ふるさと呑風便  NO,168  2003・4  

   秋田へ行きます 

 クレア・サラスーン。イギリスに住む秋田県の元国際交流員の「娘」クレアから2月末、電子メールが入った。「秋田へ行きます  久麗亜」とあった。
 私は彼女の名付け親で、娘が結婚して秋田へ帰ってきたら日本式の結婚式をやると約束していた。
 秋田市の結婚式場・イヤタカの北嶋昭会長が、娘に振り袖をプレゼントするといってくれていた。親としては仲人役は出来ない。親友・経営コンサルタントの鈴木憲一氏の勝子夫人は、尚美流着付け教室をやっておられる。これ幸いとお二人に仲人役をお願いし、新郎新婦に振り袖と羽織袴を着せてもらうことも快諾して頂いた。
 勝子夫人は歌手でもあり、一昨年夏のワールドゲームズ秋田では、外国の参加選手数百人にボランティアで浴衣の着付けを指導されている。

 平成十年の夏。東京新宿の京王プラザホテル。そこの一室に集まった秋田へ派遣される英語指導助手達とイギリスからの国際交流員2人の前で私はいった。「明日、ビューティフルカントリィあきたに案内します」。
 イギリスからきたクレアは秋田県国際交流協会で働き、イギリスの日本大使館で初めて会った彼、ウイリアムは若美町の国際交流に尽力した。 国際交流とは友達になる事。 二人はその後、秋田で恋に落ち、去年の六月、母国の教会で結婚したと写真入りの報告があった。

 3月21日。2年ぶりで秋田市に帰ってきた二人と榮太楼旅館で再会。常に手を握り合っている笑顔の二人は実にほほえましい。仲人役で着付けを指導してくれる鈴木夫妻宅に小型ジープで案内する。車中、親としては2人はどうやって生計を立てているか心配で聞いた。助手席のクレアがいう。
「翻訳の仕事をしてます。ウイルと二台のパソコンを持って、インターネットで仕事を探すんです。一番いいのはアメリカのテレビゲーム会社の仕事ね。日本語版のゲームの翻訳は一字、6セントなんです。秋田へ行きますだと7字でしょう。だから、42セントなんです」
 算数に弱い自分でも、四百字づめ原稿用紙1枚で2400円か、まあ悪くないなと安心する。
 ウイルには英語で「ふるさと」は何と言うと聞いた。
「ハムタンです」
「え?。あ、ホームタウンか」 

 3月23日。イヤタカ会館にて「宇居瑠と久麗亜の結婚を祝う会」が開かれた。
 イギリス出身の二人は本国でも乗ったこともなかったロンドンタクシーに乗って式場に現れた。お祝いの会場に集まった秋田の仲間達の前に登場した二人。ウイルは羽織袴、クレアは振り袖姿。まさに美しければ全て良しであった。
 二人はビューティフルカウントリィ秋田に帰って、秋田の仲間から、心のこもった結婚のお祝いを受けた。
 知り合って知人、仲良くなって友達。助け合ってこそ仲間である。娘の結婚式で仮の父親は労働力不足につき司会進行役。仲間の助けを得て「娘」との約束を果たせた。
 日本の「父」は、二次会の会場の手配などで忙しく、花嫁姿を見て、涙を流す暇も余裕も、なかったのでした。
  ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成14年4月22日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「仕事が人をつくる」(2)
★ 菅 省治氏
  (元鞄喧kフジクラ社長)

