ふるさと呑風便  2002年3月号

    小友沼

 能代市の山谷銀二郎さん。
40年ぶりにふるさとに帰り住んで驚いた。
 小さい頃に遊んだ、ふるさの沼がこんなに美しかったのか。感動だった。想い出がいっぱい詰まっている小友沼は、白鳥やガンの越冬地となっていた。この美的資源の小友沼を起点に何かふるさとづくりをできないかと考えられた。
 そこでなぜか私に、山谷さんから畠山正治先生の「小友沼」に関する資料がドサッと郵送されてきた。
 畠山先生が書かれた「小友沼がいつまでも渡り鳥の休息地であるために」というチラシには、白神山地は古くから渡りのコースとある。
 白神山地には雁森岳(ガンモリダケ)と菱喰山(ヒシクイヤマ)という地名があることがそれを証明している。

 山谷さんのお誘いで行くことにした。現場発想主義。
 3月2日午後4時。秋田市を出発。舛谷政雄さんの運転でツバサ広業の桝谷健夫さん、、小林孝哉先生、秋田野鳥の会の高山泰彦さんにもご同行願った。
 車中、高山さんから講義を受ける。「雁には色々な種類があるんですよ。一番多いのがマガンで、オオヒシクイ、ヒシクイは知ってますね。それからハクガン、コクガンという雁もいますよ」
  恥ずかしながら、雁が天然記念物になっていた事さえ知らなかった。

 着いた。曇天の下、小友沼の堤防に、桜の木が植えられている。周囲は約5キロ。観察小屋の前には地元小学校の子供達が集まり、親子野鳥観察会が開かれていた。ハンドマイクで説明しておられる方が畠山正治先生だった。
 小友沼は、江戸時代に人工的に造成された沼地だった。 秋田藩の家老・梅津政景父子二代に渡って灌漑用溜め池として造られた。完成まで58
年もかかった。
 小友沼には現在、白鳥が五千羽、マガンが二万一千羽。 9月下旬に渡来してきて、3月下旬までが観察期間となる。沼の上部にはヨシ原が広がっている。
 観察小屋には望遠鏡が備え付けられていた。子供達が沼の真ん中辺にいる水鳥を覗いている。カルガモが数羽いた。
 五時近く。「帰ってきたぞう」との声。南の空を見上げると白鳥だ。西の空、東の空から雁も帰ってきた。子供の頃に見たカギ型ではなく、大きな黒い群となって飛んでくる。どんどんやってくる。  医師会病院のある方に上がっていって観る。ヨシ原の中に何千羽という白鳥、雁が飛び落ちては浮かんで、ガーガーと鳴いている。
 観察小屋に戻り、山谷さんや元能代農協組合長の青山正さんからここ榊地区で取れた、今は幻の「榊米」の話を伺った。雁の渡る小友沼と幻の榊米復活ができないかと考えた。

 後日、畠山正治先生からお手紙を頂いた。
「ここ10数年を見ていると地球温暖化が渡り鳥の動きにも影響が出てきているように感じています。
 これまで、秋田よりもっと南で越冬していたのが、ここ十数年で秋田が越冬地化してきています。鳥たちから環境変化について教えられます」
 小友沼で山谷さん、青山さん、畠山先生達から教えられました。ふるさとを愛する心について、教えられました。
  ふるさと塾地域づくりゼミ
★平成13年4月23日(金)
★川反ふるさと塾舎
★「キーワードは心とこころざし」(2)
★小林孝哉氏 (元五城目高校校長)

 私の三つ目の生まれ変わりは「人間の生き方・生きざま」の面での生まれ変わりです。
 昭和45年、私は42歳の身を秋田南高校に置いていました。雲一つない秋晴れの日曜日の朝7時。気持ちも爽やかにモーニングコーヒーをすすりながら、新聞を目を通していたところに、突如指導部長から電話。
「旺文社の模擬試験用紙が学校に届いたから、直ちに出校されたし」とのこと。かねて能代市の祖父母のもとに連れて行く約束をしており、それを楽しみにしていた子供達二人のがっかりした顔に胸をつかれながらも、すぐ学校に向かいました。
 ただ、「折角のこの秋晴れの日曜日にか!」という思いが心にくすぶり続けていました。
 進路指導部員一同が集合したところでまず部長から「日曜日の緊急出校」についての丁重な詫びがあり、出版社の手違いから生じた事故と一応は皆納得したものの、大方は仏頂面もそのままに、テスト問題の重い箱を何十も二階に運び上げる力仕事に取りかかった。
 その時、不満顔の私達部員の中でただ一人、素早くトレパンの上下に着替え、一人で重い箱を背に担ぎ、足取りも軽やかに階段を駆け上がった教師がいました。私と同じ英語科で、能代北高校でも2年間同職して色々お世話になり、以来、一歳年上の兄貴分として敬愛していた小林武先生でした。英語指導者として常に私達の先頭に立ち、またバスケットボール選手として国体にも出場した文武両道の達人である武先生の仕事ぶりとは、正に天地の差をつけたものでした。
 夕刻、一切の仕事が終わり、「ご苦労さん」の一声で皆が別れた時、朝からの疑問を抑えきれず、私は武先生の腕を捕らえて尋ねた。
「折角の好天の日曜日にこんな目に合わされて、何故貴方だけ腹が立たないの?」この私の問いに返ってきた武先生のご返事は、
「いや、実は車生活のお陰で、運動不足が日頃から私の悩みだったんだ。だから、今日の仕事はその私に神様が与えてくれた有り難い運動の機会と思えば、何も腹は立ちません。ものは考えようです。面白くない気持ちで取り組めば、ただ自分を惨めにするだけ。どうせ過ごさなければならない時間なら、不愉快な時間として過ごすよりも、ちょっと考え方を変えて、少しでも自分にプラスの、生き甲斐のある時間として過ごした方が良いに決まっているじゃない。そうでしょ、孝哉さん」でした。目から鱗が落ちた気持ちでした。
「成る程、気持ちの持ち方一つで地獄を極楽に変える事も出来るという訳かあ。これさえ忘れなければ、自分を惨めにする事なく、爽やかに自分を生かす生き方を貫くことができるんだなあ!どうせ生きるなら、楽しく生きたい!と願うのは人の常だが、その鍵は正にこれなんだなあ」と。
 お陰で昭和45年のこの秋の日を機縁に「全て気持ちの持ち方一つ!」という人生訓を胸に、私は耳の痛い他人の自分への批判も「それは私に対する批判でなく、私への期待だと」と受け止める事も出来る「柔らかな心根」の持ち主に変身し、惨めさとは無縁の「生きて甲斐在る日々」を我が物として過ごし、今に至っています。
 小林武先生という素晴らしい先生に出会いを得、これ以上ない人生体験の形で「確たる志を心に秘めてこそ、大きく気持ち良く生き得るのだという『人生の生き方第一条』を教えて頂けたのは、何にもまして幸せだった。確かに、私はそれまでの自分とは全く違った人間に生まれ変わることができたのだから。

