ふるさと呑風便  2002・6月号
   護 美

 日本海にそそぐ大河・雄物川の河口。雄物大橋から望む夕陽は実に美しい。その北側を勝手ながら勝平浜と名付けた。地図にもまだない。
 ここの地区には勝平山があり、子ども達は勝平小学校に通う。一級河川・雄物川河口を管理するのが国土交通省秋田工事事務所茨島出張所。なんでこう役所というのは長ったらしいのだろう。そこから電話があった。
 去年の秋。こちらも長い名前の「勝平浜クリーン&プラント作戦実行委員会」(略称勝平浜クリプラ作戦・佐々木文博会長)の事務局宛に「当方で河口に看板を作りたいので標語を考えて欲しい」とのこと。
 日頃、街に氾濫する政治家の看板等は、自然な景観を害するものだと思っている。
 雄物川の河口の美しい自然の景観にあった小さな木製の看板だったいいと注文をつけた。了解したと、国土交通省も物わかりがいい。
 標語はありきたりだと面白くない。俳句調とした。
 雄物川 夕日に映える
        美しが浜
 国土交通省。「それはいいが、会の名前は長すぎて小さな看板には入らない、8字以内にしてくれ」という。へたな俳句に「勝平浜を愛する会」になった。
 この役所はやることが早い。この年の初冬。勝平中学校卒の息子と河口にジープで出かけた。何と、河口の砂地に木製の看板が立っていた。

 今年6月2日・日曜日の早朝。第3回勝平浜クリプラ作戦が決行された。
 第一回目の作戦は河口のゴミを拾い、砂山にムラサキツユクサを植えた。現場監督でラガーマンの渡辺哲夫さんが釣り人から聞かれた。
「市役所の方々でやってんですか?」
「いえいえ、日頃の罪滅ぼしでやってんですよ」
 何の罪を犯したのか、まだ彼には聞いていない。
 この委員会の作戦は雄物川河口のゴミを拾い、花を植えようと欲張ったものである。 趣旨は勝平の子ども達のふるさと感の醸成を図るため。
 何だか役所風の文章にしてしまったが、翌年の初夏。
 プラント作戦の紫露草は背丈を低くして咲いてくれた。
 今年は3回目。砂山の前に勝平中学校の同じ木製の看板もあった。日本海の風雨に耐えて咲いていたムラサキツユクサは車に踏まれて、一本しか残ってなかった。今年のプラント作戦である白いムラサキツユクサと一緒に、車の通らない場所に移植した。
 そこには去年植えた白いマーガレットの花が、浜昼顔の中から顔を出して咲いている。
 今年参加したのは昔の子ども達5人。河口のゴミを拾いながら、デザイナーの森川恒さんが子ども心でいった。
「このゴミや流木を使って何かモニュメントを作ったらいいなあ」「そうだ、ゴミを持って帰りたくなるような、護美箱風にしたらいい」
 
 我々の護美活動は大したことはない。先人がおられる。
 長年、秋田市駅前周辺の護美活動を続けておられる3人の方。地主昭一さん(75)。三浦東さん(61)。竹谷俊夫さん(52)。
 この6月21日。第4回秋田まごころ大賞の授賞式で、御3人から、小さなまごころ大賞を受けて頂くことになった。

 ふるさとづくりは、先人に学び、地域を愛すればいい。
  ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成13年7月21日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「水の郷秋田」(1)
★菅原徳蔵氏
  (秋田源流釣友会幹事長)

