ふるさと呑風便 NO 174  03.10月号

   誇り

 甲子園球場。10月7日の今シーズン最後の巨人・阪神戦で原巨人が6対2で勝利を飾った。試合後、男・星野仙一監督は、巨人のわがままオーナーから優勝監督の誇りを傷つけられた原辰徳監督へ花束を贈った。抱いてねぎらいの気合をかけた。男の美学だ。
 巨人愛の原は「夢のつづきを胸にしまって宝物にして、明日から生きていきたい」と涙を浮かべて挨拶した。
 原監督は毎年、シーズン終了後、親友で瀬下建設工業社長の瀬下和夫氏の招きで秋田でトークショーに来る。
 今年も是非、秋田に来て欲しい。阪神フアンの小生も応援に駆けつけて、いいたい。
「原さんよ。読売・巨人愛はもういいではないか。夢の続きは横浜か福岡の監督となって、再現してほしい。再び日本一となって読売に傷つけられた人間・原辰則の誇りを取り戻せ」

 今年の巨人敗因の一つに、ビジター用のユニフォームをTOKYOからYOMIURIと代えたことも一因がある。
 巨人の正式名称は読売巨人軍だが、選手達は東京巨人軍の一員としての誇りがあるのである。東京以外の球場で、ユニフォームの胸に縫われたYOMIURIのマークでプレィして、心の中で「オレは読売新聞の宣伝してるんじゃない」と思っていたであろう。

 誇りの問題である。
 星野優勝監督は、大リストラを行い、甘やかされてきた阪神の選手の誇りに危機感を与えた。

 国盗り物語を愛読し、政策よりは政略が好きだという自民軍の小泉純一郎監督。
 菅・小沢民主連合軍に危機感を感じ、若くて毛並みがいいというだけで選挙用に安部普三選手を四番バッターにするという動転人事を行った。
 それにほくそえんで、更に話題性を作ろうと石原慎太郎東京都知事の息子を国土交通大臣にして、道路公団の藤井総裁に引導を渡す。そしてその日は、民主連合軍発足の日。
 もっと早く首を切る機会があったが、選挙用にとっておいた。ところがどっこい、筋書き通りにはいかなかった。
 誇りの問題である。
 薩摩隼人の藤井総裁は道路建設一筋の誇りがあった。
 小泉政治劣化内閣の政治劇場の具にさせられるのは真っ平ごめんと拒んだ。
 このドタバタ劇を、イラク戦争を支持した読売は小泉政権にとって抵抗勢力との図式が強調され有利、などと書いている。それも?マークつけているから無責任である。
 国民、誰も彼も、したたかな道路建設のドンから若造大臣が舐められたと思っている。
 国の為に犠牲になった特攻隊員に涙しても、人に使われたことのない小泉監督には、人の心の痛みがわからない。
 人間の誇りがどんなものかも理解できないらしい。

 この夏、嬉しい贈り物を頂いた。日本人の誇りを失わなかった松村謙三先生の色紙。
 「日新又日新」と書かれた金箔の色紙である。
 昔、中国の周恩来首相に可愛がられた、色紙の送り主で松村先生次女の小堀治子さんから教わったことがある。
 「父は、日本の香港総領事が挨拶に来て『中国民族は優秀な民族でして』というと色をなして怒っていうんです。
『日本民族も優秀な民族だ』」
  ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成15年3月28日(金)
★ 彌高神社
★「泣き笑いの人生」
  〜斉藤憲三・東海林太郎と私〜
★ 小林忠彦氏(小林工業会長)

 ただ今ご紹介頂きました小林でございました。最初から座らせてお話させてもらうのは、右足だけで歩いています。 
 この病気の話も後ほど話をさせてもらいますが、私は今、82歳です。逆にいえば28歳です。(笑い)
 28歳の話を聞いてください。
 私の主人は皆さんのお手元にある斎藤憲三という人が創業した東京の蒲田にあったTDK、東京電気化学工業に昭和12年に就職しました。一期生です。今生きているのは私だけです。ほとんど亡くなりました。
 斎藤憲三先生は最初に私が社会に出てふれあった人です。 そして山崎貞二という方は、斎藤先生のTDKはこの人がいなかったら今日のTDKがなかったというほどの方です。このお二人の指導の下で私の今日があります。
 私ははっきりいって高等2年で終わり、それから実業学校というか、本荘というとkろは商業都市なんですね。
 ですから、商業の店に見習いでやっていかなければならない環境でした。就職難の時代です。ですけれども運命でしょうか、私の父が卒業すると同時に就職する前年、昭和11年の5月に亡くなりました。

