ふるさと呑風便  2002/7  NO,160
   日の丸

 日本中が、ワールドカップに浮かれていたら、星野・阪神タイガースがこけてしまっていた。阪神ファンとしてはやっぱりそうか、春の珍事だったか、と納得してしまう自分がいる。
 サッカーよりはラグビーが好き自分としては、なぜあんなにサッカーが国を挙げて一体感をもたれるのか、どうもわからない。
 スタンドを埋め尽くす日の丸の旗。スタンドを覆う巨大な日の丸の旗。顔に日の丸のペイントした何百人ものサポーターが歓声と共に持ち上げる。初めて会うサポーター同志が、一体感を持ち得るのはなぜなのだろうか。
 ワールドカップの最中に、マスコミに取り上げられた疑問に、アメリカでサッカーが人気がないのは何故か、とあった。難しいオフサイドという反則があるからと色々な理由が上げられている。
 アメリカ人はタフだがラフで、スポーツも単純明快が好きだからだろう。ややこしい反則ルールのあるサッカーは米国人には好まれないのだろう。
 学生時代、アメリカの国境の町、サンディゴを南に越えたら、ティファナの交通センター前の広場で子供達がボールを蹴っていた。メキシコシティの路地裏でもサッカーボールを蹴って遊ぶ少年達の姿を見た。
 ヘミングウェイも愛したキューバへ行ったら、子供達は、サッカーボールではなく、広場で野球を楽しんでいる。
 ハバナ大学の学生達とキャンパスで会って、野球の話になった。医学部の学生代表のマリオは、野球はセンターを守っているといった。
 世界一美しいとキューバ人が自慢するバラデロ海岸。そこのホテルでのショーに招待された。テーブルの上に小さな日本の国旗があった。意外な場所で見た、日の丸の美しさに感動したのを覚えている。
 「赤い日の丸は日の出の太陽を表す」

 一方の国歌・君が代。私のの子供達は国歌・君が代を歌えない。君が代を聴くのは。大相撲の千秋楽の時だった。
 ワールドカップの試合前で、多くの子供達はどんな想いで君が代を聞いだろうか。
 顔に国旗をペイントして君が代を歌う若者達。彼らは、日の丸と君が代が、4年前にすったもんだして、法に定められたことは知るまい。

 国旗・国歌法(国旗及び国歌に関する法律)
(国歌)
第一条 国旗は、日章旗とする。日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。
(国歌)
第二条国歌は、君が代とする。
2君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。

 小学校の時に歌った日の丸の歌を思い出した。
 ♪白地に赤く 日の丸染めて ああ美しい日本の旗は
 この歌は今でも「小学校音楽教科書」に載っている。
 ただ、教室で歌われているかどうかは定かでない。
 
 サッカーは手を使ってはいけないスポーツである。
 ワールドカップでは、相手のユニフォームを手で引っ張る、顔面を肘打ちまでする汚いプレーを数多く見たはず。
 将来のワールドカップを目指す少年達。美しい日の丸と君が代に誇りを持ち、フェアに堂々と戦ってほしい。
  ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成13年7月21日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「水の郷秋田」(2)
★菅原徳蔵氏
  (秋田源流釣友会幹事長)

 秋田県側は標高が千b前後しかありませんので、昔から沢から沢へのルートを辿って、稜線を越え、沢を下って、岩魚を釣り、山菜を採って焚き火を囲み、一杯やるのが楽しみなんです。
