに全然関係のない人がいっぱい来ますから、誰と話すんだと、大事なことはできるだけ少ない人数の人としか話さない。関係のないことには皆んなを引っ張り込まないということが結構大事なことです。
 お役所もビジネスです。お役所に行って、あっち行けこっち行けとなって行った先が、小っちゃな会社だったりするんですよ。(笑い)おかしいなと思っても、みんなビジネスやってんですよ。
 お役所も商売だという点は凄いですよ。警察の取り締まりなんかでも、これも商売じゃないか、夜間は誰かに請け負わしているんじゃないかとそんな感じがします。
 何かおじちゃんみたいな人が夜中にじっと寒いのに立っているのは請負制度だと思いますね。
 後は中国人はよく、メイウエンティといって英語でノープロブレム。問題ないよといいますが、その言葉は半分以下にもなってない、気休めにしかなりません。
 問題ないといってもそのとおりに受け止めてはまず、ダメだろうと思います。問題ないと言われれば言われるほど気をつけないといけないということは非常によく思います。

 それから中国は食事の文化ですから、よく食事をしながらお話をするということが非常に重要です。
 食事の時間をあんまりカットしないように、いきなりビジネスでギンギラギンにならないで、飯の時間はビジネスの話をしようとしまいと非常に重要な場面です。
 二時間三時間の食事はザラです。
日本人は二次会が好きなんですが彼等はあんまりしませんですねえ。
 最初の頃は二次会、カラオケやらバーまがいの所に行くようですが、最近は偉くなるとなるほど、サウナとか健康方面のマッサージに過ごすようなエリートのような人が多くなったと思います。
 
 あとは中国の問題点、国営企業の改革だとか、沿海と内陸の格差の是正だとか、農村の復活、汚職の追放だとかにやっきになっている訳です。
 一方、アメリカとの関係を申し上げますが、私の見たところ、アメリカに対して、非常な憧憬心、あこがれというんでしょうか。それが彼等の心の底にあると見ております。
 確かにアメリカ軍がユーゴを爆撃した時に、中国大使館も誤爆されて何人か死んじゃって、大変な反米感情がおきているんですけど、
あるいは台湾問題が起きますと台湾に身びいきしていると中国人は何時もアメリカにやっつけられているといって酒飲んでいるんですけど、心の底では強いアメリカに非常に関心を持っています。
 ですから以前は日本に留学に行きたいというのは結構、高い位置にあったんですが、もう今や日本じゃないですね。アメリカです。
アメリカに行きたいというのが本音です。サンフランシスコのチャイナタウンはやはり世界一だと思います。行きやすいから今、オーストラリアに行ってますけれどもやはりアメリカです。
 なぜアメリカに行きたいのと聞くと、みんな答えないけれども、本音は自由ですね。
 この国にいると何時かなんかされるからと、というようなことがどっかにありますね。これが対アメリカ観。
 台湾問題についていうと、もし台湾が独立するということになったら、全員攻めていくといった官民あげて高ぶっています。台湾省がなぜ独立するのか、我々の感覚とまるっきり違います。
 アメリカであれ、どこであれそこまで持っていけないでしょう。

 次に3番目のテーマ。中国人とのビジネス、ま、一部入っていますけれども、秋田と大連というところについて申し上げます。