 秋田県が農業と同じ轍を踏むなあと思うのは介護とか、福祉関係です。 
 例えばベッドにしても車椅子にしても全部関東から西で造られています。東北地方にあるのは、仙台にあるJCIという福祉器具の会社だけでめぼしいところはありません。
 だから私は今、福祉に一生懸命な鷹巣町に福祉関係の企業誘致をしたらいいということで、微力ですけc  れど、東京へ行く度にそういう活動をしてます。
 お客さんが全部こっちにいる訳でしょう。私も含めて予備軍がいっぱいいる訳ですから。
 なのに車椅子にしろベッドにしろみんな関東から西。これはおかしいですよ。農業と同じ轍を踏むような気がします。
 秋田県は高齢化率が日本でナンバーワンでしょう。そのなかに私も入ってますが。(笑い)
 それを何とかやりたいと思ってね。鷹巣町の岩川町長さんにそういう話をしています。
 やる以上は採算が合わなければいけませんね。私はメーカーの出身ですから、これがなかなか難しいんで、どういう仕掛けにするか、というがまず勉強でしょうね。すぐ簡単にはできません。
 介護の実態をみますと、みんな標準品でやっているんです。車椅子にしてもベッドにしても標準品。ところが、介護される立場の人は、介護する人からいろいろ聞きますと、昨日と今日で違う、朝昼晩で違う。
 要するに微調整がものすごく要する現場なんです。その微調整の部分で出番があるのかなあ、という気がします。粗調整はいいですよ。粗いのはメーカーが作っていますから。ところが実際の方々は、特に電動車椅子の方は、その人に合ったものを作るのにはプラス何十万もかけているんです。そうしないとなかなか使えない。そういう意味での微調整をすることで、そこに雇用が生まれればハッピイですよね。そういう働きかけを今私はしています。簡単ではありません。採算が合わなければいけませんから。
 製品は子供を育てるのと同じなんです。作る人、ロボットをやるひとは、みているとその人の興味が先行している場合があるんです。金ばっかりかかります。だけど、モノづくりというのは、作る人、売る人、金勘定する人、この三つのバランスがとれていないとダメなんです。どんな会社だって。
 この三つは一種のグーチョキパーの関係ですな。俺はいい物を作ったんだ。使わない方が悪いんだ、ではダメなんです。
 政治も役所もグーチョキパーだと思いますよ。我々一般大衆は役所に弱い。役所は首長とか議員さんに弱い。我々は議員に強い。この三つが大体グーチョキパーになっている訳です。
 これが機能してうまくいっていればいいんじゃないですか。

 私は前に、東北フジクラという会社の社長で、社員約五百人で年商約百億ぐらいいってますが、まだリストラはやってません。
 これは私が会社運営で言い続けてきたことです。
 東北フジクラという会社は、売る人は東京の人が考えてくれているんです。売る方はお客さんと酒を飲んでいればいいと考えちゃうんですね。
 モノをつくっている人は工場に長くいる人達なんです。工場だけにいるだけに、営業はお客さんと遊んでてといってね。そういうことしか思わないんですよ。違うんですよ。
 営業という人は自分の時間を全部割いてやっておるんでね。 金勘定する人はいくらでも安い原材料を買えとか、バランスシートがどうとか命がけてやってる訳です。
 東北フジクラという会社は販売部門が主として東京にありますから、会社としては百点満点ではないと言い続けてきました。

