ふるさと呑風便 03・11月号 NO.175
砂糖水
「カネだよ」
シンガーソングライターのケー・シーランキンはいった。
10月14日の夜。角館町・ジパングという店。ベトナム戦争従軍体験のあるケーシーの「平和への道」コンサートの後。
写真家の千葉克介さん達と飲んでいて、イラク戦争の話になったらアメリカ人のケーシーがいとも簡単にいった。
昔から喧嘩の原因は金か女か、あるいは縄張り。戦争も同じで国際法違反のイラク戦争は、カネ、油、経済にある。
戦争との時間と距離が遠くなったこの日本が今、イラク戦争に荷担し、危うい国になろうとしている。
何かをしなければと思っていた時、八年前にケーシーランキンと秋田で始めた「平和への道」を思い出した。
平成7年11月4日。最初の会場が大館市の一心院。ケーシーは一人の高校生に言った。
「僕は君のような時にベトナムにいて、十歳、齢をとってしまったんだよ」
1968年の夏。ケーシーがベトナムからアメリカに帰国し、死にたいと思っていた頃。
同い年の私は、日本学生キューバ友好視察団の団長としてキューバにいた。ハバナのホテルの壁に南ベトナムの大きな地図が描かれていた。解放戦線の勢力範囲が黒く塗りつぶされ、白い部分はサイゴンや都市部だけ。日本での報道と違っていた。
キューバ各地で南ベトナム解放戦線の歌舞団一行と出会い、歌手の陳勇と仲良くなった。
持参した薬を全部、彼にあげた。何時か再会しようと約束。
20数年後、共同通信の橋田欣典記者の手配で、ホーチミン市の新聞に陳勇を尋ね人として掲載してもらった。
しかし、反応はなく、陳勇の生死はいまだ不明である。
この秋。開高健の「ベトナム戦記」を読んだ。28年前のベトナム戦争の記録を調べた。
アメリカ側の死者、5万八千人余り。ベトナム側は二百万人。 そして、「戦争をしなくてすむ世界をつくる30の方法」(平和をつくる一七人著・合同出版)も読む。
「平和への道」のチラシにケーシーのメッセージを入れた。
「あの怖かったベトナムでの体験を思い起すたびに、二度と戦争は繰り返してはならない、と思います。
僕はベトナムでは加害者の立場にいたわけですが、今、すべてをさらけ出して、平和の大切さはもちろん 、何が正義で、何が不正義であるのかを考えるきっかけを皆さんにプレゼントすることができたら嬉しいと 思います」
10月14日。私はケーシーをスズキジムニーに乗せ、大曲市から角館町に向っていた。
車中、テープレコーダーを彼に持たせて、ベトナムでの戦争体験を詳細に聞いた。
角館町・松庵寺の本堂。蝋燭が二本立てられ、ケーシーのライブが始まる。開口一番。ケーシーはいう。
「ここにくる途中、ベトナム戦争の話を一時間もして、今、僕は落ち込んでしまってるんですよ。ベトナムからアメリカに帰って、僕は3年間、立ち直れなかったんです。夜はうなされて眠れなくて、自殺する勇気がなかったから、誰かに殺してもらいたいと思ってました。でも、僕を救ってくれたのは歌でした。それが『スウィートウォーター』です。聞いてください」
スウィートウォーターを、井上陽水が聞いて、ケーシーに「砂糖水だな」といった。
戦後のひもじい思いをしてた頃、砂糖水を飲んで元気になった記憶がある。
ケーシーの「平和への道」ライブは10月13日から四日間、県内、六カ所で行われた。聞いてくれた人は約300人。
「砂糖水」を聞いて、戦争への距離感が縮まったろうか。
ふるさと塾特別講演
★ 平成15年3月28日(金)
★ 彌高神社
★「泣き笑いの人生」(2)
〜斎藤憲三・東海林太郎と私〜
★ 小林忠彦氏(小林工業会長)
風呂もなく着替えもないし、当然蚤シラミがわき、発信チフスでバタバタと倒れ、1ヶ月ぐらいで一間の人数が2、3人に減りました。亡くなられた人を毎日、荷車に乗せ、松花江の川岸に捨てたと聞きました。ここにいても死ぬしかないという状況に少しでも暖かい南に下がろうと三々五々、収容所を出ていきました。八三四一部隊の家族として、まとまって行動したのはその頃まででした。」
というふうなことが本になっています。非売品です。
私達はこういう経験者なんです。私がこの娘に会ってから、涙を流して「よく生きていてくれた」と感謝して、無事であることを聞いてきました。