 以上、自己紹介を兼ねながら、一番大切なもの、目指す志を持つ持たぬの差がどれ程大きいかを申し上げたつもりです。
 次にこの志という覗き穴から現下の日本の有様を覗いてみるが、その前に国家というものの第一義を確認しておこう。
 国家の第一義は、国民の生命と生活を守り、自国の尊厳を守ること。政治即ち立法でも、それを踏まえた行政でもはたまた司法でも、すべての国民を幸せにし、国民の生命と安全を守るということを第一義にその効率の良い機能を志す事こそ政治家と官僚の使命だということになる。
 第1にその使命を担う日本の政治家に一番目につくのは何か?
 外国の特に中国・韓国がいうことには何でもへいこら土下座して謝り、それを人間としての優しさだ、友好だ、歴史的責任を取ることだと勘違いし、(している振りをして)国の誇りも歴史も全て売り渡して恥じぬ「売国奴」同然の姿ではないか?
 日本の謝罪外交は、朝日新聞が中国と組んで故意の虚報を流し、型通りの中国の抗議が日本の政界を揺さぶった、あの有名な昭和57年(1982)7・26の「侵略・進出書き換え事件)に始まる。時の鈴木内閣官房長官宮沢喜一が事の真偽も確かめず、この事実無根の事柄に即座に謝罪。しかもご丁寧に教科書検定条項に新たに、「近隣諸国条項」を付け加える事までした。
 以後、中・韓などが日本人の「歴史観」が悪いといえば、「何が何でもご無理ご尤も」とストレートに謝罪するパターンが定着して現在に至っている。
 ここではっきりご理解願いたい。
 他民族の国家に組みいられた民族、即ち属国の住民には自国の歴史を記述し、語ることは許されない。つまり、歴史解釈権は独立国のみが保有しているのだ。歴史解釈の押しつけは主権の侵害なのだ。文部省の検定に外国である近隣諸国のOKを頂かなければならないなんで、どんな国を独立国と言えるのでしょうか。日本は自ら自国の大切な主権を放棄したのだ。こんな政治家に国を預けている国民のツラを見たいと思わずにはいられない。
H5・8・4 河野官房長官が慰安婦問題におけるありもしない軍の強制連行を正式に認め
H8・8・14 橋本首相が同じく何も根拠もなしにそれを認め、改めて謝罪
H7・8・15 村山首相が今次戦争を何の根拠もなしに侵略戦争と断定して謝罪
 こうして見れば、自分の言い分を通す為の論法をたてるのが独立国というものなのに、日本の政治家は、只ただ先方の意識で全てを説明しようとする者が余りに多いのではないか。
 こうした実情を確認すれば、国民を保護してその身体、生命、財産、名誉、自由を守り、国益を増進し、自国の尊厳を守るという「在るべき政治家の志」は全く欠落、あるのはただ周囲に波を起こすまいとする自己の保身と利益の追求のみといえないか。
 第二として、次に官僚に目を向けよう。最近、阿部医師の判決公判で記憶を新たにさせられもしたが、あの「薬害エイズ」の事件は、厚生省本来の存在理由である「国民の健康を守るという国益」は全く蔑ろにされ、身内の失策のカバーと自分たちの「天下りルート」の死守が優先され、その為には国民が何人死んでも通痒を感じないというまでの、呆れるしかない独善振り、無責任振りを露呈してみせた特異な事件だった。
 老人福祉事業にこ汚くタカリにタカッて首になったお粗末な岡光次官の話、ミドリ十字社長に天下りした元上司へのゴマスリに、ミドリ十字が抱える危険な非加熱製剤の在庫がなくなるまで、既にアメリカで完成していた安全な加熱製剤の認可を一年以上も断固保留した郡司課長の話、血友病患者を人間モルモットにして学会に君臨しようとした阿部医師の話など、その一つ一つ、今の官僚に、昔の官吏に漲っていた「使命感」と「サムライ精神」がどれ程欠落しているか、書かれた本を読む度に私はおぞけを振るわずにいられなかった。
 次に警察についてだが、今を去る10年以上も前の平成元年2月、秋田県警察本部は「この手紙は県警本部長が読み、今後の職務執行の改善や警察運営に反映させたいと考えています」との趣旨を掲げ、県警本部長に手紙を書く月間という誠にユニークな試みを実施した。思いもかけぬ機会を逸してはと、真面目な思いを込めて、一筆啓上したのが次の一文である。