 今、秋田源流釣友会というところで活動しています。山釣りとは、渓流釣りとはちょっと違いまして、沢登りと渓流釣りを掛け合わしたようなものです。
 パワーポイントで作ってきましたので、我々の源流釣友会がどうして出来たのかを説明してみたいと思います。
 地域づくりといっても私の場合は、新しいアイデアとか、奇抜なものでやるのではなくて、そこにあるもの、地域振興に活かすといった考え方で、自分の趣味をとおしてやっているだけなんです。
 最初にビデオを3分ほどみせたいと思います。
 堀内沢というところです。「美しき水の郷あきた」というタイトルは、実はこの清冽な流れをイメージしたものです。
 この写真は全部、白神山地の写真です。赤石川の滝で、元々ここまでしか魚がいなかったんですが、この上に西目屋のマタギの方が放流して、その上には釣り人が放流して、かなり奥まで岩魚がいるようになりました。
もう一つの方は、滝川という川があって、西の又沢という沢を山越えして抜けようとするところの写真です。
 これが今年、白神で釣り上げた岩魚です。私が山釣りをやるきっかけは、白神山地です。NHKのプロジェクトXで白神山地をやりましたけれども、そういうマタギの森ということでやりましたが、結局山に生かされた人々が、白神に感動した人々が青秋林道に反対したし、気持ちは一緒だなと私は思います。
 初めて白神に行ったのが、今から16年前になります。 藤里町の粕毛川という沢がありますが、それは峰浜村から山越えして、源流にいってきたんですが、これはすごくいいものだと。そこで一週間後に、当時は青秋林道が頂上までいってなくて、工事はずっと下だったんですけれども、車を止めて山越えをして、赤石川源流に出て、そこがブナと岩魚がすごく、これは素晴らしいなと感激しました。
 ところが山に行くには一人では無理だから、その年の秋に、秋田源流釣友会を結成したんです。
 これは白神に感激して、日帰りの釣りではなくて、山に泊まって楽しもうじゃないかと、その当時は山釣りという名前でなくて、源流釣りといったイメージでした。
 次の年に、深浦町に同じ世界遺産になった追良瀬川という川があります。そこへ4泊5日で下流から源流までいったんです。行ったんだけれども結局、すごい大雨になってしまったんです。岩魚を釣っているときは上流に釣り上がりますから、そんなに水量が増えるわけではないんです。余りの大雨だったものだから、釣りをやめて下り始めると、もの凄い濁流になって、底石まで動く状態ほどだった。本来ならばビバーグしなければならないんですが、その時はとにかくテン場まで帰らなければと、命からがらテン場まで帰ってきました。

 こんな訳で、これじゃあ釣りだけではだめだと、会員で分担をしまして、沢登りの技術から、野営、山野草等、いろんなものを各自が分担して、源流行ハンドブックというのをつくりました。
 白神に行くには釣りだけではなくて、山のすべての技術を学ばないといけない。とても素人のいける場所ではないと私も感じました。
 そのハンドブックを作ってから、現在のスタイルになっています。
 1987年から大体現在のスタイルになるんですけれど、今年は和賀山塊でマタギの人たちと山釣りをやりたいと思ってこの間、4日間行ってきました。
 堀内沢の奥にマンダノ沢という沢があるんですけど、両岸の壁がたっているんですが、そこに熊がよく居着くらしい。マタギの人たちは、沢を歩くんじゃなくて、こうした熊の穴を探しながら、斜面を歩くんですね。
 今回はマタギの人たちと一緒に沢登りをしながら、上まで行った訳です。
 マタギの小山さんという方は、餌釣りをやるんです。
瀬畑さんというテンカラ釣りの名人がいまして、その方が小山マタギにテンカラの釣法を教えたんです。初めてのテンカラだったんですが、いきなり良型の岩魚を釣り上げ、非常に喜んでいました。日本の伝統的な釣法であるテンカラ釣りとマタギは非常によく似合うなあと思いました。
 これはマタギ小屋です。ちょっと新しいように見えますが、これは瀬畑さんたちが穴だらけの小屋を修復したからです。この小屋にマタギの人たちがせっかく来てくれたから、山の神様に感謝をしようということになりまして、皆で東の方向に向かって感謝を捧げる儀式を行いました。
 一番前の人がマタギの戸堀さんという方で、この人が藤沢シカリの一番弟子です。
 この小屋を建てた藤沢さんという方は、去年の一月に亡くなってます。