 そして又、沢を登って別の方に抜けるんです。そして一番深い谷底から一番高い頂上に登る。そういう意味で登山にはない快感があります。
 登山道を行く登山は、水や食い物を背負わなければいけないのですが、沢を登っていくと水や肉、野菜を背負うこともないし、主食と酒と調味料を持っていけばいいし、高い所に登れば非常に達成感もあります。そういった沢登りと釣りを融合したような形で我々、遊んでいる訳です。
 環境庁の自然環境保全基礎調査によりますと、原生的な自然が残っていて面積が千町歩以上ある所は、秋田県で九カ所となっています。ここ全てが我々のフィールドになっています。ぴったり一致しています。これ以外の所へは、我々はほとんど行っていません。白神は入山規制になっています。森吉の太平湖に注ぐ粒様沢は太平湖に注ぐかなり深い沢です。それから玉川の源流、大深沢という沢があります。ここも仙北マタギの狩り場になってます。
 和賀山塊には、堀内沢と北側に生保内川があります。南側には袖川沢という沢がありますし、これら一帯を和賀山塊と呼んでいます。
 秋田県で原生的なところが一番残っているところはどこかというと、和賀山塊なんです。合計六千fあります。白神の場合は、全体では素晴らしいですが、ほとんどが青森県側です。和賀山塊は岩手県と接していますが、岩手県側は大したことはないんです。ほとんど開発されていますが、秋田県側はそっくり残っており、和賀山塊が我が秋田県の最後の秘境じゃないかと思っております。
 だからこそマタギの方々も残っているのだと思います。
 後は成瀬川上流、今、成瀬ダム建設でケンケンガクガクの議論がなされていますが、北の又沢というところも原生的自然の残っている所で、その反対側の小出川の源流部もありますが、そこも森林生態系保護地域になってまして、そこも山釣りのフィールドになっていますが、この小出川の原生林地帯には、昔の千年の歴史を持つ古道があるんです。
 これはマタギの道かあるいは釣り人の道かくらいにしか思ってなかったんですが、それが歴史的な街道だった。仙台藩と秋田藩を結ぶ街道だったんです。
 皆瀬の虎毛沢と春川は、同じ皆瀬川の源流部にある沢です。この沢には確かに原生的なものが残ってますけれども、木の生えていない岩盤が多くて、雨になると一気に水が出て、保水の面でちょっと落ちる所ですね。
 最初はブナの森に興味がなかったんですが、どこへいってもブナがある。岩魚のいるところにブナがあります。ブナイコール岩魚なんです。ブナの植生分布と岩魚の生息分布は重なり合わせると、ピタッと一致するんです。これは、県の自然保護課で出している植生分布と淡水魚の生息分布図を見れば明らかです。
 沢を登って頂に達する沢登りとしては、秋田県は一流じゃないかと私は思います。
 県外では、白神の青森県側、岩手県側と接している八幡平、和賀、栃ケ森山周辺、山形の朝日連峰辺りを我々のフィールドにしてます。
 白神が禁漁になったものですから、七年ぐらい前から、北海道の日高山脈に行ってまして、今年もだいたい十日ぐらい長期遠征をしています。
 1993年に白神山地が世界遺産になりまして、今、入山規制とか問題が深刻になりまして、NHKのプロジェクトXに対して青森県側から抗議がありましたが、私は、人間と自然と文化を守るということで、白神の入山規制に反対しています。しかし、秋田県側は入山規制に賛成しています。
 本心は、そういった運動に巻き込まれたくなくて山奥に行ったんですが、結局世界遺産になった白神山地が、我々に自然と人間と文化を考える契機を作ってくれたのですが、同時に「白神山地をどう守るか」という入山規制問題に我々も巻き込まれてしまった。