 前略
 治安の確立に日々懸命の努力をしておられる皆様のご労苦に、先ず以て心から感謝を申し上げます。
 最近の警察官の一般人に対する応対は「親切」の二字に尽き、警察への大衆の親近感、信頼感の増大は誠に大なるものがあると私は思っております。
 それにも拘わらすこのような手紙を書いたのは「警察は断じて教育・指導機関ではない。警察とは飽くまでも理非を峻別し、悪は悪なりと断固処断する『けじめ守護神』たることにその存在感があるはずだ」との思いもだし難かったからです。
 私は決して警察が指導するのを不当としているのではありません。警察が指導する場は大いにあります。しかし、「法を逸脱している現場」を「取り締まりの場」とせず「指導の場」に擦り替えるなら、それは大きな過ちであり、警察の全存在を自ら否定する事になるのではないでしょうか。
 例えば、警察はなぜ自転車の並進・二人乗り・無灯火を昔のように取り締まらないのでしょうか?。こういえば「悪質な者は厳重に罰している」というのが警察のいつもの返答ですが、一体、誰がその姿を一目見ただけで悪質が否かの見分けをつけ得るというのでしょうか?。或いは「そんなことは小さいことじゃないか」とおっしゃいますか?。
 実は誤った人権意識が災いして、他人には「当たり触らず」が無難な在り方となり、例えば中高生達の目に余る行動を目にしても、誰一人注意する者なく、見て見ぬふりをしているのが世の現実、秋田の現実です。そうです。小さな法のはみだしでも今や警察以外にはチェックする者一人としておらず、大袈裟ではなしに、社会自浄作用を一般庶民に求めることは絶望としか言い様はありません。
 現今日本社会は、強制を出来るだけ排除し、大目に見て、万事叱らず、罰しないという「許容社会」の度を益々深めています。こうした困った傾向は、昭和50年代初頭の某警察庁長官が「愛される警察」というスローガンを掲げ、その結果、「庶民への迎合姿勢」と「指導という名の『規制の手抜き』があらわとなったの始まったと私は思っています。そして、「警察は決して口先だけの指導機関であってはならない。飽くまでも悪は悪として許さず、科料その他に始まる罰則の適用を通じて、過ちを犯した者に、心から『馬鹿なことした』と悔悟せしめる『法規制の十分な実行機関』でなければならないのだ」と私は信じて疑いません。
 「二人乗り?小さな事だ」という「法軽視」に始まり、「見つからなければ」という「法無視」の度合いを強めている日本に今こそ歯止めをかけて頂きたく、適切な対応を切にお願い申し上げ、擱筆致します。有り難うございました。 (平成元年2月15日)

 応募者が例え多数であっても、書き送った内容について一言でもコメントを頂ければと願っていたのだが、残念ながら文字通りのナシのツブテに終わっただけだった。
 私が最初の自己紹介の中でも触れたが、子供に嫌われたくないばかりに、なるべく叱らず大目にみる物分かりの良い男親が、今、日本に満ちあふれている。大目に見て、叱らず、罰しない。これはすべて「母性原理」なのだ。男親も家事を分担するのは当然の事だ。だが、家事の分担とは決して「父性」の「母性化」ではないし、あってはならないのだ。
 「善悪を区別なく許し『包み込む』」この母性原理が、「善悪を区別し、叱り、どうしてもわからない時は『断固切る!』という父性性を圧服すれば、「社会の姿勢制御装置である『けじめ』」が息を潜める事になる。
 上はゆるみ、下は甘えにドップリ。重要問題も只「先送り」され、不合理は正されず、仕事は非効率の儘に放置され、組織の規律は緩み、道徳心は欠落し、無責任が横行しと、これはその儘、今の我が日本の姿だとは思わないか。「けじめ」の総本山であるべき警察がその大切な「父性性」を失ったら日本はどうなるか?今更言うまでもなかろう。
 それに加えて、この度の安倍被告の無罪判決。永井敏雄裁判長、右陪席上田哲裁判官の視線は、殺された被害者に向けられずに、すべて加害の医師の側のみ向けられての判決だった。
 国民が医療を受けるとき、医師の側は最低限の治療さえしていれば、患者はどんなに死ななくても医師の責任を問われることができないと言っているのと同じです。