 秋田から大連に行くには、仙台ルートで行くのが楽です。秋田から仙台空港に行って、北京行きの飛行機に乗ると途中で大連に止まります。週に二便でてます。火曜日と金曜日のだいたい3時半に出発すると中国は一時間時差がありますから、一時間早い。3時間で着きます。今日、8月23日の往復のチケットを予約しましたが、九万五千円でした。高いですね。電話も高いし、アメリカにいる娘から電話がかかってきて、直ぐ切れというと、「何いってんのよお父さん、国内より安いのよ」(笑い)中国と電話して、ちょっと話して五千円です。
 気候は酒田と同じくらいです。海に面してますから海洋性気候。従って唯一刺身が食べられる街で、赤貝がとっても美味しいです。
 人柄ですが、旧満鉄の本社があって、最後、引き揚げの時によその土地と違って、割にすんなりと帰れた所ですから、日本人に対しての感情はいいです。
 今なお、日本の建物が整然と残っています。ちなみに官庁街にあたる大連市政府は昔の日本の施設そのままです。裁判所も、警察本部もそのまま使われています。
 旅順に行きましても、日本の建築物が至る所に残っています。
 大連は日本人の町で、青島は韓国人の町と称されています。
 ビジネス上の注意点は、中国は交渉の国だということが絶対的にいえますので、何事も交渉してみることです。日本人のように百円といわれて百円ですかといっていると逆にバカにされます。
 二番目。文章化されていません。日本の場合、役所に行った場合、大体、文書で案内してくれますね。ところが、向こうは文書にしません。それは先ほどいいましたように、部下にも上司にも教えないいんですから、文書にしたら自分のものがなくなってしまいます。
 できるだけ文書化しない、あっても隠すんです。
 それから誰が真の交渉相手かを見抜くこと。とにかくでかいことをいってきますから。
 「船を買います」というと、「何十隻分買え」といきなりいってきます。
 それにドキドキしちゃって、そうですかでは半分、なんていうと相手の術中にはまってしまいます。
 我々としては小さなところから始めます。それじゃあ他を探しますといった態度でいくのが当然ですね。彼等は数字が大きいのが大好きなんです。
 それから、通訳についてもよほど気をつけて、正しいことをいってるかどうか。だんだん中国語をわかってきたら、途中で止めてもう一回いいなさいとか。日本語で喋ってみると案外、通じることがあります。へたな通訳に変にされるよりはいいこともあります。
 言葉のわからない通訳がいるんですよ。いい通訳は大会社で高い給料で務まりますから、訪問団はスポットできた仕事ですから、相手にするのは観光会社か、その提携で、しまいになりますと日本科の学生ぐらいがきます。皆さんのいうことの半分もわからないです。

 合弁企業について申し上げますと、何かやろうというと向こうでは合弁でやろうときます。その前に中国に行ったら、県庁だとか銀行とかジェトロとか公式なところで行ったら、市長だとかが迎える訳ですが、彼等の目的は、簡単にいえば、金と技術を持ってきてくれという話になるんです。提携しましょうということになります。
 仮に提携なり合弁になったりしますが、私は言葉を全部はしょって申しますと、合弁はしないで独資でなさったほうがよろしい。
 独資というのは、独立資本のことですが、つまり合弁としないで自分のところだけでやると。後はマネージャーとか従業員は雇えばいい。これが私の感じで、向こうにいる人の意見もそのへんに集約されるような気がします。
 ビッグなビジネスでは51%以上は持てないとか制約ありますが、中規模程度であれば、独資でおやりになる方がいいですね。
 それから中国というところは不思議な所で、情報があんまりない。
 人が成功したのをみると、翌年、あるいはすぐにわーっと参入します。競争の原理でいうと参入するための壁が非常に低い社会です。
