ふるさと呑風便  2003・5  NO・169
   菜の花 

 青い空の下、海抜マイナス3bにある黄色く広い菜の花畑。
 5月9日午前十時三十分。八郎潟干拓地・秋田県大潟村。この時間、千葉県芝山町の花の里、和(にぎわい)処で花と緑の農芸財団理事長・故土井脩司氏の葬儀が執り行われている。
 私は和処へいけず、電報を打った。へたな弔歌を添えて。
 ふるさとに帰りし友は和へ
  窓辺に菜の花 鳴く安房千鳥
 和処の窓辺に大潟村の菜の花が植えられている。その菜の花を育てている大潟村耕心会の方々と、私は千葉に送る菜の花を掘り出す仕事をしていた。
 千葉県の花は菜の花。
 5月18日に木更津市で開催される全国植樹祭。その際、天皇・皇后両陛下がお座りになる御野立所の廻りに植栽する菜の花を送るためである。
 午後二時。三五〇〇本の菜の花は四トン車に積まれて千葉県へ向かった。

 3月12日夜。自宅に土井脩司氏から電話があった。「4月12日にやる花の里桜花の宴の推進発起人になってくれ、そして必ず来てくれよ」という。「発起人はいいが、いけるかどうか」というと、いつもの元気な声だが、どうも無理している感じだった。彼の言葉には何時も勇気づけられてきた。「わかった。必ず行くから」と答える。
 4月11日昼。成田空港第2ターミナルビル前。弟の信行さんが車で迎えに来てくれた。土井理事長が療養している千葉県犬吠崎の国民宿舎へ向かう。
 土井脩司氏は二階の部屋で布団に横たわっていた。傍らに秋田から送った、ガンに効くという温泉水の入ったペットボトル。やせこけた青白い顔。別人になっていた。「来たぞ」と手を握ると力強く握り返す。が、起き上がれない。信行氏、長男の久太郎君、越川功さんの四人で彼を布団のまま、玄関先に止めてある車に乗せる。
 銚子から、花の里のある芝山町まで車で約一時間。弟さんが教えてくれた。「兄は財団の瀬島会長が銚子にお見舞いにくると聞いて、ここでなくて、花の里につくった和(にぎわい)処で会長を迎えたいんです」
 車中、5月18日に木更津市で開かれる全国植樹祭で菜の花を会場に飾りたいのだが、ここではもう花は終わってて、秋田で何とかなりませんかという。
「八郎潟干拓地の大潟村には、まだ咲いてない菜の花がいっぱいありますよ。何とかしましょう」と約束。
 翌12日十時。和処の広間で「花の里・発起・推進世話人会議」が開かれた。土井理事長は隣の部屋で横たわっていて出席できない。さぞ無念だろう。
 瀬島龍三会長が挨拶。「名ばかりの会長ですが、土井さんの純情に惚れてここまでやってきました」

 5月2日の夜。「土井さんが意識を失って救急車で運ばれました。病院で晴美さんが来て欲しいといってます」 花と緑の農芸財団の研究生から、電話があった。
 翌3日早朝。秋田駅から東北新幹線で東京、総武線に乗り継いで旭駅へ。3時過ぎに到着。車で旭中央病院の救急治療室に駆けつける。
 中は暗い。そっとドアを開けると学友・土井脩司氏はベッドに眠っていた。側には晴美さんが一人。
 昔、土井脩司氏が学生の頃ベトナム孤児救済運動を起こし、戦火のベトナムへ缶ミルクを貨物船に積んで、孤児院に配布した。ベトナム側の受入委員長がサイゴン大学のファン・コック・バオだった。
 昭和44年の冬。バオがビザ無しで羽田に来てしまい、土井と二人で羽田の入国管理事務所から身元を引き受け、中野坂上のアパートに連れていった。
 部屋の中に「歓迎ファンコクバオさん」と横断幕が貼られていた。書いたのが土井脩司氏の恋人・晴美さん。
 あの頃、彼女は二十歳だった。

 目を覚ました心友・土井脩司。手を握って、「おーい、来たよ」と声をかける。「起きる」という。「無理すんな」というと、手で何か書く真似をする。ノートとボールペンを渡すと、「一生に一度 佐々木三千代と一緒にそいねをして、あし・・」
「名前を間違って書いてるよ。添い寝だって」と、晴美さんと顔を見合わせて笑う。この後の彼の字は目をつむって書いていて判読できない。皆んな、でと、呑という字は読めた。
