ふるさと呑風便 03・6 NO.170
おぼろ月夜
一枚のファックスが届いた。 5月12日。北海道の水口正之さんからだ。彼は北海道の地域づくりの仕掛け人代表格。新聞記事が掲載されていて、車椅子サックス奏者の写真がのっている。渡部昭彦(56)さん。演奏曲目が「イマジン」「オールオブミー」他を熱演とある。5月25日に新潟でライブがあるので、それ以降、秋田でのライブをご検討くださいとあった。
水口さんに電話して聞くと、「渡部さんは滝川で奥さんとスナックをやってるんですが、いい奥さんで音楽に理解があるんですね」
私は、悶々としている元プロのサックス奏者の旦那にこういっただろうと推測した。
「あなた、お店は私がやりますから、サックスをもって全国で障害者の方々を励ましたら」この夫婦愛に勝手に感動して、考えた。
この機会に大館の車椅子歌姫との約束を果たそう。
去年の12月21日。大館北秋ホテル。拙書「青春旅故郷づくり」の出版会。車椅子の畠山ひとみさんが駆けつけてくれて、自作の歌まで披露してくれた。私は彼女を大館の車椅子の歌姫と勝手に名づけ、NHKのど自慢大会にも参加してもらったこともある。 結婚して子どもが生まれ、スナックをやめてからは、歌謡教室を開いて、念願だった老人ホームを慰問している。 彼女に秋田の日赤病院で歌いませんかといったら、目を輝かせて、「ぜひぜひ、日赤で歌うのが夢だったんです」 当方、ひとみちゃんの秘めたる想いを知る由もなく、気軽に「よっしゃ、来年、花の咲く頃やってください」
5月23日。秋田赤十字病院の院長室。病院ボランティアあきたの村上知恵子さんに頼まれていた。毎日新聞論説委員の三木賢治氏から送られてきた児童図書30冊を、七井辰男支局長から宮下正弘院長へ寄贈してもらう。その際、大館の車椅子の歌姫と北海道の車椅子サックス奏者のジョイントライブを6月3日にお願い。患者さんの励みになると院長先生も快諾してくれた。
6月1日。秋田市大町・第一会館で秋田・長野県人会が開かれた。私は長野県選出の国会議員の秘書をした縁で十年前から入会させてもらっている。宮下院長は長野県小県郡東部町のご出身。大館の車椅子歌姫のことを聞かれた。
「バスガイドだった。旧姓は?。田村さん!僕が二〇年前に診察した患者さんだよ。
元気に車椅子で、よかった。ハーモニカで伴奏しよう」
これは大変だとひとみちゃんに電話した。「先生、院長になられてたんですか。すごい。北海道の学会の帰りだといって私にこけしのペン立を買ってきてくれたんですよ」
その日のジョイントライブの感動的な情景を表すには、三木賢治氏のような筆力がない。写真でご容赦ねがいたい。
曲は「おぼろ月夜」だった。
ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成14年6月28日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「森をつくる人をつくる」2
★ 佐藤清太郎氏
(森林経営家・秋田森の会・ 風のハーモニー代表幹事)
私を受け入れてくれた人は12歳年上で、私がホームシックにかからないよう青年会に入るように勧めてくれたんです。
その当時は精密工場に働きに行っている会員がほとんどでした。そこに私が入っていったらみんな変な目でみるんですよ。
変な目というのはみんな農業が嫌で精密工場に勤めているのに、わざわざ秋田から農業実習に来るのかといった、今の秋田と全く同じでような感じで見られました。
青年会に入って、いろいろやっていった。でも、やっぱり少しは寂しいかった。若者が精密機械工場の多い新産業都市で、農業をやっているとのことでマスコミの方々がスポットを当ててくれました。ダメだと思われていた農業に来たという訳です。そういうことでホームシックにはなりませんでした。
六ヶ月の実習期間でしたが、そこで私は農業の基礎を築いたのかなと思っています。
私に教えてくれた方は、「秋田からきて無口で、何にも言わなかったら、私達も教える義務はありません。だから、盗むつもりでやれ。何でもいいから話をせい」といわれました。
でも、まず言葉が通じないんですよ。(笑い)それでもよしと思って、色々話をしていったらわかってもらえました。
そんなことを教わりながら、いい勉強をさせてもらったなと気がします。
帰ってきて、切り花のテッポウユリとリンドウなど作り、秋田から札幌、青森、山形へ、下浜の駅から貨物便で汽車で送りました。