今でもこの娘と文通をしています。もう彼女は70歳を越えていますね。18歳の時に会って、それから五〇何年にもなります。それくらいの歳になっても、思い出は消えません。その時の苦しさ、そしてよく帰ってきたというその思い出で、2、3日前も又、会いましょうという話がありました。
私もシベリアにおって、25歳で捕虜になって、三年間で兵隊がどうなったんだろうと思うくらい、本当に痩せていくんです。一年経ったらまるで人間が変わりました。痩せて骸骨そのものでした。
何故なのか、今思ったらはっきり分かります。ロシアの食べ物というのは、日本人の口に合わないんです。ロシアパンというのはすっぱくて、日本でいうおかずはピックルというんですか、小さな瓶に入って、胡瓜のようなすっぱい日本の漬け物ですね。パンは日本だったら捨ててしまうような味なんです。日本では鮭を塩引きにして焼きますが、ロシアでは皮をはいで、生で食べるんです。
そういう食べ方を強制させられたんですね。ですから食べれないんです。私は煙草も吸いませんし、パンは食べなければと食べておりました。
幸いに私は、TDKで4年間、技術を学んで、すべての機械を使えましたから、ソ連に行っても鉄道建設において、いきなり機械を使わせられました。機械はこっちの得意とするところです。
ノルマがあって、一日、何本作れば赤旗をもらえます。私は何時も赤旗をもらって合格でした。たまたま食べれないし、食べるものがないと、自分の技術でもって真ちゅうで親指に合う指輪を作ってやって、パン粉と交換してきました。次の日になるとロシアの女の人が、ヤポンスキー、ハラショーといってダメだと、洗濯したら色が変わったという。(笑い)
それは当たり前なんですがね。そんな思い出もありました。
そんな中で私は針も作りました。いろんな物を作ってやると、3キロのパンをもらいましたね。
一日一食、手を握ってもう一つかぶせたでぐらいのパン。それが精一杯の私達の求める食事でした。 こういう食事で3年間過ごしました。ですから本当に腹は減るし、着る物はボロボロになります。
私の泣き笑いの人生の話をさせてもらいます。
人はふれあいの中で人生が変わると思います。
私は斎藤憲三先生、山崎貞一先生とふれあって私の人生は変わりました。お二人とのふれあいがなかったら今の私なんかないんじゃないかと思っています。
人のふれあいの大事さ、教育の力、人生とは出会い、巡り会いで運命が変わります。
私の人生は戦前、戦中、戦後にわけていいますと、戦後、シベリアから日本に帰ってきたのが昭和23年です。まだ若い28歳でした。 よおしっという意気込みで帰ってきたんです。本荘駅に帰ってきたが、母親の姿を目で探しましたが見あたりませんでした。母親は、全然歩けないで家にいました。それでもよく生きていてくれたなと何もいうことはなかったです。
私の妹は11歳違います。まだ学校でした。私は次の日から働かなければいけないというくらい、私の家はひっ迫した状況でした。 奥の部屋で母親は、目でご苦労さん、よく帰ってきてくれたといい、私は泣きながら母を見つめていました。
ただ、元の職場では私を受け入れてくれませんでした。
それは社会主義という国に3年もいたのでそれは、当然だと思います。そういったことがありまして、四年間ブランクがありました。 昭和27年に、どうしても私の技術を必要とするということで小松正一という石沢出身の無二の親友を手伝うことにしました。
でも4年間で様々な人とふれあいました。職業に卑賎はないといいますが、まず、昭和石油のピッチというか、誰もやりたくない仕事に積極的にやるようにしました。 農機具の修理もやりました。一年ごとに四回、職場が変わりました。そんな中で人の気持ちの厳しさもありましたが、心の中で、負けてはならない、こんなものにと思いながら、厳しい人生のなか口ずさんだ、今の私があるのは、やはり歌ではなかっただろうかと思います。
その歌も、又、ソ連の話になりますが、シベリア抑留時代、みんなを慰めようとして作った歌が、「煙草のけむり」、ほんとは「マホルカのけむり」なんです。
さわやかなのは 春の空
朗らかなのは 僕の心
広々と曇りなく 青空に