 1997年に、白神の管理計画が出されましたが、入山禁止・入山規制を見直して欲しいという要望書が出されまして、その全国的な署名運動をやりました。その時は全国で3万ぐらい集まりまして、うちの会でも5千数百名の署名を集めています。
 結論はまだ出ていませんが、そういった運動もやってきました。

 釣りの雑誌に時々書いているんですが、読者の反応が今ひとつで、何とか山釣りの世界を伝えられないかと思い、ホームページを作りました。
 最初は釣りだけで、カメラには私、あんまり興味がなかったんですが、雑誌の編集をやっている方が、釣りには魚の写真しかない、それじゃあ駄目だといわれまして、説得力があるのは写真だと思い、今は竿を持つよりもカメラを持っている方が多くなりました。
 ホームページを作って2年半ぐらいになりますが、最初は源流岩魚写真館という名前でした。どうせ文章を書いても誰も読まないだろうと写真だけ載せてました。自己満足で立ち上げたんです。
 まさか、ホームページにこんなに反応があるとは思いませんでした。最初はたいしたページじゃなかったんですが、実名で出しました。自分の意見に責任を持つためにも。12月にオープンして、早速、批判のメールが来たんです。
 それは フライフィッシングの若者で、「年寄りはマナーが悪い。山へ集団で入って釣った魚を食い散らかしているだけではないか」と批判されました。
 私は最初、カッときたんですが、やはりそうか、かなり誤解されてる面もあるんだなと思い、誤解されない山釣りのホームページづくりに真剣にかかりました。
 山釣りとは何かということから、マタギの文化、単にキャッチアンドリリースではなくて、マタギの人たちがイワナを滝上に放流した愛と努力を、我々釣り人が引き継いでいかなければいけないということ、さらに白神山地の入山規制問題もあります。釣りだけではなくて、自然と人間と文化を考えるようなページを最初の批判のもとに作ってきました。
 開設して一年たってから、その批判したフライフィッシュングの若者からメールが入ったんです。「私は誤解してました。素晴らしいページだ」とお詫びのメールが入ったんです。いやいや、おたくのお陰で私も真剣にかかって作ったんですと、かえって感謝してますとメールを打ったんです。
 これは嬉しかったですね。
 ホームページの凄さは、全国からたくさんの意見が来るだけでなく、同じような仲間と直接出会うチャンスを与えてくれること、自然と人間と文化を守る運動を展開するにも、物凄いパワーを発揮するんです。
 和賀山塊のマタギ小屋を最初に見たのは、よほど前なんです。八滝沢という沢に20bぐらいの滝が八つもあります。とてもイワナが上れないような滝のまた滝の上にイワナが生息していたのには驚かされました。下ってきたところで、マタギ小屋を発見しました。 こんな山奥に合掌造りの小屋があるなんて、非常に感激しました。後でマタギの人たちから聞いたら、イワナ釣りの好きなマタギが「今日は何番目の滝に放流してきた」と得意げに話していたことを知りました。滝また滝が続く険しい源流にイワナを放流できたのは、マタギ小屋があった故に他なりません。
 1999年10月に、小屋が穴だらけになって、雪が降るとつぶれてしまうということで、瀬畑雄三さんという東京の方が、そのマタギ小屋を利用していて、大変お世話になったからと山釣り仲間たちで直したんです。
 このマタギ小屋撤去騒動の記事が新聞に掲載されたのは2000年の一月です。この小屋を造った藤沢さんが亡くなった翌日に、撤去命令が出たんです。この時に魁新聞から電話がありまして、マタギ小屋の写真がないので貸してくださいと頼まれまして、同時にコメントを求められました。何とか残せるものなら残したいと言ったんですが、記事は無断使用だから、撤去するのもやむなしといった内容でした。その時に私、ホームページに、マタギ文化の象徴でもある堀内沢のマタギ小屋の存続をと、訴えたんです。その時に、瀬畑雄三さんが私のホームページを見まして、感激して電話をくれたんです。一緒にマタギ小屋の保存運動をやりましょうと。ということで、2000年の4月に瀬畑さんが秋田に来られまして、その時に全国の釣り仲間、関係の方々も含めてマタギ小屋を保存する会をつくって運動を始めました。