 次に、最近話題となる特殊法人、公益法人に目を向けよう。最初に大事な事を抑えておく。
 ◎特殊法人=公共の利益のため、または国の政策上の特殊な業務を遂行するために特別法によって設立された法人。(日本道路)公団、(住宅金融)公庫、(環境)事業団、(海外経済協力)基金、その他(電源開発K・K)特殊会社、輸出入銀行、日本開発銀行など(政府系金融機関)92団体(内財政投融資対象は42)。これらは特殊法人は財投から莫大な借金をしながら、一般歳出予算からも利子支払いのための補助金を含む補助金を年々、総額5兆4千億円も受けている。
 この特殊法人はそのスタート時にはもちろん存在価値はあった筈だか、今は国益追求よりもむしろ自分たちの天下り先保守という私利追求が目的に成り代わっている。
 財投資金を借りまくり、利子も補助金という名の国民の税金で払って貰っているこの法人が、あろうことか、営利活動を行う為に自分達の関連事業を吸収して「お手盛り系列会社」を数多くデッチあげ、国家シンジケートよろしく、事実上の日本官僚コンツエルンとして優先的に国の仕事を与えて大儲けし、法人に天下りした官僚の更なる第二次、第三次の孫下り先として、報酬、賃金、法外な退職金の打ち出の小槌たらしめている。この系列会社が何社あると思うか?。想像する数をレジメの余白に書き込んで欲しい。
 その総数は三千。その業務は、建設、企画、印刷、ビル管理、警備、広告、旅行業、食品、情報・・・と、見事と言いたい迄に、世に必要なあらゆる経済分野、ビジネス分野をカバー仕切っているのだ。
 加えてこの特殊法人の活動結果として、財投資金貸出残高(未償還額)
400兆円国民一人当たり330万円借金させられている現実を生んでいると言えば、この部門担当の準官僚達の志がどっちを向いているか、いうまでもあるまい。
 ところで、国民が正義の味方、最後の頼り綱としている唯一の税金監視機関が会計検査院だが、その会計検査院すら特殊法人と見事な迄に癒着し、法人が作るこれらの系列会社の実体把握の努力はせず、逆に自分たちの検査対象である石油公団、日本鉄道建設公団を初めとする大手特殊法人やその系列会社に多数が天下っている。
 税金の監査役がOBとなるや監視すべき相手から職を貰い、給料を貰い、その会社の監査役を勤めてているという事は、行き過ぎた摘発をすればその会社に天下ったOBの反発を招き、それは自分達の天下り先を失うことにつながる、ということからでしょう、会計検査院の毎年の検査対象団体は全体の8%程度にとどまり、その摘発額も天下りしたOBの反発、非難を呼ばぬよう、毎年、会計検査院の職員の人件費・諸経費の総計に見合う140億円にとどまっている。
 よくもそこまで勘案できるものだと呆れかえらざる得ないが、これは、自称頭の良い官僚達の頭の良さという他はあるまい。この頭の良さで作り上げた特殊法人の借金を30年償還とし、その繰り上げ返済は不可とする、というルールを皆さんはどう評価しますか。30年間高い利息を国民の税金で払い続け、しかも毎年膨大な額を借入続けているこの現実は、ただ只、官僚総支配体制を構築するための効率的手立てとしか思われないのではないか?
 
 最後に、一般大衆に目を向けてみよう。「日本人として生きることに誇りと喜びを持つ子供に育てる」のは、その時代を担う大人の責務である筈なのに、ひたすら日本を悪し様に罵り、足蹴にして恥じぬ大人が多数目につく。 子弟に国家民族の伝統、歴史の尊厳と誇りを伝える事の大事さを踏みにじっているこの一部日本人の在り方こそが、現下日本の全ての問題の根源だと私には思われる。何故なら「愛国心なきところ倫理は有り得ない」のだから。
 更にいわせて貰えば、戦後の「愛情はモノで表現する」という価値観の広がりで、心の繋がりで結ばれていた筈の家族は、今やモノによって辛うじて結ばれ、親としての威厳も、長幼の序というものも、全く失われてしまっている。そんな中に「夫婦別姓」を持ち込むとは、一体どういう心で、何を志してのことだろう?。
 又、外人に参政権をとは、これまた何のいい種か?
 事、志に関しては、一般大衆にも、政治家・官僚に勝るとも劣らぬ多大の問題があるといわねばならない。
 結びにはいります。
 ご承知のように日本は、既に竹島と尖閣諸島を韓国・中国に奪われ、又、自分の領海を侵犯した北朝鮮に対してあんなに惨めな対応しか出来なかった。 また、日本は歴史解釈権という国家主権をこちらから進んで他国にゆだね奉り、また、国債の未償還額も合わせれば国民に550万円もの借金を知らないうちに背負わせていながら経済大国の名のもとに、軍備に狂騒する中国に毎年多大の「援助金」という貢ぎ物を献上して、それを誰一人不思議に思っていない。
 中国に対してだけでなく日本は、拉致事件の解決に何も進展も引き出せず、また、ミサイル発射への対応も何一つ引き出せないままに、国民の財産の金や米を貢ぎ物同然にいわれなく北朝鮮に献上し奉っている。これらの事実を皆さんどう見るか?。見て見ぬ振りをし続けるか?
 国民が平和主義的であるという事は、決してその国の平和を保証するものではない。自主自立を貫くには、まず第一に「自分で自分を守ろうとする知的本能(軍事的本能)」を確立し、「軍事的知能」を育成しなければならない。 その育成の為には、過去の戦争を単に否定することは、その戦争に於ける自国の歴史的立場を初め、その戦争での自国の在り方について、一定程度の理解と教訓を学び取らねばならない。亡国のプロセス第一段階として、自分の国に軍事的知能を育てないと第二段階として、「友好に名を借りた『内政干渉』が始まる。そして、第三段階はゆっくりと「日本の国家権力の解体」が始まり、その最後に第四段階として外国の手が警察権力に入り、属国化が完了する。
 果ては民族浄化(民族の種を断ち、別の民族の種を差し替える事)も発動される事も歴史が示している。(コソボ)西欧帝国主義諸国が東洋の殆ど全土を併呑し尽くそうとしたあの大変な時代に、立派に我が日本を守り、近代社会に変容させた明治の先人の、あの何か為なら自分を犠牲にしてもという「己を捨てて大きな国益に殉ずる気概」「何かあれば腹を切る覚悟を持った志」、こうした気概、志が今ほど求められている時はない。その心を合わせ、自国の独立を支えんとする凛然たる志を行動としてはっきり示さなければ、もはや日本の明日は生まれ得ないのだ」という言葉で私の話を終わらせることにします。 
 