パッと吹いたよ マホルカの煙 りだんよ
この詞を歌手の伊藤要さんに四番まで作詞して頂いて、去年の九月にCDにしましたが、その際、
「八十過ぎ何故CD製作″歌手゛デビューなのか」と題して、私はつぎのとおりに書いています。
この度の自主制作CD「煙草のけむり」が意外な方向へ展開し反響を呼んでいることに戸惑いとともにことさら驚いている次第である。このCDは新聞紙上において紹介されている如く、秋田市在住の地域おこしに取り組まれている佐々木三知夫氏との出会いがきっかけであり、突如とも言うべき出来事なのである。
何も歌手気取りで製作したものでもなく、極めて純真な気持ちで製作したものである。
すでに紹介されておるように、私は終戦後、シベリアでの抑留生活三年を経て、無事帰還した仲間の一人である。氷点下40度という厳寒での3年の抑留生活はまるで地獄絵図を見るような言葉にならない悲惨且つまた無惨な生活であり、帰ってこれたのが奇跡というか、不思議なほどに思っているのである。
抑留生活での労働は鉄道施設作業であり、体力の限界を超越する重労働この上ないものであった。仲間の多くはこうした重労働と栄養失調などにより、その過酷さに耐えきれず次から次へと倒れ、死んでいったのである。
そうした状況の中にあっても、自分は必ずや日本に還ることを、いや還れることを信じ気力によって堪え忍んできたのである。
私はもともと歌好きであり、兵隊前には歌手を志したほどであった。そんなことから、自分をも含め疲労困ぱいの仲間達を少しでも癒したいが為に明るく元気をふるまうようピエロまがいの格好で踊りながら歌ったのが自作の「煙草のけむり」でだったのである。
仲間達に大いに喜んでもらった当時のことは、今でも夢を見る如く片時も忘れることはない。
私は昭和23年に帰国し、転々流浪の果て、昭和27年に小林工業を創立し、現在に至っているのであるが、数限りない危機に遭遇する度ごとに「煙草のけむり」や「泣き笑い人生」「人生航海」などを口ずさみ荒んだ心に元気を与えつつ、今日まで生きてきたのである。
不況に苦しみ疲労困ぱいする今日とシベリアでの苦しみは天地の差とも言うべきものであり、比較になるものではないが、しかし、私のCDが不況に苦しむ今日の世相において、少しでも明るい話題として活力の一助になるのであるが、望外の幸せに思う次第であるし、人生の最大のよろこびとするところである。
先に述べた通り、この度のCDは決して歌手きどりで製作したものではないことを固くお断りしておきたいと同時に、皆様にはご理解いただきたいと思う。
八十一歳のご老体が今なお元気でいられるのは、好きな歌を唄いつづけているからにほかならないと、自分に言い聞かせている今日である。
マホルカというのはソ連の煙草の名前なんです。私は煙草は吸いません。パンとマホルカを揃えて、どっちかを取れというと、兵隊はほとんど煙草に手を出すんです。 私はそれを不思議に思いましたけれども、今考えてみると、やむを得ないなと思います。
パンは日本人の食事に合わないし、煙草は何よりも欲しかったのだと思います。でも、そういう人達はどんどん痩せていきました。一年間で、驚くほど痩せて、皆、重労働に耐えられない姿でありました。
そういう中で、私は技術を見につけていましたから、恵まれていました。ほんとに運が良かったと思います。
ところで日本に還ってから、今いったように昭和27年に独立することになりました。
皆さんの家庭にある、私のやった仕事の中に、TDKの名前ではあるけれども、自動車にはラジオが必ず付いていますね。これはトヨタと松下電器と契約しています。 それは全部付けるから、これこれにしなさいという話から始まっています。ですからそういうものの中に、フェライトという日本人が発明したものが扱われています。加藤与五郎先生と武井武という先生が発明したんですね。このフェライトがなければ無線技術が今日まで発展しなかったのではないでしょうか。
このものにはまだ未知の世界があるんです。
電波というもは目に見えますか。計器がないと見れません。強弱もわからないですね。
皆さんが携帯電話を持っています。昔は電話ボックスで電話をかけると有線なんです。今は、皆さんが歩きながら話をする。こういう時代になってきました。
