ふるさと呑風便 2003・2・20 166号
富士山頂
秋田駅発14時05分の新幹線こまち。窓側D席に座っている。 2月6日。関東平野に入り宇都宮を過ぎた。しばらくして、車窓の右前方が夕焼けに染まっている。遥か遠くに影絵なった小山が見える。だんだんと大きくなってきた。もしかしたら、やはり富士山だ。夕焼けに染まった空に富士の山がシルエットのようになって見えた。美しい。
昭和38年。私は高校3年の夏にあの麗峰富士に登った。山頂は登山客のラッシュ。それに暑かった。感動どころでなく、火口を覗きに少し下ったら、左前方の剣が峰に測候所が見えた。
仙台駅発6時37分。秋田行きこまち71号。前日の8日、仙台にて拙書「青春旅故郷づくり」の出版会を催して頂いた。
友情無限の感を強くしている。発起人になった頂いた仙台藩志会の木名瀬敏正氏から、弟がでていると「プロジェクトX」の本をお借りしてきた。 窓際D席に座って読む。
昭和39年9月。富士山頂厳ししくも感動のドラマがあった。
富士山頂測候所の一角に巨大なドーム型レーダー設置された。そのドラマがNHKのプロジェクトXで紹介されている。「巨大台風から日本を守れ・富士山頂・男達は命をかけた」
その命をかけた男達の中に、三菱電機機会技術課の技師・木名瀬武男(当時25歳)がいた。
40年前の2月。彼は家族宛に遺書を書いて厳寒の富士山頂に登った。
「何度やっても視通テストはうまくいかなかった。体力も使い果たしていた。それを知った東京の本部からの指令で、明日には下山することになっていた。この日の夕方、木名瀬武男はあきらめきれない気持ちで何となく東京の方を眺めていた。すると、そのとき雲がすっと晴れ、東京の明かりが見え姶めた。
夕焼けの中で當士山がシルェツトになっているぞと、東京から連絡が入ってきた。これが最後だ、この機会を逃す手はない、と木名瀬は思った。ただちにアイゼンをつけピッケルを持って、測候所から出た。
『ところがマグネシウムがセットしてあるところまで、わずか30mほどしかないのに、風が強くて進めないいんです。あとで聞いたところでは風速45mもあったそうです。立っていたら、あっというまに火口に飛ばされてしまう。だから這うようにして数歩進んでは、風の息がやむのをしぱらく待ち、また進むといった感じでした』(木名瀬) ようやくマグネシウムにたどりついた木名瀬は、懸命に体で風を遮りながら、持って来た一本の筒に火をつけ、セットしておいた束に点火した。
一瞬にしてマグネシウムは燃え上がり、木名瀬は目を閉じてその場に這いつくぱった。
東京の望遠鏡の視野、十字線のやや右に、朱鷺色の光点がはっきりと浮かぴ上がった。富士山頂と東京が結ばれた一瞬である」(プロジェクトX@執念の逆転)ー巨大台風から日本を守れー)
後日、木名瀬さんから、弟さんが三菱電機を退職後に書かれた手記「厳冬期の山頂調査とレーダードーム」を送って頂いた。
それによると最後に、
「執念は周りの人を動かし、そして自然現象までも味方してくれることがある。何でも一生懸命にやれば何とかなるものだというこの若い時の体験が、その後の会社生活で仕事に取り組む姿勢となった」とある。
仙台を早朝に出発した新幹線こまちは、盛岡を過ぎ、仙岩峠のトンネルを通過すると、車窓は美しい墨絵の世界に広がった。
秋田駅に降りるとピリリと寒い。これもまた、良し。
ふるさと塾地域づくり 実践ゼミナール
★ 平成14年3月22日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★御輿づくり まちづくり(3)
★ 中村芳夫氏
(彌高泉神氏子会副議長・秋田英数学院院長)
それだけ多くの人達が祭りに携わってくれたんです。
今も考え方としては作るほうにまわりたいといっていますし、非常に面白い祭りができたなあと思っております。 他の町内会、大住町や外旭川の町内会からも来てくれます。 外旭川では何度も泉に足を運んで、一日ですけれども夏祭りをやっています。こういうのが広がってくれればなあと思いますね。特に泉のような新興住宅地ではお盆や正月には人がいなくなる。