当時は青森から函館までは船でしたから、遅れると花は全部パーになってしまいました。
そんな経験を何度もしてました。その時は田んぼ一反歩で十俵とって一俵四千円かよくなって六千円くらいでした。その時に私は切り花をやってて、十アール当たり粗収益十万くらいとっていたんですね。そしたら小畑勇二郎知事が非常に喜んでくれました。
奥さんが花好きで、当時は大量にテッポウユリを持っていったら喜んでくれて、それ以来、いろいろとお世話になりました。
ああ、よかったなと思ったら減反転作が始まり、水田でも花がいいとなって農協さんが入ってきたんです。いろいろ教えてやって、由利町の百合だからと農協がどんどん助成金までだして作る。個人ではすぐつぶされました。
これが秋田県の農業仲間の足を引っ張る、そしてダメにするのだと思いました。「教えると自分が食えなくなる」と。
当時、花から頂いた幾らかの金を全部、山に投資しました。道路をつけたり、椎茸をやったり、すべての資金を積み込み、二十年前から、森でなんとか暮らしてみたいと、その考え方はゆっくりと年月を要するものを育て、人まねでない経営の重要性の心が今まで、生きてきたのだと思います。
それが先ほどに戻りますが、森の会に続きます。
昭和六十年の森林年の時に築山小学校の生徒さんと小玉合名社長のお孫さんが来てくれました。一緒に山を歩いて。その当たりから子ども達が森に入ってきてくれました。
保育所の子ども達がきて、ナメコをとったり。そうすればこっちは面白いもんですから、一銭もならないですが、楽しい、もっともっと森を生かしてとそんな形でやってきました。
私が林業から森林に変わった一つに農山村でも薪が使用されなくなった。秋田では薪ストーブがなくなったんですね。
私が最後に秋田に来て、薪ストーブ用の薪を出したのは、秋田市南通の加藤歯医者の先生がどうしても薪ストーブでなければといわれ、チェーンソーで町の中で、薪を切って出したのが最後ですね。
それから石油に変わっていった。私の住んでいる下浜地区も石油ストーブに変わって、山仕事がなくなり、都会へでていきました。
都会へ人が出ていくのはいいのですが、村に人がいっぱいいた頃よりも、山菜や野草が森になくなってきたんです。今まで人がいた頃は、食べるだけしかとらなかった。そこへ、商売人というのが入ってきて、山菜も山野草も根こそぎ採っていくので死んでしまうんです。
今、地元の人がワラビを塩漬けするだけ採れないんです。
商売人から採られた山菜は市場で売られますが、残ったものは捨てられているんです。
これでは山菜が可愛そうです。そんなことを思いながら、森の会をやっていた時にこれからは、森に多くの人が入って、森と対話をしていかなけれれば森のものがなくなると思っています。「森も健康」にならないなということがわかってきたんですね。
今、子ども達と森でいろいろやっている時に見えてきました。
しかし、大人の方々は「森に入って安全ですか」「怪我とかどうしますか」との質問がいろいろ出てきます。
その時に、本物の森というのは、非常に危険で厳しいんです。
人間が作ったものは割と人間をダメにするんです。緩和されているんです。それがはき違えているのかなと感じています。
ですから今、森を論ずる時に、
環境、特に危険、安全、ゴミ問題、熊の出現はどうですかとなるだろうと思います。
特に都会の人に私は聞きます。
もし皆さんが自分より高い30階建てのビルの下を歩いていたら危険を感じませんか、私達はとってもおっかないですよ、それに自動車があのとおり多く走っているでしょう。あれからみたら森なんて自分が注意をしてある程度、準備をしていけば安全な所ですよと。
だけども森に入ってヘルメットが必要でしょうというと、ヘルメットは皆さんがかぶったほうがいいでしょうといいますね。(笑い)私はかぶりませんが、でも、作業の時と危ない時にはヘルメットをかぶります。
熊はでませんかという。私の山にも熊の糞があって足跡もありましたから、いると思います。
秋田市のど真ん中に熊が出るんですからね。その話を聞いて、来てくださったのが京都大学の名誉教授でモンキーセンターの所長をしていた四手井綱英先生
奥さんと一緒に来て、うちの森、30fを歩いてくれました。
