ふるさと呑風便   2002年9月  NO 161

  煙草のけむり

「そうそう、このパットというのと、だんよを覚えている」
 秋田市八田の「山の五代」という御食事処。そこには尺八や三味線も置かれている。
 平成14年9月15日の晴れた午後。
 ご主人の佐藤岩夫(54)さんがCDを聞きながら、語ってくれた。

 煙草のけむり
      小林忠彦 作詞作曲
 ♪爽やかなのは 春の空
   朗らかなのは 僕の心
   広々と曇りなく 青空に
   パット吹いたよ マホルカの煙だんよ

 この歌は、小林工業会長の小林忠彦さんがシベリア抑留時代に作った歌である。この歌を編曲された佐々木久美子さんは偶然、山の五代の佐藤さんに小林会長のCDを聞いて貰った。そしたら何と、この歌を親父がよく飲んで歌っていたと聞いた。
 これは興味深いと、山の五代を訪ねて、話を聞きに来たわけである。一緒に「煙草のけむり」を聞いた。明るく爽やかで、朗らかな心がこちらにも伝わってくる。
「親父はシベリアではなくて、南方から帰ってきたんです。だから、誰かシベリアで覚えた人から聞いて歌ったんだと思います」
 食堂には岩夫さんのおふくろさんもおられた。CDジャケットの写真を見ながらいわれる。
「亡くなった父さん、従兄弟で阿部新五郎さんとよく飲んでいて歌ってだ。新五郎さんも亡くなったども、シベリアさいってたかも。それにしても、81歳で若い声してるなぁ。顔もええな、若い頃はいい男だったべなあ」 

 煙草のけむりのCDに「そして歌がうまれた」と題する解説文を書いた。  
 半世紀以上もの昔、昭和12年の東京・蒲田。小林さんは、斎藤憲三が創設した東京電気化学工業(TDK)蒲田工場の一期生だった。そこへ、斎藤憲三の親友でもあった東海林太郎がきた。歌と出会った。小林少年は歌手の道を目指した。しかし、戦争がその夢を砕く。初年兵として北満の国境地帯にあるチチハルへ。終戦となってシベリアに抑留される。悪夢の3年間だった。
 小林青年はふるさとに帰りたい一心の抑留者を慰めたいと思った。収容所の演芸会で、絣の着物を着て自作の「タバコの歌」を歌った。自作自演で明るくほがらかに歌った。
(中略)
 故佐藤憲一本荘市長の葬儀の後のこと。小林会長は私に「煙草の歌」を聞かせてくれた。明るく爽やかな歌である。
 私は思わずいってしまった。
「会長、往年の歌手への夢をかなえませんか。不景気な今の日本を元気づけるためにも、『タバコの歌』をレコードにしませんか」
 快い責務となる。音楽プロデューサーの川又淳氏にCD化を依頼し、一番だけの歌詞を、名歌手の伊藤要さんには二番目から詩を作ってくれた。 春から夏へ、秋、冬の「煙草のけむり」という歌が生まれた。
 
 この歌は新聞、テレビで大きく取り上げられ、注目を浴びた。あまりの反響の大きさに、小林会長が私に、「八〇を過ぎ何故CD製作なのか」と題して、コメントを寄せられた。
 「このCDは、何も歌手気取りで製作しのものでない。
 氷点下四〇度という厳寒での3年の抑留生活はまるで地獄絵図を見るような悲惨、無惨な生活の中で、疲労困憊の仲間達を少しでも癒したいが為に、明るく元気に振る舞うようピエロまがいの格好で踊りながら歌ったのが自作の「煙草のけむり」だったのである。
 仲間達に大いに喜んでもらった当時のことは、今でも夢を見る如く、片時も忘れることはない。(中略)
 不況に苦しみ疲労困憊する今日とシベリアでの苦しみは天地の差ともいうべきものであり、比較になるものではない。しかし、私のCDが不況に苦しむ今日の世相において、少しでも明るい話題として活力の一助になるのであれば望外の喜びに思う次第であるし、人生の最大の喜びとするところである」