みんな実家が他にありますから、帰っちゃう。最近はそうではなくなってます。泉で生まれて泉で育った子供達がようやく定着してきたんです。
私達の合い言葉は、神社もお祭りもそうなんですが、「俺らにはふるさとがあるけれども、泉で生まれ育った子供達にはここがふるさとなんだ。だから祭りのあるふるさとを残そう、神社のあるふるさとを創ろう」
これには誰も反対できないことであって、これを軸にしてやってきました。
今、学校でもPTAでのアンケートをとると夏祭りが一番印象に残っていると。丁度、泉小学校の一期生が三三歳になった時、もう少し頑張らねばいけないと思いました。
厄年のお祓いをするのに、泉には神社仏閣が一軒もない。そこで、伝統をいかして、祭りとかを残すためにも神社を創ろうとなったんです。
そうして飲めば神社欲しいなあといってまして、北嶋宮司さんはその頃から祭りを見に来てくれまして、そしたら、本当かといってたら、本当に土地を買ってくれたんですよ。(笑い)泉にです。
正直いってこれ大変だと思いました。土地があっても神社をつくるにはあれやこれやで二千万はかかると聞きました。ま、とりあえず「泉地区に神社を建立する会」をつくりました。また、会を作った訳ですけど、百人ぐらい集まりました。で、色々やりまして一年たっても二千万集まらない。二年がかりで1600万集めました。一六〇〇口で、平均すると一万円なんですけれども、百円とかの人もおりますし、二百万という人もおりました。やればできるもんだなと又、思いましてほんとに不思議だなあと思いました。
祭りの際にみんな好きなことをいって実現してきたんですね。太鼓を叩きたい、じゃあ太鼓を造ろうと。
最初に夏祭りに土崎の港囃子を呼んで、毎回呼ぶとお金もかかるし、自分達でやりたいなと思っていました。
有志が集まりまして、古タイヤを叩いたり、聾唖学校にある太鼓一セットを借りて、指導は彌高神社の彌高太鼓の方に指導して頂きました。
その時から彌高神社さんとご縁が出来まして、ご指導して頂いている訳です。
私も太鼓の一員ですが、一度人より早く終わってしまって(笑い)あれから叩いていません。(爆笑)
太鼓欲しいなあと思っていたんですよ。安いので20万以上もします。そしたら日本生命の財団の方から話がありまして、そこで5、6本揃えまして、最近は彌高さんのお陰でお座敷がかかるようになりました。
去年、「まるごと市場の正月に来てくれ」となり、それらを貯めて、太鼓を少しずつ増やしています。
御輿の話です。
これもひょんな話で、うちの体育協会の会長で、ジャスコの子供用御輿を当った人がいるんです。祭りの前にそれをくれたんですよ。
それを3,4日徹夜しまして、ペンキ屋さん、大工さんと私らで手伝いまして手造りの御輿を造りました。ほんとキッドしかなかったんです。
御輿を持っていると神社がないと格好つかなくなったんです。そ、神社があっての祭り、祭りを先にやってしまったんです。(笑い)
そこに泉太鼓の結成のことを書いた資料がありますが、そうこうしているうちに、彌高神社の御輿担ぎに参加してますが、そしたら御輿が欲しくなったんです。
第一会館で飾っていた御輿が置くところがないと聞いて、それが今、うちにあるんです。何も金をかけないで、子供御輿とうちの所有でないんですが、御輿があります。
確かに泉という土地柄は、どこどこの社長さんやら結構、お偉いさんが住んでいます。別にごちゃごちゃ言われないです。私らがやっていることに対して結構寄付してくれます。ごちゃごちゃ言われないで、好きなようにやっています。だから、これがうまくいって、変に俺が昔から住んでいるとか新しいとか無ければいいなあと思っています。
何もなかったところに祭りができたり、子供御輿や神社ができて、子供達が経験したことを継いでいってくれたらいいなと思っています。
他に卓球クラブをつくったり、私が離れるとすごくうまくいくんですね。(笑い)
泉タッチラグビークラブをつくったりしまして、佐々木さんとお互いに協会の理事をやっているんですが、これは全国優勝したことがあるんです。