「わかった、いつか添い寝をして、皆んなで呑もう。一緒に和歌山の熊野神社へ行こうな」というと目を開けて笑顔を見せた。皆んなとは誰々だろう。 昔、中野坂上の彼のアパートに集まって夢を語り合った仲間のことなのか。
 畏友はその三日後の未明、旅立たれた。

 全国植樹祭で役割を終えた大潟村産の菜の花。土井脩司さんの夢の実現への第一歩だった、ふるさと芝山町の花の里に、最後の弟子だった一人の研究生の手で移植された。
 5月19日付け毎日新聞の余録。
 論説委員の三木賢治氏がコラムに書いてくれたように花の輪、人の輪に生きた土井脩司記念の花道として。 
 我友は今も夢の花道に生きている。
 有難う。さよならはいわない。
   ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成14年6月28日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「森をつくる人をつくる」
★ 佐藤清太郎氏
 (森林経営家・秋田森の会・  風のハーモニー代表幹事)

 私は今、あるがままの森を利用して遊ぶ会をつくりながらここまできました。
 どこにも勤めたことがないので、田んぼやったり山をやったり、たまにネクタイをしめたりすると人間らしく見られるのかなと思っております。(笑い)
 ここ十年ほど前から環境だとか、森林だとか、最近は安全というようなことばがでてきまして、今年出てきたのが癒し。
 こんな状況を考えながら今、自分のやっている森林の仕事を、あえて十年前から森林経営といってきました。この言葉を使う人はいないと思いますが、あえてそれに挑戦しようとお話したら、栃木県の山縣有朋の曾孫の奥さんがやっぱりこれからは森林経営だろうなと賛同してくれました。 なぜ森林になったかなといいますと、朝日森林文化賞を頂きまして、その頃から全国の方々が、林業でなく森林という言葉が使われだしたようです。
 そして林野庁も営林局ではなくて森林管理局となりました。県からでているものも林業ではなくて森林と変わっています。 それが国民に受けやすい。山というものと森林との区別がわかりにくい時に、91年9月に私達、秋田森の会・風のハーモニーでデビューしたんです。
 このきっかけは20年ほど前ですが、東京でばったり同じ下浜出身の大友英一先生と地下鉄でお会いしたんです。その時先生は、老人医療関係の色んな仕事をされておられ、現場へ行くところで、虎ノ門から乗ったら先生が偶然、前におられてお話ししたのがきっかけで、「何故おまえは東京にきたんだど」(笑い)私は会議で来てたんですが、一〇分ぐらいでしたか、下浜なんだから、海と山と川があるんだろう、何をやってるんだといわれ、山の仕事をしているといったら、先生が咄嗟に「それを大事にせよ」といわれたんです。高齢化社会になれば、海と山と川は絶対に必要なものだ、これを大事にしていくようにといわれて、別れたんです。 私はその時に、何故お医者さんが、我々の林業だとかに関心を持っているのかな疑問に思ったんです。
 そして下浜に帰って、その疑問が解けないでいました。
 私は二五年ほど前から炭焼きをやっていました。そんな山仕事など、子ども達が炭焼きにきて、山を開放といったら格好いいんですが、使ってもらっていました。子ども達を呼んで遊んでいたんです。
 それでもどう考えても「森林と医学」と合体しないんです。私の頭の中では。20年前ですから森林浴なんていうことばもなかった頃です。高度成長で米もいい値段の頃、何で大友英一先生がこんなことをいったのか、どうしても理解できなかったんです。
 そんな中、秋田市の安田内科医院の先生と話をしたら、薬草とかは自然のものが薬になっているし、だんだん東洋医学と西洋医学の違いで見直されている、人間は自然に帰るのだろうなと先生が勉強せいと、厚い薬草の本をドンと渡されました。(笑い)横文字はついているし何一つ分からない。
 自分の山には当時から生け花の先生がよく来ていて、花材をとったりして必ずお土産を持ってきていました。これは参ったなあと思っていたら、当時の日赤の院長の竹本先生とお会いできる機会がありまして、先生はこれからは、そういう人々が多くなるからと森に来る人の会員制の会をつくったらどうかといわれたんです。