 こころざす「志す」自四(心指す)の意 心がそれに向かう、
 思い立つ、めざす    こころざし「志」心のむかうと ころ、心に目指すところ、
 (目標) をめざすこと)             
       
 人間の生き方としてのすべては
 「志」の持ち方一つ。

 国家の第一義は、国民の生命と生活を守ることにある。
 その効率のよい機能を志すことこそ、政治家と官僚の使命なのだ。


   我青春風来記(131)
      早海三太郎
  下井草(4)

 毎日グラフの記者に三太郎が語ったキューバのことが次のように掲載されてつづく。
 カーニバルは夜、始まる。革命記念祭典、といっても、カストロの演説だが、それは夕方5時半から、町はずれの革命広場で行われた。夕方とはいえ、摂氏36度の暑さ。しかし、広場は、カーニバル見物をかねて全国から集まった10万人の大聴衆でうずまった。
 高い壇上にあがったカストロ首相は、夕陽を背に力強く語る。あるときはアジリ、あるときは聴衆に直接話しかける。そのたびに、観衆は立ちあがって、熱狂的な拍手を送る。演説は、なんと3時間半に及んだ。日は、もうたっぷりと暮れていた。
 革命後8年目。まだキューバは試行錯誤の段階にある。しかし、若者が新しい国造りの理想にもえ、真剣に仕事にとりくんでいる。その情熱が、わたしにはうらやましかった。

 同じページに毎日新聞からコダックのフィルムを頂いて、キューバで写した写真が一緒に掲載されている。サンチャゴデクlバの革命広場の大きな演壇の直ぐ下にいた。夕日を背に、カストロ首相が演説をしている。その真下にいて写真を撮った。
 後日、毎日新聞から原稿料を頂いた。自分で書いた訳ではない。毎日グラフの記者から聞き書きされた訳だから、原稿料とはこそばゆかった。

 秋田魁新報の当時、文化部長だった井上隆明さん(前経済法科大学学長)からキューバから帰ったら何か、原稿を書いてこいといわれていた。8月に帰省する夜行列車「羽黒」の中で原稿用紙に向かって書いた。
 それを持って秋田市の魁新報の井上さんに届けた。それが、3回にわたって文化欄に掲載された。
 ずっと後になって、原稿料が送られてきた。貰えると思ってなかったから、驚いた。
 新聞に掲載された後、下井草のアパートから青山・神宮前に引っ越した。その後に川崎市新丸子に移った訳で、そこの住所に届いた。
 井上先輩の手紙には、何度も手紙が戻ってきたらしく、転居先をきちんと明らかにしなさいと書かれていた。
 以来、井上さんからの手紙には必ず何か、激励の言葉が添えられていて嬉しい。
 井上文化部長から大分、直されただろうが、21歳になって始めて書いて、原稿料を貰った文章が次のとおり。
 
「私のキューバ旅行」(上) 
    若い国の若者たち   

 一ヶ月前、キューバを訪問してきた。私が政治経済を主とした早大中南米研究会というクラブ活動の一員であったため、ICAP(キューバ国際友好機関)から招待され、他大学の学生二人と三人で旅行してきたわけだ。私が代表者になったので、この三人の学生旅行団を、日本学生キューバ友好視察団と名づけて出かけた。
 キューバは人口七百八十万人、本州の三分の二に満たない島。ここに一九五九年一月革命が起きて、世界に有名になった。砂糖と音楽の国、カストロの国である。島第二位の都市サンチャゴ・デ・クーバは、人口二十万。十四年前の七月二十六日、勇敢な若者たちが政府軍の兵営を襲撃し、それが一九五九年一月の革命成功へと続いた。その歴史的事件の地である。その二十六日、私たちはここを訪れた。