 今日のテーマであるます斎藤憲三と東海林太郎ですが、二人は親友だったんです。
 昭和12年に私達が16歳でTDKに入りましたら、工場に東海林太郎さんがくるんですね。もう仕事にならないんですよ。(笑い)もう夢中になって東海林太郎さんに心がいっちゃって。その頃はマイクがありません。ですから歌って欲しいとはいえませんでした。歌手になりたいと思っていて、憧れの東海林太郎さんから、声がつぶれるぐらい練習しなさいと言われたことがありました。近くの田んぼにいってよく歌ったものです。
 ただ、弟の次郎という人が経理課長でした。従兄弟の蛭田という人がきていました。
 そういう関係の方々がTDKに入社していました。東海林太郎さんよりも弟の次郎さんの方が歌がうまいんですよ。

 斎藤先生も偉い。あだ名をご存じですか。ホラ憲といって大きいことをいうもんですから、私達を受け入れた時、何も科学の科の字、機械の機の字も知らない私達に、粉を制するものは世界を制するといきなりいったんです。
 昭和12年頃というと、御祝儀は粉菓子で色を付けた鯛のようなものを想像するんですね。その粉が何で世界を制するんだなと思うんですね。(笑い)その後すぐに万年筆を出したんです。鉄の芯を出して、宇宙の電波はこれで吸収するという。ちんぷんかんぷんですよ。でも短いこの二つの言葉の中で、何か謎めいた言葉が私は忘れることはできません。
 私達、見習い工、第一期生は17、8、9歳の少年です。10名でした。今、TDKにものを話す場合、戦前、戦中、戦後の話を知っている人はほとんでおらなくなってしまいました。ですから今、TDKの話をする時は、私が引っ張られ出されて、話をするわけです。
 当時のTDKは考えられないほど、貧乏な会社でした。
 工場といっても、ここらへんで町工場といってもあまり立派なものではないですね。
 東京の工場は蒲田です。羽田の飛行場に近い所でした。
 そういう所にありましたから、飛行機はしょっちゅう見に行きました。
 蒲田の近くに多摩川があります。六郷の橋があって、私達が住んでいた所は羽田の中で、今は太子橋というのがありまして、私が戦争に行くときにとりかかっていました。
 昭和16年頃です。私の場合はTDKに12年に就職して、16年に兵役の義務があって、甲種合格ではなかったですが、大東亜戦争のまっただ中にありました。TDKに入ったのですが、当時は仕事らしい仕事がありませんでした。
 斎藤先生がいったフェライトとは、鉄の粉で、鉄を錆びらせて、科学的に赤い粉になります。これを焼きますと黒くなります。これが永久磁石となり、肩こりに効きます。
 
 私の人生は波瀾万丈といっていいかと思います。
 戦前は戦争のまっただ中。
兵隊でいうと16年兵です。以来、四年間満州におりました。私は航空隊です。飛行機の修理工場で、第八三四一部隊で軍属の方と一緒でした。今の黒竜江省のチチハルから、60キロぐらい離れたロシア国境に近い、満州里に近い所に部隊がありました。ソ連に近い最前線です。
 そういった地形のところに終戦まで4年間おりました。
 私は単なる兵隊でしたが、人に負けたくないという性格を持っているので、何でも出しゃばりで、分からないことでも何でも手をあげてやりました。演芸大会では張り切って歌いましたし、部隊長に気に入られたのか、室内に入る時は15度の敬礼でやりますね。 それが一番上手だと認められ、中隊を廻って歩きました。そのせいか、私は暗号兵に抜擢されました。
 部隊長付きだと下士官が暗号を解かなければいけなんですが、部隊長の親展の暗号を解く係りでした。
 そして終戦を迎えました。いきなりそこから弾薬庫に入れられ、ソ連に編入されて、本荘と秋田ぐらいの距離を行軍させられました。その間、将校の荷物を持って50キロも歩けるものではないですね。そこで、荷物をどんどん投げ出して歩きます。それを中国の人が拾いに来るんです。それを監視しているソ連兵がマンドリン銃といって、30aぐらいのケースに入った弾を腰につけてねらっては撃たないんですが、バラバラーとやるんですね。残酷でした。
 満州里から行軍してソ連に移送されて、シベリアに3年間いました。
 その前は、満州での第九航空野戦修理廠にいました。