 竹本先生から森よりも会をつくれといわれましたが、秋田には千秋公園はあるし、平和公園はあるし、これくらい自然のあるところでと思いましたが、91年の9月にはいってから、秋田の杉のやで発起人会を開きました。
 その時には、林業関係は私だけでお医者さんが入って頂いたり、一四人で設立しました。
 その時にでてきたのがネーミングを何とするか、でした。秋田山の会だとか、色んなものがでたんです。そしたら大友康二先生が「風のハーモニィ秋田森の会」でいいんじゃないかとなりました。そして会則だとかを決めました。なぜ山の会でないのか。大友先生から山と森とは感じ方が違うといわれました。森にしなさいといわれ、こっちがわからない。わからないままに発足したんですが、逆に今の時代にマッチしていました。
 趣意書に山水と書けば田舎くさいので飲料水と書いたら、東京の先生は飲料水は東京で売っている水みたいだ、山水でいいんだと(笑い)
 切り株を私達は伐根といっていたんですが、これは林業者しか知らないから切り株でいいともいわれました。この会は秋田だけではなくて、全国に発信するんだと、だから森の風なのだということだったんです。
 この会は入会したら、大人でも子どもでも、男も女でも全部平等で先生呼ばわりはなしという形でで発足しました。
 その時に全国に先がけて、竹本先生の発案だったんですが、会員は生年月日と血液型を事務局に届けて、連帯意識を持とうとしたのが一番、大きなことだと思います。会員の血液型まで書くのはそんなにないと思います。事務局だけで公開できませんが、もし森の中で怪我をしたとかの場合、お医者さんからみれば、綺麗な空気を吸っているんだとの連帯感を持ってもいいんじゃないかとの考えです。
 ですから、会員は全国に渡っており、お医者さんが3人、幹事に入っております。それからマスコミの方々が入ってきました。お花の先生だとか、お年寄りの方々も、森林と健康というイメージがあったんだと思います。

 森の会が私の心の柱となっているのは、9月に会ができて30fの私の森を開放し、そこを健康の森と名付けて、一番最初のオープンの日が、91年9月の19号台風の日だったんです。
 数時間で森が死の森になりました。朝、森に行ったら全滅でした。オープンの通知を出していますから、その時に一番最初に電話がきたのは、まだ森を見ない会員になったばかりの人達から電話が殺到したんです。 「森は大丈夫なのか」「全滅だ」
「じゃあ手伝いにいくよ」
 その言葉が今でも私の心の柱になっています。
 次の週の日曜日から何人か来てくれて、道路の倒木などを寄せたりしてようやくオープンしました。
 その時にお花の先生も来てくれて、倒れた木をみんな集めて、木の供養をしようという発想が自然にでたんです。花の先生が綺麗に集めてくれて、供養をした時、私は思わず涙がでましたね。私の気づかなかったことを見事に教わりました。
 19号台風にやられた木を供養をしたところが他にあったでしょうか。森に集まってくれた人が一分間の黙祷をして、これからこの森で遊ばせてもらうという話になりました。
 これが林業から森林へと変わった一つの転機になったと思います。
 林業は林業家のものなんですね。いわば業なんです。
 人間が入って始めて森になるんだと。これが今、私の心の中に残っているのと、集まってくれている方々の支えになっています。これが会の方の状態です。

 私の生い立ちですが、昭和十九年、終戦ちょっと前に生まれまして、男一人女四人です。
 私は子ども5人おります。全部女です。(笑い)
 男一人ですから我が儘息子だったんです。お祖父さん子で、何をいってもお祖父さんはいうことを聞いてくれましたね。そこで、私を一人前にするには他人の飯を食わせなければいけないと、中学校を卒業したら丁稚奉公にいく予定だったんですが、叔父さんが高校に入ってなければというので、にわかに中学3年になってから担任の先生から特訓を受けてやっと、金足農業高校に入ったんです。金足ですから、南から北です。
