ふるさと呑風便 2002・8 160号
ひまわり
「CTGの諸兄へ
急なことですが、藤本敏夫氏が31日に肺炎で死去されました。残念です。ご冥福を祈ります。つい1年ほど前に事務所へやってきて、今度はエネルギー問題をやるので手伝えなんて元気に言っていたのですが。何度か重い病気を克服して生きてきた方でした。新聞には加藤登紀子のだんなとありましたが、CTGのメンバーには花の企画社の土井さんを通じて関係が深かったと思います。土井脩司氏と電話で話しました。土井氏も3ケ月前に会ったときにはとても元気になっていたということでしたが。(槌屋治紀)」
「藤本さんとは、山本満喜子さんの家、日本キューバ文化交流研究所で初めて会いました。その後、彼はキューバにサトウキビ刈りに出かけましたね。秋田の農業青年の前で、無農薬農法の講演を頼んだこともありました。
先年、彼の年賀状にありました。『人生、健康と友達』と。
糖尿病はすっかり克服したものと思っていたのですが。
残念です。彼の残した言葉、『人生、健康と友達』かみしめています。(合掌)」
これはCTG(コンピュータテクニックグループ・コンピューターアートの草分け・私もその一員だった)のリーダーだった槌屋治紀氏(システム技術研究所長)からきたメールへの返事。
藤本氏と会った当時、私は自民党参議院議員の秘書をしていた。お互い、20代の中頃である。藤本氏は出所後、嫁さんの実家が新宿でロシア料理店をやっていて、ロシア料理の研究にロシアに旅行したり、陶芸を始めたりしていた。
昭和50年春の鴨川駅。CTGで鴨川に山小屋を建てようとメンバーが集まった。駅前に藤本さんがいて、鴨川で大地の会を作って無農薬栽培を始めていると聞いた。
それが縁で私は彼に、秋田の農業近代化ゼミで、土地と土の農業についての講演を頼んだ。花の企画社の土井氏とは、今、千葉で花と緑の農芸財団の理事長をしている土井脩司氏のこと。彼に頼み、経団連の土光敏夫会長から秋田の農業青年の前で話をして頂き、成田の農民の家にホームスティをさせて貰った。その中には、成田空港反対期成同盟の家もある。同行した私は、農業青年達に、反対運動で命を落とした農民がいるだろうから、宿泊先を訪ねたらまず、仏壇を拝むようにといった。
後になって、県庁農政部の幹部から文句を言われた。元学生運動の闘士や、成田の農民なんぞを紹介して大丈夫かと。実に狭量で情けない。自分のことしか考えない役人程、美しくないものはない。
昭和45年の秋。秋田に帰って役人になることになって、山本満喜子さんに挨拶にいった。渋谷公会堂の楽屋前。
加藤登紀子さんが一緒だった。紹介された。彼女の目を細めた笑顔が印象的だった。
登紀子さんは8月1日、通夜の席で日刊スポーツの記者へ涙ながらに語っている。
「(夫のことを)いつも美しいなと思ってながめていました。お互いがわがままであることを認め合いながら生きてきました。」
藤本敏夫氏は健康とは友達になれなかった。でも、いい友達がいて、亭主を美しいといってくれる妻がいた。
鴨川につくった自然王国には、今、真っ盛りのひまわりが風に揺れている と聞いた。
ふるさと塾地域づくりゼミ
★ 平成13年8月24日(金)
★ 川反ふるさと塾舎
★「まちづくりトライアングル」
★ 門脇重氏 (角館企画集団トライアングル・角館町商工会勤務)
角館町商工会に48年に採用され、佐々木三知夫さんとのお付き合いは業務以来です。その後、六郷町商工会、大曲市商工会と勤務。大曲は花火の町ですが、花火の裏話はいっぱいありますが、それは後日として、話が地域づくり団体トライアングルになるかと思います。私も肩の力を目一杯抜いて話をしたいと思います。
