ふるさと呑風便 2002/4月号  NO,157

   遠 慮

 永田町界隈で秘書がどうしたかで、騒々しい。
 国会議事堂裏に棲む秘書とは居候みたいなもので、身分は安定してないし、政治家が落選するとおしまい。
 参議院議員会館7階の一室。昭和43年の秋から2年間近く、そこに居候をしていた。第一秘書と女性秘書、それに私設秘書の私で3人。第一秘書の栗原文大さんは大らかな方で、新米の私に何でもやらせてくれた。陳情団の国会議事堂への案内、米価大会への代理出席、派閥の朝食会等。 7階の窓の向かいに自民党本部が見えた。私はその建物の写真を撮ってアルバムに貼った。写真の下に「汚権者の巣」と書いた。権力は腐敗する訳で、その腐敗の片棒を秘書も担いできたといえる。
 その頃、あの鈴木宗男氏は学生の身分で自民党・中川一郎代議士の秘書をやっていた。
 居候三杯目はそっと出し
 いや、居候四杯目もさっと出すといった調子で宗男氏は中川親分の後ろ盾で力をつけてきた。選挙区の町村長が陳情に訪れると、役所にすぐその場で電話し、口利きする。やがて、議員会館の代議士の机に座るようになった。遠慮もくそもあったもんじゃない。
 当時の会館食堂。共同通信論説委員長だった井出武三郎氏にスポーツ記者になりたいと相談したら「スポーツと違って政界には美はない」といわれたことを覚えている。
「首相官邸のキャップをしていた頃に、議事堂内で政治家同士が肩をたたき合っている姿は実に醜い。あれ以来、議事堂に入ったことがないよ」と語られた。
 今でも、テレビ画面で見る。議事堂内で、あの宗男氏が席を立って野中さんに耳打ちしている光景は、美景ではなく、実に醜景。アリストテレスの美学にある。「美には利害関係があってはならない」

 日本の政治家の仕事というのは、役所の握る予算や補助金、許認可、それに審議会等の委員人事を支持者や選挙区に分配すること。そこに票とカネの利害関係ができ、汚職が生ずる土壌ができてくる。 これは日本人が、官の国家を許してきたからである。
 政では、派閥の親分になって総裁を目指す権力政党自民党議員が、カネで政治をころがしてきた。自壊に気がついていても改革はできない。
 あの宗男氏は、秘書時代の経験からどこに利権が生ずるかの嗅覚がするどい。外務省にもあった。その役所は政治家である宗男氏を利用し、遠慮して、真紀子さんを追っぱらった後、公務員の守秘義務を犯してまで、丸秘文書を野党・共産党に渡し、宗男氏を失脚させた。実にずるい。  役人はそれでも、降格もなし、罰せられもしない。
 同じ役人でも、消防署の救急救命士はほんとに偉い。
 先般、秋田の救命士第一号の好漢と飲んだことがある。
 気管内挿管を違法と知りながら、悩み、苦しみ「義を見てせざるは勇なきなり」と、多くの命を救ってきた。 
 厚労省は医師会に遠慮して時期尚早などといって気管内
挿管を救命士ができないようにしてきた。 
 秋田市消防本部が昨年から気管内挿管をやめた。以来この3月まで挿管をしたら命が助かる可能性のあった患者が、3人もいたという。
 利ではなく、義の為であれば役所に遠慮しないで、何でもじゃんじゃんやればいい。
  ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成13年5月23日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「庭づくり まちづくり」
★杉村文夫氏 
  (むつみ造園土木叶齧ア)

 庭づくりをやってます。まちづくりができるような能力はとてもないんですが、そう思っていることだけは申し上げます。
 初めに庭づくりの方から、最後はまちづくりに結びつけたいと思っております。
 空間をどう埋めていくか、小庭から街づくり、都市計画、もっと大きくなれば地球計画になるんでしょうが。
 アメリカなんかですと、ダムを造るような大きく自然をいじるような時にランドスケープアーキテクト、要するに造園家が景観計画などに参画すると聞いたことがあります。職能ですね。 我々はそうあるべきだと思っているんですが、日本ではそこまでいってないんです。自然環境と景観とどう折り合いをつけるかという仕事。まだ造園家というのが、職能として認知されていないのです。

