ふるさと呑風便  NO.168   2003・3・20

  お会いできて 

 出版会のドサ廻りが終わりました。
 昨年12月に発行した拙書「青春旅故郷づくり」を持って全県各地10ヶ所。3ヶ月かけて秋田市、本荘市、大内町、鹿角市、大館市、横手市、湯沢市、大曲市、能代市、鷹巣町へ。東京と仙台でも出版記念会を開いて頂きました。
 発起人の方々にお世話になり、延べ5百人もの方々とお会いできて、感激でした。
 出席者の中には著者は知らないが、発起人に好意を持っているからと出席された方もおられました。欠席された方々からも数多くの美しいお花やお祝い電報、激励のお手紙を頂きました。深謝です。
 発起人の方々や出版会の開催スタッフの皆様にもご難儀をおかけしました。
 友情無限の感を強くしております。
 秋田市での出版記念会では、2百人もの出席者の前で、歴史的な素晴らしい一言挨拶を頂戴致しました。
「あなたに会えて嬉しく思います」(大拍手)ー発起人代表・大友康二先生ー
 出版会終了後、こちらから、礼状を出す前に、お手紙を頂き恐縮しました。感動でした。
「天気予報では降雪50pのようですが秋田市はいかがでしょうか。昨夜は短い時間でしたが三知夫さんとお会いできましたことに感激しております。今後もお体には充分留意されましてご活躍下さい」
 (羽後町・小坂圭助さん)
「出版記念会、地球の軸である心のふるさとを再確認したすばらしい夜になりました。明るく輝くみっちゃんと手を握り、肩を組み、また元気をもらいました。住みにくい世の中をおもしろく、自分たちの地域を大切にすることにすべての始まりがあるようです。呑風便にふれていたようにますます謙虚に思う存分の奮闘をお祈り致します。奥様によろしく」(東京出版会発起人代表・里見和男先輩)
 出席の連絡はなかったが、
「あんたの顔を見れたらそれでいいんだ」といって、受付けにいた私に、お声をかけて立ち去られた本荘市の菅原和夫先生。
 野球と秋田戊辰戦争の歴史の縁を大切にされている、仙台の石川劭総監督に仙台藩志会の木名瀬敏正氏。 
 感動的な一言挨拶をいえる先生。すぐに激励の手紙を書ける大人の人間。さりげなくご厚情を示される大先輩。そんな人格を持った人にならねばと強く意識した次第。
 
 出版会ではお会いできなかったが、拙書をお送りした縁で、象潟町出身の版画家からの二枚の版画と会えた。子供の情景で著名な池田修三画伯からである。
 それは拙書の表紙に版画を使わせてもらった故佐藤雄治郎画伯の次女で、奈良県の近藤三千代さんのお陰です。
 池田先生は、本荘での出版記念会の発起人であった成田茂先生と親戚であられた。残念ながら成田先生とは出版会でお会いできず、あの世に旅立たれてしまった。
 池田修三先生の版画は佐藤雄治郎先生と成田茂先生からのお引き合わせと想う。
 お会いできて幸せでした。

 池田先生の美しい観音像の版画には会津八一の歌が添えられている。

  あめつちにわれひとりゐて
   たつごとき
    このさびしさを
       きみはほほえむ
             (鹿鳴集より)
  ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成14年4月22日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★ 「仕事が人をつくる」
★ 菅省治氏
  (元鞄喧kフジクラ社長)