私が関係したのは今いった、自動車にラジオをつくることで、とにかく作りきれないほど忙しかったですね。
それが昭和27年に始まって、まもなく日本の状態が良くなって、電化製品の時代となって、新幹線ができて、オリンピックが目の前にありました。
そんな時代に昭和27年から5年間は着の身着のままの姿でやりました。苦しいというよりも、新たな仕事に眠れない毎日でした。
粉を加工する。これは世界でも初めての技術です。鉄を削るにはバイトというものがあって、粉を削るにはどうしたらいいかという課題がありました。
私はこの粉を削るにはどうしたらいいかと道具を考えました。
ガラスを割ってみたり、鋸を自分でやってみたりしました。
山崎さんから、「君、真ん中の心棒を削るのに、3ミリまで削る方法を考えろ」といわれました。
とてもではないが、5ミリまでは削れるんですが、削るといっても粉をキャッチングするのにボロボロしてとても削れないんです。
バイトというものでやるとポンポーンと折れてしまうんです。ですからどういう刃物がいいのか、探しました。目に見えない技術がどっかで何かがあるはずだと毎日、工場を廻って歩いたんです。
偶然にも、その目に見たものが一カ所に固まっていた。何だといったらツールポストグラインダーという刃物用グラインダーというのがあって、それにぶつかりました。私はこれでやったら3ミリどころが1ミリぐらいまで削れることができました。
削る刃物が発見されて、今はそのことがTDKで、世界でもやってない、粉でネジを切るんですね。仁賀保工場でしか、ネジを切ってないんです。JIS規格に合致するネジが切れるんです。
ほんとにフェライトがネジを切っていますが、最初は私がやっていました。
それからもう一つ、金型というもので、秋田県文化功労賞を受章したのは金型産業を振興ということだったんですが、秋田県では5社しかやってなかったんです。
本荘では特殊な金型をやっているんです。金型には9種類あるんです。普通、自動車はプレス型といって、金属を抜いたり絞ったりしてできる訳です。
後はプラスチック、それからCDも金型できまるんです。
ものすごく厳しい金型でないとできません。うちでもCDの金型もやります。
そして、そういうものが昔はギャップ、いわゆる粉を上下するのは粉を入れるだけの寸胴型といって十五aぐらいの長い胴に粉を入れて、そして固めてなる訳です。
これを焼結しますと真っ黒になるんです。酸化鉄ですから、最初は赤くなって、錆びたものですがこれを固めて、焼いて磁気というものになります。
皆さんご存じでしょうが、金型にも静電気が起きるんです。これが起きると粉が入っていかないんです。まるで毛が生えたようになって粉が入っていけない。
そこで逆に静電気が起こらないようなものを作らなければいけません。そして又、金型は減るんですよ。ともかく摩耗が激しい。
一日に一個ずつ金型を使うくらい摩耗が激しいんです。一日一万個をノルマにしても、できないほど減るんです。
ちょうどテカテカテカと光って減りすぎて、ギャップというか、隙間が空きすぎて専門用語でいえば、バリがでるんです。
ギャップがでると品物になりません。大量生産に向くには絶対に条件があるんです。寸法がきちっと出ないとダメなんです。
そこで一番肝心なのは、金型をどうせめるかが、問題でした。
ともかく寸法をきちっとやる。素人は、はめれません。それだけ厳しい寸法が必要なんです。
ところで私は昭和39年にアメリカに行って来ました。アメリカで行ったら、日本にない金属で金型をやっていました。それが超硬といって、ものすごい金属でガラスも切れるんです。それだけ固い金属なんです。
今、私の会社では粉から作ってそして、金型を作っています。
ですから、よそで2ヶ月、あるいは3ヶ月ぐらいかかる仕事が一週間で出来ます。それが今の私の会社です。「超硬素材」まで自社でやっているというのは、金型の会社では、日本ではただ一つだと思っております。
皆さん、何時か是非、うちの会社に来てみてください。
金型を私が攻めた。寸法がもの凄い。超硬を使うと壊れるまでは何十万個でもできます。