生まれ育ちは西木村で、昭和24年生まれです。機械が好きなものですから、最初、車の整備の仕事を考えていたのですが、結果はセールスマンでした。
当時43年はそんなに車を持っている人はいなく、一般家庭への飛び込みセールスでした。これじゃだめだと、やめていろんな仕事をしました。保険会社、土方もやりました。出稼ぎで佐渡へ行ったり、日産横浜工場へ行ったり、夜勤と日勤の二交代も経験、欠陥車のことも知りました。最後は地元の事業所に勤めました。
そうこうして、角館町商工会へ。当時、農業近代化ゼミナールがありまして、農業は翌日からやれといえばできます。商工ゼミナールは、そう簡単にはいきません。当時、商工ゼミナールの担当だった佐々木さんと議論した記憶があり、いい思い出と思っております。
話を進めますが内容はかなり前後します。秋田県で組織としてのまちづくり会社があるのは六郷町です。商工会長さんが社長です。出資は住民と町で「第三セクター」です。現在、国(県)と町が大金をだし、活性化のための施設を計画しています。
活性化や地域づくりの行きつくところは「人づくり」です。私はそれ以前に方程式みたいな何かあるのではないかと思っています。それを見つけられないでいるのが状況ではないかと感じています。
角館企画集団トライアングルのことですが、元竹下総理がふるさと創生を掲げて登場し、全国の自治体に「ふるさと創生資金」一億円ばらまいた。実はそれが角館企画集団トライアングルの原点だったのです。
当時の町長が一億円をどう使うか、色んな使い方があるのではないかと角館町デートエリア構想という計画を立てました。角館は地図で見ますと、ひょうたんの型をしています。東側と真ん中と秋田寄り側のそれぞれのエリアをどういうふうにまとめたらいいかということで、若いメンバー約40人集めて検討した。
それで現在、立ち上がったのが花葉館、駅前広場(観光情報センター)やJRアトリスが行っている人力車の営業などです。
地域づくり団体としての組織が角館企画集団トライアングルです。一年間かけて作った構想ですが、終了後にこのまま、このメンバーを解散するのはもったいない、何かやろうではないかということで、できたのがトライアングルという組織です。
平成4年頃に立ち上がりまして今、会員は役場職員、商売をしている方、サラリーマン、団体職員など男女併せて24人。最年長者4〜5人で、殆ど40代、30代の個性豊かなメンバーです。
最初に手がけたのが、黄色いハンカチ。高倉健と倍賞千恵子の映画がありましたね。角館町から都会に出ていった人たちから帰ってきて頂きたいと、駅前広場に長いポールを立てて、四方八方に黄色いハンカチを掲げてキャンペーンをやったのです。
家族ぐるみでできるイベントを考えていこうと保育園、小学生を対象に魚のつかみ取りなどをやりました。それから、武家屋敷をなんとかしたい。文化庁の厳しい規制を受けている場所なものですから、また実際、そこで生活している方々も、庭木一本切るのも、県(国)にお伺いを立てなければいけません。
そこで、岩橋家があって平たくいえばお化け屋敷のような所(失礼)ですが、昼間は観光客がいるし、では夜の武家屋敷を何とかしようと、やったのが「怪談」(笑い)です。神田紫という女流講談師を呼んで「牡丹灯籠」。神明社に参拝してお払いし、ちゃんと業界のシステムにのっとってやりました。講談を聞いていて、企画した我々も気持ち悪いというか怖かったというか、やってよかったのか悪かったのか。その後、別の場所で引き継いでやっているのが、年一回の古典落語をキッチリやっています。