 八月末に製作された千枚のCDは不足してしまい、近く、三千枚が追加され、全国ネットに乗せられる。10月27日(日)には本荘市で発表会が開かれる。
 沈滞した日本に活力を与えるべく、小林忠彦会長の歌の力が全国に及ぶ。紅白歌合戦出場?。そこまでは、夢で会いましょう。

  ふるさと塾地域づくりゼミ
★ 平成13年8月24日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「まちづくりトライアングル」(2)
★ 門脇重氏 (角館企画集団トライアングル・角館町商工会勤務)

 今年は別のことをやろうと夜な夜な頭を悩ましているところです。
 県の地域開発課から自前でがんばっているのだから、トライアングルを表彰したいといってきました。
 結果として最優秀賞をいただき県から30万円頂きました。これは嬉しかったですね。 じゃあ皆で飲もうかと、いや定期預金だ。とか、てんやわんやでした。
 審査時のプレゼンテーションも人力車を持ち込んでやりましたね。非常によかったということで賞を頂きました。 当日、ライバルには八竜町のサウンド・クラフトのグループもありましたが、本来の最大ライバルというのは隣村西木村にある、地域おこしグループ・サラダハウスです。
 彼らには負けたくない。代表が門脇光浩氏で、向こうにNHKが取材に来たら、こっちは民放の中央から取材に呼びたいとライバル意識を持っておりました。そういう意味では互いの相乗効果というのがあります。
 サラダハウスが県表彰を受け、自治大臣表彰を受けました。いや、これは面白くないと(笑い)。
 我々も何とか自治大臣表彰を受けたいと思いました。これが去年十一月ですね、行革で自治省が変わる前に最後の自治大臣表彰を受けました。
 秋田県は連続受賞です。
 象潟町のバイアスロン、次がサラダハウスで、三年連続というのはないということで、グループにもある意味でプライドもありましたし、変なこともできず、次に何をしようかと悩んでいるところです。

 基本的な考え方というのは、まず一番煎じが一番いいということです。ま、そんなにこだわらなくてもいい、二番煎じだろうが、三番煎じだろうが、いいとこ取りだけをしていこう。角館町らしさと、秋田らしさを我々の手で、オリジナル化していこう。それで万歳ではないか。より以上の角館町らしさを出し、マスコミ受けしていた方が世間も認知してくれるだろうと。 
 実のところトライアングルは、何かもっと華やかな舞台にたって認知して欲しいというふうに一生懸命がんばっているところです。

 話は変わりますが、角館町の中心部である外町(商人町)を何とかしたいと、今ただそれだけです。実は商店街(会)も、産業振興機構となる最後の中小企業振興公社からの助成金を頂いてつくった外町絵図というガイドマップを、従前に国の補助事業でつくったマップ(現在、観光協会でリニューアルし配布)とはリンクするように工夫しています。
 実は私も知らなかったんですが、日本産業経済新聞主催で、まちづくり散歩マップ大賞(?)というものがあり、この外町絵図は金銀銅でいうと銀賞を頂いたマップです。
私共のところは他薦での応募のようでした。同新聞から電話をいただき角館町の外町地図が最終選考会に残ったので何とか現物が欲しいとの連絡でした。
 著名な方々が審査員で東大の名誉教授なども委員で、大至急送って欲しいと事務所に連絡がありました。
 前後して、多くの方から賞をもらった地図を送ってくださいと電話が来ても何のことだかさっぱりわからないんです。
 財団法人日本休暇村協会から電話がきて、日本産業経済新聞の夕刊に載ってますよといわれて、秋田県には夕刊はないわけですよ。じゃあ現物を送りますよという訳で、初めてわかりました。(笑い)
 それから未だに来ますね。昨日は彦根市の都市計画課から是非送って欲しいといってきました。日本全国の自治体と観光協会等からきて今は残数がありません。
 トータルデザイナーが三浦陽一さん(デザイン事務所)です。イラストは田町武家屋敷ホテルの藤原里香さん。皆地元の才能ある方々です。完成までの費用は数百万円です。今、部数がなくなってどうしたらいいか、悩んでいます。