 後先になりましたが自己紹介を少々。私は15歳で東京都立園芸高校の園芸科に入ってずっと造園やってますから、今年52歳ですけど、40年近く庭ばかりやってきました。
 東京と京都でデッチをやって24の時に秋田に来て、主に個人の庭づくりをやってました。
 30歳の時にで水心苑をやらせてもらいました。社長の佐々木から常務などと肩書きをもらってひとまず職人として現場をあがれと、それで現在にいたってます。
 臼満政子さんのエッセイを読んでましたら、青山二郎のことについて学校もロクに出ず、何もしないで何でもわかり尊敬されているならそれが一番偉いんじゃないですがと書いてあったので、俺もこうなろうと(笑い)

 庭づくり、ものづくりです。和風ということなんですがね。
 これは自然に同化するというか一体化する、自分達は自然の一部だという、その心のあらわれ、これが和風じゃないかと。
 それではいい庭とは何か。結論からいいますと、カツオカカサキケといいます。サザエさんちのカツオ君に「いい庭は?」と聞いたら、秋田弁で「カカサキケ」(かかあに聞け)と答えたといいます(笑い)
  かこむ つなぐ おおう かくす
 かざる さわる きる(区切る)  ける(半分かくす) 
 更に付け加えて あげる さげるなどの要素がうまくまとまっているとよい空間になります。
 いい換えると、いい庭には必ずこれらのものがあります。
 まず庭とは何かといいますと、実のところ古今東西を問わず人の生活と共にあったということです。
 だから安全のためにカコウ、ここから始まります。
 万里の長城は秦の始皇帝が安全のために国ぐるみ囲った。これは庭と言えるかどうかわかりませんが、国づくりということでは都市計画の範疇にはいるんでしょう。
 結局、庭づくりは、どこかで区切りとつける。
 立原正秋は「日本の庭」という本のなかで、庭というのは外部空間において外延を規制して類概念に種差を与えることとという難しい表現をしています。
 これだなと思ったんですね。
  外延というのは哲学用語です。何だか分かりそうで分からなかったので哲学事典をみたら書いてました。
 確かにそうです。どこからどこまでだと概念の及ぶ範囲を決める。外に自然の山が見えて、借景の庭だ、自然の川を取りこんで自然の庭だと言っても区切りがないとつながっちゃって庭なんだか何だか分からないことになります。
 いろんな囲み方があります。塀、柵、樹木、水、へこみ、違う材料や色でも囲めます。とにかくこちら側とあちら側に区切りをつけることで庭が始まります。
 それからA点とB点をツナグ。こういう風に右に左に曲がった道があって、その向こう50b以内のところに門があったり、灯籠があったり、その先に又風情のある建物がチラホラ見えたり、それで早くそこまで行ってみたくなる。
 もう心の中では、そこまで一つの庭としてつながっている訳です。
 この時の門や灯籠はカザルにつながっていきます。
 そういった様々な様相が次から次ぎへつなげていきます。
 さっき50b以内といったのは、人の心理として45〜50b位までは気楽に歩けるんですね。だから50bおきぐらいにちょっとした噴水があり、又その先に日時計があり、更に花壇がありといったことをやっていくとだんだん奥へ奥へと知らず知らず数百bも人を引き込んでいくことが出来ます。
 明るくしたり、暗くしたりする。
 これも文章と一緒で起承転結のよう
なストーリイある庭づくりには大事な要素です。これはオオウでつくり出せます。樹木、パーゴラ、シェルター、穴ぐら、トンネル・・・

 カクス。
 A点から直接見えない。あえて見せない。その先にあるあるいい景色も、次のB点から、と言った時に使う
 テク、これがカクスです
 玄関でご挨拶、ほの暗い廊下を通り抜け、縁側の角を曲がるといきなり、眼に飛び込んできたのは白銀の目ばゆい雄大な出羽の富士であった・・。
 日本庭園はその建物と一緒にこういった手法をたくさん使いますね。外国でもかなり使ってます。
 全部見えなくするのはカクスですが、サワルというのは、すだれ効果、つまり見えかくれ。
 灯籠が立っています。その脇にモミジを植えて、灯籠にその小枝をからませると、何やらゆかし、といった風情が出る。こういうのがサワリです。
 こういう手法、ちびまるこの髪の毛ような(笑い)深窓の令嬢のベールのような。
 それから、ケルというのは半分隠す。
 ケラれたことによって何ができるかというと、遠近感が強調されます。
 更にもっとよく、早く全体が見たいという感興をおこさせる。
 これが次のB点に人を動かす訳です。