 午後4時。宿舎のオリエンテ大学の寮からイギリス製のバスに乗り、記念集会の催されるホセ・マルティ広場へ。車中はソ連、イタリア、アメリカ、カナダなど各国から招待された人々でいっぱいだった。
 大会の式場は遠くに建設中の新団地が望まれ、前日からすでに詰めかけていた十万人以上の大群衆の両側には、モンカダ兵営襲撃のさい、戦死した指導者の一人アベル・サンタマリア、チェ・ゲバラ、の肖像画と彼らのことばを示す大看板が立ち並んでいた。空は遠々と青く、焼けつくような光線が膚を刺す。
 会場の二段目に備えつけられた世界各国からの三百人ほどの招待席には、カーキ色の軍服に身を包んだ南ベトナム民俗解放戦線の代表団、アフリカからの黒い代表たち、スウェーデンでベトナム反戦運動をしているというミニスカートの女子学生たちによって、見事な配色がうつし出されている。
「フィデル・フィデル」と叫ぶ大観衆の歓声と拍手に迎えられて、例の戦争服と顔に群がるヒゲを備えたカストロ首相、彼が最上段に姿を現わした。右方にドルチコス大統領、ラウル・カストロ国防相を従えている。七月二十六日運動マーチが、スピーカーから高らかに鳴り終わってから、三時間近い彼の長い演説が始まった。西に沈もうとする夕日を背に受けて、ユーモアを交え、右手を高く振り上げて絶叫する迫力ある対話が続いた。
 最も困難な仕事は権力の奪取ではなく、その後の革命の建設であるとして「それは低開発経済の基盤の上に新しい国家を創造する事であり、また社会に何世紀もの間浸み込んでいる物の考え方に立って新しい意識、新しい人間を創造することである」と説いた。
 彼の目は群衆をはるか越えた空間を見つめている。そこにキューバの理想社会があるのだろうか。農村へ九十日の労働に出かけた工業専門学校の生徒の献身的な労働をほめたたえ、「キューバ革命の基本は労働である」と力説した。さらに観衆との間に次のような対話が行なわれた。
 「来年完成される二つの新しいセメント工場はわが国のセメント生産高を二倍にする。われわれはどこに家を建てるべきだろうか。ハバナだろうか、大都市だろうか(ノーの叫び声)。ではどこに建てるべきだろうか(「農村に」の叫び声)。どこで一番家をほしがっているだろうか、(「農村に」の叫び声)住宅事情が一番悪いところはどこだろう、(「農村だ」の叫び声)、人々がまだ水道もなく、電気もなく屋根もないところに住んでいるのはどこだろう。(「農村だ」の叫び声)」。
   ◇
 カストロ首相のエネルギッシュな演説は教育制度の改革、兵役等の説明から、中近東の動乱、中南米のゲリラ戦線等の国際時局の解説にまで続く。二十万にふくれあがった観衆はそれに笑い泣き、大歓声と拍手を持って答える。
 最後に近づき「OAS(米国が主導権を握るラテンアメリカ機構)の諸君、このキューバを慎重に取り扱いたまえ。この国の人民の尊厳と自負と勇気と革命的良心を慎重に取り扱いたまえ。帝国主義者とその共犯どもよ。諸君の侵略の計画や行動は、粉々に打ち砕かれるだるう。この国は堅くて割れないヤシの実なのだ。」。そして有名な合いことば、゙祖国か死が゙われわれは勝利する゙と結んで、さっと演台を離れた。大観衆は興奮のウズ、そのどよめきは日の沈んだあと、夕焼けの広がった空に響いて、いつまでも鳴りやむことを知らなかった。

 「私のキューバ旅行」(中) 
    若い国の若者たち 

 私たち三人組は、サンチアゴ・デ・クーバからハバナへと、キューバ横断の旅に向かった。一面砂糖キビ畑と牧草地が続く果てのないハイウエーを、時速百`以上のスピードで車は走って行く。
 カマグエイ州にはいり、新工業都市ヌエビータで建設中のセメント工場、火力発電所を見学した。シエゴデアビラ市から二十八`の地点にあるシウダ・デラ・フベントゥー(青年村)を訪れた。ここに長い時間を必要とする実験が行なわれている。
   ◇
 二十五歳の助役が案内してくれた。赤土の広大な土地の一角に白い屋根の低い建物が、密集して建っていた。八郎潟開拓の総合中心地が頭に浮かんだ。総面積が二万fというからさほど変わりがない。共通点はそれだけである。根本的に社会主義体制の農業開発計画であるだけ、非常な相似点が見つかる。私は十bほどある貯水タンクの上に登って四方をながめた。
 山が見当たらない。バナナ、トウモロコシ、ユカ(サツマイモに似た食料)、砂糖キビの畑が一面に広がっていた。親しくなった黒人のヒルベルト君も、一緒に登ってきた。彼は片言のスペイン語の私に、ゆっくりと懸命に説明してくれた。主要産物がバナナで二十八歳のアグスチン村長の下、主にカマグエイ州から集まった七百人の青年男女が働いていた。一日八時間労働。夜に六十の教室で、ハバナ大出身の二十二人の先生によりスペイン語、アメリカ帝国主義の歴史等を勉強しているという。
 人間形成の目的と方式を個人と社会・集団と個人の関係で究明しようとする−いわゆる労働と学習が一体となるマカレンコ式教育方法だ。飛行場まで備えられ、種まき、肥料の配布がすべて飛行機によって行なわれている。
 農機具はほとんどソ連製だが、フランス製もかなりあるそうだ。将来はこの村に、一千七百人の若者たちが集まってくるという。床屋、美容院、図書館、種々のスポーツ施設が、現在建設中だった。
   ◇
 ヒルベルト君は農業指導のため、ハバナからやってきたのだ。ここに二十歳前後の若者の多くが、二年間の労働奉仕にきている。貯水タンクの上から、この国の豊かさは恵まれた気候、土地の肥ヨク…自然だけではなく、彼ら若者の意欲と情熱にも見られる。
 この計画は六年前、カストロ首相直案によるものだという。ここに彼がいかに青年に望みを託しているかが、明確に示されている。私たちがここを去る時、ちょうど昼食時で、食堂の前に列をなしていた。彼らはあきカンを打ち鳴らしてリズムをとり、歌いながら食事の配給を待っている。
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 私たちはカマグエイ州からラス・ビジャス州に向かった。州都のサンタ・クララ市で大学訪問、工場見学ののち、八月五日バナオ町近郊にあるプラン・バナオを訪れた。この計画は昨年から実施された、新しい型の農業開発計画だ。ここで約二千人の女性が農業に従事している。
 キューバの深刻な労働力不足にも原因があるが「婦人は働かなくともよい」というラテン・アメリカの一般の認識を打ち破るもので画期的な試みである。
 野菜と、くだものをつくっている。現在、アスパラガスを産出中だった。ここで合流したカナダ、チリ、ドミニカ、イタリアからやってきた学生たちと一緒に軍服を着こなした美しい指導者の案内で、こぎれいなバスに乗り、ブドウ、リンゴの果樹園、種々の野菜畑を回った。恵まれた気候と土地の肥沃によって、非常に成育が早い。
 畑で働く女性たちが以外に少なく感ずるのは、土地が広大なせいだろう。宿舎の近くにある一軒の店をのぞくと、オシャレなキューバ女性のために、各種の化粧品が並べられてあった。ちなみに、ここで働く男性は三百人ほどで、私たちがたずねた時、宿舎の横で土方仕事に精を出していた。