 他には、「あきた産業振興機構」から補助金をいただき、中心部に立町商店会という任意の組があります。ここは第三セクター西宮家がある商店会です。
 花のまち、蔵のまちというキャッチフレーズで、商店街マップを作成し配布。これもリンクしています。
 国や県などから活性化の記事として取り上げたい、資料を送って欲しいという連絡もありました。

 また、周辺の4か町村でがんばっている方々を中心に「観光商業研究会きたうら」という組織を立ち上げ、もっと元気にと秋田市の「ほっぺちゃんカード」を参考に今年の7月にスタートしたばかりです。男鹿市北浦の人たちに勝手に使うとお叱りをうけそうですが、歴史背景的には、角館を中心とした地域を北浦地区といいます。
 会長は46号線沿いで「北浦本館」を経営しております。 副会長が「料亭 稲穂」の社長、田沢湖町「わらび座」社長、中仙町の「秀よし」専務です。
 なんとしても角館、北浦地区に人を呼びたい、特に秋田市から呼びたいという計画をたててスタートさせました。
 「ほっぺちゃんカード」の利用出来る店を当初十一店舗、十九施設。九月のお祭りまで、二十店舗24施設にしたいと考えています。
 近々、船井総合研究所の佐藤次長さんを呼んで勉強会を開きます。

 何とかしないとこのままでは角館は取り残されるのです。秋田が置いて行かれるのです。
 全国の元気ある地域に。
   我青春風来記(137)
          早海三太郎
  下井草(7)