減らない、固い。そういう金属なんです。これが昭和39年にアメリカに行って、これだと思って取り上げてやることになりました。
ですが、削ると摩擦で静電気が生じて、それを抜かなければいけません。そういったものも作っています。また逆に磁気をいれる必要もあるんですね。
それからだんだん世の中に電気製品が普及してきまして、そんな時期に日本の産業の中に、金型に中に、寸胴型というのは1%も満たない需要なんです。特に秋田の場合は、中央に皆、お願いしているんです。でも私は、その時に小畑知事にもいいました。私はオープン型ですから、私の会社に来て、見ていって真似してもいいと。
そしたら、いっきに30社以上も来て、能代とか大館に、金型の会社ができました。今でもその傾向があって、秋田県で、自社で金型をやっている企業が多いのではないでしょうか。
でもまだまだ金型には未知の部分があります。
昭和27年に起業して、十年目にして、この病気になりました。目に見えない神様がいたんでしょうか。十年間は健康で、何事も負けたことがないくらい張り切っていました。
斎藤憲三先生の友達で、東海林太郎さんの弟子になりたいという希望を持っていました。
当時はマイクがなく、東海林太郎さんから、声を出すんだったら血が出るほど、自分の声を枯らせといわれていました。一時は何とか弟子になりたいと夢中になって歌の練習をしたこともありました。
今から65年前になりますが、機械のことを何も知らない、斎藤憲三先生。ホラ憲といわれた先生ですが、今でも斎藤先生が話されたことが続いているんですね。
私は東海林太郎さんの弟子になりたくていろんな事をやってきましたが、大きなことを想像して、ホラを吹きますが、嘘はいいませんよ。
ホラも吹きますがハーモニカも吹きます。(笑い)
ちょっと吹いてみます。
「ドレミファソラシド」
この小さいハーモニカで唱歌も民謡もやります。
大きな病気になって悲しくなって、人前で泣くわけにいきません。海に向かってバカヤローと叫んだこともあります。そんな時に、悲しい歌、喜びの歌を歌って乗り越えてきました。
十年目に大腸ガンになって、私は人工肛門なんです。私が病気になった時はまだ、医療器具のビニールの袋はありませんでした。そういう時代に東京の慈恵医大に入院していました。
あの近くには東京タワーがあります。東京タワーはうるさいんですね。寝ていると、風が吹いて東京タワーはブウーッと唸るような音を出すんですね。皆さん、一度慈恵医大に入院してみてください。(笑い)うるさくて眠られないんです。そんな時でも、痛い痛いといった歌も作りましたよ。
「持ってこい、持ってこい、注射器を」といった歌を作ったりして、看護婦さんから、変わった歌だなといわれましたね。毎日、コップ一杯ぐらいの薬を痛み止めで飲んでいましたね。そんな思い出がありました。
そして、小林工業は独立して今年で51年になります。そしてこの病気と戦って41年。
その間に、どのくらい泣いて、笑って自分の人生を歌で支えてきました。
東海林太郎と秋田県人の上原敏の二人で歌った「泣き笑い人生」を我が社の社歌にしたんです。
これは今でも四番まで暗記しています。それからもう一つ、「人生航海」の二つと「湖底のふる里」はこれは、戦前は歌ってはいけないと禁止された歌です。
今は自由に歌えて、この1月に本荘市で歌いました。
ほんとに歌に支えられてきました。私が歌えるのは300くらいあるんじゃないでしょうか。もっとあるかも知れません。
渡部はま子の中国の歌も口ずさんでいます。
涙を流すよりも歌をながすことでやってきました。人が困った困ったという時は、困った節でやろうと。困った時の話を聞いて、そのとうりのことを歌に表す訳です。
そうすると、困ったという人は喜んで、もう1回歌ってくれといいますが、2回は歌えないんですよ。(笑い)
そんな訳で東海林太郎、上原敏の「泣き笑い人生」は真剣勝負で歌ってきました。
七つ転んで八つで起きて
花を咲かせる身じゃないか
何で好んでこの世をすねて
広い世間を狭くする
人生航海は
夢がなければ生きらりょか で始まるんです。
湖底のふる里が戦前、何故、禁止されたかというと、この歌はふるさとがダムに沈んでしまったという歌なんです。
