ふるさと呑風便  2003・1・20  NO.165

    夢
 
 去年の暮れ。自宅で年賀状に添え書きをせっせとを書く。 
 年賀状が元旦に着くのに、秋田市内だったら大晦日の午前中に中央郵便局に持っていったら間に合いますよと、ある郵便局長さんから秘密裏に教えてもらった。秋田市内だけでも千二百枚を超える。
 一人づづに添え書きを書きたいところだが、緑の色鉛筆で笑と書く。これだけでは物足りない、創と、美と夢を加えて笑夢美創とも書きつづける。何とか30日の午前中までに書き上げて中央郵便局に持っていった。
 大晦日は、娘・江津子はロンドンに遊びにいったが、息子の洋平が帰ってきた。女房も九州の実家に帰らず、私も実家の大内町に行かないで秋田市で始めて新年を迎えた。
 初夢。何を見たか記憶にない。年賀状に書いた笑夢美創。とりたてて意味はない。自分の好きな字を並べただけです。
 今年の夢というか、目標のひとつに秋田市出身の国民的歌手・東海林太郎の記念室開設の運動を考えている。

 昭和61年1月4日付け秋田魁新報の声の欄に掲載されたことがある。
ー憲三・太郎の友情の碑をー
 TDK創設者斎藤憲三と東海林太郎は親友であった。日本の科学技術の発展に貢献された斎藤憲三は、秋田県人に乏しい進取の精神の持ち主であった。一方の東海林太郎は秋田県人の代表的な特性の、情が深く真摯な人柄であり、あの直立不動の不滅の大歌手として、日本人の心の中に残っている。TDK創設時、東海林太郎は何回か工場を訪ね、少年工へ歌を披露していったと聞く。当時の少年工で現在はTDK関連会社のある社長は、創立当時の苦労をしのび、若い頃工場で聞いた東海林太郎の歌を今でも愛唱しているという。(中略)
 現代秋田の生んだ二人の大人物が並んだ銅像を、秋田駅前に建立を提案したい。友情・友愛の尊さを青少年に教え、友情無限の精神を後世に伝えるため、斎藤憲三と東海林太郎の銅像を建て、秋田県の代表的人物を顕彰したいと思うがいかかであろうか。

 一七年前に考えたこの夢にはほとんど反響がなかった。
 ただ、この声の欄の、ある社長とは現在、本荘市に住む小林工業会長の小林忠彦氏のこと。小林会長はこの新春に夢の実現を果たされた。
 東海林太郎が愛した言葉。
「人生に夢があるのではない。夢が人生をつくるのだ」をまさに体現されたのである。

 一月18日。本荘市のホテルアイリス。小林忠彦作詞・作曲「煙草のけむり」発表会が開催された。
 小林会長は艱難辛苦のシベリア抑留時代に作った「煙草のけむり」を昨秋、CD化し、81歳で「歌手」の仲間入りをされた。
 その「煙草のけむりの」発表会は、この不況下にあっても明るさ、朗らかさを忘れないように、日本を元気にしようとの趣旨で開催されたのである。小林会長は生バンドをバックに、東海林太郎の「人生航海」を最初に、朗らかに力強く、歌われた。
 ♪
夢が無ければ 生きらりょか辛い浮世の いばら道
明日の為なら 泣きもしようやがて笑顔で 仰ぐ空

「人生に夢があるのではない。夢が人生をつくるのだ」
  ふるさと塾地域づくり実践ゼミ
★ 平成14年3月22日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★御輿づくり まちづくり(2)
★ 中村芳夫氏
(彌高泉神社氏子会副議長・秋田英数学院院長)

