ふるさと呑風便 2002・5・20  第157号

   鐘

 ゴォ〜ン。千秋公園の鐘楼から、枕元に7時の時報と同時に鐘の音が聞こえる。7回。その音の間隔は約18秒。鐘の音の余韻に安らぎを感じる。
 この春の早朝、女房と千秋公園に上がって、鐘撞き堂の前で待ち臨んでいた。
 時計を見ると7時3分前。まだ現れない。と、鐘楼の横の階段から一人の男性が駆け登ってきた。鐘撞き堂の鍵を開け、階段を上っていく。背中にリックサックを背負っていた。その中からラジオの時報が聞こえた。ピッ ピッ ピッ ピーッ。と同時に「ゴォ〜ン〜〜〜」
 それはまさに職人技であった。7回、秋田の空に平和な鐘の音が鳴り響いていく。
鐘楼から降りてきた男性はなんと若者。雨の日も風の日も江戸時代から代々鐘を撞いている吉敷家の長男竜太君(19歳)だった。私は感心して竜太君の写真を撮り、平和の鐘の音を有り難うと写真入りの葉書を書いた。そして、
「尊敬する松村謙三先生から聞いた中国の諺に『飲水不忘井掘人』、水を飲んだら井戸を掘った人を忘れるなとあります。平和で安らぎの鐘の音を聞いて、まさに『聴鐘不忘撞人』でした」とつけたした。
 この手紙に吉敷家の当主・由美子さんから返事を頂いた。礼状に対しての礼状。カミさんも礼状を出したら、今度は長女の宏美さんからも手紙を頂いた。「鐘の縁でお知り合いになれて嬉しいです」

 千秋公園の鐘は、江戸時代寛永年間に、二代目藩主佐竹義隆が鋳造させ、先代の鐘は戦時中に供出され、現在は4代目にあたる。鐘守の吉敷家は現在まで世襲で、由美子さんは7代目であった。
 4月の秋田ふるさと塾。二次会の会場「あい」にて、千秋公園の鐘の話をすると初めて出席してくれたアキラ製作所常務の林勇一氏。
「その鐘を造ったのがうちの亡くなったお祖父さんです」
 平和の鐘を造った人を知りたくなった。勇一さんに電話をしたら、我家に千秋の鐘の記録が残っているという。
 5月17日。秋田市川尻・工業団地内のアキラ製作所。林章・勝子ご夫妻が待っておられた。林章社長は、なんと小生の職場の上司であった故渋谷達雄さんと親友であられた。 天国の渋谷先輩が引き会わせてくれたのに違いない。
 林社長から「昭和二十三年八月十五日 秋田市に寄付せる時鐘に関する記録  林家」という詳細な時鐘に関する資料を見せて頂いた。
 林金属工作所 林金太郎
 製作担当者 
   工場長 林次郎
   鋳匠  中村周市
 との名前が記されている。
 製造所要人員はインゴット鋳造230人、錫流し及炉の基礎孔堀り10人、鐘原型木型鋳型製造溶解砂出390人。千秋公園の時鐘は実に630人もの方々の汗の賜であった。
 「聴鐘不忘鋳造人」でした。
 さらに鐘の縁が続く。千秋公園内の彌高神社は平田篤胤・佐藤信淵両大人を祭っている。北嶋昭宮司が調べたら鐘を鋳造した中村周一鋳匠は佐藤信淵大人の子孫に当たることが判った。林勇一氏がこの春、彌高神社の神輿を担いでくれたのも因縁であった。
 金の縁には全く縁遠い小生。鐘の縁には恵まれました。  平和の鐘よ、ありがとう。
             
           吉敷白鳳
 鐘撞きてつきて
    月光澄むばかり
  ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成13年5月23日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「庭づくりまちづくり」(2)
★杉村文夫氏 
    (むつみ造園土木叶齧ア)

 借景で有名な円通寺の庭です。
このお寺は山の高台にありますから、向こうに見える比叡山ばかりか、目の下にはいろんなものが見える。これを生垣や竹薮でカコンで隠すんです。すると山だけがこっちの庭に飛び込んでくるという訳です。
 更に杉の木があります。杉の木の大木の林が。この杉の木立の下枝を払ってその幹ごしに山を見る。下の生け垣と左右の幹と、上の枝葉で囲まれた四角の中に比叡山が入る。これをフレーム(額縁)効果といいます。比叡山が完全に自分の庭に入ってきます。

 綺麗だなあと思う象潟から見上げる鳥海山。あれが大体7度。綺麗に見えるというのはこの辺りから9度、10度前後の仰角で見ていることが多い。
 反対に見下ろす時は、黙って立ってますと、自然に一〇度位の角度で下方に視線が行きます。
 函館山から函館市内を見下ろしますと、この10度の線が市街地と港をとりこんでいます。市街地がこっち側にある感じがします。 
 この10度を境にしてとりあえずこっち側にあるものはこっちに、10度より先にあるものはあっち側に感じます。
 