その時に、先生が言ってくれたのは、「この森は熊がいていいでしょう」「だって、昔は、今人間が住んでいたところに熊がいて、熊を追い払って人間の住みかをつくったんです。人間が放置すれば熊が戻ってくるのは当たり前でしょう。ただ熊とぶつからないように共生すればいいんです」「熊が見えるように森を歩きなさい。そうすればこないでしょう」「野生の動物のいる食べる食料を人間が奪わないこと。人間が奥山へいって自分だけの欲望にならずに、熊に食物を残すことです。
熊の領域を侵さない。だからゴミ箱やトイレも作らない方がいいといわれました。
私は先生方からやれというより、やるなといわれることをやってきました。(笑い)
トイレを作るな、ゴミ箱は作らない。水は持って行け。ゴミは持ち帰れ。全部そうです。 山菜も採ったその場所で食べる方がおいしいといいます。
私がこれからやっていこうとしているのは、森の保育園と老人の里づくりなんです。
特に老人の里づくりは一生懸命がんばっています。もし出来たら素晴らしいものになると思います。規制緩和の問題もありますから、何十年かかるかわかりません。
私の場合は小さな小さな森を使いながら、森の保育園というのは、「子どもの保育」、「森の保育」、「人間が最後に癒される保育」の三つ。
森の保育園児になりませんかといってすすめています。
ここ7年前から、子ども達と一緒に、今年は秋田市内の一〇の保育所、幼稚園から森に来てくれます。
大体二歳から六歳までの子ども達が来てくれています。
森は針葉樹と広葉樹が混合の森の中に池もあり、坂もあり、蜂もいて蛇もいます。色んなものがいる森に年中通して訪ねてきててくれます。
去年は延べにして六〇回、子ども達からパワーをもらっています。職場体験、炭焼き体験もやっていますし、大人の方々が約二〇〇人が来てくれました。 ただ子ども達から一番、教わることが多いんです。特に三歳の子ども達からです。それは質問が一番くるんです。
「これ何?、なぜ大きいの?」一つも答えられないんです。大人には答えられるんですが、子ども達にわかるような言葉で、子ども達に教えるということが如何に難しいか。
何を食べて大きくなるの、この葉っぱというんです。わかりませんねえ。(笑い)
子ども達の感性はさすがに素晴らしいと感心しています。
うちの森の杉林に水芭蕉があります。その場所が自分達が遊んでいる所より位置が高い。
東京から来た子どもが水芭蕉の所に階段がないのと聞くのです。花の咲く時期の水芭蕉しか見てないのですね。恐らく板の上を歩いて、上から眺めるとの時の階段なのでしょう。
それを聞いて、私は本物の自然を子ども達に見せていかなければと思いましたね。
これからも、子ども達から学びながら、その中で子ども達が自ら生きる力、学ぶ力、対応する力、戦う力、協力する力など、いろいろなことを申し上げましたが、一番大きな生きる力を頂いているのはこの私でしょう。
森と共に、森の木々のように美しく老いていけたらと、本物の森の中で頑張ってみたいと思います。
呑 風 日 誌 抄
5月1日(木)メーデー。秋田市民広場。盟友・菅谷理市連合会長の最後の勇姿をカメラに納め、千秋公園前まで行進。夕方、彌高神社宵宮祭へ。献詠代表歌の一つに大内町の佐々木勇氏の歌があり、
拝殿を開きて参賀の人を待つ 今年の務め無事を祈りて
直会にて、献詠歌人の方々と。山田実先生から絵入り弔歌の話を伺う。
3日(土)千葉・旭駅。旭市中央病院に駆けつけ、危篤だという心友・土井脩司氏の枕頭へ。夕方になって話せるようになり、笑顔まで見せるようになった。私宛にノートに書いたメモを手帳に入れる。土井氏、今春、小学生になった三男の里祥君にいう。「デタラメは駄目、正しく堂々と生きろ。お父さんも生きる」里祥君が生まれた時、あと20年は頑張ると電話をくれた。
4日(日)土井脩司氏。ずっと眠ったきり。付き添ってくれている茨木の越川氏が教えてくれた。瀬島龍三会長が花の里の和処へ見舞った時、癌を克服した奥さんからの伝言は「吐くものを全部吐く。食物をゆっくりとる。生きる意欲を持つ」だった。眠っている土井氏の手を握って何も言えずに帰る。
6日(火)朝、今日零時過ぎに土井さんが亡くなったと電話。彼の最後の弟子からだった。友は人と花の大きな輪と和を残していった。
8日(木)夕方。軽トラックで大潟村ホテルサンルーラルへ。土井脩司氏がつくった花の企画社の小池修一、三山茂の両君が四トントラック一杯に、ハーブの種を積んでくる。彼らと相馬喜久男氏も入って多献。