 キル。これは区切る、それぞれのエリアの違いはこの区切りによって冴えます。これが居間、ここが応接間、こっちが趣味の部屋、といろいと違った場も、壁や建具やパーテションで区切られます。大体こういう風で建物の内部も区切られますけど、庭も同じです。
 余談ですが、部屋も四間(7.2b)幅ともなりますと、中は中庭を造って自然の景を添えます。臭いも抜けるし明かりもとれる。
 日本人の場合、この区切るというのは多分に心理的なものがあって、例えば、四方に笹竹を立ててしめ縄を張るだけで神聖な場が生まれる。
 又、茶庭の外ろじと内ろじの四ツ目垣じゃまる見えの竹垣ですが、向こうは見えない。
 そういえば、ふすまは人の気配はもとより、音も声も聴こえるが、きこえないことになっている訳です。
 アゲル、サゲルは高低による区切りです。その差を大きくすれば、カクスこともケルこともカコムことにもなる。
 カツオカカサキテは大体以上です。
 それから伝統的な庭には、格ということも考えなければいけない。
 これは真行草と呼びならわされています。言葉としては古臭いのですが、デザインする時には、非常にまとめ易い、分かっていなければいけない概念です。本当によく分かり易い。
 例えば石畳ひとつつくるにも、玄関前も主庭も裏庭もどこも同じデザインでは脳がない。何事にせよTPOがある様にそれぞれの場によって違いがでて当たり前なんですが、それを真行草でとらえるとまとめ易い。
 玄関前は加工切れで真、居間の前のテラスは加工石に自然石を混ぜて行、そして奥の庭は侘びた山の自然石で草、というように、つまりフォーマルなものからカジュアルなものに移っていく。
 そうすると、一つ一つに取り合わせ、デザインの仕方にまとまりがついてくる。そして全体としては、カミシモから運動着、ステテコ一丁と変化がついてくる訳です。
 背広を着て、長靴を履いて御祝儀で仲人さんというのはどうも・・・という訳です。
 寺内の護国神社。これがよく出来ています。本当に分かり易い。まず鳥居がある。あっちが神様の方で真、こっちが俗世間で草、中間に参道がある。
一の鳥居からは砂利道が左にカーブしていて先が見えない。そのカーブを回ると前方に階段がある。それを登った上に二の鳥居、その中にお社がここで初めて見えます。
 しかし、近づくに従ってお社は階段にケラして又、カクれる。
 アゲルという仕掛けで上にいくと、道はここからまっすぐになります。
 左手に手水舎があり、その先に又二段程の階段がある。その前方に大きな門があり、回廊がある。その中の向こうに拝殿、その又奥が神殿という念の入ったつくりになっています。
 この周りの石畳は御影石で格調が高い。こんな具合に初めは広くゆったりした玉砂利道で草体、次に階段を結界として区切り、上に上がると直線の道になり、それでも囲みはゆるく、樹木で行、その先は建築によって囲まれた充分に人工的、厳格な場となって真にたどりつくという訳です。
 俗から聖へと近づく見事な計画だと思っています。
 こんなことを頭に入れて庭を見たり造ったりすると面白さを増すと思います。要約すると聞く、閉じる、と真行草ということになりますか。
 ランドスケープの手法としてはこの他にもいろんなものがあります。樋口先生(山梨大学)の景観工学上の業績が非常に分かり易いので幾つかお知らせます。応用例をお目にかけましょう。比叡山。この山を取り込んだ庭があります。 (続く)
  我青春風来記(132)
       早海三太郎
  下井草(5)