 東京タワー。150bの展望台は街中に、250b展望台は境目ぎりぎりに東京湾が入る。
 発荷峠から十和田湖をを見下ろすと10度の線は湖の中に落ちます。これで湖はわがものです。 
 これが30度を越えちゃうとガケの上にいる気分で落ち着かない。近づきすぎては駄目です。
 10度ぐらいの線が湖の真ん中にぶつかれば、逆に言えば2万五千分の一の地図から、見上げ見下ろし、それぞれ10度ぐらいの線を割り出せばいいんです。そこに土地を買って、いい別荘を建てて売り出せばきっと売れます(笑い)

 京都に行った方はわかると思いますが、あの東山の銀閣寺、
 後の大文字山は見上げ31度。見上げも30度ですと完全に背景になります。
 又、例えば皆さん車を運転して坂にさしかかるとその頂上から向こうに山が見える。この時もこの山はこっち側に飛び込んで見えます。つまり借景です。
 逆に自分が凹型地方の片側の山の上から向こうの山を見上げる時は、下の低いところから見上げるより何倍も広がり、もっと雄大に見えます。だからちっちゃい庭でも、ちょっと一カ所を下げてやる。
 つくばいなども堀りくぼったところに構えると、その庭は広く感じます。そんなことで、いろいろ変化をつける訳です。

 それから和風ということ。和風とは何か。和風、洋風、あるいは和洋折衷といってますけど、ハワイに行って住宅を見たら、平屋の低い、何となく和風の家がある。だけどもやはりバターくさい。どうも違う。
 考えついたのは、自然に対する処し方の違いだと思いついた。
 これは自然とどっかで同化したいという、人間は自然の一部であるというその考え方がどっかに滲みでている風情というか、そんなところが境目だと思います。

 まちづくりの話になると、建築が主体となりますが、この和風は今さっぱりはやらない。
 そればかりか今の建物は自分だけで完結する。外部空間とどういう関係でつながっているかという自覚、景観に対する配慮がないものが多い。
 それはいろいろあった方が楽しいし、活気が出て面白いという見方があるでしょうけど。
 まちづくりの結論からいいますと、この景観というのは、一つの様式美な訳です。昔は和風という様式があった。そこに洋風が加わった。これもギリシャローマ以来のの伝統があって、それぞれ違うんですが、一つの様式として洋風と感じられるものが一貫してある訳です。そしてその折衷と。
 そういう様式美というのが完璧に失われてしまった。バラバラ。
 しかし、この頃はそろそろインターナショナルな一つの様式が生まれつつあるという感じがします。
 戦後50年間、経済一辺倒でやってきたけれど、丸の内あたりにいくとかなり綺麗になってきたなと。

 私が秋田に来てから30年たつんですが、来た頃はちょうど建て直し、茅葺き屋根が終わって大工さんが出稼ぎにいっておぼえてきた様な、何となくハイカラなつくりに和風の飾りをとってつけた、何とも言えないデザインの家が目立ってました。
 公共の方では、野球場と共に文化会館、公民館が盛んにつくられて、これは赤茶色のタイルがはやっていました。
 その後はバブルで、これはもう個性というか、素っ頓狂というか、話にならない銘々勝手なものが沢山できました。
 最近になって色や形が大分落ち着いてきたようです。ひどいのがなくなって、色もだいたいカラー配色よりもトーン配色というような具合になっています。

 最後に味わいということ。 昔は和風という様式美があった。農家には農家の様式美があった訳です。庭も建物も街並みもその美しさに共通しているものは何か。
 自然の材料をもっていろいろとグダグダ余計な加工をしないで、素材を最高の姿で活かして使う。
 そして、人の手でこつこつと必要な時間をかけてやってきた。古くなってもわびやさびといって、これを良しとしてきた。
 しかしそれは、掃除や雑巾がけといった日々の手入れが必要で、これを怠るとその味わいは出てこない訳で、水は滞るとすぐ腐るのと同じです。諸事、手間と時間がかかった。今は逆でみんなインスタント、安く早く丈夫で長持ち、更にメンテナンスフリーとかいって手入れいらず、それで味わいを求めよったって、そうはいかない訳です。
 要は全体の景観から見れば、新しい21世紀様式というようなものができれば、あるいは秋田様式といったものが何とか皆の力でできればといいと思う訳です。
 その動きは否応なく起こると思います。
 私は秋田は文化と観光立県だと思っていますから。
 人が来なくなった観光地は共通して街並みにも魅力がない。そこで、あるいは昔のほうがいいんだと景観を戻しているところもあります。
 もちろん形ばかり昔に戻したって仕方がないんですが、景観、街並みということについて努力することはどうしても必要だと思います。
   我青春風来記(136)
      早海三太郎
  下井草(6)