 だけど秋田というのは凄いですよ。力がありますよ。
 私は東北フジクラを運営してね。平成元年に設立して工場つくって、平成2年に操業開始しました。2、3、4の三年間で累積赤字が十億円近くになりました。うちの会社が資本金が十億円ですから、もうちょっとで債務超過です。ところが5、6、7で全部それを返して、プラスにしてちゃんと秋田市に税金を納められる会社になりました。
 なんでそうなったかというと、携帯電話です。
 あの頃まだ、携帯電話が普及していなかった頃です。当時世界ナンバーワンがモトローラなんです。ナンバーツーがノキアといってフィンランドの会社なんです。これはフィンランドで一番大きい会社です。フィンランド国民にノキアと聞いたら皆わかるそうです。
 その会社の方々が会社に来ました。私は秋田県もフィンランドに学ぶべきじゃないかと思うんです。というのは、緯度は秋田よりも北にあるんです。
 彼らが私の仕事場に携帯電話の仕事を持ってきたんです。その仕事の殆どを私のところで、秋田で作ったんです。
 平成4年、ノキアが秋田の竿燈の時に来たんです。どこにも泊める所がなくて、横手の方に泊めた記憶があります。
 彼らは四〇代の若いノキアの社員が4、5人で来たんです。ヘルシンキから関西空港に直行で十一時間、そこから秋田にその足で来ました。で、私共の会社にきてね、川反がどこも満員で一杯飲み屋のカウンターのような処で接待しましてね。それから何回か行ったり来たりして、フジクラに全部頼むとなったんです。
 ですから携帯電話には私共の名前は出ませんよ。彼等の作ったのはケースと電池とノキアというネームプレートだけです。 中身は、腸は全部、こっちが作ったんです。秋田県全体でも携帯電話がほとんどない頃です。NTTの電話が50万台といわれてました。百二十万の人口だから大体合うのかなという感じがしたんです。
 平成5、6、7年、特に7年には四百七十万台作りました。彼等は、設計は自分達で製造は私どもに販売は世界中にといったやり方でした。。
 彼らは頭だけで勝負しているんです。
  私はこれは一過性だなと思ったんです。ですから絶対投資してはいかんと、自分達の会社だけではできないと、秋田県内で作れるところに全部ばらまいたんですよ。うちの会社で作ったのはたった8%です。後は全部外に出したんです。それでも、この仕事は一過性だから投資はしないでくださいといいました。あっても2、3年だよと。そういう話にしておいて、私共がやったのは、絶対丸投げはするな、自分達で最初から最後まで作って、問題点がわかって、わかった時点で出しなさい。ということと、結構部品が多かったんですね、それを全部調達しました。現場というのは、部品を大目に用意してしまうんです。どこの会社もそうです。全部終わった時に、余ってしまってこれどうするとなる。
 だからそういう事を避けるために、自分達で部品を買って、出来上がった製品の検査は全部しました。
 ですから、調達と検査は全部自分達でやりました。
 それで470万台作りました。これが国内の色んなメーカーに知れて、頼みに来るんです。
 二年間で携帯電話だけで百五十億円やったかな。そのかわり大変でした。従業員が作る上での修羅場を経験しますと、凄い自信がつくんです。これは嬉しかったですね。秋田県にもマウンターと称して、そういう組み立てができる機械を持っているメーカーに全部出したんです。秋田県にそうく工場が多くあって、これにはビックリしました。
 あれはTDKさんのお陰だと思いますね。TDKさんが秋田県のメーカーのレベルを上げてくれたなあと感謝しましたね。
 秋田県は大いに自信を持っていいと思いますね。
 ただ、足らないのはパイプですね。私がいまいったノキアとのパイプとか、色んなパイプ網がね。残念だけれど、ない。
 個々には皆んなモノづくりは優秀ですよ。ただ、オーケストラでいえばコンダクター、指揮者がいない。
 それから、役所についてですが、既存の会社に対して関心が薄い。
 例えばTDKさんが、岩手県にでかい工場つくったでしょ。 秋田県工業振興課主催で市町村の責任者が集まった席で聞いたんです。TDKが岩手に工場を造ったことにどう思いますかと聞いたら、あれは河北新報が一番早かったという。マスコミの特ダネの話を聞いているんじゃないですよ。(笑い)
 関心がないということを証明しています。県庁や市役所でも世界のTDKと一体にならなければいけないんですよ。アメリカ大統領でさえやってるんですが、地方に来るとそれがダメなんです。これだと、秋田から会社がいなくなってしまいますね。
 それでも、横手の市長はいいですね。東京へ行くと必ず、誘致企業の厚木自動車の本社を訪ねるそうです。表敬訪問でもいいんです。そういう姿勢がだいじなんだと思いますね。
 
 上に立って、人を使うということですが、本社の深川の工場長時代ですが、千人の従業員がいたんですが、使うというより教わることが多かったですね。 聞く耳を持っているということが、色んな情報が入るんですね。そんな情報というのが案外、おろそかにできない。無視したら大きな損害に結びつくとかね。
 上に立つ人は聞き耳をもって、本物と偽物を見分けることですね。時には忍の一字も大切です。
 