 朝6時半、汽車に乗って先輩と一緒に遊んだりして、帰るのが夜6時半。そんな訳で勉強なんてしなかったですね。それでも何とか卒業できたいい時代でした。
 高校を卒業したら他人の飯を食えということで、長野県の下諏訪に国内実習生として昭和38年に行ったんです。全然知らない土地なんです。当時、秋田県の人は、長野県は共産党の県だと思っていました。林百郎さんが国会議員でした。
 それから凄く進歩しまして、軽井沢、蓼科だろうと観光開発が進んで、ヤシカ、オリンパスなどの精密機械工場があって、凄く景気が良いときでした。
 私が長野へ行くといったら共産党にならないでこいや、(笑い)といわれて諏訪湖の近くで農業のお手伝いです。そこで一番良かったのは、受け入れ農家の方が、切り花をやっていました。百合やバラ、リンドウだとかカーネーションもやってました。花卉農家に6ヶ月入って一緒に作っていました。私は米しか知りません。花でしょう。朝の3時頃たたき起こされ、花を切らなければだめだという日もあったし、雨が降っても消毒しなければならない日もあった。日中は休んでいいと。東京に全部出荷するんですね。私がそこで花の勉強をしたんです。
 ある日、七〇、八〇歳のおばあちゃんと一緒に会合に出席すると必ず紙と鉛筆を持ってくるんですね。一生懸命何かを書いて居るんですよ。あ、これだな秋田との差は、と思いました。
 長野県人はとにかく勉強させていい大学にいれて、錦を飾ってもどってこいと、そのためには少しぐらい金を使ってもいい、生活は苦しいけれども、子どもに勉強させてきたんですね。
 (続く)
  呑 風 日 誌 抄
 4月2日(水)マダガスカルの奇妙な木・バウバブの種をインタネットオークションでゲットし、5種類をプランターに植える。
 3日(木)夕方・平安閣。秋田県旅館ホテル生活衛生同業組合・山本次夫理事長と懇談。男鹿温泉郷で菅江真澄歴史街道をつくられ、お兄さんが鯨岡兵衛元環境庁長官の秘書で都会議員をされている。鯨岡先生は小生の好きな反骨政治家。高知県から来られる方々を男鹿温泉郷へ案内したい。
 山王・橙屋。ツバサ広業の舛谷政雄社長紹介の元秋田工業高校エース・鈴木務さんと一献。元本荘高校エースの工藤幹夫氏に電話したらおらず、奥さんから長男が福祉専門学校に入ったという。福祉専門学校の井上章校長先生に電話で知らせる。
 5日(土)大潟村の熱帯植物園へ。工藤太刀哉主任にバウバブの種を渡す。熱帯温室の目玉にして欲しい。舛谷社長と男鹿温泉郷の雄山閣へ。秋田商業高校のサッカー主将の山本貴紀専務と温泉郷のまちづくりの話。廃墟となったプリンスホテルが気になる。
 船川港の菓子舗ゴンタローで草餅を買って帰る。
 6日(日)秋田市茨島。まるごと市場。白神産の生きた沢蟹がパックに入って売っていた。12匹で三百円。酒の肴にするのでなく飼う為に買う。ヤマキで亀セットを買って、家で飼う。メダカも飼ってて小学生に戻っての観察日記。
 土崎港・本住寺。津軽三味線・視覚障害の進藤正太郎さんのライブ。素晴らしい演奏。近くの西船寺へ。東海林太郎の菩提寺。住職の多田了法さんから、チベット探険の功労者多田了観翁の劇画本を頂く。山王・伊藤旅館。バングラデシュの農村指導をされた故伊藤嘉津雄さんへお線香。向かいの団十郎で政雄社長とラーメン餃子。 
 8日(火)昼。アキタニューグランドホテル。秋田ロータリークラブで講話。NHKの辻篤男局長と飲んだのが縁で「秋田の底力」というテーマで話す。貴方は秋田を愛してますかと。
 午後、イヤタカ会館。TKC主催「セーラの酒ー青い目の細腕繁盛記」アメリカ娘の造り酒屋再建の話。何か事を為すとき授業料だと思って自腹を切れ」はいい言葉。
 小生もそれでやってきた。
 11日(金)千葉、成田空港第二ターミナル駅。花の企画社の土井信行氏と日本の東端犬吠埼へ。療養中の「花と緑の農芸財団」土井理事長を迎えに。
 芝山町・花の里に移築した元水野の殿様の御休処だった和(にぎわい)処へ土井氏を。明日の桜花の宴の準備で皆、忙しい。本来は理事長が書くべき明日の出席者で木札のない方を書くことになる。土井が書いた長島茂雄さんの木札を横において十人程の名前を書く。12時過ぎから山中の家で信行氏と研究生と3人で飲む。 