 例えばカラオケでうまくいったとなると、次の年に十件ぐらい、その次は三十件ぐらいとできてきます。誰かが農産物で去年スイカが売れたとすると、今年も全員スイカといった、そういう社会です。
 従って、日本人は回収について計画的に、徐々に回収しがちですが、向こうはすぐに競争が始まってしまいます。
 向こうで商売をしたいと調査を自らされるというのがオーソドックなやり方ですが、とりあえず何か欲しいとなったら、一番早い方法は現物サンプルとこちらで買う値段と数量をバーンとぶつけてしまうのが一番早いです。これだとスピーディに行きます。(続く)

 呑 風 日 誌 抄
 7月1日(火)東京・渋谷のトンカツ屋で娘・江津子と昼食。地下鉄乃木坂で降りると外は雨。青山葬儀所。ここには35年振り。国会議員秘書時代。現首相の父上小泉純也元防衛庁長官の葬儀に代理出席。福田赳夫、田中角栄の両大臣が並んで参列者を迎えていた。 土井脩司氏告別式と大きな立看板が立つ。大きな遺影は少し怒っているような顔。葬儀委員長の瀬島龍三会長が安井新理事長と喪主の久太郎君と並び、純粋で平和をつくるために花と共に生きた土井さんが作った財団を守っていくと誓う。息子・洋平に荷物を渡し、近くの喫茶店で元CTGの槌屋治紀氏、幸村真佐男氏と土井氏の思い出話。学友達とも。高野秀樹氏と六本木の東亜道路工業へ。椛コ役場の林正則社長達と近くの健保会館で一献。毎日新聞の三木賢治論説委員も駆けつけ、土井脩司氏顕彰碑文の三木氏が書いた土井さんの追悼余録の英訳文を渡す。三木氏と東京駅構内の酒場で新幹線こまちの発車ぎりぎりまで飲む。
 3日(木)仙台藩志会ご一行が横手市と角館町を経て、秋田着。横手市の佐々木隆一よねや社長、角館町商工会の門脇重さんに大変お世話になった。一行を榮太楼旅館で歓迎会。観光案内人の千葉美栄さんが絵図にしてで佐竹家の歴史案内のは感心させられた。
 4日(金)仙台藩志会ご一行を天王町の秋田パーク美術館へ案内。歌人で館主の滝廣明氏のご厚情による。11時から秋田市八橋の西来院で仙台藩士殉難慰霊祭。午後2時から、川反先人慰霊秋田委員会主催で川反観音像前で慰霊祭。司会は今年から秋田乃滝社長の斉藤育男氏に頼む。観音像の歌の作者滝廣明氏、像の製作者・高橋勘左衛門社長も出席してくれた。後日、千葉三栄さんが歌を作ってくれた。
 香りたつ五丁目橋で手を合わす     仙秋の人に 小雨やさしく
 まるごと市場で見送り。勝平小学校へ。割山県公舎自治会の剰余金・22万円を杉原義雄校長へ贈る。桜の苗木購入の費用に使ってもらうことになる。
 5日(土)天王町・むつみボタニカルブリーティングセンター落成パーティへ。むつみ造園土木の佐々木吉和社長の突然の指名で乾杯の音頭。社長からは花と緑の農芸財団の故土井脩司理事長の依頼で花の里に造った滝に使う鳥海石を大量に寄贈して頂いた。断れない。花と緑の農芸財団秋田連絡事務所長として「花と緑を愛し、自然とむつみあい、美しい日本をつくりましょう。乾杯!」
 7日(月)秋田市山王・橙屋。恩師小林孝哉先生、楽生会の山谷銀二郎会長、ツバサ広業・桝谷健夫会長と一献。感服すべき話を拝聴。
 9日(水)秋田魁新報の社説に聞き書き活動の重要さ。「時代の証言を記録に」と田口横手総局長が書いてくれた。実践主体は秋田聞き書き学会である。急がないといけない。
 彌高神社の北嶋昭宮司・司法書士の綾之小路洋子先生と通町の酣亭にて塩田哲夫氏を偲ぶ会
 11日(金)千秋学園グランド。課対抗野球試合。相手は文化振興課連合。監督・三塁として打点をあげたが最終回に投げて、順当負け。