 私は平鹿郡大雄村の出身で、昭和5年の生まれです。5人兄弟の末っ子です。私の家は農業半分、駄菓子屋半分をやっていました。みんな兵隊にいってしまって残っているのは我々と女の人だけで労働不足の少年時代でした。小学校をそちらでやって、今で言う中学一、二年に相当する2年間は農業を手伝いました。
 農業とは誠に大変だということをその頃、わかりました。
 それから秋田市に参りまして昭和20年。秋田工業学校に入る訳ですが、その前に満州(中国東北部)にいました。
 秋田日満工業学校に入ったんですが、8月に終戦になったものですから、解散となり、秋田工業学校に編入学しました。
 私は秋田工業学校の最終の卒業生です。
 その後、横手美入野高校に入り一年間お世話になって、昭和25年から早稲田大学理工学部電気工学科に入りまして4年間を経て、昭和29年、藤倉電線鰍ノ入りました。今は名前が変わりまして、潟tジクラになっています。
 そんなことで私は学生時代から還暦まで東京におりました。それから会社が企業誘致で秋田市御所野に東北フジクラという会社ができました。束北フジクラは、従業員約五〇〇名。私は秋田出身だから土地勘もあるだろうということで、そこの社長を仰せつかって平成元年からこちらに参りました。
 再び秋田県民になって12年。現在七二歳です。
 昭和四〇年、五〇年代というのは東京へ出稼ぎに大勢の人が来た時代です。その頃私は海外へ出稼ぎに行くことの多い時代でした。
 平成の年とともに秋田へ帰ってきたんですが、ある時、秋田大学の徳田学長(当時は鉱山学部長)と面談する機会がありました。
 徳田学長も、土木担当の立場から「黒四ダム」の設計に参画されていたことを知り、驚きました。先生はダムに関して造詣が深く、特に「黒四」に関しては特別の思いがあるようで、映画化された本を頂戴しました。
 私も〃第四ダム〃建設プロジェクトに初期の頃、参画しました。
 信濃大町駅に下車し、車で山の麓まで行き、そこから機材を背負って現場へ行くのです。
 トイレを作り、自炊をしながらの作業開始は大変厳しいものでした。厳しい思い出だけでしたので、再び訪れたい気持にはなかなかなれませんでしたが、徳田学長との出会いがあり、共通の話題に花が咲き、再度訪ねてみたい気持にもなりました。

 昭和四十年代、サウジアラビアヘ三回、延べ六ヶ月問出張しました。出張先はアラビア石油カフジ鉱業所というところです。
 この会社は、平鹿郡大森町出身の山下太郎(故人)氏が、ペルシャ湾(油田地帯)の海底油田の権利を取得して、出来た会社てす。掘りあてた井戸戸の数は、当時二十五本あり、一本の井戸から汲み上げらねる原油の量は、当時の日本全出量(秋田・新潟油田)に相当すると言われておりました。
 石油なくしての生活は成りたたない今日を見越して、逢か外地に油田を求めた先見の明は、たいしたものだと思いました。

 私の仕事は、各井戸から集められた沖の原油を、岸へ送るための電力を供給することです。既に海底電力ケーブルが布設されていましたが、旧式でトラブルが多く、新型のケーブルに布設替えすることが主な業務でした。
一本のケーブルの長さが約四十キロメートルです。それを四本布設しました。日本から総勢五十名、現地の人、パキスタン人、イラン人、ヨルダン人などの混合チームでの作業です。気温は日陰でも四十二、三度。湿度三十%前後の気候条件です。このような条件下では、現地のアラビア人の強さには驚きでした。日本からケーブルと機材を三週問余りかけて運んてきてくれた貨物船の船長が言いました。「ホルムズ海峡を原油満載の大型タンカーが、三十分毎に外へ出ていくのを見た。これはこの地域で何かが起こるぞ」とその通りに湾岸戦争が起きました。
 世界の物流を長い間見つめてきている船長には、我々の知らない国際感覚で、異常に気が付くのが早いということを知らされました。石油がなければ農業もできない日本です。

 石油については、大いに関心を持ってもらいたいと思っています。
 昭和四十年代の後半、オイルショックがあり、油に対する依存度を少なくする目的で、「省エネルギー」「省資源」ということが提唱されました。その頃、先進国の実情を調査するためにアメリカとヨーロッパヘ約一ヶ月間の日程で出張しました。そこでわかったことの一つは、電灯照明に対する供給電圧が、日本のように百ボルトでないという事です。
 多くの国が二百ボルトを採用しています。コンセントのような器具は安全のために大きくなりますが、電流が二分の一となるために銅線の太さが小さくて済み、その分、省資源となるということです。
 日本でも新しくできる工場やビル等では、省資漁という点から二百ポルトの照閉が積極的に採用されています。
 たった一人の旅でしたので、苫労もしましたが、大変勉強になりました。
 その後、ヨーロッパ鉄道事情調査団に参加し、二週間の日程で団体旅行をしたことがあります。大変楽しい旅でしたが、あまり勉強にはならなかったような気がします。
 皆さんも、外国へ出かけることが多くなると思いますが、治安が安定している国でしたら、できるだけ一人で旅することを勧めます。また、是非英語も勉強しておいてください。これは役立ちます。