 郷里から帰って、東京・神宮前の山本満喜子さん宅を訪ねた。キューバの土産は音楽好きな彼女にレコード数枚。キューバに行く前に「太陽が燃えている」という歌を山本さんから教わった。
 「私が初めて、キューバのバラデーロ海岸でカストロと会った時に、この歌が流れていたのよ」「あなたはキューバで評判が良かったわよ」といわれた。
 キューバの官房長官から彼女に電話が入っていたらしい。
「アカにならないで帰ってきて欲しい」といわれてトランジスターラジオをくれた日立製作所の総務部長。彼にはキューバの葉巻をお土産に持って行った。
 イギリスのチャーチルが21歳でスペイン戦争に従軍し、キューバで葉巻を覚えてきた。アカにはならなかった同じ21歳の三太郎は葉巻は覚えず、ラム酒を覚えてきた。
 キューバに行く前。激励してくれて、帰ってきたら飯を食おうといってくれた松村謙三先生には何故か、訪ねることが出来なかった。ご自宅が近所で、下井草のアパートを借りたのだが自信がなかった。
 中南米研究会の部室近くの食堂・早栄軒のおばさんにもキューバのお土産を渡す。カツライス200円をタダにしてくれた。
 そこから右手の小路を入り、左に風呂屋があった。
 向かいの家に現在、雄和町で坂本バイオを起業した坂本賢二博士がいた。当時は彼、小学生だったろう。
 突き当った処がワセダハウス。そのマンションの一室に部室がある。授業をさぼってクラブに顔を出すと、3年生の幹事長・久保田隆君が青い顔をしていた。
「先輩、文化祭の会場を取れなかったんです。実行委員会に申し込みしたら、締め切りが過ぎていたんですよ。何とかしてください」
「バカヤロお前、運動部でいえば、文化祭は試合の場じゃないか。不戦敗するようなもんだ」
 例年借りている21号館の会場にどんなクラブが借りているか調べてみた。ボイスオブワセダという聞いたことのないクラブあった。 そこが一室を借りている。幹事長が栗原健昇とある。なんだ中西ゼミの同期だ。好漢、栗原は雄弁会だか、早稲田精神高揚会だかの幹事長選挙に落ちて、何か別の会をつくったと聞いた。
「そうかよし、栗原に交渉して会場の半分でも借りよう」と中西ゼミが終わってから、彼に頼んだ。
 現在、熊谷市で市会議員になっている彼は意外にも、簡単に「貸していいよ」といってくれた。
 ただし条件があるという。
「ええーっおい、どんな条件なんだよ?」 (続く)
  呑 風 日 誌 抄
3月1日(金)秋田ふるさと塾
第一回グリークラブ秋田公演実行委員会。小生が実行委員長になり、吉田典雄事務局長にすべての情報、金を集めることとする。企画プログラム委員会の竹萬、岡竹委員、この竹竹コンビに後は任せる。
 2日(土)雪。能代市・小友池へ桝谷健夫さん、政雄さん、小林孝哉先生、高山泰彦さんと5人。
 ふるさと能代市に40年振りに帰り住ん山谷銀二郎さんのご招待。小友沼の5千羽の白鳥、2万羽の雁を見学。感ずることが多い。能代市の小料理店でお仲間・福田昌雄さん、青山正氏、柳川重雄氏と一献。何故か松山大学の柳川重規教授宅に電話したりする。
 3日(日)あきた環境学習交流会に顔を出し、秋田キャッスルホテルへ。本社経済部に栄転する毎日新聞秋田支局の上田宏明・倫子さんの結婚式。テーブルにカードが置かれ、二人の名前で「お忙しいところを有り難うございます。
仕事が厳しい時など何度もエールを頂き、有り難うございました。今度も頑張ります。見守って下さい」と書かれている。隣が大阪本社運動部の来住哲司記者。小さな大投手・今川敬三さんの甲子園での74球ピッチングは未だ破られてないという。仙台支局長の渡部慶一氏、懐かしい面々と二次会。
 4日(月)協和町の茂木義次郎宅へ。秋田工業高校土木科同級の下関の佐々木耕二氏、国会裏から秋田市に戻られた橋本静雄氏と一献多献。茂木社長宅にやっかいに。