   呑 風 日 誌 抄
 3月1日(土)秋田バリアフリーネットワークの佐々木孝先生が出席されるバリアフリー交流会へ。秋田駅前・アトリオン。盲導犬、車椅子教師の三戸学先生も出席。水中バリアの話まで、勉強になる。
 3日(月)中仙町の草薙孝悦氏から電話で、みのもんたの料理番組に紹介したいとのことで、大内町のとろろ飯大食い大会と雄和町の坂本バイオを推薦する。
 4日(水)むつみ造園土木の榎課長、小林緑さんと割山町花と緑のまちづくりの相談。 
 6日(木)小林孝哉先生、ツバサ広業の桝谷健夫会長、政雄社長と本荘へ。小林工業会長室にて、シベリアや東海林太郎の話。スナック千にて東海林太郎の歌を聞く。
 7日(金)昼、秋田市山王・讃岐うどん。音楽プロデューサーの川又淳氏とシステムエンジニアだったサガンの田崎宏明氏へ27日にケーシーランキンライブのお願い。
 8日(土)秋田パークホテル。「世界に羽ばたく秋田の青年」と題して、元ペルー大使青木盛久氏の講演。三味線茶屋すがわらにて、秋田聞き書き大賞審査会兼祝賀会。大賞が渡部紀代子氏、井上ひさし名誉村長賞が俵谷裕子氏、特別賞が菅原益実氏と決まり、聞き書き学会顧問の作家小田豊二氏を迎え祝賀会。進行役。それぞれ賞状と小田氏が持ってきてくれた井上ひさしさんのサイン入り著書が進呈された。民謡酒場での授賞式は温かく愉快な祝賀会であった。舞台で城南亭鶴亀さんの南京玉簾あり。こまつ座の編集長でもある小田顧問と秋田駅前のサウンドサプライへ。芝居・夜交花の加賀谷敦氏を激励して、川反・鳥八へ。
 9日(日)早朝、小田氏を秋田駅に送り、鹿角市中央公民館へ。ボランティア研修会へ。50人の「鹿角大好き」ワークショップの講評役。鹿角大好きである。
 秋田市ジョイナスにて「心に響く名曲コンサート」実行委員会。駅前サウンドサプライへ芝居「夜交花」を観る。間に合った。
 10日(月)ホテル大和。加成義臣氏の激励会。盛況で安心。全林野秋田支部書記長の西目農高出身の佐々木正人氏が隣。
 11日(火)秋田駅前・人情酒場久保田にて秋田稲門会野球部の役員会。仙台野球部との試合の相談。
 12日(水)秋田駅前バウハウス。アラーキーの写真展の話。スポンサーの問題で難しいとの結論。家に帰ったら花と緑の農芸財団の土井脩司理事長から電話。千葉・芝山の完成した花の里の桜花宴の発起人に頼むとの事。4月12日にやるから来てくれと。何だか様子がおかしく必ず行くと返事。 
 15日(土)息子・洋平の依頼で千葉・芝山へ湯ノ沢温泉・命の水を千秋公園のあやめ団子の荒谷紀子さんから頂いて送る。女房と秋田市楢山の林章ご一家宅へ。舛屋政雄氏も。音楽好き(ウエスタン)の林家族との楽しい団欒。
 16日(日)アトリオン音楽ホール。秋田ブラスカンパニィの演奏会。秋田にこんなに若く上手なブラスバンドがあることは誇りに思っていい。 
 17日(月)象潟町斎場。象潟町企画課長斉藤平実氏。天に昇る。高校同期でつい先日、秋田市のホテルでの本荘由利の会で飲んだばっかりだった。かけがえのない友。
 19日(水)象潟町・蚶満寺。斉藤平実氏葬儀。電車で向かう。山門の横にある佐賀藩士のお墓の前には佐賀県の木・楠がしっかり根を張って生きていた。これは平実さんに植えてもらった樹木。奥様に頼まれ弔辞。へたな歌を詠んだ。 平成に実豊けき仕事為し
   我が友は逝く象潟の海
 西目町の高橋正氏の事務所で着替え、一緒に本荘市・千。小林忠彦会長82歳の誕生祝い。秋田市の演歌師山本実さんもお祝いに駆けつけてくれた。 
 20日(木)秋田職人の会の工藤幸彦会長宅。添川で交通事故死した郵便局員の現場。緩い右カーブに水仙の球根を植える計画。
 21日(金)イギリスの元国際交流員のクレアとウイル。2年ぶりにふるさと秋田へ。宿泊先の榮太楼旅館で会い、仲人と着付けを頼んだ茨島の鈴木憲一氏宅へ案内。二人へ着物の着付けをお願いする。結婚式場のイヤタカからロンドンタクシーで迎えに来てもらうことに了解。
 23日(日)クレアとウイルを秋田駅に迎え、鈴木憲一宅へ。イヤタカにて「宇居瑠と久麗亜の結婚を祝う会」若美町役場のウイルの元同僚に、クレアの英会話の教え子・那須優氏、振り袖をプレゼントしてくれた北嶋昭会長、鈴木御夫妻他和やかで愉快な祝う会。役。
 25日(火)泉の一栄へ。仕事場の送別会。大町の銀河館へケーシーランキンライブ。
 26日(水)昼、山王・大江戸ラーメンをケーシーと。夜、川反一丁目京やにて、菅省冶先輩とケーシーも入って一献。菅先輩がふるさと秋田の工業開発に賭ける情熱に感服。隣の席にいた元同僚に何度も接吻をさせられ、ケーシーと向かいのジャズ喫茶ロンドに逃げる。鳥海良寛ご夫妻が英会話。
 27日(木)課の送別会。メトロポリタンホテル。同僚を誘って山王・サガンへ。ケーシーランキンと秋田の仲間のライブ。オーナーの田崎親子にお世話になった。 
 28日(金)千秋公園・彌高神社・千秋亭にて秋田ふるさと塾特別公演。26人も集まっていただく。小林工業会長の小林忠彦氏の波乱万丈の迫力ある講演。
 30日(日)大内町民謡の里競演会へ。道の駅ポポロッコで大内特産の「とろろ飯」(八百円)重箱入りで中々いける。秋田市大内町顧問会議の伊藤一さんと。5回目の会。十周年までには日本民謡資料館建設にメドをつけたいもの。