 昭和四十年代後半から五十年代は、東南アジアヘの出張が多い時期でした。丁度、秋田から東京へ出稼ぎの方々が大勢来られた時期です。
 我々はこうして電気の恩恵に浴していますが、東南アジアでは、まだまだ電気のいっていない所がたくさんあります。地図を見て、都市の名前のある区域には電気がついていますが、そこから少し離れると、殆ど電気がついていないと思ってもよいくらいです。そこではランプ生活をしています。
 マレー半島の西側、トレンガヌ州の農村と西マレーシア、サバ州コタキナバル近郊農村の電化に参画しました、各々百件程度の集落ですが、完成した時の彼等の喜びは大変なものでした。
完成セレモニーの日は、子供達は晴れ着を着せられ、ご馳走を作ってのお祝いです。
 きっと日本の農村でも、最初の電灯が点灯した時は同じだったに違いないと思ったものでした。
 日本では、電気は空気と同じように考えがちですが、東南アジアにはまだ電灯がなく、文明とは程遠い人達が大勢いることを忘れてはなりません。
 これまで体験してきた事は、やっている時は大変でしたが、今にして思うと、良い仕事に恵まれていたなと思うこと、無駄な体験はないということを強烈に思い知らされます。
 そして、いろいろな仕事が今日の私を作ってくれたと、国内外の関係していただいた方々に、感謝の気持でいっぱいです。また、成功したこと、失敗したことを思う時、必ず「教訓」という名の宝物が内蔵されていると思いました。
 特に失敗した時は他人のせいにしがちですが、それも部下に対する教育不足、自分の勉撞不足が教訓として残ります。その教訓がその後に役立ちます。