 12日(土)早朝、和処のベッドの土井理事長におはようというと、手を合わせて拝まれる。花の里推進発起人会議。瀬島会長挨拶を受けて発起人を代表して涌井史郎氏が「土井理事長の夢の実現に力を尽くしたい」と。2百人以上集まった。和処の元当主安井哲氏と会える。元CTGの槌屋、幸村両氏、群馬県の高野氏。懐かしい。芝生広場で藤本敏夫夫人の加藤登紀子さん。「藤本が亡くなって後、土井さんからお手紙を頂き、自然の王国を継ぐことを決心しました」と挨拶。
 13日(日)カミサンと大潟村菜の花街道へ。野良にある菜の花を数本掘りだし土井信行氏へ送る。他は土井脩司氏のもとへ。「最後の一葉」ならぬ「最後の一菜」と。 
 14日(月)秋田市山王・創和技術鰹艶」武美社長と鳥海山の写真家でも有名な方。会長を務められるアジアローラースケート大会の話を伺う。舛谷政雄氏・秋田ボランティア協会の菅原雄一郎氏と川反・志野にて一献。
 16日(水)川反三丁目。秋葉神社の直会。料亭・いくよ。神社境内にはマリア観音像がある。
 17日(木)ホテル大和。港商友会総会。旧知の熱血漢越後谷永一氏が会長に就任。スローガンが創和力進。ご健闘を祈る。
 18日(金)地域通貨協議会総会・山王の「えがった村」にて。秋田藩にて毎日新聞秋田支局の歓送別会。浅田デスク、銭場記者の代わりに北村デスク、津村新米記者。プレープレーとエールを送る。  
 19日(土)本荘市。小林工業の小林忠彦会長から、名曲コンサートで歌っていただく「新雪」のテープを預かり、焼肉シンゴでご馳走になる。明徳舘にて明徳こんわ会総会後の懇談会へ。ジョイナスでの名曲コンサート実行委員会。次回はふるさと塾でやることとして、駅前・久保田での五百歳野球「中通クラブ」の会合へ。何故か遅れて行くと歓迎される。
 20日(日)大潟村サンルーラル。相馬喜久男さんの紹介で菜の花街道を育ててきた耕心会の皆さんと東京・花の企画社の信行、小池、三山の三氏と菜の花畑を視察。千葉の全国植樹祭への菜の花を探す。八郎潟町への道路沿いの苗がいい。三千五百株欲しいとの事。 
 24日(木)山王・如斯亭にて職場の歓迎会。橙屋にてツバサ広業の桝谷健夫ご一家と福井県に住む仏師・山田耕作さんと。山田さんは秋田市出身。志村けんの菩提寺・所沢の梅岩寺の彫刻もされている。
 25日(金)秋田空港。高知県のくろしお地域研究所の吉田文彦所長と三人の研究員の方々を出迎え。あやめ団子で昼食。榮太楼旅館に案内し、ふるさと塾事務所にて。秋田・高知地域づくり研究会。歓迎あいさつ。高知から三人の発表。当ふるさとづくり研究所の西宮公平主任研究員が「北の海道」を発表。高知の地酒交流。秋田銘酒の利き酒コンテスト。全問正解が榮太楼の小国輝也氏であった。三味線茶屋すがわらにて二次会。竜馬の子孫達は皆明るく、酒も強く秋田の負け。
 26日(土)佐藤孝之助さんから借りたボンゴで高知のご一行を大潟村の高知県出身松本さん宅へ案内。ALS(筋萎縮硬化症)の会長でもある松本夫人の話は勉強になった。二ツ井町へ。モクネット事業共同組合の加藤長光理事長を紹介。バイオマスエネルギーの話。大潟村で売っているブラックバスの干物を高知人にお土産。男鹿温泉郷の雄山閣に案内し、山本次夫社長を紹介。翌日、男鹿の観光案内をお願いする。
 27日(日)彌高神社の御輿渡御祭りへ。公家のような赤い服と帽子をかぶせられて旗持ち。イヤタカ会館から神社まで行進。巫女さん達と直会。 
 29日(火)秋田市総社神社境内。特攻隊慰霊祭。太平洋を往復してきたラッパで黙祷の間、「国の鎮め」を吹く。緊張して今年もうまくいかなかった。ふきみ会館にて工藤雪枝氏の「特攻のレクエエム」の講演「今後の日本の精神性や国家観を考える」を聞く。
 懇親会にて再び、ラッパで国の鎮めを吹く。今度はうまくいった。飲んで吹くとうまくできるらしい。
 「スミレ会}の田口榮一さんから、国の鎮めを6月の総会で吹いてくれとお座敷がかかる。イラク戦争反対だが、日本の戦没者慰霊の為にラッパでお役に立てえるなら嬉しい。