こういうことでやってきたんですが、「出る杭はみんなで引っ張ろう。みんなで失敗すれば怖くない」「とらわれす、こだわらず。そして流されず」でやってきました。
私は学生運動や労働運動をやっていた時に、すごくとらわれていたような気がします。「何してはいけない、かにしてはいけない」
大阪で万博をやってた頃で、万博反対だなんていって、秋田から人が来れば、案内したりして(笑い)
やはり自信がなかったから、考えがしっかりしてなかったからだと思っています。
これからも「出る杭みんなでは引っ張ろう。みんなで失敗すれば怖くない」「とらわれす、こだわらず。そして流されず」
で、又、何か会をつくって泉のまちづくりに挑戦していきたいと考えています。(拍手)
我青春風来記(138)
早海三太郎
下井草(8)
三太郎の学生生活、最後の秋。 早稲田祭での早稲田座頭市の芝居は散々だった。秋田から持ってきて、本番に使った秋田銘酒が、早稲田祭実行委員会に没収されたのは惜しかった。
当時から実行委員会は革マル派が牛耳っていて、プログラム代金が彼らの大きな資金源となっている。
商学部の自治会も革マル派が占めていた。
授業料値上げ反対運動が沸き起こった昭和41年の冬。
スペイン語クラスにオルグに来た革マル派幹部とやりあった。 体育会系的ノンポリの三太郎は、ピケを張るとかの前に、授業料値上げの根拠となる大学会計の公開を求めるべきだといった。教室で立ち上がって熱弁を振るったが、相手にされない。 すぐ前の席に、小柄だが綺麗で落ち着いた感じの女子学生がいたのを覚えている。
級友に彼女は誰だと聞いた。「知らないのかお前、田中真紀子って、親父が自民党幹事長の田中角栄だぞ。彼女に話しかけたりしたらオイ、親父に殺されるという評判だぞ」
学内で革マル派の書記長から話かけられた。そこを中西ゼミの中西睦先生が見ていて、心配して大丈夫と聞かれた。「何でも、文化祭でキューバの話をしてくれと頼まれただけですよ」と答えた。
(去年の秋。学生時代から心配をかけ、可愛がって頂いた豪快で優しい中西先生の墓参りに、学友と訪ねた。千葉の竹林の中にある墓地だった。こんな寂しい所に先生がと。涙がでてしまった)
政経学部地下の一室に革マル派と対峙する社学同のアジトがあった。そこでもキューバの話をしてくれと頼まれ、ノコノコと訪ねていった。
女子学生一人を含めた社学同の幹部6人が集まっていた。 委員長の大口昭彦氏は早稲田紛争を指揮した有名な学生運動の指導者。元剣道部でボサボサ頭で学生服の大口さんに三太郎は好感を抱いていた。
約束の時間が過ぎても、大口委員長が来ないので、外にでて見たら、キャンパスを時計を見ながら走ってくる学生服姿があった。一生懸命に謝る大口さんと一緒に地下への階段を下りた。
三太郎は、キューバ革命の歴史から、カストロと会った話等を30分ほど話した。
質問の時間となって、最初に田中真紀子とは全然違うタイプの女性幹部が「キューバは社会主義国だからあまり遊ぶ所がなかったんではないでしょうか?」「いやいや」と三太郎が答えたのを途中でさえぎった幹部。大口委員長とは正反対の貧相な文学青年風の男が彼女を怒った。難しい言葉を並べて、要するに「遊ぶ所がとか理論水準の低い退廃的な質問をするもんじゃない」といった。
女を怒るとは嫌な奴だ、こんな所にはおられんと三太郎は早々に退出した。
文化祭の最終日。大隈小講堂。三太郎はで「キューバは今」と題しての講演に臨んだ。二百人程の席に半分は入っている。 中南米研究会の2年生、坂本幸穂君(石川県鶴来町・小堀酒造社長)がスライド映写の準備をしてくれている。講演は全く初めてで、心臓がドキドキしていた。
(続く)
呑 風 日 誌 抄
1月1日(水)家族で彌高神社に初詣。おみくじは中吉。午後は北嶋昭宮司と彌高泉神社の歳旦祭へ。朝日新聞の元旦特集号「秋田力を考える」に写真入りで大きく載る。
2日(木)ツバサ広業の舛谷政雄社長と秋田市の佐々木満先生宅に初めて年始。甲子園の話。高野連牧野会長のサイン入りの「野球の殿堂」の本を頂く。
3日(金)本荘市・安楽温泉。上川大内中学校14期の同窓会。東京・京都から27人集まる。同級生とはいいもの