 榮太楼旅館での離石会戦友会に出席。離石とは中国戦地での地名。ラッパを持って、国の鎮めと消灯ラッパを吹く。父上が離石会の会長だった榮太楼旅館の小国輝也社長が「大黄河」を歌う。
 12日(土)佐藤孝之助さんのボンゴを借り、秋田大学正門前から7人の韓国留学生を乗せ、牛島町のたんぽぽへ。キムチラーメンをご馳走する。親友・三洲相竜のオモニ直伝のキムチは留学生にとって秋田で初めて食べた祖国の味だったと喜ばれる。
 鷹巣町の広域センターへ。北士館開館三〇周年記念祝賀会。急に来賓挨拶を頼まれ、即席の歌を。「古武道に命を賭けて士(もののふ)がいく ふるさと愛し 世界を股に」
 13日(日)遊学舎。農・食・まちおこしから。地域発国際協力のセミナーへ。日大教授になられた佐渡友哲先生と久しぶり。
 14日(月)平安閣。環日本海交流セミナー。「韓国のビジネス環境と可能性」の講師・ジェトロ福井事務所の根本光幸氏と懇親会後、秋田海陸の西宮公平常務達と二次会へ。
 16日(水)東能代駅・機織会館。楽生会主催の地域づくり講演会。男鹿温泉・雄山閣の山本次夫社長の「私のまちづくり」男鹿観光の元祖を菅江真澄とし、歴史に学ぶ観光開発の実践論。 飯坂市議と久しぶり。八森町の斉藤進氏がダッタン蕎麦に挑戦と聞く。
 17日(水)秋田市卸町の鈴木勝子さん宅。ウラジオストクのロシア極東総合大学のナタリアとバレンティーナの二人に浴衣着付け教室。ニュータケヤの武藤攻一社長の浴衣プレゼント。
 秋田駅前・人情酒場久保田にて元連合青年会長の佐藤悦郎氏と一献。
 18日(金)秋田駅前・ニュータケヤ。極東大学の二人の女子大生の歓迎会。秋田ウラジオ会とハラショー会の共催。ハラショー会の皆さんのロシア民謡。むつみワールドの佐々木 克己社長・ドジャースの挽野泰次氏も出席。
 21日(月)ユーズパル。おらほの未来塾(宮田正馗塾長)へ。勉強になる。
 土崎の港祭り。加成義臣県議宅へ。竹内陸郎先輩が天下国家を論ぜよと。土崎湊のマクベス夫人の劇作家・平辰彦・松川真澄夫婦も参加。
 24日(木)イヤタカ。モーツアルト広場。九本久子さんのピアノリサイタルへ女房と。
 25日(金)ふるさと塾。「石橋湛山と横手」の著者・川越良明氏の講演。今、石橋湛山に学ぶところ大。
 26日(土)金浦町・飛海岸にて海賊焼き。アワビ・サザエたっぷりで牡蠣剥き仕事。渡部ホテル泊。
 27日(日)東京の大澤宏之一家と本荘・清吉そばラーメン、一〇年り。
 28日(月)遊学舎。炭の力研究発表会。秋田木炭研究会主催。小林一三・秋田県立大学教授の「松食い虫被害木と炭焼き」は興味深い。松露探検隊を県立大学松林に派遣したい。21世紀は循環型社会生物資源に軸足を移すことが大切。ふるさと塾にて、第一回ハングルの夕べ開催の世話人会六人。秋田・コリアの集いとし、秋田大学助教授の島村先生を実行委員長に。
 29日(火)朝、秋田駅。椛コ役場の林正則社長を出迎え我家で朝食。大潟村へ。藤田助役、伊藤産業振興課長、渡部課長補佐、川島耕心会会長へダッタン蕎麦の栽培相談。能代市へ。村上昌人魁能代支局長、山谷銀二郎楽生会長と昼食。支局長にご馳走になってしまった。八森町へ。白瀑神社に参拝。夕映の館にて斉藤進さんから蕎麦と白神山地の話を伺う。車で20分程で白神山地・留山のブナ林に案内され、帰りにダッタン蕎麦の種をを蒔かれた二〇〇坪ほどの畑を見る。生育観察をお願いする。
 秋田市山王・館。新県議となった淡路定明、門脇光浩両氏、秋田木炭研究会の鈴木勝男会長と一献。
 林社長を駅前夜行バス停に送る。