 秋田に帰ってきたときに丁度学区に区画整理の問題が起きまして、ところが私の家の周辺の30世帯だけ町内会がなかったんです。
 まだ20代でしたが、あちこちの町内会に声をかけたんですが、町内会に入れられないというもんで、30世帯の50歳、60歳のおじさんを集めまして町内会をつくらないか30世帯ぐらいだけども、やりましょうといってつくったのが、泉での最初の活動だったんです。 ただ私が会長をやるつもりはなく、総務関係をずっとやってきました。町内会がなかったものですから、市の広報もこない。そこで市政協力員に名乗り出て、広報をもらって町内に配布しました。市政協力員制度がなくなる十年前に20年表彰を受けました。それから、草野球とテニスのクラブをつくりました。草野球は土崎信用金庫の人達と一緒にバングラーズというチームをつくりました。テニスクラブは向浜にテニスコートが出来た頃で向浜テニスクラブ大会にでたりしました。後でおわかりだと思いますが、とにかく創るのが好きなんです。続けるのがどうも苦手ですが。

 私の子供が小学生になって野球をやりたいというので、スポ少にいったんですが、コーチをやれというので引き受けました。学校にはほんとは行きたくなかった。仕事が仕事ですから、学校に出入りしてアレコレいわれるのが非常に嫌で、ただ子供がスポ小やってるんで親の会とかやらなければいけなかったもんで出入りしていたら、小学校の先生から、PTAの役員をやってくれということで役員をしばらくやりましたね。泉小学校のPTAというのは市役所の石井仁さんが最初にやりました。その次の代は瀬田川栄一さんもやりまして、私は会長はやりまませんでしたが、そういうことで色々教えを受けたいうことはいえるんでないかと思います。ただ、PTAの役員をやっていて辛かったですね。一杯飲みになると学校の先生は塾を良く思ってくれないんですよ。ある時はお前は教育をクイモノにしているといわれまして、先生は食ってないんだなあと思いまして(爆笑)
 ホントに大変でした。
 ま、その関係で、どっちかというとPTAでは校外指導とかを中心にやってきました。少年保護育成委員はいまだにやっています。これは警察の方から依頼を受けまして月に一回は補導に廻っています。忙しくて今年度限りに辞めさせてもらおうと思っています。 そうこうしているうちに色んな所から声がかかりまして、体育協会の理事、社会福祉協議会の幹事とか町内会連合会に入って地域活動に入りまして、地域の活動を私のライフワークにしようと思いました。 ただうちの従業員達は非常に反対しまして、うちの仕事は子供が学校から帰ってきてからの仕事です。人と付き合うのはその時間帯とぶつかります。親の会や野球のコーチをやるときも子供が帰ってきてからの時間になりますから、ぶつかって非常に大変でした。最近は理解してくれているようですが。
 私は活動を仕事の種にしようという気は一切ないんですが、なったらいけないと思うんですが、結局、塾をやっているというのは、父兄も先生方もわかってくれてますから、結構入学させてくれる訳です。
 以前は、中村さんを知っているから逆に子供を預けたら子供の成績を全部知られるからと敬遠されたこともあります。痛し痒しだったんです。 ちょうど平成元年に泉学区、町内会連合会とかができて十周年だったんです。市政百周年の時に、各学区に150万円ほどくれたんです。町おこしということで私達は泉学区の10周年にそれを使わせて貰いました。分厚い記念誌も出しましたし、泉音頭という歌もつくりましたし、作曲して振り付けもしました。

 泉の夏祭りもやりまして、私が最初の実行委員長でした。最初はふれあい広場ということで、二日間やったんですけれども、それ以来、13回を数えています。2回ほど実行委員長を休ませてもらいましたが、去年もやりましたが今度から各町内にわりふりすることにしました。今まで泉の夏祭りに係わった方へ相談と慰労の会を開きました。祭りの全部を丸投げしてしまうと出来ないとなりますので、上の部分、実行委員長だけでもやってくれとか、総務部をやってくれとかといって、他のことはしばらく引き受けようということでやることにしました。これは今、町内会連合会の主催ということになっています。 