 21号館の34教室。ここが中南米研究会の文化祭の発表の場だった。ただし半分。 
 3年生の幹事長が文化祭への申し込みを忘れ、隣のボイスオブワセダの栗原幹事長が中西ゼミ同期だったのを幸い、彼から条件付きで借りた。テーマは「ラテンアメリカ革命とキューバ」の展示を終えた。 隣の展示会場で条件をクリアして、「ワセダ座頭市」の芝居の稽古が始まった。それも文化祭の前夜である。
 条件とは我がクラブから3人の役者を出すこと。問題のお光役が中南研の女性部員に断られ、一年生の塚田徹君(東京第二弁護士会所属)が脅迫されて、承諾させられた。
 栗原監督の脚本には、三太郎は平手造酒役であった。
 芝居は三幕あって、二幕目には居酒屋でお光から酒を注がれる場面があり、最後に座頭市役の栗原と三太郎が決闘。
平手造酒が倒されて幕である。 本番の日。会場は文学部横の記念講堂。入学式の会場だ。レスリング部の道場があった所で、一年の時、ここで汗を流した。サッカーの釜本がヘディングの練習していた講堂でもある。「早稲田座頭市」公演には百人程の椅子が設けられている。出演前に楽屋で七人の出演者が顔にドーランを塗られた。皆初めての経験。顔が引きつってきた。カネがないので服装は、着物姿や学生服を裏返しに着ている者やでバラバラ。刀は棒きれで実に貧そうな座頭市の出演者達である。 
 舞台の袖から観客席を覗いたら、五十人程集まっている。 三太郎は前日に覚えたセリフを緊張しては殆ど忘れていた。
 幕が上がった。
 平手三太郎の出演場面は第2幕目からである。お光ちゃん役の塚田徹君は女装して気持ち悪い。舞台設定は長椅子だけ。そこに座って、平手三太郎はちびちび酒を飲んでいる。(この酒は本物。原酒太平山)お光役の塚田君が、とっくりを持って登場。ここで観客が爆笑。なよなよして気持ち悪い浴衣姿が笑いを誘った訳である。気持ちの悪い女に酒を注がれた。セリフを忘れた三太郎。「これは旨いな、秋田の酒だろう。酒は天下の太平山。男は天下の平手造酒だ」
 第3幕。幕が開くと、観客は半分に減っていた。棒きれをもって栗原座頭市と決闘がはじまった。前夜の殺陣の練習は何とか覚えている。造酒三太郎は簡単に殺されるのは面白くない。チャンバラごっこがしばらく続く。栗原座頭市が耳うちする。
「おい、もう殺られろよ」
「まだまだ」
 十数人に減った観客はあきれている風。やっと平手三太郎は大袈裟に倒れて、幕が降りた。 お粗末だった。何とか終わってほっとした。
 三太郎が持ち込んだ秋田銘酒は本物を出したと、実行委員会から没収された。当時も実行委員会は過激派の核マルが牛耳っており、「太平山」は彼等の口に入ったに違いない。
 七人の大根役者は顔を洗って、学園キャンパスの大隈銅像に下に集まり、記念写真を撮った。 口をむっとひん曲げた大隈さんも、あきれ顔のようだった。(続く)
 呑 風 日 誌 抄
 8月1日(木)ツバサ広業の舛谷政雄氏が、ロスアンゼルスの石原剛からのメールを、秋田空港からロスへ出発する小笠原嵩先生夫妻へ届けてくれた。間に合った。
 2日(金)川反・秋田乃瀧。早稲田大学グリークラブ秋田公演を9日に控えて。実行委員会最後の打ち合わせ。皆で気勢を上げる 3日(土)あきたパークホテル。秋田市大内会総会、懇親会。久方ぶりだが、あたふたと司会進行役。
 新会長に92歳の畠山千代志さんから無理をいって引き受けて貰う。ふるさとを愛する畠山大先輩の挨拶が素晴らしい。佐々木秀綱町長も顧問に新体制を決め、懇親会では伊藤一先輩が盛り上げてくれて、参加者に喜んで頂く。同級生の秀治、正治、正、栄子達と二次会が三味線茶屋すがわら。
 4日(日)天王町出戸浜の海の家「八千代荘」。恒例の日中友好地引き網交流。朝、大雨の中、このイベントの発案者佐藤孝之助さんのマイクロバス2台で、留学生送迎の運転手役。日中友好協会幹部で決行をいぶかる者もいたが、内陸部出身の多い留学生は海が楽しみ。雨の中、海が見えてきて晴れてきて、車の中の留学生が歓声を上げる。残念ながら波が荒く地引き網は中止だが、浜辺で留学生家族達がスイカ割りで楽しむ。
 留学生達の兄貴分、加賀谷実氏が秋田県短歌大会で優勝した歌を聞く。「暮れていく秋の日の海なつかしき 我に解脱を誘いたりはせず」留学生会館に彼らをバスで送り、夕方、孝之助さんと昭和町の湧水を利用した石川商事の石川善春社長のチョウザメの養殖場を見学に行く。5年後にキャビアをご馳走になる約束。
 5日(月)自宅にて、秋田聞き書き学会事務局会議。ABS秋田放送の住谷記者とカメラが入る。戦争特集で終戦記念日前に戦争体験者の聞き書きを撮りたいとのこと。電話で秋田市泉の廣沢忠敏さんから、フィリピンでの被弾体験を聞かせて頂くことをお願い 7日(水)井戸端ゼミナールの夜学。秋田市大町・コア。千苗ちゃんの子連れアメリカ留学体験記を聞く。アメリカ人気質がわかって面白い。