 「私のキューバ旅行」(下) 
   若い国の若者たち   

 キューバでは毎年一月にその年のスローガンが制定されるが、ことしは英雄的ベトナムの年となっている。そのせいか、私はキューバで、多くのベトナム人に会うことができた。
 革命以前、カストロやチェ・ケバラがたてこもったマエストロ山脈に建設された、ミナス・デル・フリオという革命的人間を養成するための、教員養成学校を訪れた時のことだ。革命戦争中に死んだ一人の指導者カミーロ・シエンフエゴスを記念した学園都市から、大型トラックに乗り換え、二時間ほど山の急傾面を登っていた。三台のトラックには世界各国から集まった、反戦歌手たちが多数乗っている。
 アメリカからやってきたミセス・バーバラとそのむすこメキシコの若い歌手ゴンザレス君、パラグアイのトリオ、ヨーロッパからギターをかかえた反戦歌手も大勢乗っていた。そして南ベトナム解放戦線の歌手の一行五人も加わっていた。ひょうきんで人好きのする中国系ベトナム人陳勇は、トラックを降り、川原で休息している間、私に「ソーラン節」と「中国の夜」を聞かせてくれた。
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 いつもニコニコしている一行のサブ・ディレクトールのバン・ロック氏は日本製のカメラを肩にかけ、カタコトの日本語を語ってくれた。三十年前に日本語を習ったという。他に女性ピアニストのイラン、通訳ンゴ、歌手のパム・デュンらとは、年代の差にもかかわらず、何か意思の通じるところがあった。
 わたしは明るい彼らを見て、今、彼らの祖国では血なまぐさい泥まみれの戦争が行なわれているとは、とても信じられなかった。そしてまたアメリカ・ヨーロッパ・アジアと全世界から集まった三十人ほどの反戦歌手たちが、山脈の台地の霧の流れる舞台の上で、一千人もの生徒を前にし、手を取り合い、戦争の悲惨、戦争がこの世からなくなるよう祈って歌いあげる光景をみて、「なぜ世界に戦争が絶えないのか」と、疑問に感じたのは、私一人ではあるまい。
 キューバ巡回中の南ベトナム解放戦線の民族舞踊団の上演をたびたび見る機会に恵まれた。カマグエイ市のテニスコート場には、千五百人もの観衆が集まった。ベトナムに侵入してきたアメリカ軍の兵士たちが、ベトナムの勇敢な女性たちにやっつけられるくだりの踊りには大歓声である。
 きらびやかな民族衣装を着てのダイナミックな踊り。ベトナムのスチール・ギターの似た楽器による演奏。のろいテンポの歌は、さすがに聴衆にあきれるが、キューバで流行している「ガンタナメラの歌」は、大合唱となった。
 上演が終わって、キューバ万歳、ベトナム万歳と聴衆と共に立ち上がって、歓呼しあう交歓風景が行なわれた。異質に見えるこの二つの民族が、共通して持っていることは、アメリカに抵抗しているのではない。外国による搾取の歴史からはいあがり、人間の尊厳への自由を求めている点に一致しているのだ。
 私はキューバ各地で、たびたびベトナム人に間違えられた。最も日本人的な顔を持っているつもりであったが、鏡をのぞくと、なるほどベトナム人に見えないこともない。それだけに彼らが、最も身近に感ずる。ベトナム人と間違えられて、少女からサインをねだられたこともあった。
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 日本は外敵を持たず、二十年間平和を保っている。しかし今、アジアで争いの持たない国はほとんどあるまい。
 インドシナはもち論、中東紛争、印パ紛争、インドネシア、中国の内乱、台湾にしても、金門島で時々火を吹いている。世界の一等工業国に成長し、自他共にアジアの先進国たる日本が、争いの絶えないアジアを解決の道へ導く義務が、すでに横たわっているはずである。
 民族舞踊団の一行とは、カストロ首相主催のレセプションで、再び会うことができた。
 今年中、キューバに滞在し、キューバ人民との団結を深めるという。彼は祖国へ帰ったら再び銃を肩にさげ、楽器をたずさえ、砲弾の下をくぐって、解放戦線の兵士を慰問して歩くのだろう。
 (早大商学部・大内村出身)
  呑 風 日 誌 抄
 2月1日(火)雪。北嶋昭宮司と彌高泉神社の月次祭へ。直会に出席し、氏子にして頂く。秋田男性合唱団の加賀谷強さんからグリークラブ秋田公演のアドバイス。
 3日(日)節分。息子と二人、 福は内・鬼は外。