次に日中何をやったらいいのか、花見のごった返している時に、私共の町は佐竹北家ですから、佐竹南家(湯沢市)では大名行列の際に人力車を使用していることから、湯沢市から人力車2台借りてきました。何とか動かせるようにして、花見の時に走らせました。これが又受けました。
引き手がお馴染みの半纏、雪駄を履いてやったものですから、観光客に大受け。それで人力車を一台貰いました。
春と秋に、観光客を人力車乗せて武家屋敷を回ってもらい、記念写真代を含めての料金でサービスしました。これも受けまして、役場の方には今年はやらないのかと問い合わせがあったとかの話もききました。手間暇がかかるので勘弁してもらいました。
秋田新幹線が開通し、JRアトリスから何かやりたい、確かトライアングルさんで人力車をやったから、そのノウハウを頂けないかということで話し合いを持ちました。
その前に手がけたのが花見の時、花見会場近くにテントを貼って、観光客に一人百円で「貴方の知らない角館を紹介します」として案内しました。一週間やりましたが稼ぎはほとんどなく、ほとんど手弁当のボランティアでしたが、これが功を奏しまして、今、角館歴史案内人という組織が作られて、これが又順調に稼働しています。
もう一つは、県の「きらめき事業」に応募しました。武家屋敷だけでなく角館はどうしても農業が基幹産業ですが、商業の衰退があります。
城下町ですから武家屋敷を内町(うちまち)、商人町を外町(とまち)といってます。外町を何とかしなくてはいけない。前段として花葉館も第三セクターで営業しています。もう一つ第三セクターを中心部に造られないかと考えた。
当時の町長に、活性化事業に県は三百万円しか出せない、町で六百万出してくれないかと交渉し、結局、平成4年3月田町武家屋敷にある西宮家の前蔵を改装して、地域の方々や観光客の無料休憩所、イベント施設として開設。これを中心に活性化に弾みをつけたいと、秋田県中小企業振興公社からトータルで千四百万円頂きました。二つ目の第三セクターに移行するまで、入館者が4年間で約二万八千人。ほとんどが首都圏からの観光客で、95%が県外客です。
角館が観光で飯を食うのであれば七ヶ月が勝負です。後の三ヶ月はゼロに近い。ですから七ヶ月で十二ヶ月分を稼がなければいけません。そういう厳しい状況です。
そういう時にトライアングルの一部の人たちが、西宮家を何とかならないかということで、振興公社からの最後の助成金と自前で百五十万出し、船井総研というコンサル会社ですが、そこにお願いし西宮家に係る活性化の調査をしてもらいました。五反田にある東京本社に行きまして、何とか角館町を活性化したいので、全力を絞ってやって欲しいとお願いしました。それが今の西宮家です。これにもふるさと創生が生きております。
角館に観光客が増えた理由は、やはり新幹線開業したことにあります。乗降客の七,八割は観光客です。
平成9年3月21日から9月21日まで125万。乗降客数です。二千六百人の増です。今は少し落ち込んでいますが、JR東日本の最大の黒字路線が田沢湖線だと思ってます。
そういう意味では、他の町よりは恵まれているんでしょうが、いま一つ発展性がない。これはある人に言わせると佐竹の殿様が悪いと。佐竹の殿様は今風に言うと「左遷」されてきた割には、秋田県は居心地のよく、酒は旨いし、女性は綺麗だし、ノホホンと暮らしたほうがいい。それが今の秋田県を象徴しているのではないかと。それを継承している「おら達」も悪いなと思っております。(笑い)