 最初は仲間内で保存運動をやっていたんですが、田口洋美さんという方から、面識もないんですが、メールがきまして、新潟でマタギサミットがあるから遊びに来いと。マタギ小屋の保存に関しては、誰も反対する人はいないからと。私と瀬畑さんと戸堀マタギと3人でマタギサミットに行きました。そこで非常に励まされて、力強い支援を頂いてきました。
 その後、どういう訳か、東北自然保護連絡協議会が青森県にあるんですが、その方からメールがきました。今、白神山地の入山規制の問題を、自然が残ればいいんじゃなくて、自然と人間と文化を共に守るような方向で検討している。そういう意味で、このマタギ小屋保存運動は、格好の材料だから、青森に来て問題提起をして欲しいといわれました。これ幸いと又、出かけて行きました。東北自然保護の集いでマタギ小屋保存のアピールが採択されました。
 元々、釣り屋と自然保護運動とは対立していた部分があったんです。釣り人は山に入ってゴミを散らかしたり、魚をただ根こそぎ捕るだけじゃあないかと、マタギも極端な動物愛護、自然保護団体からいわせると、毛嫌いされた部分がありましたが、そんな釣り人もマタギも自然保護の中に入っていけた素晴らしい大会でした。そういうこともあって、マタギ小屋の強制撤去もなくなりました。まさにホームページの繋がりというのは凄いもんだなと感じております。
 
 よそからないモノを持ってきて新しいモノを作るというのでなくて、昔から先人達が刻んだ歴史がそこに埋もれていて、そういうものを発見して、できれば現地に保存、復元して残そうというのが基本的な考えです。
 水路一つとっても、そこには血と汗と涙の歴史のドラマがあり、そうした水の郷・秋田をきちんと検証して、後世に残し伝えていく。 これが我々の基本的な考えです。
   呑 風 日 誌 抄
  6月1日(土)早朝、秋田市大町・竹谷金正堂前。竹谷俊夫さんと愛犬ロンとゴミ戦争に参加。毎日新聞の福永記者も来る。ゴミ袋を持って、3人1犬で秋田駅前〜大町を通り、ゴミを拾う。煙草の吸い殻が多い。空き缶10数個の収穫。竹谷さんは9年前から毎日始め、ゴミは減ってないという。
 RD創研の石川直人社長が自宅にきてくれ、パソコンに新しいHPとメールアドレスを入れてくれる。一緒に山王の大江戸ラーメン。
 社会福祉会館にてALS(筋萎縮硬化症)協会の総会出席。秋田市文化会館にて、まごころネットワーク、あきた地球村主催の「えんとこ」上映会へ。俵谷裕子さんが主唱する「インタビューゲーム」で一人、インタビューを受ける羽目に。夕方、彌高泉神社の月次祭へ。北嶋昭宮司の祝詞。「世のため人のため、まごころを尽くす」御神酒とスルメで一献。
 2日(日)雄物川河口にて、勝平浜クリプラ作戦。佐々木文博氏
渡辺哲夫氏、森川恒夫妻とゴミ20袋の収穫。去年植えたマーガレットの花が咲いている。今年は白い紫露草紫を植えた。
 地主昭一先生とで市内を回り、街路樹の根元を綺麗にする。地主先生は天気のいい日に秋田駅前周辺をゴミ清掃の七つ道具付き自転車で護美活動をされている。
 3日(月)昼、本荘・ホテルアイリス。本荘ローラリークラブ(加賀屋利雄会長)で講演。「人生、健康と友人」菊池建設の工藤順二会長の葬儀に出られず、弔電を打つ。お世話になりました。