 ボイスオブワセダの栗原幹事長のいう条件とは、展示の他に芝居もやるからお前んとこから人を出せば、文化祭の会場の半分を貸していいとのことだった。
 芝居、それは面白い。うちのクラブから部員を何人でも出すからと、交渉は成立。
 栗原は「早稲田座頭市」という芝居を考え、監督・脚本・欲張って主演もやる。

 三太郎はこの夏、キューバのカマグエイという町のカーニバルに浴衣を着ていった。子ども達が三太郎を指さしていう。
「イチ、イチ」
 座頭市のイチのことだった。 キューバはアメリカから国交を断交されて以来、西部劇の代わりに日本のチャンバラ映画を輸入した。座頭市はキューバ国民に大受けしていたのだ。

 田舎芝居「早稲田座頭市」の栗原監督は、ヒロインの芸者お光さん役に日本女子大生を考えていたが、振られてしまっていた。「お前んとこのクラブには女子部員がいるだろうから出してくれ」という。 女子部員。3年生に2人いた。部室で緊急幹事会を開いて久保田幹事長にいった。「何とか文化祭の会場は確保した。その条件が女優と俳優をだせだ。引き受けてきたから、座頭市のお光役を金田さんか板東さんのうち、どちらかに引き受けてもらってくれ」
久保田君はその場で必死に彼女達に頼んだが、2人とも「そんな、とても恥ずかしいわ、冗談じゃないわよ」で駄目。
  困った。「こうなったら女形でいい。誰がいないか」
  いた。一年生で髪を長くしてナヨナヨしているのが。塚田徹君(現在、東京第二弁護士会所属)。皆が「あいつだったらお光ちゃんにピッタシだ」と手をたたいて笑った。
  呑 風 日 誌 抄
 4月2日(火)朝、女房に起こされ、千秋公園に上がり、鐘楼の鐘を側で聞きに行く。誰が撞かれるのかと思っていたら、若者であった。感心して写真を撮らせてもらう。夕方。秋田駅前人情酒場「久保田」が休みで、焼き鳥・烏森。秋田職人の会の工藤幸彦代表、バウハウスの森川恒氏と。秋田聞き書き学会の事業に職人の会から協力をして頂くことに。多良で二次会。
 3日(火)芸術的感性が豊かな前秋田弁護士会会長の津谷裕貴さんに秋田聞き書き学会の顧問就任を電話で依頼。快諾を得る。
 4日(木)午後、秋田市長応接室。川反先人慰霊秋田委員会事務局長として、那波宗久氏と佐竹敬久秋田市長に仙台藩志会の伊達篤郎会長からの招待状を渡す。4月20日、仙台市で開催される先代藩志会総会の案内である。伊達家と佐竹北家とは姻戚関係にある。
 市長は当日、青森出張が決まっており、7月4日の秋田市での殉難仙台藩志慰霊祭には出席、仙台にはメーッセージを出してくれることになる。ツバサ広業の桝谷健夫社長と陸上自衛隊秋田駐屯地広報室の三浦久夫さんを訪ね、太平洋を往復した里帰りラッパをお借りし、史料館を案内してもらう。
 三浦広報官が中を綺麗に整備された。 ここには秋田朝日放送・竹村菊昌さんの父上の遺書も展示されている。
 むつみ造園土木の杉村文夫専務と暗殺された仙台藩士のことを知っているという。旭南の骨董屋・長谷部静子さんの話を聞きに行く。そこにあった、元芸者綾香さんの使っていた三味線を衝動買いする。古美術に造詣の深い杉村さんにいい買い物だと褒められる。
 5日(金)秋田ふるさと塾。早稲田大学グリークラブ秋田公演実行委員会。竹萬、岡竹両君がポスターの3案を持ってきてくれて、長門伸一会長が決定。秋田乃瀧で又、気勢を上げる。
 6日(土)千秋公園のあやめ団子に、ケーシーランキン平和へのライブのポスターを貼ってもらう。 
 7日(日)秋田市の花徳(有田正司社長・グリークラブ秋田公演実行副委員長)にて、花トーク。モーズイカのガーディニング講演会。パワーポイントを使った花のスライド写真が素晴らしい。企画した有田夫人も素晴らしい。
 9日(火)4月のふるさと塾講師予定の元東北フジクラ社長の菅省治先輩と榮太楼旅館前の小鍛冶で一献。演歌師山本実氏を呼び、セリフ入りの「人生劇場」を歌わせられる。