角館町の人口が今、一万四千九百人ほどです。将来は高齢化が進み、率が25%台というものが目前にきていると感じます。
我々トライアングルが今、一生懸命やろうとしているのは、中心部の活性化で、県「きらめき事業」から30万ちょっと助成金を頂き、去年は西宮家を主体に「ロマンチックこまち」として大正時代の女学生の正装をさせまして、記念写真を撮る。西宮家は非常にロケーションがいいんです。学生の書生スタイルということで、大正時代のモノをあちこちから借りてきまして、写真撮影大会をやりまして、全県から50名ほど集まり、写真展も開催しました。(続く)
呑 風 日 誌 抄
7月2日(火)秋田市中通・おもたかや。明友会例会へ。早稲田大学グリークラブ公演のPR。席が明治大学OB長老の横。緊張してワインが効いたのか、二次会の記憶なし。
3日(水)榮太楼旅館で仙台藩志会一行出迎え。久保田城跡案内人の佐々木幹夫先輩、一行を千秋公園内を案内。佐竹候の菩提寺・天徳寺へ。ねぶり流し館で竿燈の実演見物。榮太楼旅館で一行の歓迎会。浅野梅若社中の民謡と踊り。観光案内人の千葉美栄さん達がボランティアで駆けつけてた。川反先人慰霊委員会と宮城県人会の共催。
4日(木)仙台藩志会一行は裃の正装で秋田市長と会見。毎日新聞の野口記者が木名瀬敏正代表と佐竹市長と握手した記念写真を撮った。歴史的和解といえる。仙台藩志会側の贈り物が伊達家家紋入りの文箱。何故か秋田市側は記念品はない。市議会議長にも表敬訪問後、秋田市八橋・西来院にて慰霊祭。感恩講保育院へ毎日新聞の三木賢治論説員から送られた子ども文庫の本を届ける。2時から川反先人慰霊碑前で慰霊祭。3年目。藩志会一行をアトリオンの物産館に案内して、お見送り。
女房と秋田日赤病院へ。協和町の茂木義次郎社長の奥様のお見舞い。
5日(金)天王町。むつみ造園土木のボタニカルセンター開園祝賀会へ。ふるさと塾にて、グリークラブ秋田公演実行委員会。福祉施設や引きこもりを子ども達を招待することにする。
6日(土)アトリオン音楽ホール。楽屋にグリークラブのチラシ400枚届ける。フレンズエコー桜の記念演奏会を羽川正先生と聞く。
イヤタカにて三浦捷也先生の出版記念会。三浦先生の人柄が醸し出された楽しいな会だった。今田伸さん、大内町のポポロッコで売っている草履はお見舞い用にいいぞと教えてくれる。斎藤容一郎氏と有楽町のスナック八点鐘へ。天才写真家アラーキーが秋田に来たいといってると話す。荒木が秋田に来るとは名誉なことだと、お客に荒木フアンの鈴木清志さん、工藤善一さんがいて、七月16日にプロデューサーの和多田進氏が来るので、話を聞く会に来て貰うことにする。よき出会い。
7日(日)秋田市土崎港・西船寺。東海林太郎の菩提寺。聲楽院釋太朗大居士。佐賀藩士の墓もあった。カナダ産ログハウスの本堂・本住寺にてジャズコンサート。山口顕辰住職は東京出身。元海上自衛隊員で頼もしい。
秋田市文化会館にて現代舞踊合同公演。熊谷重子バレー公演を見て、平安閣にて祝賀会。加成義臣県議の講評挨拶が素晴らしい。
8日(月)国立ロシア極東総合大学のジェーンヤ、ヴィタリィ両君を秋田卸市場の丸果にて秋田ウラジオ会の佐藤忠作会長から市場を案内して頂く。夕方、ニュータケヤにて2人の歓迎会。秋田ハラショー会の皆さんも。ニュータケヤの武藤攻一社長が極東大学に教育基金として10万ドルを寄贈し、その研修生として優秀な学生二人が招待された。ジェーニャ君は見所がある。
9日(火)アキタニューグランドホテル。秋田稲門会総会。新役員、事業費60万円が承認。からす森にてグリークラブ実行委員達と二次会。大石礼之輔、宮崎示両先輩が多良で歌う。