 秋田市大町の金子地所の金子栄一社長へ秋田まごころ大賞授賞式の案内。親父がお世話に。
 4日(火)青森出張。うどん会席・小川にて讃岐うどん。こしが強すぎた。讃岐出身のママだった。
 5日(水)秋田市山王・橙屋。ツバサ広業の舛谷政雄氏の紹介で新秋田モータース社長の平元春夫さんと一献。小学生の頃、リックサックに松の苗を背負って、勝平山に植樹した話がいい。
 6日(木)アキタニューグランドホテル。秋田稲門会役員会。決算、事業、新役員の承認を受ける。
 7日(金)秋田市山王・讃岐。盟友・畠山文夫氏が始めた「うどん茶屋」へ。なかなかいける味。 秋田キャッスルホテル。本荘高校OB会秋田支部総会。佐々木幹夫先輩に仙台藩志会の一行に久保田城跡案内のお願い。秋田県中小企業問題研究所の例会。山王・屋台へ。二次会はパームコート。
 8日(土)栗田養護学校の畑。グループ森の春の植樹会。辰知顕宮司親子も仲良くブナや楢の木を植樹。高橋恒治校長に子ども達とブナやハマナスをいっぱい植えて雅子様を呼ぼうと提案。反省会が二井田の一善。
 9日(日)朝、割山町児童公園。鹿島祭りの山車づくりの手伝い。八橋陸上競技場へ女房と。ラグビー協会でラグビー犬を登場させたり、なかなかの企画。サントリー対トヨタ。トヨタが圧勝。
 13日(木)ねぶり流し館。秋田市合唱連盟総会へ。羽川正会長のご配意でグリークラブ秋田公演のPR。駅前・人情酒場にて、住吉栄悦氏の紹介で、川村誠氏と一献。川村さんは小さな大投手故今川敬三さんと秋田商業時代の同期。カミさんが同じ熊本出身とのことで、意気投合。川反の日本一旨いおでんや・江戸中にて、あきた地球村の薩摩出身・大久保智子さん達と。NHKの人間ドキュメントで聞き書きの取材に来た岩田デレクター達も一緒に旨酒。
 14日(金)秋田コミュニティ放送に出演。辻英子パーソナリティに村田英雄が亡くなったので「人生劇場」をリクエストしていたが、CDがないから、ナマオケで歌ってという。演歌師の山本実氏を呼んで、ギター伴奏でセリフ入りで歌う。本番で二番目を間違ってしまった。秋田まごころ大賞の話。
 15日(土)彌高神社。佐藤信淵大人命生記祭へ。秋田職人の会会長・工藤幸彦さん宅で園遊会。鯨かやきが旨い。
 16日(日)朝、附属中学校グランド。五百歳野球「中通クラブ」の応援。女房と文夫ちゃんの讃岐うどんへ。アトリオン。バイオリンの古澤巌コンサートへ。プラハ合奏団との日本の歌は素晴らしい。
19日(水)ふるさと塾事務所。グリークラブ秋田公演実行委員会。盲学校の生徒全員を一番いい席に招待することとする。
 21(土)榮太楼旅館。第4回秋田まごころ大賞授賞式。長年、秋田駅前周辺の護美活動をされてこられた地主昭一さん、三浦東さん、竹谷俊夫さんの3人が受賞。御三人のあいさつが又、感動的だった。 竹谷さん達と山王・館で二次会。 22日(土)総合保健センター。あきた地球村主催の小川真吾さんのアフガン緊急帰国リポート。地球村に入会。
 25日(火)アキタパークホテル。県庁早稲田人会総会。
 26日(水)丸源食堂。秋田郷友連盟。藤本光男先輩、ツバサ広業の桝谷健夫社長夫妻達と秋田十七連隊記念碑の保存について相談。
 27日(木)本荘・安楽温泉・金沢会。地域づくりの手口の講演。
 28日(金)ふるさと塾。講師は秋田森の会の佐藤清太郎さん。
「森づくり人づくり」の実践報告。 29日(土)こんにゃく職人からパソコン名人の大久保健太郎氏から我が家のパソコン修理をお願いし、うどん茶屋讃岐へ。榮太楼旅館のラドン温泉で、旭南の進藤さんから行商の風呂談義。
 30日(日)林勇・勝子ご夫妻と佐藤清太郎さんの健康の森へ。清太郎さんの案内でマイナスイオンをたっぷり。水芭蕉の花を見て、杉の三本寄せ植え等、森の知識がプラスになった。