 10日(水)職場に敬愛する佐藤孝之助さんが、飯島の松林からとれた松露を持ってきてくれた。残念ながら昨夏に植えた松露菌の場所からは茸が生えなかった。お母さんが松露採り名人だったむつみ造園土木の佐々木吉和社長を訪ねる。松露探検隊の成果を報告。次は新屋浜の松林に炭と一緒に撒いた松露を探検にいくべし。
 12日(金)千秋公園あやめだんご。秋田魁新報を退職された斎藤容一郎氏の慰労会。元秋田放送の高山泰彦さん、秋田テレビの大友直氏と。斎藤さん、ニューヨークとトゥデイの会の話。
 13日(土)千秋公園・えびや食堂。美術工芸短大の退職される山本毅教授の最後の講演と送別会。「秋田での7年、私のデザイン」と題して、先生のように「文明に毒されてない唯一の県・秋田」を壊す事柄に腹を立てるべき。
 二次会も佐々木孝先生達と駅前カラオケハウスで文化論。
 14日(日)朝。百三段海岸で松露探検隊の斉藤信次事務局長と待ち合わせ。昨夏、海岸沿いの松林に撒いた松露探し作戦。飯島方面は駄目だったので期待せずだったが、あった。炭と一緒に撒いた箇所からちょっと外れた場所にそれぞれ一個づつ、ピンポン球を小さくしたような褐色の茸、3個。松露探検隊は一応、成功だった。
 秋田駅前・ニュータケヤにて「ハラショー会」総会。ニュータケヤの武藤攻一さん、父上がシベリア抑留されたのを縁として、ロシア・ウラジオストクの極東総合大学に教育基金を設け、7月に日本語科の学生2人を招待される。秋田ウラジオ会の名前で招聘状を出すことになる。
 17日(水)秋田魁新報社。佐々木義廣報道部長に秋田聞き書き学会の相談。快諾を得る。五城目体育館。雨。悲しい。加賀谷力司大先輩の葬儀。秘書時代から可愛がってもらっていた。
 秋田経済法科大学へ。佐々木満理事長へ、秋田聞き書き学会の後援をお願い。満先生は秋田県社会福祉協議会会長。聞き書き学会事務局次長にお願いした協議会の笈川卓也さんをよろしくとあの宗男氏と違って、利権のない口利きをお願いする。故石川公正先輩の遺児・ラガーマンの文明君を友愛ビルサービスの小畑悟さんに紹介。
 18日(木)息子洋平から心友・土井脩司宅の裏庭で一緒に掘って採った竹の子を送ってきた。それを持ってふるさと塾事務所へ。菅原雄一郎、鳥海良寛、佐々木伸一の3氏と仁義の話。鳥八で二次会、ジャズスポットロンドで3次会。鳥海美雪さんの好きなバラは琥珀色か。亭主は知っているか。   20日(土)仙台へ那波宗久氏と。新幹線の角館駅から田沢湖駅にかけての車窓から見える杉林が線香林。間伐をしない地主は杉が可愛そうではないのか。恥ずかしくないのか。仙台駅前・メトロポリタンホテル。藩志会総会。木名瀬事業部長にすっかりお世話になる。仙台稲門会の石川先輩に電話し、西原前総長が来ているとのことでそちらの会合に出席。国際ホテル泊。
 21日(日)木名瀬さんから石巻の支倉常長記念館、仙台に戻り木名瀬氏の殉死した先祖の墓がある感仙殿へ。
 23日(月)川又淳氏と本荘へ。小林忠彦作詞作曲・伊藤要補作の「煙草のけむり」の吹き込みテスト。元歌手志望の会長は一発でOK。
 24日(水)秋田市新屋・日吉神社。グループ森の会。6月に植樹、小生の役割は支柱づくりで面白そう。
 26日(金)ふるさと塾。講師が菅省治先輩。質問形式で中近東や海外での電線敷設工事や、東北フジクラでの経営者時代の有意義なお話を伺う。
 27日(土)いよいよ秋田聞き書き学会設立総会。小田豊二講師を駅に迎え、我が家で20分間の三味線教室。彼からバチを貰う。イヤタカにて設立総会、講演・シンポ。利き酒コンクールのある設立記念祝賀会。三味線茶屋すがわらで二次会。
 28日(日)秋田市立図書館・明徳館にて中央地区聞き書き実践講座。16人が受講、秋田聞き書き隊が誕生。小田の友情に感謝し、秋田駅に見送り。
29日(月)総社神社。特攻隊慰霊祭。黙祷の間、里帰りラッパで「国の鎮め」を吹く。今回は何とか間違いなく吹けた。秋田市下浜へ。あぜ道に日本タンポポが咲く。秋田森の会。佐藤清太郎会長との約束で風のハーモニイ。
 川反・迎賓館にて湾岸戦争時、ペルシャ湾で活躍された落合元司令官の夜の講話後、一緒に高橋大和氏達と川反観音へお参り。