 戸堀マタギは、この小屋を藤沢シカリの形見として一生懸命に守ろうとしています。山の神様の東の方に向かって感謝する儀式を行っています。
 我々の歩くルートは通常は沢を登ったりするんですけれども、どこへいってもマタギの道、山人の道がありますし、白神の場合はマスをとったような道、歴史的な道がたくさんあるんです。自然と人間と文化というものを考えざるを得なくなったのです。(続く)
(以下 HP山釣りの世界から) 
 秋田・源流釣友会の幹事長を拝命している。かつて、雑誌に投稿する時は「深山渓春」という名前を使ったこともあるが、自分の人生は源流の世界にあるのだから、本名で通すのが筋ということで、全て本名で通している。最初に釣り雑誌に投稿したのは、今では廃刊となった「北の釣り」という雑誌、その雑誌の編集長をしている阿部次郎さんから「釣り人は山登りの人たちのような感性がない」と言われたのが今でも強烈な印象として残っている。
 今考えると、釣り人は魚しか見えていない、それは「精神の貧困」そのものだ、ということを言いたかったのだろうと思う。
 管理人がどういう人間かは、誰しも知りたいことである。そこで、簡単に自己紹介をしたいと思う。
 大学は、1年浪人して憧れの京都へ。貧乏な田舎者だったから、一番安い学生寮に入ったのだが、そこは学生運動の巣だった。
「朱に染まれば赤くなる」の諺どおり、明けても暮れても学生運動ばかり。それは、理想を追い求める青春の病だったのか、途中で見事に挫折。自分を見失い、自己を再発見するために、当時世界のヒッピーたちが集まるネパール・インドの旅へ。そこで見たものは、自己の再発見どころか、完全に自己崩壊の旅となってしまった。
 学生時代は勉強をした記憶がほとんどなく、お陰で6年もかかってやっと卒業する有り様。世の中は、既にオイルショックで大不況、就職先もままならず古里・秋田へ帰るしかなかった。そして、休みともなれば釣りに没頭。海であれ、川であれ、湖であれ、釣れる魚なら何でもよかった。女房には、竿を外へ放り投げられるほどの釣り馬鹿だった。能代に転勤になって初めて白神を知り、私の釣りの運命は大きく変わった。岩魚釣りというよりは、その岩魚が遊ぶ世界の美わしさに魅了されてしまった、と言った方が良いかもしれない。以来、私は岩魚以外の釣りを全て止め、山釣りの世界へのめり込んでいった。
 登山や沢登りから岩魚釣りに入る人は多いが、海から次第に上流に向って釣りあがり、やがて源流に生息する岩魚に釣られてしまう釣り馬鹿は、そう多くないように思う。それだけに、山の知識や沢登りの技術はゼロからスタート。 お陰で生と死をさ迷う痛い目に何度もあった。山と渓谷の厳しさ、仲間の有難さ、岩魚と山菜、焚き火の有難さ・・・。岩魚の世界は、生きた大学であるかのように、私に初めて学問を強いたように思う。自然に対する畏敬と感謝の念をもつ縄文人やマタギ、アイヌ、ブナ帯文化に興味を抱くようになった。
 今では、釣りの名人になりたいとの願望が全くなくなった。釣りは、確かに技術だけれど、山で食べる分だけ釣れる技術で十分、わざわざスレた魚を釣り上げる技術は必要ないからである。釣りのための釣りを目指すのであれば、アユやヤマメを釣った方が遥かに面白い。同じ渓流魚を釣るにしても、餌釣りよりはフライやルアーの方が面白いに決まっている。技術的に難しい釣りほど面白いからである。けれども、私たちの山釣りは、未知の谷を目指す山旅が主目的であから、釣りは晩のオカズを調達する一手段に過ぎないのである。大は、単なる偶然を期待しているようなものである。何だか、悟ったような悟らないような変なヤツと思うかも知れないが、これが現在の偽らざる心境である。
 未知なる源流の岩魚釣りは、釣りの技術よりも山と渓谷を歩く技術の方が遥かに難しく、体力、精神力を要する。簡単に言えば、釣りの技術を競っている暇などない。 山釣りは、最初から釣りの名人が目指すような世界ではなく、山や谷を丸ごと釣り上げようとする大馬鹿者の世界である。そんな馬鹿な渓師たちとネットワークを組めればいいな、と思っています。
 呑 風 日 誌 抄  
5月1日(水)彌高神社宵宮祭。今年は神社境内の桜は葉桜。直会へ、秋田駅前・久保田と多良へ。
 2日(木)近所になった榮太楼旅館のトロン温泉へ痛めた膝も直ると小国輝也社長のご厚情に感謝。
 3日(金)寺内の早田貫一先生宅へ女房と。シベリア回想の絵画。愛馬を満州に残してきた記憶があって、涙がでて描けないといわれる未完成の「友は野末の石の下」をみせて頂く。雄物川橋の絵も素晴らしい。