4日(土)秋田市在住の同級生達と本荘市松ヶ崎の照子の家に寄る。直ぐ下が海。ご亭主が漁師。今年はハタハタが大漁。冷凍ハタハタをどっさり頂く。
6日(月)秋田市川反5丁目・ほっと愛。秋田市に住む中学同級生3人、秀治、正治。渡部恵美ママの特技は小さい頃から蛇を食べて丈夫な歯でビールの栓を抜くこと。
11日(土)神楽坂会会長の古井直義氏と比内町のおぐら製紛所へ。中国に三千五百fもの農地を持つ小倉隆夫社長と中国プロジェクト等の相談。
秋田市山王・讃岐うどん。対関東学院のラグビーのテレビ観戦。13年ぶりの優勝・ラグビー部OBの猿田武夫氏から「荒ぶる」の歌を教わって皆で歌う。
13日(月)秋田市・ベルコシティホール。大友正勝先生の葬儀。山と野球と家族を愛された先生。拙書の出版記念会に出席されたばかりだったのに。
秋田キャッスルホテル。長年の理容業界発展に尽くされた盟友・加賀屋利雄氏の黄綬褒章受賞記念祝賀会。大盛会。
14日(火)千秋公園・あやめ団子。県文化功労賞を受賞され、医師で港振興会の会長もされ多大な地域貢献をされた秋元辰二先生と。聞き書きの話等を伺う。
15日(水)平安閣。秋田青年会議所新年会。父親を知っている現役が多くなった。
17日(金)横手グランドホテル。拙書「青春旅故郷づくり」出版記念会。柴田康二郎先輩から発起人代表挨拶。懐かしきも良き出会いもあって嬉しい会。元空手部主将で雄物川町の佐々木太郎さん宅に拉致される。
18日(土)昼。榮太楼旅館にて東海林太郎顕彰会の後藤正二会長、高橋知徳市議会議長と、東海林太郎記念室開設の話。東海林太郎と係わり合いのある会のネットワーク化を図る。
本荘市・ホテルアイリス。
小林忠彦作詞作曲「煙草のけむり」発表会へ。ロシア語で煙草のけむりを歌うのビクトル先生と。3時からリハーサル。生バンド・ドルチェ&カンパニイの伴奏で、小林忠彦会長、4曲一発でOK。本番の発表会で司会進行役。百名ほど集まって頂き、佐々木青洋先生の挨拶とハーモニカ。加藤一三先生の尺八の友情出演ありで大成功。バンド仲間とスナック千で打ち上げ。
19日(日)カミサンを秋田温泉リラックスへ。秋田駅ポポロード。秋田ユネスコ協会にカンパ。北朝鮮拉致疑惑を解明する秋田県民の会に署名。
20日(月)秋田駅前バウハウスの森川恒社長とアラーキー秋田ノ顔プロジェクトの打ち合わせ。大町・牛角にてカナダに留学する柏谷真理さんの送別会。
22日(水)昼。森川恒氏と職業能力開発協会の高橋昌一会長に、アラーキーの相談。
全国職人学会会長に就任される会長から「職人の詩」を頂き、カレーをご馳走になる。
23日(木)湯沢市・仕出し柳沢。拙書出版記念会。阿部和夫氏の挨拶。高久正吉先輩から乾杯の音頭。昔、血迷った時に応援してくれた「湯沢雄勝夢おこし会」の仲間と会えた。佐藤芳嗣・小町の国大統領達と二次会。
24日(金)秋田ふるさと塾「おかゆ頭のまちづくり」講師はジャーナリストの和多田進氏。佐賀県有田に「日本の美伝承所」設立構想の話。
階下のレディにて、アラーキー秋田ノ顔プロジェクトの情報一本化を工藤善一氏に託す。
25日(土)大曲エンパイアホテル。拙書出版記念会。風邪をおして出席された発起人代表の高柳恭侑先輩に抱きつく。船友達とも会えて嬉しい。仙北町の藤井喜義氏達と焼き鳥大ちゃん。
27日(月)秋田市・イヤタカ。県庁大内会。代表挨拶する羽目になってしまった。92歳の畠山千代志大先輩の乾杯。「ふるさとを同じくする者は、いたわりあい。励ましあい、助けあい」いいお言葉。駅前人情酒場久保田にてスタッフと二次会。
29日(水)矢島商工会にて講演。題名は拙書と同じ「青春旅故郷づくり」だが、夢が人生をつくった小林工業の小林忠彦会長の話をする。そしたら高校同期の矢島小林工業の三浦明治課長がいた。懇親会で、サトー工業の佐藤健美社長(東海亭家留)と落語の話で盛り上がる。
31日(金)能代市・料亭金勇にて拙書出版会。いたましくも息子さんを亡くした金谷哲氏へ御花。恩師の続隆先生から発起人代表挨拶を頂く。
藤里町の斎藤博洋氏達と釜開き、ハタハタ産卵の海中写真話等で二次会。