 8日(木)秋田市泉の廣沢忠敏(81)さん宅。フィリピン・ルソン島での戦争体験を秋田聞き書き隊員の舛谷政雄さんが聞く。娘さんからも一緒に聞いて貰う。被弾した弾までとっておられた。孤独にうち勝つために、なくくそっの精神力の強さに感銘を受けた。
 9日(金)秋田市文化会館。早稲田大学グリークラブの公演。一年前から準備をかけてきた。実行委員は1時集合。山形からバスで合唱団一行が宮崎示先輩の案内で到着。打ち合わせ、子ども合唱団とのリハーサル。6時30分開演。当日券が50枚も売れた。二階席までほぼ満員。公演はほとんど見れず。終了後、ロビーでの合唱で観客と一体になった。ニューグランドホテルに70人集まって打ち上げ。実行委員長として、実行委員や顧問の諸先輩に感謝し、学生達に君たちを誇りに思うと挨拶。二次会を学生幹部を連れて、川反、たかの家で3次会。夜2時まで歌う。若いというのはいい。
 10日(土)朝、9時。ホテルでの解団式で御礼の挨拶をして、部長の佐藤嘉晃君を連れて本荘市へ。
 横浜に住む彼の本籍が本荘市石脇だというので、彼のルール探し。由利正宗にて、酒を買って住宅地図を見せて貰って訪ねた。
 清吉ラーメンをご馳走して、秋田市に戻り、文化会館で、雪豹の試写会へ。
 13日(火)大内町の実家。墓参り。
 14日(水)佐々木耕正さんの初盆へ。橋本一康家での初盆。大内町から見える鳥海山の写真展の提案。美佐子食堂にて恒例の中学同級会。夕方、秋田放送で戦争を記録する会として、聞き書きのことが放映されていた。
 15日(木)象潟町小砂川の母の実家の土門家の墓参り。本荘市石脇の渡部慶一宅の初盆へ。岩城町の前菊池建設会長の工藤順二氏宅の初盆。秋田市に戻り、感恩講保育院の秋田子ども文庫に子ども向けの本を届ける。
 16日(金)音楽プロデューサーの川又淳氏が「煙草のけむり」のCDを仕事場に届けてくれた。何とか完成。グリークラブ秋田公演事務局長の吉田典雄氏と家の近くの小鍛冶にて反省会。
 17日(土)秋田市寺内のブルーシャトー。ヘブンブルーの朝顔でいっぱいの早田貫一先生宅にCD「煙草にけむり」を届ける。ジャケットに先生が描かれた「シベリア収容所の門」の絵を掲載させてもらった。先生の戦争体験記も聞き書きで残しておきたい。 
 19日(月)秋田県造園協会の自前の会館「林泉会館」竣工記念パーティに招待される。佐々木吉和会長のご配意。
 20日(火)鷹巣町の北士館長の七尾宗専先生とワールドゲームズ記念会へ。 アキタニューグランドホテルにて秋田稲門会役員会。25日が支部総会。
 22日(木)秋田市文化課長と山王の讃岐うどんへ。中国の朝鮮自治区からきた国際交流員崔さんを紹介。渤海国発掘の話。本荘市のスナック千へ。小林忠彦会長のCD完成を祝って乾杯。十月に発表会の相談。
 23日(金)秋田ふるさと塾。川反塾舎にて、講師は工藤雄一先生。「浜辺の歌の謎」ミステリーな地域興しの話は面白い。
 25日(日)秋田市山王の大江戸ラーメンを食べて、大曲のエンパイヤホテル。秋田稲門会総会。奥島総長に恒例の金浦町産のなまこの瓶詰めを送る。田沢湖町の佐藤峯夫先輩から、三州横須賀村があった人生劇場の町へ行った時のセリフ入りの歌のお土産を頂くことに。懇親会に出られず、秋田市に戻り、NPOの会合に出席。
 26日(月)聞き書き学会事務局にて、秋田県ボランティアセンターの笈川卓也氏とサッポロビールをたらふく飲みながら聞き書き秋田の創刊号の編集会議。何を決めたか定かでない。
 29日(木)毎日新聞論説委員の三木賢治氏を空港に出迎え。羽後町役場へ。佐藤正一郎町長が東京品川の高輪製作所へ羽後町から集団就職した子どもの消息を調べていれくれた。蕎麦好きな三木氏と松屋食堂へ。七曲がり峠を登り、阿部モータースの阿部剛社長から中学校跡を案内してもらう。三人の集団就職した関係者に取材し、秋田市に戻り、秋田職人の会の工藤幸彦会長宅でご馳走になる。大町の「いずみ」で毎日の田所記者も呼び多献。
 30日(金)ふるさと塾事務所にて、第三回天才アラーキー日本人の顔秋田プロジェクトの設立準備会。札幌の八木さんも来て、八人。森川恒氏達デザイナーグループとアクラビールへ。
 31日(土)秋田県民会館。秋田青年会議所50周年記念式典。
 記念祝賀会がキャッスルホテル。本荘市の伊藤恒先輩、バリアフリーネットワークの佐々木孝先生から小林忠彦会長の煙草のけむりの発表会の発起人の依頼を快諾してもらう。