 ふるさと秋田に帰ってきて一番に感じることは、農業が変わったということです。私も小さい時から農業をやって大変さを分かっています。
 今の農業機械化に驚いています。田植えや稲刈り、私も経験がありますが、腰をかがめて大変な重労働でした。それから開放されたんです。これは農協の皆さんの努力があったことと思います。
 しかし、あれだけ機械化された農業なのに、、秋田に農業機械メーカーが一つもない。秋田に限らず東北地方に、あっても大したところがない。皆、関東から西のメーカーに依存しています。
 私はメーカーに育ったものですから農業県の秋田が何故、農業機械のメーカーを地元に企業誘致しなかったのか、残念です。
 もし、それが難しかったらメンテナンス工場でもよかったではないですか。それすらもない。全部、関東から西のメーカー任せ。農業やっている人はお客さんになっている。これは悔しいなあ。
 このことは県にもいろんなところで訴えています。
 工業高等学校が増えているんですよ。私らの時は、秋田と横手にしかなかった。
 なのにその卒業生を受け入れる企業がない。みんな中央に頼り切って、関東、関西への人材供給学校になっているのです。
 保守工場でもあれば、改善することが地元でもいくらでもできる。
 そこに小さな工場が生まれると思う。工場が生まれれば、中国や東南アジアに農業機械の発信地になれたはずだと思うんです。
 これは秋田だけでなく東北全体のことでもあるんです。
 秋田では、小畑知事の時代に農工一体といったんです。農工の横の連絡がよければよかったのではないでしょうか。
 いまこうやって眺めていますと同じことを又、やるなあと思うことが一つあります。
          (続く)
 呑 風 日 誌 抄
2月1日(土)早朝、能代・八幡神社に参拝。二ツ井町の盟友・加藤長光氏宅。母上殿の弔問。鷹巣町・道の駅にて行われていた雪中稲刈りの見学。六尺四方の雪中に四株を植え、豊凶占いは稲がたわわに実った稲穂のようで今年は豊作とのこと。
 米沢屋にて拙書出版記念会。北士館の七井専宗館長から発起人代表挨拶をお願い。二次会には藤田則雄氏達と秋田土建の塚本亮一氏と一献多献。
 4日(火)秋田市山王・讃岐うどん茶屋。武藤拓自氏から東海林太郎の手紙等の話を伺う。ツバサ広業の桝谷会長夫妻、政雄社長、小林孝哉先生。 
 6日(木)午後二時。新幹線こまちで上京。関東に入ると東南に影絵富士がみえる。娘と新宿・末広亭。旧知の三遊亭歌之助師匠がトリを務めていた。焼肉満月、映像コーディネーターの針谷さんも来て、薩摩おごじょへ。特攻の母から知覧の話を聞く。
 7日(金)東京・青山、ラ・フローラにて拙書・出版会。45人お出で頂く。里見和男先輩から発起人代表挨拶。病気を押して出席頂いた心友・土井脩司氏。学友、先輩多数。二次会はお世話になった若林正彦氏、娘達やケーシーランキン、清水亮一氏達と渋谷へ。
 8日(土)仙台市・勾当台会館。拙書出版会・石川劭先輩から発起人代表挨拶。仙台稲門野球クラブ、仙台藩志会の方々30名。牛タン喜助へ大河原要会長達と。木名瀬敏正氏のお世話で仙台ホテル。
 10日(月)秋田空港の一番機へ。里帰りする女房を見送り。
 夕方、バウハウス。森川恒社長とアラーキー日本人の顔秋田プロジェクトの打合せ。工藤善一氏に東京プロジェクトとの情報一本化を託す。
 11日(火)榮太楼旅館前で秋田大学名誉教授の菱川泰夫先生とバッタリ。快い関西弁で激励を受ける。秋田駅前・アトリオン。秋田ロシア音楽祭へ。中央公民館での奈良和美さんによるワークショップ・国際教育・国際交流ー思いやりの自分史ー。コスモポリタンホテルにてロシア音楽祭の打上げ会。各グループによる歌の交流。鳥海町の佐藤定樹さんと山王で二次会。
 12日(水)秋田聞き書き学会事務局会議。3月8日に小田豊二講師を迎えて聞き書き大賞授賞式の相談。三味線茶屋すがわらにて開催する予定。
 13日(木)本荘駅前・ふるさと。小林忠彦会長から「煙草のけむり」発表会のバンド、ドルチェ&カンパニィのメンバー4人、ビクトル先生、鱈づくし料理をご馳走になる。・スナック千。小林会長がTDK蒲田工場での少年工時代、東海林太郎から言われた言葉。歌手になりたいのだったら、喉から血がでるほど発声練習をしなさい」
 15日(土)昼。秋田市・焼肉大昌園。石の勘左衛門の高橋正社長と。脱鉄・マンガン装置で金正雄社長と地下水の活用の話。
 16日(日)昼、五城目町の道の駅「悠紀の国五城目」へ。
古井直義氏、比内町のおぐら製粉所の小倉隆夫社長と。自然薯とろろめし、八百円。五城目町特産の自然薯を使って11月から二月末まで。大内町でもやれないまいか。
 17日(月)焼き鳥げんこつから三味線茶屋すがわらへ。聞き書き大賞授賞式の相談。城南亭鶴亀さんの南京球簾がいい。
 19日(水)秋田市大町・志田屋にて、県庁早稲田人会の送別会。柴田康二郎県議、竹内仁、石田槙夫先輩。寂しくなる。高久正吉県議と紀文へ。朝日新聞の細見、杉山両記者と蕎麦。
20日(木)千秋公園・あやめ団子。彌高神社の北嶋昭宮司の同志社の後輩・吉田和之夫妻をゲストに、アド東北の小寺正常務・司法書士の綾小路洋子先生と。寿し大和にて二次会。ウラジオストクに一緒に行った秋田市場運送の赤上信弥専務に声をかけられ嬉しい。
 21日(金)秋田キャッスルホテル。本荘由利の会。町村長、役場幹部の方々と。象潟町の企画課長の斉藤平実氏と久献。大内町役場の菊地利男君を誘って寿し大和へ。
22日(土)午前。三味線茶屋すがわらへ。益実師匠から民謡三味線入門初日。秋田節を習う。結構難しいわ。彌高泉神社の春祭りへ。
 23日(日)東由利町へ。秋田大学石井千万太郎教授の学生チームとミネソタ州立大学秋田校のジョンモック先生の学生達2チームをマイクロバスにて向かう。17チームも参加。秋田大学チームに20年前からの野呂克彦投手と出場。二試合もでて、黄桜温泉にて表彰式で主催者側で挨拶。優勝した大森クラブの選手に柴田康二郎夫人へカスミソウの花を託す。帰りのマイクロバスにて、缶ビールで日米学生歌合戦、アメリカの完勝だった。日本はアメリカの傘の下な訳。 24日(月)山王・橙屋にて富士印刷機械、大内町出身の高橋昇氏からな体験談を舛谷政雄氏と聞く。
 26日(水)山王・館。仙台稲門野球クラブの中野三樹氏。当野球部の大島昌良主務と今年の交流試合の打合せ。
 27日(木)山王・八条。NHK秋田放送局の辻篤男局長と誕生日が同じということで一献。同門の鹿又勝己副局長も入る。八条の大野夫妻に八潮市の中脇操さんからのジャンボ煎餅を届ける。三味線茶屋すがわらへ。老夫婦が舞台で手をつないで民謡を歌っている姿に辻局長、完敗だという。さすが。
 28日(金)ふるさと塾。宮腰郷平先生による「東海林太郎物語」東海林太郎顕彰会の後藤正次会長にもおい出で願う。佐々木啓助次長とあしながおじさんへ。シンガーソングライターの津雲優氏とふるさと大内の話。