 5日(日)シンガーソングライター・ケーシーランキンが沖縄出身のギタリスト前田達也氏と恒例の来秋。NHKみんなの歌で彼の「ぱっぱらパパ」が4月から流れている。秋田港に新しくできたベイプラザにてライブ。後援会事務局長の石黒薫さんが手配をしてくれた。
 6日(月)秋田テレビ・情報ステーションにケーシー出演。
六郷町の酒蔵・湧太郎へ。特別ライブの後、小西泰二郎のお世話で古(いにしえ)にて打ち上げ。
 7日(月)石黒薫マネージャーとケーシー一行。秋田市内のわかば幼稚園、杉の木園へ案内。杉の木園(澤田修明園長)はケーシーともなじみ。園生達とライブを聞いていて、女性指導員が園生の手を引いている姿を見て、何故か下手な歌が浮かんだ。
 ケーシーの
  歌を聞きつつ園生の
    手を引く指導員美し 
 かんば保育園でのライブ後、千秋公園・あやめだんこにてライブ。日赤の高野征雄先生ご夫妻にも出席頂いたが、平和への道ライブがジャカジャカになってしまい反省。 秋元辰二先生達と川反へ。
 10日(金)秋田駅前クリニカオルトで膝の治療をしてもらい、秋田ふるさと塾事務所・Wグリークラブ公演実行委員会。秋田市民合唱団会長の羽川正先生へ、秋田市の少年少女合唱団グループの賛助出演をお願い。
 11日(土)秋田港・セリオン体育館へ女房と。「みなとブラスの響き」へ。自衛隊秋田駐屯地の三浦久夫広報官に特攻隊慰霊祭で吹いた里帰りラッパを渡す。
 13日(月)県社会福祉会館にて、秋田聞き書き学会の事務局打ち合わせ。24,25日の小田豊二講師による聞き書き実践講座の資料作成準備。
 17日(木)千秋公園の平和の鐘を鋳造された方の事を知りたくて、秋田市工業団地のアキラ製作所へ。元上司・故渋谷達雄さんと親友であられた林章社長ご夫妻すっかり意気投合し、と川反・川寿へ行くことになってしまう。小畑勇二郎元県知事の扁額あり「古香海石?今風」 舛谷政雄氏、辻大圓先生もおられて良き先酒であった。
 18日(土)昼、榮太楼旅館。秋田まごころ委員会(新野直吉審査委員長)にて、第4回秋田まごころ大賞候補者が決まる。秋田駅前駅前周辺を長年、ゴミ掃除をされてきた地主昭一、三浦東、竹谷俊夫の3氏。今後、まごころ大賞の地域版をすすめることに。
 19日(日)朝、カミさんと秋田駅。秋田県盲導犬使用者の会へのボランティア。沼沢益子さんの指導の下、秋田大学ボランティアグループと一緒に盲導犬と一緒にバスに乗り込み、社会福祉会館へ。 右腕を盲導犬使用者に貸し、段差がありますとかいって一緒に歩く。バスの中でも盲導犬は忠実。ところが犬嫌いの人もいて困った。 毎日新聞130年記念祝賀会。みずほ苑。懇談会は横町・笑迎亭。東京・秋田の偉い?人々も一緒。
  21日(火)聞き書きの実践。秋田市の相場信さん(99)へ。偉くない菅原益実隊員は相場さんの話を聞きながら、三味線の伴奏。 信さんの好きだった歌をテーマにして聞き書きを進めていったらいい。益実隊員、三味線のバチを止めて涙ぐむ「亡くなった親を思いだして」聞き書きは感動だす。
 ワシントンホテル。満塾。
佐々木満先生の「戦中派の遺言」を聴く。胸に伝わる。貫誠貫正。
 22日(水)新屋船場町の佐々木文博宅。6月2日の勝平浜クリーン&プラント作戦の相談。
 毎日新聞論説委員の三木賢治氏から子ども本がどっさり送られる。「秋田子ども文庫」として、施設に寄付して欲しいと。有り難い。
 24日(金)秋田ふるさと塾。今回は事務所下の小料理「あい」にて。美しい秋田を創る・四季菜の高橋真木夫講師も素晴らしい。
 25日(日)大館・能代空港。秋田聞き書き実践講座の小田豊二講師、NHKの岩田真治デレクターを出迎え。鷹巣町公民館にて講座。武道の七尾宗専師匠にも受講して頂く。秋田県を南下し、横手市・平源旅館へ。3人で一献多献。
 26日(日)横手市働く婦人の家。聞き書き実践講座。稲川町の斎藤光喜・百合子夫妻(いなにわうどんのお土産付き)、平鹿町の俵屋勉・裕子夫妻も受講される。
 夜、秋田市に戻り、彌高会館。秋田ヒューーマンクラブ(菅礼子編集長)総会で小田と挨拶。平安閣にて林糺明さんの結婚披露宴へ。
 28日(火)秋田放送アナウンサー・茜谷幸子さんへ、グリークラブ公演の総合司会を依頼、ご快諾。感恩講保育院へ七井辰男毎日新聞支局長と三木賢治氏寄贈の本を届ける。今でも、ここに体操の遠藤幸雄さんから盆・暮れに茶菓子代として5万円ずつ届くという。感謝報恩。遠藤先生、偉いよなあ。
 夜、あやめだんご。横笛と十一弦ギターの辻幹雄さんのコンサートをじっくり。宝石のような辻ギターの響きに感動。これがいい。
 31日(金)山王・橙屋。早田画伯の絵の前。舛谷政雄氏の紹介、秋田県一の警察官・目黒堅悦氏と一献。そのとおりであった。毎日新聞の福永新米記者も呼んで昵献。