 ちょっと読み上げてみます。これを書いたのは軍属の女の子です。この子が昭和20年の八月にハルピンから南へ男装して顔に墨を塗って汽車に乗って逃避行を書いたものです。
 「昭和20年八月九日、ソ連が同盟を破って攻めて来ました。飛行場は空襲され、地上軍もこうあんれいを越えて急進しているというころで、八三四一部隊の一部と家族が貨車にて八月12日頃、ハルピンに移動することになりました。
 普通ですと一日ぐらいの行程なのに、敗戦を察知した満鉄の現地職員のサボタージュで、何度も途中で停車し、やっとハルピン行きに着いたのは、8月15日でした。私はチョロチョロ水道の水を水筒に入れながら終戦の放送を聞きました。ハルピン行き構内からそのまま、約30キロ程の、あの生体実験で悪名高い石井部隊の家族が南下した後の空き官舎にひとまず落ち着くことになりました。
 真っ暗な夜、必死で家財を貨車に引き込み宿舎に運びました。それから4,5日立った頃、武装解除された軍人と55歳以下18歳以上の男子はポツダム宣言で先に帰国するからだと騙されて、シベリアに連行されました。
 残された女子供はどんなことなのか、決して終戦ではなく敗戦なのだ、負けたんだということがわかっていなかったように思います。ただ軍人達が、もしもの時には自決するようにと、手榴弾や毒物を渡し、女の人は髪を切って男装した方がよいと助言してくれました。それが決して杞憂ではないことはまもなく思い知らされました。連日、ソ連兵によって時計や万年筆の強奪、婦女暴行に戦々恐々として暮らしておりました。
 何人かの女性が服毒しましたが、みんなで看病して命を取り止めました。9月に入ると寒くなり、ジャガイモやトマトの葉が霜枯れて、北満の冬の厳しさが予感されます。
 9月中旬になって、銃声が頻繁に鳴って、不審な男達が伺うような不穏な空気に包まれ、皆、すぐ飛び立てるように服を着たまま貴重品や食料は枕元に夜警の人数も増やし、ふれが廻りました。払暁、銃声が激しくなり歓声も迫り、宿舎の廻りは満州人に取り囲まれました。その上、玄関をうち破ろうとする物音さえするので、夢中で外に逃げ出しました。家を飛び出した人達が家財が略奪されるのを呆然として見ていました。
 そのうち宿舎から取る物がなくなった人達がその矛先を私達にきました。誰もその矛先から逃れられません。ただ親、兄が取りかばいあったが、何時しか身につけた服をはがされ、靴をとられ、疲れ果て略奪の収穫に満足した人達が止めてくれるのを待ちました。昼頃になって止みました。踏み蹴散らされた襖、捲られた畳、衣食燃料もなく、あるものは梅干し、最小限の品物が残っていました。これから零下30度になる北満の冬を越せるはずもなく、日本人の大勢いるハルピンに行くことになりました。ぞろぞろと必死で歩きました。はぐれることは死を意味します。略奪に抵抗して殺されたり、道中はぐれて消息のわからない人もいる。
 その夜遅くハルピンの小学校の講堂に辿り着きました。ただ腰を下ろして、膝を抱き、空腹さえも感じないできました。焼き芋、おにぎり、饅頭も売りに来ましたがお金は一銭もなく買えません。その時ある方が苦しいときはお互いだからと弟達にお芋を分けてくれました。その嬉しさは決して忘れられません。後から後から奥地で暴動にあった人達が集まってきた。新公募にあった満蒙開拓青年義勇隊訓練所が難民収容所に移りました。略奪や銃声、強姦の恐怖はなくなりましたが、劣悪な食事で一日、コーラン少々とジャガイモ2個。栄養失調になり、住まいは六畳一間に13人ぐらいの人が目刺しのように並んで寝るだけ。(続く)
   呑 風 日 誌 抄
 9月2日(火)秋田ふるさと塾事務所。秋田・コリア地域交流研究会を発足。会長には秋田大学の島村恭則助教授(秋田大学日本・アジア文化講座)、副会長には小国輝也氏、とりあえず小生が幹事長になる。顧問に兼若逸之・東京女子大教授。これで10月18日の秋田・コレア地域交流、夜楽会に兼若先生を迎える体制づくり。
 5日(金)息子・洋平と本荘・清吉そばへ。西目町の石の勘左衛門社長と鳥海山有用植物園の佐々木俊一園長から案内してもらう。二人の友情で皆、実生から育てた植物園。ゲンノショウコの花が綺麗。洋平、花の財団の土井さんに似ているという。本荘の内藤病院へ。小林工業会長の小林忠彦会長のお見舞。お元気になられ、12月7日、県民会館での心に響く名曲コンサートで歌ってくださいとお願い。