 4日(月)本荘市・小林工業へ。音楽プロデューサーの川又淳氏、三浦義明さんと。スナック千にて小林忠彦会長の灰田勝彦の「長崎のザボン売り」東海林太郎の「湖底のふるさと」等を立派な録音機で録音する。皆、会長の個性そのままに明るく朗らかな歌が多い、声がよくとおり、昔歌手を目指されただけに大変お上手だと思う。オリジナルの「タバコの唄」だけでは物足りなく、後日、この後ろ向きな世に中に、何か元気づける歌を伊藤要さんと鈴木富雄さんのコンビで小林会長に新曲を作ってもらいたい。
 7日(木)秋田駅前・小浜旅館。東京6大学秋田野球連盟の新年会。明治の打川猛監督のご提案、佐々木満会長のご配意で、立教大学の三浦義明氏の激励も兼ねる。
 25人程集まって頂く。座敷の変額に「和気至祥」と佐々木満会長書が掲げられている。小生に色紙を書いてもらう約束。10月5日に秋田市で、能代市東京6大学選抜チームと第二回交流試合を決める。
 8日(金)秋田市山王・小料理店八条。埼玉県八潮市の中脇操さんから送って頂いた巨大な草加煎餅を八潮市八条出身の大野夫妻へ。朝日新聞秋田支局岡本昌弘記者と。
 9日(土)第5回タラの会。勝平ふれあい会館。ものとり作家の小西一三さんが男鹿の漁師から仕入れた巨大なタラを鱈腹食う会。
 山王・橙屋へ。食の職人田崎宏一氏の店で、ツバサ広業の桝谷健夫氏、能代市の山谷銀二郎氏と能代の白鳥とガンが飛来する小友沼の話を伺う。昔、この小友沼の水で取れたブランド米、榊米があったと聞く。
 10日(日)イヤタカ会館。民謡睦実会連合会初春を祝う会。秋田ふるさとづくり研究所長として紹介される。今日あるのは兄・佐々木常雄のお陰と佐々木実会主の涙の挨拶、兄弟愛に感動。隣席の高橋喜一郎前大内町商工会会長から岩谷駅前農協倉庫を日本民謡史料館にできないかと相談。
 11日(月)アトリオン音楽ホール。ロシア音楽祭へ。秋田経済法科大学のビクトル先生からウラジオストクの極東総合大学日本語科に学術交流基金に寄付されたニューたけやの竹谷社長を紹介される。秋田ウラジオ会で協力を約束。
 スーパー関谷にて秋田地区日中友好協会主催の春節へ。中国留学生が多くが参加。
 12日(月)秋田市・むつみ造園土木。杉村文夫専務と息子洋平、三浦義明氏と西目町の石の勘左エ門の高橋正氏と落ち合い、象潟町小砂川の阿曽採石へ。花と緑の農芸財団へ送る鳥海石を見る。東の庭師の横綱、杉村さんの見立てで、苔むした鳥海石、10トン車2台分選ばれる。姉の伊藤恭子宅で小砂川ラーメンをご馳走になって、秋田空港へ女房の出迎え。これで坊主と二人の父子家庭から解放。
 14日(木)バレンタインディ。今年は義理チョコ二個。カミサンからと県庁の廊下でばったり会った毎日新聞の田所記者からだけ。
 老化現象。
 15日(金)イヤタカ。県庁同期の原子博さん、定年の送別会。同期会長として発起人挨拶。女子高校の生物教師を辞めて県庁入りしたユニークな友は退職後は千葉へ。
 17日(日)イヤタカ。秋田駅前・菅久商店の新年会。人情酒場久保田のご好意で出席。隣がサッポロビールの元気印社員松田朋之氏へ仙台にいる後輩の平井登サッポロビール東北西支店長に、グリークラブ秋田公演の協力依頼を伝言。
 18日(月)イヤタカ。法政大学神楽坂会へ。何故か小生56歳の誕生目だと、ケーキを頂き感激。
 19日(火)県庁第二庁舎情報公開室。兄貴分の榎清市議と林業政策の話を伺う。
 20日(水)弘前市へ。弘前大学病院へ日帰り出張。
 22日(金)本荘市の清吉そば。息子と三浦義明氏、工藤利典氏から中華そばをご馳走になる。象潟町小砂川の阿曽採石へ。千葉の農芸財団へ運ぶ鳥海石を積んだトラック2台の助手席へ三浦氏と洋平が乗り込む。息子にとっては新たな旅立ち。
 秋田市のふるさと塾事務所。大内町の阿部力先生の感動講演。「我が人生に悔い無し」息子の一哉君も聞きに来てくれた。
 二次会は階下の「あい」
 24日(日)東由利町へ。雪上野球大会。これも聞き書き作家小田豊二氏にいわれてやってきた。開会式で挨拶。ミネソタ州立大学秋田校のモック教授、学生達とミネソタ面白ユニオンチームは一回戦で敗退。学生のショーン君は鷹巣町の北士館空手道場・七尾専次郎師匠の門人。黄桜温泉で表彰式。仁井田PTAチームと秋田県を面白くする会チームで今年の12月、秋田市で佐藤寛氏追悼・雪上野球結成25周年記念試合を計画。
 25日(月)むつみ造園土木へ。千葉の花と緑の農芸財団土井脩司理事長から送られた花、サクラソウをどっさり。高橋正氏が持って来てくれて、佐々木吉和社長にお渡しする。いつもながら、今度は鳥海石へのご厚情に深謝恐縮。
 26日(火)秋田市役所企画調整課の国際交流担当に友好都市ウラジストク市との交流計画を聞く。名刺も渡さない、笑顔もなしの役人。サービス業であれば最小限、愛想のプロであるべき。
 27日(水)NHK秋田放送局らじおっこ秋田に出演。聞き書きの話。進藤信行さんに雪上野球と同じで学友小田豊二のせいと話す。