11日(木)協働社大町ビル。午後5時40分。協働インターナショナルの浅利久樹社長と。ふるさと塾で沿岸貿易についての講演依頼。ご快諾。
駅前「桧森」にて八人会。ポート秋田前社長長門伸一氏の慰労、新社長の斎藤容一郎氏の激励会。「久保田」にて高山泰彦さんと偶然の二次会。
15日(月)東北電力秋田支店にて、久しぶり秋田デレクターミーティング。横浜の出村企画事務所の出村弘一氏、森川恒氏が著名な建築家・白井晟一設計の雄勝町秋の宮支所が素晴らしいとの話。白井記念館にと提案。
16日(火)秋田空港。午後四時40分。日本聞き書き学会講師、和多田進氏を出迎え。これも小田豊二の紹介。和多田氏は昔、象潟町の上郷健康センターの取材に来られた。私も青年広論の取材で行ったことがあり、会っていたかもしれない。ふるさと塾にて斎藤容一郎セリオン社長、北嶋昭宮司、森川恒氏他4人に集まって頂く。アラーキー「日本人ノ顔」秋田プロジェクトを立ち上げて欲しいとのこと。大阪で千人の顔を撮った、この秋には福岡で五百人、来春に秋田で五百人の顔を撮りたい。写真家荒木経惟さんが秋田に来てくれるのは名誉なこと皆やろうとの声。民謡酒場・すがわらで二次会、先酒。
17日(水)能代出張。十八番ラーメン。八郎潟町のベリーベリーハウス。矢久保英吾夫妻から宝石苺を頂く。
18日(金)本荘市・小林工業の小林忠彦会長へ。「煙草のけむり」のCDジャケットに載せる写真、解説文、早田貫一先生のジベリヤ抑留収容所の絵を見て貰う。カインド(工藤貢氏経営・写真家)へ。ステーキが旨い。秋田市下北手の千秋の丘会館にて木村岳鳥先生から詩吟の稽古。学生時代、松村謙三先生から聞いた「大風の歌」がいい。泉児童センターでの彌高泉神社氏子会へ。中村芳夫副議長達と二次会。
23日(火)駅前・久保田にて東京6大学秋田野球連盟理事会。10月5日(土)午後2時から昭和町・元木山球場にて能代6大学選抜チームと交流試合を決行する。小鍛冶から勘左エ門より電話。北嶋昭宮司と3人酒。
24日(水)アキタニューグランドホテル。秋田稲門会役員会。役員全員留任。新役員3人の紹介。
25日(木)平安閣・「北東アジア経済シンポ」へ。どうする秋田、では人材育成が急務と中野有先生。。
26日(金)ふるさと塾。協働インターナショナルの浅利久樹社長。秋田県の将来は沿岸貿易にありとの貴重な話を伺う。階下のレディにて二次会。
27日(土)昼。秋田パークホテルにて秋田市大内会幹事会。伊藤正治局長、伊藤一先輩。イヤタカにて盟友・木村友勝県議の長男幸成君の結婚式。熊本に里帰りの女房を空港まで勘左エ門が送ってくれた。人生、健康と友達。
28日(日)秋田市大内会幹事の佐々木修次氏と秋田市新屋・天竜寺へ。大内会会長の菊地弘前先生の葬儀。泉の夏祭りへ。盛況。本部席で廣沢忠敏大先輩(88歳)の戦争体験を聞く。
30日(火)朝、横浜の学友・小田豊二から電話。「今日の夜10時40分から教育テレビの視点・論点にでるぞ」雄和町球場にて課対抗野球試合。三塁守って、最終回投げる。三振2個。まだいけそう。 佐藤孝之助さんとニューくれたけ。中国から竹製の面を輸入する話。野球の反省会に出席すため、三味線茶屋すがわらへ。敬愛する佐々木實先生に捕まり、別会場へ。すがわらにて、小田豊二先生をテレビで拝見。
31日(水)ふるさと塾。第2回アラーキー「日本人ノ顔」秋田プロジェクト準備会。二次会が鳥八。ミクロネシアで海外協力隊員の西村友希さんが入ってくれる。このプロジェクトを秋田県の地域づくりに結びつけたい。