9日(金)大潟村の広大な菜の花畑。菜の花街道を育ててこられた耕心会(川島昇一会長)の皆さん30人と千葉で開催される全国植樹祭用に三千五百本の菜の花を掘り起こす。この日、千葉・芝山町の花の里で、土井脩司氏の葬儀が執り行われている。私は彼の最後の仕事に汗を流せた。四トン車は菜の花を満載して千葉県へ向かった。
11日(日)アキタニューグランドホテル。恩師小林孝哉先生の故涼子奥様のお別れ会へ。清らかな会であった。桝谷政雄社長、林勇一君と仁賀保町へ。フェライト子ども館で小林忠彦会長寄贈の糸川博士のペンシルロケットが展示。つくったのは林君の父上だった。本荘市アクアパルへ。畠山悟画伯の絵画展。鳥海山、人物像も素晴らしい。三浦清一館長と会えて、佐々木青洋先生宅へ。ビクトル先生から買ってきてもらったロシアのゴールデンバットをワンカートン届ける。スナック千へ寄り、小林忠彦会長へ挨拶。
13日(火)山王・館。土井脩司氏を知る学友・渡部薫と二人で偲ぶ会。
15日(木)朝、花の企画社の土井信行氏から緊急電話。全国植樹祭用に届いた長野産の菜の花の切花は花が終わってて使い物にならない。これからトラックで向かうから大潟村の蕾の多い菜の花を五千本程、用意してくれという。大潟村の藤田助役に電話して、職員の動員を頼む。むつみ造園土木の佐々木吉和社長にも依頼。天皇陛下ためだと両氏ともご快諾。午後2時から、菜の花畑で役場職員とむつみ造園の方々、23人。夕方5時まで五、一五〇本の菜の花を用意できた。秋田市下新城の神栄商事(菅原初子社長)の倉庫に運び、ビニール袋に水をいれダンボールに詰める。土井信行氏が大型トラックで着いたのが11時過ぎ。レストラン大大にて一献後、深夜、千葉へ。
17日(土)町内の花作りに頑張っておられる小玉正一先輩、伊藤一先輩にハーブの箱を届ける。市立中央図書館明徳館にて秋田聞き書き学会総会。皆さん、非常に和やかで、意義ある総会だった。アキタニューグランドホテル。秋田・九州人会へ。今年から沖縄県人会(会員46人)も参加。琉球メダカの話。
ふるさと塾にて一献しながら心に響く名曲コンサート実行委員会。 18日(日)秋田県社会福祉会館。盲導犬使用者協会総会(会員16人)へ女房と。ボランティア女王の沼沢益子さんに頼まれ、司会進行役。秋田大学ボランティアネット学生10人。佐々木会長に今、一番望むことはと聞くと、「犬と一緒に広い野原に寝転びたい」何とかしたい。
22日(木)ふるさと塾。アラーキー日本人の顔秋田プロジェクト会議。工藤善一デレクターに座配を任せる。 北海道の渡部昭彦氏車椅子サックス奏者の秋田ライブを笈川卓也氏達に相談。桝谷政雄氏と寿司大和へ。
23日(金)秋田赤十字病院院長室。宮下正弘院長へ毎日新聞論説委員三木賢治氏から送られてきた児童図書を七井辰男支局長から贈呈。病院ボランティアあきたの村上知恵子さん達へハーブの種。遊学舎で昼食。
ふるさと塾。講師が男鹿温泉郷雄山閣社長の山本次夫氏。「男鹿温泉郷からみる秋田県観光」山本社長の菅江真澄の歴史に学び自力で観光開発をすすめる実践力に感服。
24日(土)榮太楼旅館。秋田まごころ委員会。今年のまごころ大賞は長年、中国留学生のお世話をされる佐藤孝之助さんに決定。アーバンホテル。書道家・後藤竹清先生出版会。
25日(日)秋田市下浜の佐藤清太郎さん宅へ。ハーブ種を届ける。
昼、榮太楼旅館。東海林太郎顕彰会総会。夜、横手市・平源旅館。田中秀征氏が石橋湛山の取材で来横。「石橋湛山と横手」を書かれる川越良明先輩のお誘いで歓迎会へ。川俣健二郎大先輩、柿崎実市議会議長、田口魁総局長、民権塾の塾生2人。
26日(月)夕方、自宅から出ようとしたら地震。収まったので秋田聞き書き学会の笈川卓也氏と東通のライブハウス・キャット・ワークへ。オーナーでドラマーの太田徹さんに車椅子サックス奏者のライブの相談。仲間を集めてジョイントライブをと快諾。太田オーナーと一献。帰ったら毎日新聞から自宅に地震の電話取材。二〇年前の警鐘だと答えたら、翌日の全国版の大きく掲載される。
28日(水)千秋公園・あやめだんご。同年三人の39会。加成義臣県議の当選祝い。菅谷理市連合会長の慰労会は残しておく。
30日(土)秋田パークホテル。秋田市大内会役員会。伊藤一氏提案の11月、大内町での桜植樹に参加決定。ふるさとを同じくするものはは助け合うものと、畠山千代志会長、田口勝一郎会長代行からご芳情を頂く。