 7日(木)川反・浜乃家・県庁早稲田人会の送別会。中村徹、佐藤勲の両氏。周りを明るくする柴田康二郎先輩のはなむけの言葉が素晴らしい。
 8日(金)秋田市手形・呑兵エにて、秋田ボランティア協会でNPOの研修生・大阪・枚方出身の赤居さんの送別会。枚方には一ヶ月住んだことがあった。不登校を考える親の会あきた代表・大家みはるさん、「不登校より引きこもりの方が大変」との話。二次会は菅原雄一郎会長、秋田県ボランティアセンターの笈川卓也氏と川反・レディ。
 10日(日)引きこもりにならないようにカミさんと「天然温泉」リラックス。
 11日(月)毎日新聞広告にあった。雅子様の御印は「ハマナス」は知っていたが、皇太子殿下の御印は「梓」だった。今春、新屋浜にハマナスと「梓」も植えるべし。
 13日(水)秋田駅前・あっちゃん。職場の船山昭弘さんの送別会。昔の商工課の先輩・清水川さんと3人。この日。吉永小百合さんの誕生日。船山さんに彼女からもらった手紙をあげる約束をしてしまう。酒席の約束事は果たす。
 14日(木)朝、NHKラジオで五城目の菅礼子さんが、聞き書き学会の話をされ、連絡先が聞き覚えのある番号。何と終わってすぐ我が家に、鹿角市の瀧豊蔵さんから電話が入った。菅さんにも東北各地から多くの電話が入り、反響大であった。
 15日(金)昼前、秋田駅に学友・小田豊二を出迎え、大江戸ラーメンへ。秋田港を見て、新屋勝平台の小西一三氏宅。読売テレビの藪田ディレクターと小田が番組制作を小西夫妻に要請。
 大学病院へ鈴木富雄さんのお見舞い。夕方、山王・橙屋。高久正吉先輩と、朝日新聞秋田支局の岡本記者が大阪本社栄転祝い。朝日の細見真人記者も後から。二次会が本荘出身村上章さんのロスプリモスへ。
 16日(土)午前、小田と土崎図書館へ。早田貫一先生の港洋画人展。シベリア抑留時代の「愛馬の絵」ジーンとくる。ABS秋田放送へ。大阪谷邦雄放送部長、スタジオで茜谷幸子アナウンサーと小田豊二ゲストが聞き書き運動の話しを収録。パークホテルで小田から稲庭うどんをご馳走になって、1時から明徳館にて秋田聞き書き学会発起人会。何と29人も集まってくれた。毎日新聞の三木賢治論説委員も。会長に秋田大学名穂教授の井上章先生がご就任。懇親会が駅前人情酒場「久保田」。岩手の猿学者・中村民彦氏が京都大学の研究員に。井上会長が最後に三本締め。
 ツバサ広業の桝谷靖恵さんから、三木委員が余録で桝谷さんの50円の親孝行のことを書いてくれたお礼にと女房共々呼ばれ、ワシントンホテルでご馳走になってしまう。三木ちゃんと「いずみ」でじっくり酒。
 20日(水)千秋公園・あやめだんご。毎日新聞秋田支局の上田、倫子両記者の送別会、福永記者の歓迎会。福永君、野球もできるし面白人間で我がチームで使えそう。
 22日(金)秋田ふるさと塾。川反塾舎。講師は英数学院院長の中村芳夫氏。「みこしづくり まちづくり」波瀾万丈の中村先生の話はユーモアたっぷりで哲学があって面白く為になった。
 23日(土)通町の越後谷漢方薬局でラーメン談義、新屋の秋田晴で川口和夫社長から北海道時代の話し。那波宗久氏と20日に仙台藩志会総会招待で仙台行きの相談。
 26日(火)秋田魁新報社報道部の村上昌人次長へ秋田聞き書き学会後援依頼。秋田キャッスルホテルにて統計課送別会。
 28日(金)秋田市山王・彩香亭にて係の送別会。
 30日(土)秋田駅前・アトリオン、秋田地区日中友好協会役員会。昔と違って、留学生が百人近くに増えていた。
 31日(日)大内町へ。秋田生涯学習講師の伊藤一さんと。高橋喜一郎さん宅へ弔問。小生、大内町民謡競演会大会副会長。春一番、大内から民謡の調べが響く。目標が日本民謡史料館の建設。建設候補として、大内町農協倉庫を見る。