当時はカフェというものがあって、客の男がこの歌を唄うとタダで飲ませるもんだから、そういう輩が多くて、それで禁止されたという話です。ほんとかどうかはわかりません。(笑い)
とにかく戦時中の話ですから、歌ってはいけない歌はいっぱいありました。厳しい時代でした。
そういう思い出の中で、いってみれば歌がなければ、この病気も、私の会社も今日なかった。
ましてや、斎藤憲三先生と山崎貞一先生に巡り会わなかったら、今日の私はいないんです。
先ほどいいましたが、小林工業が五十一年のその間に従業員は二千人です。家族をいれて六千人になります。TDKの従業員は秋田県の中に、一万五千人でした。家族をいれると四万五千人ですよ。
本荘市の人口が四万五千人。経済性をいうならば、四万五千人の経済をTDKが持っているといっても過言でありません。
今は外国に企業をおこしておりますから、もっと大きいです。世界各地、ドイツや中国にもあります。この間、私は中国に行って来ました。
台湾の真ん前にある中国のTDK工場に行ってきました。2日ばかり。一番面倒なのは何だと聞きましたら、躾だといいました。
会社はどうしてもそういう躾が厳しくないとなじめないんです。 日本の企業は従業員の使用期間が二ヶ月なんです。中国では4日なんです。使用期間が。あるいは3日、あるいは見た瞬間にダメだといいます。厳しいんですね。4日で決まるんです。中国のTDKの従業員は4千人なんです。全員が寮。男も女も寮です。
その躾の第一番目は何だと聞いたら、水洗便所の使い方だと、それを教えなければいけないといいます。
それから食事。握り拳ぐらいの残飯があると罰金なんです。給料はなんぼだと聞くと、3千円。日本人1人雇うのに30人も使えます。ですから非常に厳しいです。従業員は山奥から来るでしょう。工場なんか働いたことのない人達です。
そういう人達がいきなり作業服を着せられて、食事だの色んな初めてのことに直面しているんですね。
4千人をどうやってご飯を食べさせるんだと聞くと、千人づつ、ですから朝の10時から1時頃まで
かかるんです。ですから残飯が握り拳分も残されたら、4千人ですから大変なんです。
ところが今、彼女達は残すと罰金をとられて給料がパーになりますから、残す人はいなんだそうです。
そして、3日か4日で首を切られるんですから真剣なんです。でも、出来た製品を見るとまだ、ダメだなあと思いますよ。ただ、形だけは何とか合格かなと思いました。
行程というか4つに分けています。4千人いるんですからすごい人数です。工場では向こう先が見えないくらいですから。振り向かないんです、自分の手元だけを見ていますから。
指導者が女性で、4つのグループに区分されて、4列になっていました。ほんとに真剣勝負でした。 あれでは、日本は負けるなと感じて帰ってきました。私はたった2日しかその会社に行ってませんが、これから
21世紀の時代に、賃金だけの話になるとちょっと難しいですね。
ただ、中国でもできないような仕事は何なのか、これからの21世紀はどんなものに持っていくか。中国ではやれない仕事、厳しい仕事が必要なんではないかと思います。
それには、皆さんが会社にきて、こういうことができないかといって、出してもらったらいいんです。かえって素人のほうが何も考えないで、出して貰ったほうがいいんです。
私の会社は、1回使った物を捨てないで生かすといったのが私達の仕事なんです。この技術が難しければ難しいほど、その技術が正しく綺麗なんです。
どういう技術が必要かといいますと、任せられて、ただ一つの機械しか使えないんではダメなんです。もし金型というのを、ほんとに専門にやりたければ、正五角形の金型をやる。この五角形が試験なんです。私らの業界は。
この試験の名前はすっぽんといいます。すっぽん技術。五角形を正確に五角形にして、どこでも回してすっと入った時、すぽーんと抜けるからすっぽん技術といいます。(笑い)
これは金型の職人が必ずやらされる技術なんです。これがやれないと金型屋とはいえません。ですから厳しいですよ、金型屋は。
まだまだもっと厳しい姿勢で物事を見ていかなければいけません。 寸胴型はちょっとでも平行にならなければいけません。粉が詰まって抜けないんです。