 このへんから私のライフワークに入ってきます。
 最初、夏祭りをやるのに、数名集まってだんだん輪が広がって何をしようかと考えました。とにかく人の意見をつぶすな、なんでも出して貰って、駄目だと思っても出して貰う。50から60もの案がでました。そのうち酒飲んでも出なくなりまして、ではそろそろこの中から絞っていこうとしました。実行委員が二十人ぐらいになりましたが、それだったら実行委員百人を集めたら、すくなくとも家族を入れて2〜300人は集まるんではないかということで、やりました。
 そこで私らの「合い言葉」があるんですが、規則は作らない、気持ちでやろうということで、13年間この合い言葉だけでやってきました。
 最初の祭りに百人ぐらい実行委員を集めました。祭り好きよ来いということで、三百人ぐらいはくるのかなあと思っていましたら何千人もきてびっくりして感激、感激でした。
 花火はできないもんだと思っていましたが、でも花火という話も出ましたので市内で打ち上げる花火というのはのろしと同じ大きさでないと上げられない。花火の値段というのはのろしと同じなんです。 小学校のグランドの真ん中で上げたんですよ。そしたらお年寄りが感激してくれましてね。この年になって、こんな近くで花火を見れるとは思わなかったと。

 今でもそういうムードになっていますが、私達は「出る杭はみんなで引っ張ろう」、出る杭は決して叩かないことにしようというのが一つ、それから「失敗していいからみんなで失敗しよう」みんなで渡れば怖くないといいますが、一人の人が計画して、命令して、一人が間違ったから責任をとるのでは何にもならない。みんなで話し合って、みんなが間違えば、みんなが反省できます。
 私が能力のない委員長だったので皆でやろうということです。
 とにかくみんなの話を聞いて、話し合ってやると絶対うまくいくと思いますね。
 祭りの決め方も何やりたいとガヤガヤしたところで、ある時は酒を飲みながら話し合ってる訳ですよ。最初のうちはこんだけ金がかかるとか言っているのに、日にちが近づくに従って、そろそろちゃんとしなければいけないといって俺のところの金はこれくらいでいいからといって具体的な作業にかかろうといってくれる訳です。みんなでいこうかという形でやっています。 上に立つ人は私のように無能な方がいいのかなと自分ではそう考えています。