 6日(土)秋田市下新城の佐藤孝之助さん宅に寄り、飯島の松林にある秋田県立大学小林一三教授の炭焼き窯で出炭作業の手伝い。松食い虫でやられた黒松を炭にして、自然に戻し、松食い虫被害木の研究をされておられる。
 午後から横手市の秋田ふるさと村へ洋平と。佐々木太郎さんの友人、陶芸家・谷憲治展をみて、谷先生の染付け教室に入門。磁器に染付けした後、洋平はそのまま、故土井脩司氏の遺車・プリウスに乗って千葉へ。
 7日(日)秋田港セリオン会場で「土崎湊のマクベス夫人」を観劇。夫婦愛の平辰彦夫人の熱演。
 9日(火)秋田市山王・橙屋。三九会。菅谷理市・前連合秋田会長の慰労会を加成義臣県議と。後からNHKの浜西記者も参加。
 11日(木)藤里町・白神ブナっこ教室へ。NPOよいこはま里山研究所の吉武美保子さんの講演と棚田の見学。白い花のゲンノショウコが咲いている。鎌田孝一さんと久し振り。白神山地の保護運動を続け、実のなる地下茎を勧め農家の収益があがったといわれる。
 13日(土)雄和町。野球広場。仙台稲門野球チームと恒例の試合。9対9の引き分け。これで2勝1分け13敗。最後に投げて、最終回出塁し、三塁から暴投で走ったが、アウトでサヨナラ勝ち成らず引き分け。夜。館にて東北稲門野球連盟の発足式。石川劭背仙台総監督が会長に私は補佐役の副会長に就任。青森、岩手、福島に働きかける。
 14日(日)五百歳野球・中通クラブの壮行会。川反迎賓館にて。大嶋洋三部長(元秋田大学教授)の歴史的な選手宣誓をHPに掲載することに。主務の湯川隆さん達と足長おじさんへ。シンガーソングライターの津雲優氏へ作詞作曲家協会をつくろうと伝言。
 15日(月)阪神優勝。巨人ファンの女房は寝てしまい、一人ビールで乾杯。40年来のフアンである。
 16日(火)早朝6時。秋田駅前。コスモポリタンホテル。倫理法人会にて講演。「君は秋田を愛しているか」ラッパで起床ラッパも吹く。11時から秋田シティホールにて長門伸一先輩の葬儀。校友代表として弔辞。もう30年前から長門先輩にはずいぶんとお世話になった。第二校歌の口上を読みながら涙がでてしまう。
 18日(木)システム技術研究所の槌屋治紀博士から新著「調べてみようエネルギーの今」(岩波ジュニア新書)が送られてきた。実に分かり易く面白い本である。
 19日(金)秋田ふるさと塾事務所地域づくりセミナー。秋田地域通貨協議会会長の武藤英明氏。「まごころ通貨でまちづくり」地域通貨で環境、循環型のまちづくりに挑戦。
 20日(土)全県五百歳野球大会。中通クラブの大嶋洋三部長、湯川隆主務と神岡町球場へ。開会式に参加。出場チーム数は150チーム。世界一でなかろうか。神宮寺の名刹・宝蔵寺へ。戊辰戦争の平戸藩士の墓参。樹齢五〇〇年の欅の大樹。第一戦は8対1で勝利。
21日(日)イヤタカ会館。。イヤタカの佐藤正伸君の結婚式へ。 22日(月)昼、平和労組会議の工藤新一氏とパークホテル。10月16日のケーシーランキン「平和への道」ライブの相談。
23日(火)酒田市へ。舛谷政雄氏、鈴木茂氏と南洲神社の例大祭。西郷隆盛の鉄扇等が展示されており、驚く。土門拳記念館へも。庄内平野側から見た鳥海山が記念館の借景となっていて美しい。
 25日(木)山王・橙屋。舛谷政雄氏、南高校の英語教師杉田道子先生はハングル、。あきた・コリア地域交流研究会の役員にお願い。
 26日(金)札幌。ススキへ行かず同僚とホテル近くの居酒屋.
 27日(金)一便で秋田へ。札幌からバスで空港で向かったが、ギリギリに間に合う。
 昼、秋田ビューホテルで翻訳の件で古井直義氏、田村光博氏と。田村氏と雄物川コミセンへ。環境教育カウンセラーの鈴木太郎先生の講演。最大の環境汚染は戦争。
 28日(日)早朝。秋田日赤病院前。高橋幸雄さん。柏谷夫婦、佐々木啓助秋田ふるさと塾次長と菜の花ゲリラ作戦。高橋さんが病院への恩返しにと、病院の回りに種を蒔く。来春のお楽しみ。
寺町・本誓寺にて那波三郎衛門氏の葬儀へ。夜、消防会館にて、心に響く名曲コンサートのポスター、チラシの配分。
 29日(月)男鹿市。由利時計店へ女房と。田崎宏一夫婦へ仲人からの贈り物を盟友の由利均社長からサービスしてもらう。雄山閣へ。山本次夫社長へケーシーランキンの平和への道ライブの協力お願い。
  30日(火)阿部直耕氏と産業開発機構へ。有機質土壌改良材の資料に花と緑の農芸財団からの実験効果大のデータを発見。