それを私の会社は、十五aの胴長を完全にしてやっています。これが小林工業です。これを外国、中国にやっても形だけは金型といってやっています。
でも使ってみたら1回で抜けなくなる。それは平行でないからです。水平でないから。磨きが悪いから。ともかく凸凹だから。これだけの技術の差があって使えないんです。役にたたないんです。とくに粉末せいけいというのは、粉が小さな隙間に入って、動かなくなる。そういうようなことで、技術の差は相当あります。
皆さんがそんな現実にあって、その為にはチャレンジ。挑戦する。そして、熱意、創意というものが私が指導している技術の根本なんです。私は話は下手ですが、仕事に対しては厳しい。
私は八十二歳になっても現役ですから、逆にいって二十八歳です。この間まで十八歳です。(笑い)
二十八歳になりました。その健康のバロメーターは声、歌です。
三橋美智也、今は里見浩太郎の歌を覚えていますが、今でも「泣き笑い人生」と「人生航海」は全部、歌えます。
皆さん、是非、百聞は一見に如かずといいます。小林工業って何なんだ、こんな学力のない男になんで二千人も使われて50年もなっているんだ。
今、小林工業の50数年の記録をもっか制作中です。もし必要であれば佐々木さんをとおして、その内容を見てください。
皆さんに支えられてここまで、来ました。巡り会いです。
指導者は学歴ではないんですね。当時の教育長の斉藤長(たける)さんにいわれて、校長先生の前で講演をしてくれと頼まれたこともありました。何で私がと思いました。皆さんにあげます、この煙草のけむりのCD。
私は歌手ではないですよ、ほんとに。これは26歳の時に、シベリアで
♪爽やかなのは春の空
朗らかな僕の心 と歌って踊ってやったところの曲が、伊藤要さんから二番、三番、四番を作ってもらったものです。ほんとによくできています。
私は毎日、夕方五時半に、千という所にいって歌って、私は、健康のバロメーターを声で計っています。
こんな話をしながらも、私の耳の片方は全然、聞こえないんです。それでも皆さんの話かけは必ず聞いています。
私の話はやぶれかぶれのようになっちゃったんですが、縁があったら私の会社に見てきてください。 十何カ所あります。岩手県にもあります。毎月一カ所づつ廻って歩いても1年3ヶ月もかかります。
私の泣き笑いの人生は、ほんとに皆さんに支えられてここまで、来ました。それは巡り会いだと思っております。ほんとうにありがとうございました。
※小林忠彦会長はこの11月2日 永眠されました。このご講演の テープおこしは涙ながらでした。
まさに会長の「泣き笑い人生」には多くを学びました。
12月7日に 秋田県民会館で「新雪」を歌われる予定でしたが無念。
ご厚誼、誠に有り難うございました(合掌)
呑 風 日 誌 抄
10月3日(金)秋田市山王・ギャラリー。朗読家・谷京子さんの朗読会へ。佐藤滋先生のピアノで山本周五郎の小説の一節。素晴らしい。鹿角市のシンガーソングライター・奈良節夫さんのジョイント。
4日(火)秋田市土崎港・西船寺。東海林太郎命日法要。東海林太郎顕彰会の方々ご参列。尊敬する田口勇先生と榮太楼旅館へ。
伊豆の別荘に残された自伝のお話を伺う。榮太楼旅館から能代へ。
稲門野球部マネージャーにお願いした秋田大学医学部の見上一穂さんの車で東京六大学秋田野球連盟選抜チームと能代選抜チームとの第三回交流試合。グランドコンディションが悪く、中止。ボーリング大会に、私はバッテングセンターへ。懇親会が文化財にもなっている料亭・金勇。同窓で金勇の金谷哲社長も虎キチ。佐々木満会長も出席され、小生は乾杯の音頭。
法政OBの工藤幸彦さんと秋田に戻って二次会。
5日(日)夕方・消防会館。心に響く名曲コンサート実行委員会。
ポスター、チラシ、入場券の配布先の仕分けを皆でする。
6日(月)岩城町ウィルサンピアへ。ツバサ広業の舛谷政雄社長と。 球友無限の秋田ロマン野球リーグの第六回全県六百歳野球大会の開会式兼交流会へ。昔の野球少年達と旨酒。
9日(木)秋田市通町。彌高神社の北嶋昭宮司と。第一七連隊・平田篤胤大人記念碑保存会の話。