 この祭りのことで全国表彰されたこともあるんです。明日の日本を創る協会からで広島の全国大会に行かせてもらいましたね。
 夏祭りは結局、一年目はふるさと資金が百万円程あったのでよかったんですが、次の年は秋田市の方で各学区に配ったんです。40万程貰いました。40万で二日間の祭りをやるのは至難の業ですが、あとは寄付でやってきました。そしたら3年目から市の方でそれは打ち切りだと、要するにちゃんと使われてないとの説明でしたね。そこで町内会連合会の方に掛け合って、一世帯から百五十円出して貰っています。それでも40万ぐらい。
 私は土崎生まれなもんですから、土崎港では、港祭りでは一軒当たり相当な金を出しますが、泉では百五十円も出しているんだといっている人もいます。(笑い)
 花火の寄付を貰う時に、2発上げて一万円でどうだといって、ちゃんと協賛の紙を貼り出して、どこどこ協賛と泉に住んでいるアナウンサー達がやってくれます。秋田放送の大坂谷さんにも放送部で実行委員になってもらってタダでやってもらってる訳です。
 やぐらも組みます。左官屋さん、大工さんとか鳶職の人とかに実行委員になってもらって、日曜日とか一日ぐらい休んでやってくれますよ。みんなともかく手弁当です。また、それが楽しいみたい。で、時々五百円会費で飲み会やります。それで出来るんですね。
 祭りと通じてお互い、相当知り合いましたね。この前計算したら220人もおりました。(続く)
  呑 風 日 誌 抄
12月5日(木)秋田ビューホテル。あきた産業連携推進フォーラム。工業部会に参加。
県立大学の熱学の日向先生。「産学共同は両者の熱意によって成功する」
 6日(金)川反・ちゃわん屋にて毎日新聞秋田支局忘年会。先酒。
 7日(土)秋田駅前迎賓館。
5百歳野球「中通クラブ」忘年会。膝の故障で今シーズンは出場できず。神馬総監督から小生の本「青春旅故郷づくり」は冬、読んでいて心が温かくなる本と評価して頂く。
 8日(日)イヤタカ。歌要会。敬愛する伊藤要先生の会。音楽家が多数の楽しい会。大正琴の佐々木松嶺先生のナツメロ歌合戦の面白い話。
 9日(月)千秋公園・あやめだんご。小林孝哉先生とじっくり。小林先生は柔道家でもあった。「精力善用」という言葉をご教示される。
 10日(火)昼、山王・サガンにて、橙屋の田崎シェフから早田貫一画伯ご夫妻とご馳走になる。精力善用の料理。
 11日(水)秋田ふるさと塾事務所。朝日新聞の細見真人記者から取材を受け、写真も撮られる。正月の特集号に載せるらしい。たか乃家にて一献。有楽町の「お元気」へ。
 12日(木)秋田空港。和多田進氏を出迎え、秋田港・セリオンを視察。秋田工芸美術短大の石川好学長にアラーキー日本人ノ顔秋田プロジェクトの協力依頼。和多田氏と石川氏は旧知であった。
 秋田経済法科大学の佐々木満理事長へ。拙書を届け、野球の話。夜、ふるさと塾にて
和多田氏とアラーキー日本人ノ顔秋田プロジェクト準備委員会の面々。スポンサー探しが厳しい状況にあって、来年1月末までに開催するかどうか結論をだす。焼き鳥・鳥八にて懇親会。
 13日(金)午前、秋田空港で学友小田豊二の出迎え。取材と仕事依頼に来秋。小西一三家にて「マグロ経済学」出版の仕事依頼。夜は山王の三味線茶屋すがわらにて多献。
 14日(土)午前中、本荘市の石井護パソコン博士からホームページをすっかり整理してもらって大江戸ラーメン。 15日(日)象潟シーサイドホテル。象潟病院院長・成田茂先生の葬儀。拙書の出版会の発起人になってもらっていたのに、無念。涙。帰り精神科医の玉川純雄先生と同乗。ケーキと不景気の話等、為になる話を伺う。
 16日(月)自治研修所。研修とは「変化する環境に適応する能力を習得するため」だそう。夜、アキタニューグランドホテルにて秋田稲門会忘年会。50人ほど集まる。川反にて二次会、三次会は佐野元彦氏と瀬下建設工業の瀬下和夫氏と何処だった失念。
 18日(水)三井アーバンホテルにて課の忘年会。福引の景品を初めて、途中でなくさずに家に持ち帰る。
 20日(金)鹿角市・割烹美ふじにて、出版記念会。発起人の田中幸徳氏にすべてお任せし、懐かしい方々が集まってくれた。花束も二つ頂く。
 21日(日)出版会に出席していただいた奈良東一郎氏宅へきりたんぼ料理の達人加藤照子さん、田中幸徳氏と奈良コレクションを見せていただく。内藤湖南の書から山頭火、良寛の色紙まで多数で驚く。奈良亀コレクションを観光物産協会のHPにバーチャル宝物館としたら観光資源となって人を呼べよう。
 夜、大館市・秋北ホテルにて出版記念会。車椅子歌手の畠山ひとみさんから「命をありがとう」竹村菊昌さんから「大館小唄」を初披露され、愉快な歌の会。宮原文弥氏達と二次会。ケーシーランキンに電話し、東京での出版会発起人を頼む。福月ラーメン。
 22日(日)8年前、大館での出版会で司会をしてくれた比内町の故野呂金悦氏宅に本を置いて、上小阿仁村の山吹まんじゅうを買って帰る。
 23日(月)秋田ビューホテル。瀬下ファミリイグループ主催巨人監督・原辰徳トークショー。親友の瀬下和夫氏との友情無限。六百人の大盛況。
 25日(水)昼、ふるさと塾で中国語と韓国語を教えたいという高校同級生中国人夫人を案内。この日、忘年会を予定にいれず。カミサンの誕生日だった。
 26日(木)役所の班の忘年会・八橋の中華料理「盛」サガンにてカラオケ。
 28日(金)セレモニー平安。伝承遊び・童っこ祭りの加藤亮氏の葬儀。若すぎるよ。
 彌高神社にて秋田聞き書き学会の役員会八人。小田豊二講師の講演ビデオ、NHK人間ドキュメント「聞いてください私の人生」のビデオを見ながら感動を新たにする。