10日(木)イヤタカ。秋田商工会議所青年部主催の夜楽会での、フードプロデューサーの赤沼秀夫さんによるキムチタンポ、キムチチゲ鍋、塩っつる入り秋田ビビンバの試食会へ。榮太楼の小国輝也社長達と。秋田ビビンバはいけそう。
12日(日)岩城町亀田城。岩城CG(コンピューターグラフィック)フェステバルへ。石井護氏、CG作家あやますみさん達ががんばって丁寧に続けておられる。
早田貫一画伯から電話。新宿の住友ビル内にある平和祈念展示資料館にシベリアの回想画が四点展示されることになったとの事。HP・ふるさと呑風便がきっかけになったとの話で嬉しきこと。
13日(月)大曲市のとある中華料理店。雄物川町の佐々木太郎氏、ケーシーランキンと。ケーシー、平和への道ライブとラーメン道中旅の始まり。雄勝町院内の小町共和国の佐藤芳嗣総理官邸へ。
ほっと館にて旧院内小学校の桜を救うコンサート(杉国臣実行委員長)50人程集まる。ケーシー、アメリカがイラク戦争を起こして、アメリカ人であることが恥かしいとまでいう。打上げが総理夫人の迎賓館。雄勝セラミックスの押切宗助社長も来てくれて盛会。
14日(火)朝、芳嗣さんから武者小路実篤が愛した稲住温泉に案内してもらう。お目当ては旧秋宮役場で建築家白井晟一の作品。稲住温泉には本荘市の文人・小島彼誰の句碑もある。
昼、湯沢市・大元。ケーシーが5星をつけるラーメン。当方は二日酔いでダウンでダメ。芳嗣総理から二日酔いドリンクを貰い、何とか大曲市・角間川更正園へ。世話役の樫尾正義氏がドラムでジョイント。角館町・松庵寺で平和への道ライブ。打ち上げの二次会がジパング。写真家・千葉克介さんの店兼事務所で全国の巨木を撮っている冨田さんが一番旨いという比内鳥ラーメンを頂く。角館プラザホテル泊。今日は12時前に寝る。
15日(水)朝。角館公立病院へお世話になった門脇光浩氏の見舞い。元気で安心。昼は河辺町の蕎麦処・一会。鴨ソバが最高。ケーシー五つ星の評価。天王みどり学園へ。広葉樹の記念植樹をお願い。小野敦子先生からリンゴのお土産。
男鹿市北浦の雲昌寺にてライブ。由利時計店の由利均ご夫妻のお世話に。あゆかわもぼるさんの詩の朗読にラッパで国の鎮めを吹く。三味線の伊藤君と太鼓の小林君がジョイントで盛り上がる。打ち上げが福の家。ラーメンが旨い。
16日(木)朝、幽霊ホテルとなっている問題の男鹿プリンスホテルへ。ざわざわっとして気味がが悪い。ホテル雄山閣にすっかりお世話になる。昼、秋田市飯島の札幌ラーメン白樺。ケーシー、3星。
ニューヨーク育ちのケーシーをニューヨークニューヨークに案内。渡辺眞吾社長がおられニューヨークの話、ケーシーに協賛される。 夜、寺町の浄弘寺(矢田正康住職)でライブ。雨の中、ゲスト出演があゆかわのぼるさんの詩の朗読、谷京子さんが「フレディの葉っぱ」の朗読。感動的で盛会。打ち上げは秋元辰二先生、秋田大学ジャズ研究会の学生達とキャッツワークへ。ケーシー榮太楼旅館泊。
18日(土)昼、榮太楼旅館。
東京女子大学OBの小田美恵子県議達5人と東京女子大教授の兼若逸之先生の歓迎昼食会。午後から秋田大学で兼若先生のあきた・コリア地域交流研究会設立記念講演会。新著「兼若教授の韓国案内・釜山港には帰れない」のサイン会。夕方、イヤタカにて「夜楽会」で講演とキムチタンポとキムチビビンバで韓国留学生を交えて懇親会。
二次会が民謡酒場・三味線すがわら。兼若教授の秋田講演はすべて同行した親友で作家・小田豊二の手配であった。深謝。
19日(日)秋田市新屋・葉隠墓園へ小林孝哉先生と。佐賀藩士慰霊祭。慰霊碑建立15周年になる。武雄市長から佐賀の銘酒が届く。参加した子ども達に戊辰戦争と佐賀藩士慰霊碑建立の話をする。
24日(金)ふるさと塾事務所。AIグループ例会。坂本バイオの坂本賢二博士の講演。日本銀行にも認められた秋田県の貴重な人材である。小野敦子先生からだまこ餅を作って頂く。旨い。
25日(土)八森町へ。佐々木啓助ふるさと塾次長と夕映えの館。 ダッタン蕎麦の国産化に挑戦された斉藤進さんから蕎麦畑に案内され、刈り取り前のソバは実が菱形で黒く小さい。花は気が付かなかった程、小さかったとの事。国産化成功への第一歩。ダッタン蕎麦で八森町のまちおこしを期待。